Ⅲ108.副隊長は考える。
「……だ、大丈夫ですかダリオ様……?」
「はい。…………本当に、己の愚かさと幼さに嫌気が差す……」
ハァ、と。溜息を吐いたセドリック王弟がぐらりと危なげにふらつき始めたのは、エルドのテントを離れて十メートルほどからだった。
頭を片手で抱え前のめりに項垂れるセドリック王弟は、やはり自分でも喧嘩腰になっていたことは自覚していた。もしかするとあれでも抑えていたつもりなのかもしれない。市場聞き込みの時ほどではないにしろ、顔色も少しまた悪くなっている。
プラデスト潜入時はとても心強く活躍してくれたとプライド様達も仰っていた彼とは別人のように消沈している。もっと上手いやり方があった筈だという呟きを自問自答のようにその後も呟いた。
セドリック王弟のふらつく足に続きながら、貧困街を後にすべく再び歩き出す。
セドリック王弟の顔色を察してジェイルが「水をお飲みになりますか」と声を掛ければ、そこで一度足がまた止まった。「ありがとうございます」といつもの口調で水を受け取るセドリック王弟は俺達にはやっぱり変わらない笑みを浮かべてくれる。
フリージア王国の騎士にセドリック王弟がハナズオ防衛戦以降から敬意を表してくれているのは知っている。それでも、あくまで護衛である俺達にここまで丁寧にしかも心配をかけないように配慮までできて、……一応は貧困街の首領として持ち上げておいた方が良いエルドには威圧的になるのは本当によほどの嫌悪があるのだろうなと改めて思う。セドリック王弟の使用人になった双子が見たら目を皿にするだろう。
ぐびりぐびりと、喉を鳴らして水を飲むセドリック王弟の背中を見つめながら自分の目が遠くなるのが鏡をみなくてもわかる。
「ねぇ、ねぇお兄ちゃん」
不意に、歩み寄って来た足元の子どもに視線を落とす。
見れば小さな少女が俺の服の裾に手を伸ばし、引っ張るところだった。更にはその少女だけでなく数歩離れた位置には同じくらいの子どもも複数人いる。
貧困街に入ってから物珍しさで子どもに追いかけられたり集まられるのはもう慣れたけれど、まさか向こうから話しかけられるとは思わなかった。
ちらりとセドリック王弟の護衛のジェイルとマートさんへ確認も込め目配せをし、それから少女へ向けて腰を屈めた。どうしたかな?となるべく怖がらせないように丸い声で呼びかけながら顔を覗き込めば、まるで抱っこを求めるように両手を広げられた。
その動作に、口を開かれるよりも先に既視感で思い出す。離れた子ども達も含めて全員どこかで見た覚えがある気はしたけど、あの時のと理解した瞬間。
「食べ物は??」
「…………ごめん、今日は何も持ってきてないんだ」
うーん、と。少し眉が垂れてしまいながらも断るだけで悪い気がしてしまう。
どうやら彼女達の中で俺は「食べ物をくれる人」で覚えられていたらしい。苦笑まじりに謝るけれど、しまったなと自分でも反省する。頬を指先で掻きながらもう一度彼女達の顔を一人一人確認する。
以前貧困街に訪れた際、持て余した果物を子ども達に譲った。
すごい量だったし食べてくれれば良いかと思ったけれど、その所為で不要な期待をさせてしまったらしい。俺もセドリック王弟のことを言えない。
俺にとっては果物を配った大勢の子どもの中の誰かでも、彼女達には果物を無償でくれる貴重な人間だった。何か菓子の一つでも渡せたらと思うけど、残念ながら今は軽食の一つも持っていない。
ちらっとジェイルへ目を向ければ意図に気付いたらしく困り顔で首を横に振られてしまった。マートさんに至ってはちょっと目が怒っている。当時あの場にいなかった二人だけど、少なくともマートさんは俺に怒ったんだろうなとわかる。
無責任に食べ物なんて配ったら覚えられるし期待させるなんて最初からわかりきったことだった。一回あれば二回ある、二回あればずっとあると思ってしまうのは子どもには当然の真理だ。
一生この子達に食べ物を提供できるわけでもないのに無責任なことをするなと、そう言われるのが先に想像できた。いや、むしろ目で充分に語っている。
今はセドリック王弟の前だから目で咎められるだけだけど、後で注意されるかもなぁと覚悟する。マートさんは俺よりもずっと先輩の騎士でこういうことにも甘くない。多分今食べ物を持っていたとしてもここで出してはくれないだろう。
「じゃあ代わりにこれ買って」
視線を左右に動かした少女が、おもむろに手を伸ばす。
すぐ足元に咲いていた花を掴み取り、ぶちりと千切って突き出してきた。こういうところはしっかりしている。やっぱり幼く見えてもラジヤの貧困街で生き抜いている人間だ。
花売り、と。こちらではまだ一回も引っ掛かっていないけれど、珍しくはない。物乞いと似たようなものだ。
俺も資金がないわけじゃない。ただ、ここで金を出すとまた今度こそ怒られるかなとマートさんへ視線を上げれば今度は目が合わなかった。俺ではなく、こちらに振り返っていたセドリック王弟を手で止めている。
俺よりも早く懐に手を伸ばしていたセドリック王弟がどうやら買ってくれるつもりだったらしいことがわかり、急いで王族に買わせる前にとラジヤの銅貨を一枚取り出す。どうせフリージアに戻る前には全て使い切ろうと思っていた一定額の一枚だ。
花と入れ替わりに銅貨を差し出せば、それだけで満足げに少女の顔に笑みが広がった。本当に些細な額だけど、少女には稼いだという実感の方が大きいのかもしれない。可愛いな、とさっきまで淡々とした表情と違う子どもらしい表情を見ながら思う。
「あと、これも。多分もう食べ物は持ってこれないから」
やんわりと断りつつ、銅貨を握ってない方の少女の手を取る。
千切られた花で簡単に輪っかを作り、細いその腕に通ず。指輪にするにはまだ指が小さいし細いからと思ったけれど、やっぱり腕輪で長さもちょうど良かった。
するりとその腕に通せば、大きく目を見開いた。嬉しそうに瞳を輝かす少女に思ったよりも大きな反応をしてくれたとこっそり安堵する。子どもだましだと怒られたらどうしようかと思った。
じゃあ、と。最後にぽんと軽く頭に手を置いてから腰を上げれば少女も満足げに背中を向けて子ども達の輪の中へ戻っていった。もう俺にも果物にも興味がないらしく「見てー!!」と言いながら自慢げに仲間の子達へ腕輪と銅貨を掲げる姿はやっぱり年相応の子どもだ。
「…………味占めてまた花売りか、作れって来るようになるぞ」
耳元でぼそりと声がしたと思えばマートさんだ。
あはは……と俺もこれには乾いた音で笑ってしまう。その時は腕輪だけで許して貰おう。
少女から貰った花をただつき返すのも悪い気がしたし、持ち歩くにも今は護衛任務中だ。せめて根っこまで抜かれていたら植え直すのもできたけど、思いきり雑にぶつりと千切られていたし、彼女に受け取ってもらうのが一番良かった。
ジェイルの方は少女の方を見て微笑ましそうに笑んでいたけれど、マートさんはむしろ目が冷ややかだ。セドリック王弟もマートさんが無事止めてくれたお陰で、大金を懐に収めたまま彼女達の背中を見つめていた。
「手土産も必要だったでしょうか……」
「!いえ、そういうわけでは」
セドリック王弟の投げかけに、同時にドンと見えないようにマートさんに背中を叩かれた。「責任取れ」と言いたいのが声も必要なくわかる。
慌てて姿勢を伸ばし、セドリック王弟へ頭を下げる。勝手な真似をしてお時間をとらせ申し訳ありませんでしたと謝罪する俺に、セドリック王弟は片手で受けて許してくれた。
俺にではなく未だに少女の去った方向へ燃える瞳を向ける彼は、少し表情は険しい。これも、きっと俺に対しての険しさじゃないんだろう。
「むしろ今のは自分の軽はずみな行動でした。期待させてしまうべきではありませんでした。我々はずっと彼らへ食料や資金を提供できるわけでもありませんから」
「しかし、今必要し求めていたことに変わりはありません。私自身は、……今日もまた彼らにとっての統治者に後ろ足で土を蹴り上げることしかしていない」
そこを気にするかぁ~……。
なんともセドリック王弟らしい。気付けば顔がわずかに引き攣ってしまいながら、言葉を探す。まさかそう切り返されるとは予想だにしなかった。
エルドのことは敵意を持ってしまうセドリック王弟も、貧困街の住人にとっては重要な存在であることはご理解されている。エルド以外の貧困街の住人に対してはむしろできることをしたいと思っている様子のセドリック王弟だし、そんな彼らにとって大事な相手とぶつかったことは少し後ろめたさがあるのだろう。……本当は、この彼らもさっきの子どもも一括りに行ってしまえばエルドと同じ犯罪組織の一員なんだけど。
こういうお人の良いところは本当にセドリック王弟ならではだと思う。
エルドのことは快く思わなくても、彼らが首領を良く思う意思は否定したくない。だからこそ今も手土産でも花の代金でも何かしら罪滅ぼしがしたかったのかもしれない。既にサーカスの招待で充分だと思うけど、そう思わないのだろう。
「……そういえば、ダリオ様の故郷では下級層などもあまり見かけませんでしたね」
「!ええ、小さな地ですから。幸いにも古くから資金源に恵まれていたこともあり、昔から資金も民に行き渡らせることができました」
フリージア王国には、下級層がある。
城下街を始めとする各々の栄えた地であれば反面下級層が規模の大小は違えどある。だからこの貧困街に対しても、そこまで違和感はない。下級層住民が全員で身を寄せ合って協力し合っていればこんな感じかなと思うくらいだ。
けれど、ハナズオ連合王国は城のある中心地の周辺にもそういった地域は見かけなかったなと思い出した。俺もハナズオをきちんと観光したわけじゃないけれど、どうやらハナズオはサーシスもチャイネンシスも民は等しく一定以上の生活が確保されているらしい。〝小国〟を理由にはしているけれど、それよりも資金源が大きい。
少し前までは閉ざされた国だったけれど、元々金と鉱物で有名な地だ。
その資金をきちんと国全体に行き渡らせた結果が、今も続く民の生活ならフリージアよりも上手かもしれない。
孤児も基本的にはその地域一帯で育てる方針だから飢え死にすることもない、と。フリージアであれば郊外の統治の良い町や村でならよく聞くけれど、それを国と言う規模でやっていることはそう簡単なものじゃない。そして隣国でもあるチャイネンシスでは教会などで孤児を育てていると。……つい最近ステイル様が提唱された養育学校を彷彿とさせるそれに、ハナズオの統治の良さを思い知る。
セドリック王弟からは兄であるランス国王やヨアン国王のことしか褒めるのを聞かないけれど、国外の力を借りずにそこまで自国内の治安を守って来たのはきっと歴代の国王達も優秀な方々ばかりだったのだろうなと思う。セドリック王弟やランス国王達の両親といえば、当然かもしれない。
フリージアは国自体の規模が大きいから、なかなか王都から離れている地域ほど城の目も届きにくい。騎士団が定期的に遠征で巡回したり上層部も調査をしているけれど、今も城下すら下級層の民は飢えて頼る人も家もないのが現状なのは俺も知っている。
セドリック王弟にとってはきっと、フリージアの下級層もこの貧困街もどちらもまだ慣れないんだろうなぁと思う。ハナズオは本当に、ラジヤのアレさえなければ平和な国だった。
そんなセドリック王弟がプライド様ととはいえ、よりにもよってラジヤ帝国に一端に訪れていると思うと、今朝からの憔悴も改めて頷けた。フリージアに大分馴染まれたとは思ったけれど、そもそもが我が国より遥かに平和な地の第二王子だ。
奴隷の恐怖も人身売買の脅威も、貧困すらない平和な地で生きておられた御方だ。
「ですから、罪を犯さねば生きていくことも困難である彼らには複雑な想いがあります。罪を犯せば必ず不幸になる者が別に出る。しかし、そうしなければ彼らは……。やはり、元をただせば憎むべきは彼らですらないこのような体制を作る国の在り方そのものかと」
…………耳が痛い。
セドリック王弟に嫌味のつもりは全くないのだろう。そう思いながら、苦笑してしまう。ここにプライド様やステイル様がおられなくて良かった。きっと今のを聞けば自国のことを顧みられたことだろう。
騎士である俺達は政治に直接関わることも権限もない。だけど、貧困を理由でも罪を犯せば下級層であろうと構わず捕らえている。そういったこともセドリック王弟には俺達以上に理不尽に思えるのだろう。
プライド様が学校を創設して下さってから少なくとも城下はもう殆どそういった幼い子どもは見なくなったけれど、きっと他に栄えた街に行けばセドリック王弟が胸を痛めることになるとおもうと今から胃が重く感じる。
これにはマートさんも難しい表情で、気付かれずともセドリック王弟へ自主的に頭を下げていた。ジェイルも苦い顔だ。……この二人に、普段のセドリック王弟とティアラ様の様子を見せたらどうなるだろうと一瞬過る。
「……。エリック殿」
「?!はい!」
唐突に名指しされ、心臓が一瞬跳ね上がる。思ったことがうっかり口に出たかと確かめるように下唇を内側から軽く噛んだ。
少なくともジェイルとマートさんの顔色を見る限りは余計なことは言っていないと思いたい。
セドリック王弟の静かな声に姿勢を伸ばし直せば、真っすぐと男性的に整った顔が向けられた。眉の間を狭め、真剣な表情の彼は「つかぬことをお伺いしますが」と断ってから少し声を潜める。
「貧困で苦しむ民も奴隷にされた民も、全てを救う方法というものはないものでしょうか」
「…………難しい、ですね」
それを考え実行して下さるのが貴方方王族と上層部です。と、……言えたならどれだけ楽だろう。
いくら親しげにして下さっているセドリック王弟にもそこまでは容赦なくは流石に言えない。何より、セドリック王弟自身もわかってはいる筈だ。王族や国や領地を統治する人間の誰もが一度はぶつかる壁の解決方法を一介の騎士に、しかも庶民の俺に尋ねてもわかるわけがない。
セドリック王弟にとっては今までハナズオにいる間ぶつかることのない問題だったのだから悩まれるのも無理もない。投げやりでもなんでもなく、これもきっと純粋に相談してくれているのだとはわかる。
けれどやんわり濁したところで諦めてくれるセドリック王弟でもない。高い鼻が触れそうなほど前のめりに顔を近づけてくる彼に、自然とこちらは背中が反った。
「ダリオ様は、……我々よりも遥かに賢い御方ですので、きっと答えにも我々より遥か近くに居られると思います……。既に素晴らしい職務をお持ちですし……」
なるべく、なるべく遠回しに、波風立たないように言葉を選ぶ。
セドリック王弟の熱量に汗が滲んできた。騎士としては色々学んでそれなりに努力をしてきたつもりの俺だけど、国の政治は全くわからない……!!
せめてカラム隊長に!と人任せに念じてしまう。エリートのカラム隊長ならもっと良い切り返しができただろう。
今更ながらこんな大きなことに直接関わり動かされているプライド様達は凄まじい御方だと思う。そしてきっと、セドリック王弟も少しずつ吸収され理解しようとされておられるのだろう。
「ここはあくまでラジヤで!どちらにせよ残念ながら我々の手に及ぶ地ではありません。今も、ジャン……フィリップ様達は自国の民の為に動いておられますしダリオ様もお心は同じかと……!!」
「!それはっ、…………仰る……通りです………」
はっと、まるで今本来の目的を思い出したようなセドリック王弟はそこで前のめりの体勢が戻り、眉をしょげさせた。
俺も反らせた背中を垂直に戻し額を拭う。セドリック王弟は、いつの間にか国の政治どころかこの地すら救いたいと思われていたのだろうか。
「申し訳ありません」「話があらぬ方向に」「情報収集に戻りましょう」とぽつぽつ言葉を落とされるセドリック王弟はそこでゆっくりと改めて足を動かした。前ではなく、足元を見ながら歩く彼は未だにぶつぶつと呟いているのが聞こえた。
国を変えるには、世界は広い、自国だけで良いのか、いや自国を救えずには他も、歴史書にはと。どこか苦し気に零すセドリック王弟は、きっと俺よりも遥かに難しいことを考えておられるのだろう。
「…………ラジヤも、どこも。こういう〝上〟ばかりであれば良いのにな」
ぼそっとひとり言のような声で囁かれ、目を向ければマートさんが隣に並んでいた。
俺の方は見ず、あくまで護衛対象であるセドリック王弟を見つめながら口だけを動かすマートさんに、俺も笑んでしまいながら一言返した。
そうですね、と。そう言いながら今だけは少しだけ、この御方が国王にならない身であることが勿体ないと思う。
フリージアでもハナズオでも、それ以外でも。まだ理解できないことはあっても、民の為にここまで真剣に悩み考えられるこの人もまたきっと人の上に立つ器であることは間違いない。…………と、思うと同時に。
「!あぁ……、だから……」
気付いてしまったことに、笑っていた口が一気に苦くなる。
うっかり出た声にジェイルが俺の方へ顔を向ける中、余計なことを言わないように意識的に俺が口を結ぶ。大したことじゃないと示すように軽く手で払って返した。本当に、大したことのない気付きだ。
エルヴィン元第二王子とセドリック第二王子が、同じ王族として相容れない理由の新たな一端が垣間見えただけで。




