Ⅲ85.侵攻侍女はまだ知らない。
「団長!団長!!目を開けてくれっ!!ッ冗談だろ?!冗談だって言ってくれよ!なあ!!!なんで団ちょ、団長……。…………なんで」
塗る潰されたような暗闇の中で、星明かりだけが細やかに照らしていた。こんな弱さじゃ彼の心を誰も照らせない。
冷たくなった血溜まりに自ら膝をつけ浸す彼は、抱き上げた腕も肩もお腹まで真っ赤に染まっていた。命からがら逃げ出してきた足で戻って破れほつれ汚れきった衣服が、上塗るように自分以外の血でこれ以上無く汚された。
せっかく戻ってきた彼は、もう膝をついたまま立ち上がる気力もそぎ落とされているのが目に見えてわかる。当然だ、間に合わなかったのだから。…………これは?
覚えている、わかる。でも現実じゃないこれは……嗚呼。間に合わなかった、ゲームの彼だ。
血の海でアレスに起こされた初老の男性は、団長だろう。ゲームではシルエットだけだった彼が、今はアレス以上のボロボロの衣服を着込むまるで浮浪者だ。
肩から胸まで斜めに布ごと皮膚も肉も抉れ、血がとめどなく溢れている。肩の肉が不自然に削げていた。真っ暗闇の中なのに、不思議と傷がはっきり見える。爪の痕、そしてもう囓られた痕なのだと理解する。
もう元の服の色もわからないくらい団長は赤く濡れていた。死に顔に安らかさは一つもなく、死を受け入れる間もなかったことを示すように驚愕に瞼が見開かれたままだった。
星の薄い明かりですらわかってしまうほどの蒼白の肌が、もうそこの命も熱もないと告げている。
彼がたどり着いた時にはもう遅かった。戻ってきた団長はライオンに食われ、言葉を遺すこともできず絶命した。
猛獣の脅威を前になすすべなどなかった。
冷たくなった団長に、自分の怪我も忘れて駆け寄った彼は何度も何度も呼びかけたけれど団長は反応を示すことすらなかった。もう遅いと頭では理解している筈なのに、冷たくなりきった団長の傷を自分の衣服で縛り塞ぎ、止めようのない肩の傷を脱いだ上着を丸めて押さえ、呼び続ける。
最後には傷を押さえる手がボトリとどこでもない地面に落ちる。目の焦点が団長でも、そして猛獣でも誰にでもなく空へと浮かび光が消える。
クスクスクスと、この場に相応しくないくすぐるような笑い声が漏れ出すとアレスの目だけがゆっくりと声の発生源へと向けられた。
口の周りを血でべったり汚す猛獣の傍で、凄絶な死体を前に、まるでこれ以上ない座興を眺めるように嗤う彼女は、…………彼女、こそが。
「ちょっと遅かったわね。もう少し早く戻ってくれば助けられたかもしれないのに。ざんねーん」
フフフッと、また笑い声が漏れる。
細い喉から形成される笑い声を気味悪く響かせながら彼女はふらりふらりと踊るように身体を揺らした。自分の隣で微動だにしない青年と腕を組み、ぴとりとその肩で頭を傾け寄りかかる。
アレスが殺意に溢れた眼光で睨んでも怯えるそぶりもみせない。ニヤニヤと笑みを広げながらぎゅっと絡める腕の力を強めた。
全く残念そうではない彼女は、むしろ心の底からこの状況を愉しんでいる。本性を出した彼女を誰も止められない。
腕を絡める彼女に、青年も鞭をもたない腕で彼女を抱き寄せた。ゲームでは見えなかった顔が鮮明に見える。頭の包帯や頬の薄い傷跡まではっきりと。
けれど目の前で膝をつくアレスと、そして団長の死に何も感情を示さない。ただただ重たい球体のような目を向けるだけだ。
ラルク、と。アレスが叫んだ。枯れきっていた筈の壊れそうな喉で、悲鳴というよりも怒声だ。団長の亡骸を抱きしめて、他でもない彼を責め叫ぶ。
団長が殺される現場はみなくても、彼が愛するライオンの口の汚れと何よりも血の海に浸っていた団長を眺めるだけだった光景は、誰が手に掛けたかを語る必要もなくい示していた。
「なんでこんなことできんだ!!!何があった!?殺す必要がどこにあった!?お前の父親だろ!!!」
「ハハハッ!ば~かね!そんなこともうどうでも良いからに決まってるじゃない!」
激昂するアレスに、ラルクではなく彼女が笑い答える。
言葉も告げる気がないラルクが唇を閉じたままなのに反し、彼女の口は軽やかだ。心から嘲笑い絶対的優位に立ち大口を開けて笑っていた。
アレスが「どうでも良い……?!」と歯を食いしばる中で、彼女はニンマリと笑みを浮かべて見せた。自分よりも低い位置で見上げてくるアレスがそれだけでも楽しいのだろう。……そうだ。「奴はずっと息を潜めていた」とアレスがゲームで語っていた。
自分が本性を出せるその時を、サーカス団全てをまるごと自分のものにすることのできる絶好の好機を。
「ふざけんばクソ女!!ラルクをテメェと一緒にすんじゃねぇ!!テメェがラルクの何を知っ」
「そっちこそラルクの何を知ってるの?ずっと、ず~~~っとラルクが私だけのラルクなのも気付かないで。ハハッ、……もうラルクは私の虜なの」
火を吐くように叫ぶアレスの言葉を、彼女はうわ塗った。
今まで大人しく身を潜めていた彼女が声を低め浴びせる言葉は、軽やかな笑い声とは別物のように重く冷たかった。すりすりとラルクの頬を撫で顎を擦り、美術品のような彼の白い肌を指の腹で味わう。最後に一度起こした頭も再びこてんとラルクへもたれ掛けた。
彼女からの愛情表現に、それだけでラルクの表情が満足げに笑む。……誰だってわかる、彼はおかしいと。
きっとアレスはわけがわからなかった。ラルクがこんなに彼女へ肩入れする理由も、団長を殺めた理由も、今も今までも一度も自分をまとめに見てくれない理由も何も。
それでもただ、ラルクを信じてこの日までやってきた。……なのに。
「私の為ならなんでもやってくれる。なんでも与えてくれる。なんでも叶えてくれる。だって私の愛が欲しいから」
ね?と、そこで彼女が微笑みかけた。アレスにではなく、自分の肩を抱くラルクにだ。
彼女の笑みと投げかけを受け、ラルクも笑んで頷いた。信じられないくらいに、愛しげな笑顔だ。そうだ、ゲームの彼は彼女の隣でいつでもそんな顔だった。
苦しげに歯を食いしばるアレスはすぐには言葉が出ない。腕の中で冷え切った団長を抱えながら一度はうつむいた。彼は、団長を助けにいく為にサーカスを出たのに。そのせいで、間に合わなかった。
救ってくれた団長の為にサーカスで必死に働いて、団長に口止めされたからラルクが追い出したこともずっと隠し通してサーカスを守って、消えた団長が捕まったと思ったから危険とわかりながら単身で助けにいった。
それなのに、彼の想いは何一つ報われない。
「この魔女が!!!!ラルクにっ……そいつに何を吹き込みやがった!!?」
「魔女?おかしなことを言うのね。貴方だって私と同じくせに」
同じ、の言葉にアレスの表情が固まる。
すぐにその言葉の意味に気がついたアレスの顔からみるみるうちに血色が薄れていった。まるで団長を追うように蒼白に変貌していく。特殊能力の可能性をこの時に初めて彼は垣間見る。目が溢れそうなほど見開かれ、愕然と彼女とラルクを見比べる。
「ラルクから聞いたわ」と寄りかかりながら怪しく笑む彼女は目を細めた。彼女と違ってアレスの特殊能力は団員は皆が知っている。潜み続けた彼女もまたラルクから特殊能力者の存在は聞いていた。
「みぃんな知ってる貴方のことを。だけど私のことはだぁれも知らない。私のこと、ここの人達は興味なかったもんね」
寂しかったなぁと、白々しくわざとらしい声で言うままラルクへ両腕を回し抱き付いた。
まるで打ち合わせでもしていたかのようにラルクが彼女を抱き締め返し空いた手でその頭を撫でた。安らかな笑顔を浮かべる彼は、きっと盲目的に彼女を信じている。……ああ、もう見たくない。
震える手でアレスが、団長の見開かれた瞼を閉じさせた。彼に息がないと、そう認める行為そのものだ。
弱々しく肩が丸くなるアレスに、彼女は初めて一歩前に出る。ひらりと丈の短いスカートを摘み上げながら笑いかけた。
「初めましてこんにちは。貴方達の新団長よ」
「何のッ……一体、ラルクに……なにしやがったんだ?人の心操る特殊能力なんかあるのかよっ……⁈」
わざと戯けるような口調に、アレスはもう言い返す気力もない。
茶色の硬い髪を掻き乱し、そっと団長を地面へ横たわらせた。泣いていないのが不思議なくらい苦しげに顔が歪んでる。
返事をしないアレスに、彼女もまた答えは与えない。ニタニタと楽しそうに笑いながら「大丈夫大丈夫」と言葉を紡ぐ。
「逆らったらライオンの餌にしちゃえば良いもの。あぁ、でも……全員奴隷にしちゃえば良いかな。ラルクみたいに」
両指を組みながら夢見る乙女のようなあどけなさが、この場には不釣り合いだった。
彼女の特殊能力をアレスに示唆されても彼女から語られてもラルクは動じない。彼女の特殊能力で、自分が操られていることを何とも思わない。ゲームの彼は、彼女の隷属であることを誇りにすら思っていた。自分の言動に疑問を持てるような思考になれないから。……そう、よく知っている。
ね、ラルクと。再び彼女はラルクの腕に飛び付いた。敢えて見せつけるようにラルクにベタベタくっつく彼女は、ゲームでは見なかった女性の嫌らしさを煮詰めたようなドロつきだった。
まだ彼女は自分の特殊能力の弱点も何も知らない。だからこそ全ての団員が同じように思い通りになると信じて疑わない。
彼女の言葉全てが苦痛のように頭を両手で抱えるアレスは俯き、表情が見えない。きっと見ることができる場所にいたのは団長の亡骸だけだ。
「邪魔なおじさんはいなくなったしそっちの方が良いわよね?逃げた奴だけ食べれば良いんだもの。今だってラルクの猛獣達に見張られてテントから出てこれない弱虫ばかり」
「もうやめてくれっ……」
絞り出すような声が、彼女の言葉を上塗った。
アレスが、肩を震わせている。俯いたまま地面についた拳もカタカタと音を立てていた。今までにない苦しげな声は、彼が突きつけられた現実を前に放たれた。
ラルクが〝奴隷〟と呼ばれたことも、団長だけでなくまた他の団員までラルクの命令でライオンに殺められるかもしれないことも、彼女がなんでもないように語る全てがアレスの心を突き刺した。
えー?と白々しい聞き返しをする彼女の笑みが醜く引き上がる。口元に指先を添えながら、地面に近付き背中が沈むアレスを見下ろした。彼女はきっと、アレスがこうなるのをずっと待っていた。
アレスだから、じゃない。ただただ自分の前で打ちのめされるされる人が見たいだけ。
聞き返す彼女にアレスは正直にまた言葉を繰り返し言い直す。操られたラルクと猛獣が味方について、テントの中では大勢の団員達も猛獣の脅威に晒されている中で彼女へ拳を振り上げられるわけがない。
「頼むから……もうやめてくれよっ……うちに何の恨みがある⁈ラルクがお前に何をした⁈一体いつからっ……っ。……金なら全部やるから、このサーカス団から出てってくれ……」
「そんなに大事なら貴方が管理すれば?」
は……⁈と息の音が聞こえる。
意味もわからず顔を上げることもできず愕然とするアレスと、彼女の言葉に興味深そうに視線を注ぐラルクの狭間で彼女は一人「そうよそうよね」と自己完結するように目を輝かせた。心からの良いことを思い付いたかのような明るさでアレスに笑いかける。
「私に洗脳されたくないなら言うことを聞くようにして。殺されたくないなら逃げられないようにして。……できるでしょ?アレスは団長のお気に入りだったもんね」
団員とも仲良しで。そう告げる彼女の目が加虐に光る。
今までアレスが築き上げた全てを逆手に奪われる。せっかく彼が、時間をかけて少しずつ居場所を得ていった彼の全てが、大事な恩人を殺させた女性の為に消費されてしまう。
お願い頷かないで。そんなことを背負っても、結局なにも変わらない。貴方がいくら頑張っても、彼女はそれを足蹴にしてしまうのに。
女の子にだって特殊能力をかけようとして効かないとわかれば追い出される殺される。男の人だって逆らって特殊能力が効かなければ殺される。そうやって繰り返して繰り返して彼女は自身の能力を知っていった。
それはゲームで貴方自身が吐露したことなのに。
『守りきれなかった』と。
「楽しいんでしょ?こういうの」
フフッと、彼女が進んだ先で両足を屈めしゃがみ込む。
それでも自分より小さくなったまま打ち拉がれるアレスの旋毛を見ながら笑いかける。蟻の行列に水を注ぐような笑顔だ。きっと彼女は人として見ていない。アレスも、ラルクも、誰のことも。
やっと得られた玩具の数々を前に、なんでもしたいと目が言っている。
「大丈夫。おじさんがラルクの為に買った慰めものが奴隷に戻るだけ」
やめて。やめて、やめて。
そんな風に言わないで。アレスはもう奴隷なんかじゃない。折角今の人生をやり直すことができているのに。
今にも潰れてしまいそうな彼が、俯かせ続けていた顔を震えながら上げる。苦しげに歪めた顔は、涙で濡れていた。上げた顔から伝うように顎からぽたりと大粒が落ちた。
彼がどう答えるのかは知っている。だからもう聞きたくない見たくない。ここから彼は、一人で背負い苦しみ続けることになってしまう。
主人公が現れるまで、ずっと。
早く、はやく来て。早く彼女の言葉を否定して。アレスは慰みものでも奴隷でもないと。そう言えるのは、彼が唯一過去を打ち明けられた──
「ティペット」
─コンコンッ。
「…………………………………」
ノックの音で目が覚めたのかもわからない。
その数秒前に起きたような気もするし、ちょうど目が覚めたような気もする。
音に気が付いた後もぼんやりと天井を眺めたまま返事をする気にならず、呆けてしまう。
頭に雲がかかったみたいで追いつかない。なんだか喉が渇いて、無意識に目を擦ったら濡れていた。目が覚める直前かに何かぼやいた感覚はあるのに思い出せない。涙を袖で拭いてから、自分の唇をなぞる。何を言ったのだろう。
「おはようございます、ジャンヌさん。そろそろお目覚めでしょうか?」
「はい……。いま、起きました……」
夢でも見ていたのか、それともこれが前兆か。
そう考えながらも、呼びかけてくれたエリック副隊長の声に言葉を返す。身支度がお手間なら、とやんわり侍女をステイルに呼んでもらうかを確認してくれる投げかけを慌てて断れば、そこでやっと頭が覚めた。今は王女の装いと化粧もないし、これくらいの軽装くらい自分でやらないと!
扉の向こうに気付かれないように鼻を啜り、深呼吸する。動かなきゃとわかっているのにまだ身体が重い。
ほんの数秒、数十秒だけと自分に言い聞かせながら上体を起こした後もベッドの上で膝を抱えた。腕に力を込め、ぐっと瞼を絞り眉の間に力を込める。
なんだか忘れちゃいけない気もしたのに、どうしても思い出せない。
寝起きの頭で必死に目覚める寸前までの感情や言葉を思い出そうとすれば、なんとなく浮かぶのは
「ごめんなさい……」
そんな言葉、ばかりで。




