Ⅱ562.不浄の少女は乞い求めた。
「特殊能力者は生かしてやる。もしくは身代わりに良い奴隷や交換条件を提示しろ。これが最後の命乞いだ」
……ここは?
薄暗い、生臭い部屋でぼんやり思う。……なんで、私、こんなとこに。…………嗚呼、そうよ。確か
ただ、助かりたかった。
あの、可哀想な子を堪能してから、気が付けば荷馬車の中だった。
とても素敵な気分で裸足でも跳ねられるくらいに楽しく帰ろうとしたのに一瞬だった。荷馬車の中は私と同じような下級層から、ボロボロだけど普通の服を来た庶民まで敷き詰められていた。下級層も中級層もまともな暮らしじゃない人も多いから違いがたまにわからない。
近い年の子どもから老人までと同じように縛られた私は人混みに挟まれて息をするのも辛かった。
何時間か何日か、光もない荷馬車の中でお腹も喉も乾いたまま閉じ込められた。時間の感覚がずっとわからなくて、到着より先に餓死するのが先かもしれないと何度か思った。
荷馬車の中には明らかにお腹を鳴らす人もいる中で、私はもう空腹もわからなくなってお腹を丸めて蹲り続けた。
やっと扉が開かれて「出ろ」と銃を突き付けられながら命じられた時にもすぐには動けなかった。鞭で四回叩かれて、やっと身体が痛みから逃げるように動いた。
私以外にも鞭で叩かれてそのまま動けない人もいた。
耳が痛くなるほど叩かれていた。どれも私と同じ下級層の人間で、皆ボロボロの服だからすぐにわかった。
馬車の外は、冷たい壁に囲まれていた。天井も低くて、どこかの倉庫みたいとも思った。扉が開いても陽の光一つ見えなくて、このまま一生太陽を見ずに終わるのかなと思った。
両手を縛られたまま並んで歩かされて、震える足が前に進みたくないと叫ぶのに、突き付けられた銃や鞭がもっと怖くて無理やり前に前にと動かした。
一列に並ぶと袋詰めされた子ども以外、全員が目隠しをされて歩かされる。ふらふらで真っすぐ歩き方もわからなくなるのに階段を下ろされた時もぞわりと背筋を冷たいものが走り続けた。
空腹と鞭の激痛で上手く身体が動かなくて階段を踏み外したら「なにやってる?!」と怒鳴られてまた真新しい傷の上に鞭を打たれた。
私以外も何人も何人も叩かれた。何段も何段も地の底まで続いていると思うくらい降りて、やっと目隠しを外された先は地獄そのものだった。
順々に歩かされた先は、目を塞がれてもわかる暗く生臭い部屋。下級層の掃き溜めよりずっと酷い異臭に鼻が曲がるどころか息も辛かった。
長い一本列の終着先で聞こえる声が、まるで悪魔の裁判のようだった。耳を劈く二重の嗤い声に最初は私の幻聴かと思った。
野太い男の響く声で言われたのが、私達に残された最後の命乞い。
特殊能力者だったら無条件に生かされる。そして、……それ以外はどうなるのかは聞かなくてもわかった。
『はぁ~い。次』
ガシャン、ぐちゃり、メキメキと。断続的に、人間から聞こえちゃいけない音と耳を塞ぐくらいの断末魔が一人分前に進むごとに響いたから。
一歩、一歩と順番に前へと歩かされる度に「良いわ」か「さよなら」で。
「さよなら」の後に毎回命乞いと泣き声と、最後は断末魔で終わる。
喉が異常に干上がって足がガクガク震えて眩暈までして、まともに立っていられない。耐えきれずその場に足が崩れて床についたら次の瞬間また鞭を振るわれた。
繰り返された鞭の激痛も、先の恐さで喉が働かなくて悲鳴もまともにでなかった。何度も何度も足の裏と膝に力を込めても震えて立てなくて、最後は大男に髪を引っ張られながら一気に列を飛ばして進まされる。
ずるずるずりずりと。突き飛ばすなんて言葉は生易しいくらい乱暴に、ごみでも捨てるように投げられて。勢いのまま髪がブチブチと纏めて抜けた。
一気に先頭まで突き出され、血に濡れた床にべっちゃり鼻ごとぶつかったら今度は悲鳴も息の音しか出なかった。
貴方?と呼ばれて、震える手のひらで床を押して顔を上げる。
真っ暗な部屋の中で、そこだけは小さな明かりと甘い香りが溢れてて……その倍、血の匂いも充満していた。
悪魔が二人、そこで嗤ってた。
「で?何ができるのかしら」
指先だけでも触ったらそれだけで殺されるような煌びやかな椅子は、地下部屋には不釣り合いな豪奢さだった。
そこで寛ぐように足を組むドレスの女は、高い踵の靴がべっちゃり汚れてる。薄明りに赤く黒く見えたからたぶん全部血だ。その靴先でついでのように私の顎を掬って自分へと向けさせる。
上目で覗くのも怖い存在を嫌でも顔が直視する。紫と赤の眼光それぞれが視界に入だけで血が凍って視界が滲んだ。
「ぁ」って一音しか最初は出なかった。それよりも大きな音でガチガチ歯が鳴って、息をするだけで殺される気がして肺が縮まった。まるで氷の中にいるみたい。
何、って言われた意味も、わからない。いつもならわかる筈なのに頭がちゃんと回らない。頭の中には「殺さないで」しか出ない。意味もないのに目から顔全部がびしゃびしゃに湿っているのが触らないでもわかった。
なのに滲んだ景色に紫色の眼光からわからないくらい目が離せない。
「アハッ、残念。さよなら」
尖った爪の指先で自分の頬をなぞる女の声。顔から足まで包帯が巻かれた女は、この世の人間に見えない。きっと、包帯をとっても中身がいない。
全然残念そうじゃない声で笑って、そのまま軽く手を払う仕草をした瞬間怖気が走ってやっと私も目が覚めた。
同時にまた髪を背後から引っ張られて、引かれる方向に無理矢理目を向けると見たことのない刃のついた鉄の固まりと〝まるで〟人の身体の一部のようなものが雑多に転がっていた。
どれも、どれも細くて小さくて私と同じくらいの大きさの手足〝みたいな〟ものばかりが。
「生きていられたらもっと遊んであげる」……涼しい声で言った女へ振り向けば、もうこっちを向いてもいない。
女の椅子にべったりと寄りかかる狐のような目の男だけが、こっちを向いて楽しそうに手を振ってきた。けれどずるずる引き摺られる中でその男もすぐに私に興味を無くす。また並んでいた次の子どもに目を向ける。誰も見てない、誰も気付かない。私は、息を吸い上げ呼吸にする余裕もないままに
『ッ抜、け道を知っでまず!!!!』
叫んだ。
ガラガラで、最初から枯れきっていた喉はただ叫んだだけで酷く痛んだけど気にならない。自分でも初めて聞くくらいの汚い声で、でもちゃんと部屋中に木霊するくらいには響いてくれた。
ずるずるずるずると私だけが変わらず引きずられる中で、椅子の女はゆっくりとこっちを向いた。女の視線を追うように隣の男もまたこっちを向いて、あの悪魔の眼光四つを向けられる。それだけで、また一度息が止まった。
その目を見るだけで怖くて叫び出したくなったけど、今もずるずると近づいていくあの刃と人の手足の集合体から逃げたい。
叫んだ後に、やっと恐怖が身体に追いついて手足をばたつかせて身体を捻らせる。それでも、私の髪を引っ張る人は一歩も止まってくれない。
『抜け道!!抜げ道でず!!!フリージアの!!山奥の村ッ村で!!だぐさん、たぐざん人がいます!!」
自分でもまともに聞き取れない、カエルが潰れたような声。
それでも暴れて叫んで、全身の血が抜かれていくような感覚に抗いながらとにかく叫ぶ。血まみれの床よりもずっと冷え切った眼差しに、必死に縋って暴れて何度も叫ぶ。
どんどん引き摺られ刃に近付いていく感覚に逃げたくて身体を跳ねさせれば、ぶちぶちとまた髪が束で抜ける音が頭に響く。涙と鼻水と汗でぐちゃぐちゃになった顔で視界どころか息もまともにできないまま、それでも叫ぶ。
抜け道、フリージアの抜け道、誰も知らない、抜け道と。馬鹿みたいに同じような言葉を何度も何度も叫び繰り返す。
最後にガシャンとまた頭皮ごと投げ飛ばされて、金属の固まりに背中と頭がぶつかった。あまりの痛さにまた声が出せなくなって、床に倒れ背中を丸める。
鼻先に持ち主のいない誰かの指先が当たって、頭が真っ白になった。やっぱり、やっぱり人の手だった。爪が剥げ、本体を無くして蒼白くなった胴体のない人の腕がいくつもあって身が凍る。
「面白いわね」と。……女の声が放たれたのはその時だった。
私の腕を掴んだ大男の動きが、初めて止まった。
もう視界も濁って見えなくて、叫び過ぎて自分の息の音が耳に響いて煩い中で女の声は嫌なくらい耳に残った。
ニタァ、と音が聞こえるくらいはっきりと口端を引き上げて笑う包帯女の真っ赤な唇に、恐怖で一瞬だけ震えもできなくなった。顔が包帯のせいか、よく見えないのによく見える。
腕から手を離した大男が、今度は私の背を女の方向へ蹴る。進め、という意味だとわかったけれど、前のめりに倒れるだけで四肢が使い物にならなかった。
両手を床に付く力も入らず、べちゃりと倒れて顎を打つ。鞭と比べたら全然痛くないのに、それだけで額に血が滴った。……私のじゃない血だまりだ。
汚いそれをべちゃべちゃ鳴らしながら、死にものぐるいで力の入らない四本足を無理矢理前へと這いずりなんとか椅子に近づいた。
ねっとりと私を見下ろす視線がチラついただけで吐き気が込み上げたけど、それでも頑張った。
「聞かせて?」と裂けた口で笑う女の声は独り言のように小さいのに、耳につんと入り込む。
濁った声で、何度もしゃくり上げた喉で、鼻を啜るのもやめて必死に話す。フリージア王国の山に囲まれた村。そこの抜け道を教えると。だから助けて下さい殺さないで下さいと最後に何度も何度も繰り返したけれど、命乞いを始めた時点で悪魔二人は聞こえないように会話を始めてしまった。
「いかがですか我が君?私の集めた奴隷もお役に立てたようで」
「やっと、ね。山奥の田舎なんかに掘り出し物は期待できないけれど。……抜け道は魅力」
むしろ村人は邪魔、と。話の内容はよくわからない。その間もずっと必死に懇願を続ける私の声が届いていないことがただただ怖かった。
お願い、お願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いと。頭の中でも馬鹿みたいに一つの言葉ばかり繰り返しながら、揺らめく深紅の髪のぼやけた影を追い続ける。
涙が邪魔な視界と包帯だらけの女の姿に、指先でくるりと髪を遊ぶ仕草だけがぼんやりわかった。
この国からだったらどれくらい?秘密道具は?十日もあれば、九日になさい。そんな会話の後に、地図を用意された。でも地図はわからなくて謝りながら告白すれば、言葉にかぶせるように「えぇ?」と言う女の声にそれだけで喉を締め上げられた。殺される前に窒息しそう。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいと無意識に目を伏して、血まみれの床を見つめながら謝る。その間に今度は深紫の髪の男が「まぁまぁ」と気味の悪い猫撫で声で女に提案し始める。
秘密道具をこの女に付けましょう。抜け道をそのまま案内させれば良い。アレに地図を持たせ、国外からここまでの道筋を記録させましょうと。一言ひとことねっちょりと女に向けて舐めるような口調で話す男に、今はただ縋る。
何でも良い、私が助かるなら何でもどんな方法でも良い。祈るように小刻みに頷きながら、ひたすらに聞き入った。
そうね、そうなさい、九日よと。急にどうでも良さそうに返す女の相槌が止まったところでゆっくりと顔を上げれば、……ギラリと紫の眼光が刺さった。
「ねぇ?貴方。本当にその村を私にくれるのよね」
糸を引くようなねっとりとした声。硝子を引っ掻いた時よりも鳥肌が立つ音色。
はい、もちろんです、差し上げます。そう言いながら両肩が変に上がった。酷い声だった喉が、今度は変にヒクついた。内側から爪の先で引っ張られているような違和感に心臓がチクチク痛みながらも目を逸らさない。……逸らせない。
今はただ、この女の機嫌を少しでも損なえない。とにかく頷いて口を無理やり嗤わせて、ぐちゃぐちゃだった顔が笑顔を作ろうとしたら涙と鼻水でねちゃっと音が鳴った。
あんな村、私は何も惜しくない。田舎暮らしで都会のことなんか知らないで山奥で腐ってる農民なんて死んじゃった方が良い。どうせなにも残せない。
生きてても何の意味もない連中の固まりなんだから丸ごと死んでも誰も悲しまない。そう頭に言い聞かせながら何度も頷いた。「ハハッ」と愛想笑いを意識し過ぎて気持ち悪い枯れた嗤いが声に出て、直後に心臓がひっくり返る。
今の笑い声一つで怒らせたらどうしようと、顔の筋肉を必死に意識しながらも心臓だけが煩く騒いだ。死にたくない、嫌われたくない、機嫌を損ねたくない、このまま使える人間として気に入られたい。
ただ、その為には目の前の相手が色目を向けてくれる男の方じゃなくて女なのが一番不利だった。
女はいつだって自分より美人や若いというだけで憎んでくる。ここでこの女の人にそう思われたらと思うと、愛想を可愛くすれば良いのか嫉妬されないくらい醜い顔をすれば良いのかもわからな
「酷い子ねぇ?」
アハッ、と。
吐き捨てるような笑い声と、楽しそうに輝く紫の眼でそう告げられた。
酷いと、侮蔑の言葉に心臓が一回止まった。けれど言葉に反して声は信じられないくらい軽やかで、更には包帯越しのままで口が裂けたように笑うのがわかる。顔も見えないのにちゃんと。
包帯を巻いている顔なのに、全ての部品が笑ってた。ユラユラと輝きを紫の眼に宿らせて私を映す。
言葉の意図と、気味の悪い笑顔の意味がわからなくて固まれば、女は「だぁって」と垂らすような声と共に椅子から立ちあがる。
「貴方如きの居てもいなくても変わらない寧ろ要らない存在一人が助かる為に村一つを犠牲にするのでしょう?そんなの絶対おかしいじゃない」
え。待って。だって、と。馬鹿みたいな単語単語しか最初は浮かんでこない。
自分でも顔の筋肉すべてが意識することもできずに引き攣って動かなくなったのがわかった。
だって、私にはそれしかない。特殊能力もないし、お金もないし、差し出せるような特殊能力者の知り合いもいない。代わりに差し出せるので一番価値があるのがあの村なんだもの。それに、貴方だってそれを今さっきまで気に入ってくれた筈でしょう?
頭だけがお喋りで、せっかく、せっかく助かると思ったのにと目を剥き内側ばかりが叫ぶ。
急に私が責められた。私達を攫ってこんなところで奴隷にもしないでこの場で何人も殺してるくせに。こんな、変な器具で遊ぶみたいに大勢拷問で殺してるのに、なんで私が「酷い」なんて言われるかわからない。
疑問が疑問のまま数秒の間に何度も何度も反復されて、最後には「貴方如き」という言葉が毒のように後から全身に染み入った。
村を犠牲にするのが〝私だから〟おかしいの??
「弱く醜く臭くて汚い。穢らわしくて卑しい子。生まれて来たことがもう可哀想。……アッハハ。ねぇ、貴方もそう思わない?」
べったり、べったりと。まるで一言一言が汚物を被せられているようで吐き気がする。
今まで酷い言葉をいくつも飽きるくらい浴びせられたのに、その言葉はまるで真実をそのまま語るだけみたいで気持ちが悪い。虫が全身に這い回るみたいにぞわついて、叫び出したくなる。顎の力が抜けて口が俄かに開いたまま、同調を求める言葉に何も返せない。
頷かないといけないのはわかった。そうですね、って愛想笑いでも浮かべて同意しないといけない。なのに、血も手足も少しずつ抜かれて削がれていく感覚に、言葉出なかった。「生まれてきたことが可哀想」の言葉が、「貴方如き」を軽く上塗って息も塞ぐほどに私を覆って巻いた。何も知らない包帯女にまでそんな言葉を言われたのが、自分でも信じられないくらい屈辱に聞こえてしまった。
指先が震え出したと思ったら、手足の感覚までなくなった。まだ斬られてない筈なのに、いつのまにか四肢がなくなったみたいにわからなくなる。首一本だけが動くまま、紫の眼光から離せない。
椅子から優雅に立ち上がった女が、高い踵を鳴らして一歩一歩近づいてくるのがまるで鐘の音みたいに鮮明で。ドレスに不釣り合いな剣に、殺されるんだとわかっ
「そ こ が 好 き」
『え……』
急激に甘い、吐くような甘さの甲高い声に思考が止まった。
まるで、男に愛を縋るような。欲だけの夜へ強請るような声に、現実がどうなってるのかわからなくて現実と逃避に頭が溺れそうになる。
靴先がぶつかるまで近付いてきた女のその声を耳が拾うと同時に、女の口端がまた上がる。
馬鹿みたいにそれを、瞬きを忘れた目が凝視し続ける。もうこの女が何を言いたいのかどうしたいのかも全然私にはわからない。頭がおかしいのが自分なのか女なのか現実なのかも結論づかない中で、ただただ聞き入った。
ドレスの端が床の沁みを吸って汚れるのも構わずに、その場でしゃがむ女は膝に頬杖を突いて包帯だらけの顔を私に近付ける。ニタァァァァァと裂いたような笑みに、このまま口から飲み込まれるんじゃないかと本気で思った。
「素敵。とっても素敵。良いわ、そうしましょう。貴方如きの為にフリージアの村一つ犠牲にしましょう?アッハハ……最高の使い方」
声だけが少女みたいに軽やかなのが逆に気持ちが悪い。
ギラリと妖しく光る目の奥に、魂まで吸われそう。最後だけ地の底に響くような低い声に、血の流れがドクドク鳴った。
きっと気持ちの悪い、豚みたいな顔でそれを見上げるだけだった私を、女はうっとりとした眼差しで見つめ直す。ハァ、と溜息が妙にまた甘くてそれだけで喉の際まで悲鳴が競りあがりかけた。
今まで何度もお世辞も媚びへつらいの言葉も出たのに、何も出ない。内臓全部を手でかき混ぜられるような感覚に全身が強張りながら、女の瞬き一つも見逃せない。
椅子の位置から動かなかった男が、妙に機嫌の良い声で「仰る通りです」「フリージアの村程度、そこの塵ほどの価値もない」と謳う中、おもむろに女が私に囁いた。
「イイコトを教えてあげる」
クスリ、と笑い声が聞こえてきそうな軽やかな声。
愉しい内緒話のような口調で、目と口だけがずっとずっとただ残酷に笑んでいた。
聞き返す余裕もなく、全身が氷水につけられたように冷え切ったのを感じながらただ耳に意識を集中する。私と、女だけの秘密事。そうわかればたった一音でも聞き損なってはいけないと本能でわかった。
死にたくないという望みのままに息を止めて続きを待てば、女の歪んだ笑みの口がくるくると弄り回すような声で私に語り囁いた。
絶望と希望を順番に。
枯れ切った筈の喉が急激に焼けつくような苦さが溢れた。
一瞬の血が凍る感覚の後、嘘みたいにドクドクと全身にどろどろの液体が流れ廻った感覚が気持ち悪くて胸が熱い。見開き過ぎた目がそのままボトリと零れ落ちるかと思った。
意味もわからず瞬きできないそこから涙がどっと溢れ出して、開いた口の隙間に入る。
久しぶりな気がする口を閉じるという作業をすれば、直後にはゴクリと響くように喉が鳴った。女の歪んだ笑みと、かすかな笑う息遣いと、人のすすり泣き声と、男の低い語り口調と、かすかな消え入りかけた呻き声全部が研ぎ澄まされて聞こえた気がした。
ガクガクと手足だけじゃなく全身が血の流れと一緒に震えて床を鳴らす中、私は考えずに口が女へ動く。急に溢れる涙が頬を伝いコポコポ落ちた。
「はい……はい、欲しい、なりた、なりたいです……わた、わたし、……私っ」
「ええ、あげる。……ちゃあんとお仕事ができたら、きっとそうなるわ」
唇の赤が際立つ笑みと共に放たれた言葉に、信じられないほど馬鹿な大声で「はい」と私は叫ぶ。
あんなに発言することすら怖かった筈の女に、気付けば舌が回っていた。
ドクドクと全身が疼いてあんなに冷たかった身体が一転して灼熱になる。枯れてた息が蘇っては荒れて、ハァハァと音にしながら勝手に口の端が上がってしまう。
そんな私に満足そうに笑んだ女が、最後はするりと猫にするように私の顎をひと撫でしてから立ち上がった。さっきまで怖くて気味が悪くて堪らなかったのに、今ならその血に濡れた靴だって舐められると本気で思う。
自分で床に手をついて上半身を起こしたところで、いつの間にか四肢に力が入ったことに驚いた。でも、それよりも何よりも目の前の女が暗闇の中でも眩しくて目が潰れそうだった。
優雅に踵を返して、包帯の白に際立つ深紅の髪を波立たせて女は、……あの人は、もとの相応しい椅子へと戻っていった。
部屋中のどの血の色よりも鮮やかで苛烈な色をするりと掻きあげ流した姿がまた網膜に焼き付いた。
欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい。
捲れあがった皮膚まで震え擽った感触が、今も残ってる。
命じられた大男に引っ張られ拷問部屋から連れ出された時も、馬車でフリージアに送り返される間も。……死なずに済んだことよりずっとあの時の言葉がずっと頭を支配し続けた。
この世で最も深い欲。
〝ご褒美〟欲しさに、解放された私は嬉々として山奥の村へ一直線に向かった。
飢えも喉の渇きも全部忘れて。
……
…
「出ろ」
……あれ…私…。
扉が開かれた。あまり眩しくもない外に、それでも自然と呼吸が通る。
何時間か何日か、光もないの中でお腹も喉も乾いたまま閉じ込められた所為で時間の感覚がわからない。……寝てたのかしら。それにしては心臓が煩くて、息が苦しい。夢をみたかもしれないのに思い出せない。
おじさんに食べさせて貰った後なのに、それでも頭がぼうっとした。まるで夜の森を抜けた後みたい。怖いのに、どこか気持ち良い。
銃を突きつけられて、撃たれたくなくて言われた通りに荷車を出る。足元にずっと動かない人がいて、半分踏んだ。
馬車の外に出れば、冷たい壁。どこかの倉庫みたい。……?どこかで似たようなものでも見たことあったかしら。
ぼんやりと低い天井を見上げれば、背後から鞭の音が飛び込んだ。一瞬私に向けられたと思って身体が硬ったけれど、「動け‼︎起きろ‼︎」って聞こえたから多分さっきの倒れてた人。多分死んでる。
そう思えば興味も失せて、ただ陽の光一つない空間にぼんやり想いを馳せる。
─このまま一生太陽を見ずに終わるのね。
一列に並ばされ、目隠しされて歩く。
きっとこの先が処刑台と同じだと、私はもうわかっていた。




