扉を開き、
「〜♪〜〜♪」
アーサーさんがお手伝いにきてくれたのはびっくりだけど、また会えたなと思うと勝手に鼻歌が混じった。
兄ちゃんがわざわざ夜に引っ越しを決めたのも、馬車を借りる為じゃなくてアーサーさんが演習が終わる時間まで待ってたのかもしれない。
二人がかりの荷物運びになってからは、本当にすぐ運び出しが終わった。往復してる間、兄ちゃんもアーサーさんとお話がずっと続いて楽しそうで、僕もそんな二人が楽しくて時間が過ぎるのも早かった。
馬車に詰め込んで、それから僕も呼びに来てくれた兄ちゃんと一緒に居りて鍵を返した。
御者席に僕と兄ちゃんで、アーサーさんが荷物を見ててくれると言って荷馬車に乗った。まさか荷物の運び出しだけじゃなくて、新しい家までも運び込みを手伝ってくれるみたい。兄ちゃんもアーサーさんが乗り込むことには全然文句言わないし、最初からこれも決まっていたらしい。
でもそれならどうして今日まで僕には教えてくれなかったんだろうと、運転席で街灯を眺めながら考えていたら「すまない」と、兄ちゃんが無言だった口を自分からやっと開けてくれた。
「実は、アーサー隊長が今夜演習後にどうしてもと言ってくれていて……、もう馬車の貸し出しは今日に決めていた後で……日をずらそうかとも思ったんだが……」
まさか手伝わせることになるなんて、と。言いながら兄ちゃんの手綱を握る手ごと肩が落ちて首まで垂れそうになる。
運転中に危ないよと言いながら、そんな僕に遠慮することなんかないのにと思う。
てっきり引っ越しの手伝いにきてくれただけだと思ったけど、本当にただ僕に会いにきてくれる日が重なっただけ。折角アーサーさんに会える日なのに引っ越しに被ったのが悪いと思ってくれたのは兄ちゃんらしいけど、どっちにしろ僕が嬉しいのは変わらない。
兄ちゃんがこんなに気にするならいっそ僕も今アーサーさんと一緒に荷車の方に乗れば良かったかなと考える。
でも荷馬車といっても運転席と同じで外に剥き出しだし、荷物が積んでるから崩れてきたらうっかり怪我するし。僕が怪我したら他の荷物や人まで大変になっちゃう。
アーサーさんと一緒なら大丈夫だろうとも思うけど、でも何より兄ちゃんからも乗る時に「ブラッドは僕と一緒に」って言ったんだし。
「別に僕は大丈夫だよ~。アーサーさんと馬車でお出かけとかちょっとわくわくするねぇ。新しい家を見てくれたらまた遊びに来てくれるかもしれないし」
「……………………」
「?……まだ落ち込んでるの??」
いつもより落ち込むの早くない⁇
そんな風に思いながら、冗談半分の言葉に何も返してくれない兄ちゃんを横から覗く。
眉が寄っていて一人でちょっと苦しそうな顔をしている兄ちゃんは、僕と目が合うとそこで重そうに口を動かした。「ブラッド」とそう呼んで、まだ何か秘密にしていることがあるのかなと思う。
「実は、……。新しい家の前に一つ、その、……寄りたい場所が、ある。…………行くだけ、付き合ってくれるか……?」
「?うん全然良いよ~??」
なんだかすごく苦しそうに深刻そうに絞り出す兄ちゃんに僕は頭を傾けながら返す。
ライラのところかな、まさか母さんの……とそう思えばやっぱりライラのところだと良いなと思う。母さんには会いたいけれど、どうせ新しい家が整えば明日にも移り住んでくれるんだし。何より、…………母さんがいるところには、会いたくない人達がたくさんいるから。
たぶん、僕はもう二度とあの人達には会いたくないし、あの人達もそうだろう。兄ちゃんもきっと「やり直そう」と言ってくれたんだから、わざわざここまで来て会わせようなんて絶対しないに決まってる。
兄ちゃんに笑って見せながら、嫌な予感を頭の中だけで振り払う。否定した筈なのに、すごくすごく心臓がその時だけバクンバクンなってひんやり足の裏が気持ち悪く冷たくなった。意識して笑顔のまま守って、でも汗だけは正直に首の裏まで濡らした。
真っ暗な夜の中、王都に近い城下での街灯と家から見える明かりだけがポカポカ見える。
見上げれば眩しいくらいの星空だけど、街灯に照らされた街並みは別の世界みたいで兄ちゃんが馬車を進ませているのがどこの道なのかもわからない。
新しい家は城下からは離れた古い家だって聞いたけど、街灯の数が減っていく以外じゃ向かっている方向が新しい家の近くが正反対か僕には全然見当がつかなかった。兄ちゃんの寄り道が遠くなのか近いのかもわからないし、…………なんだか聞くのも怖い。
兄ちゃんと一緒、アーサーさんも一緒にいる。そう自分に何度も言い聞かせながら笑顔を保つ。
顔色が分かりにくい夜で良かったなと今だけ思う。そんなわけないのに、それでも兄ちゃんの苦しそうな顔が頭から剥がれない。
今こうして横顔を盗み見ても、深刻そうな表情のまま唇を結んでいるから余計に。
「……ブラッド、起きてるか」
「っ……?うん全然起きてる起きてる~、寄り道……楽しみだなぁ」
……ぐらりぐらりと馬車に揺られて暫く。出発前からの眠気に負けてちょっと転寝した気がするけど絶対悪夢を見たと思う。もう不安すぎて胃がぐらぐらしてるし兄ちゃんにバレないように濡れた目を擦った。気が付いたら本当に嫌な予感通りの場所だったらどうしようと思って、真っ暗な景色を見回す前から息が荒くなった。
気が付くともう街灯が殆どない道を進んでいて、馬車から垂らす明かりだけが頼りになった。一緒に乗ってるのが兄ちゃん達じゃなかったら絶対進むのも怖くなった。
膝の横で手だけぎゅっと拳を作って、唾を飲み込んだ。すると兄ちゃんが独り言みたいに「あの辺かな……」と呟いて、遠く見える明かりに向かって馬車を真っすぐ進ませた。
ちょっと転寝したせいで時間の感覚も距離の感覚も全然わからなくなっちゃった。
明かりが段々大きくなって近くなって、建物の輪郭まで目で捉えられるくらいまでなれば自然と胸から息が吐き出せた。良かった、やっぱり違う、母さんのいる保護所っぽくはないなと深呼吸を兄ちゃんに気付かれないように繰り返した。
「ノーマンさん。その辺で適当に停めて大丈夫です」
さっきまでずっと何も言ってこなかったアーサーさんの声が荷車から聞こえて来た。
合わせて兄ちゃんが馬車をゆっくり速度を緩めて、建物の脇で安全に馬足を止めさせた。ストンッって音がしたと思って振り返ればアーサーさんが馬車から降りていて、兄ちゃんがするより早く馬が逃げないように縄で停めてくれた。
アーサーさんが手伝ってくれることに、てっきり兄ちゃんが何か言うかなと思ったけど「すみません」だけで覗き込んだ顔もなんだか元気がなかった。緊張してるのか、それとも落ち込んでいるのか、アーサーさんの前だしちょっと僕にもわからない。
「ブラッド。どうぞ、降りるとき足元気を付けて下さい」
兄ちゃんと反対方向に降りそうと身体を向けると、回り込んできたアーサーさんが手を指し伸ばしてくれた。
足元は一応建物の明かりのお陰で見えるけど、それでも腰を上げると足元がふわふわした。転ばないように遠慮なくアーサーさんの手を握りながら慎重に馬車を降りる。両足が地面に付いたらなんだか靴の裏の感触が懐かしかった。その瞬間今度は肺の奥まで呼吸が通って、…………ほんの少し目尻が熱くなった。吸い上げた空気の匂いが、またそうさせたのかなと思う。
馬車から降りた兄ちゃんも隣に来てくれて、アーサーさんの手を離した後は兄ちゃんの袖に掴まった。別に歩きにくいわけでもないのに寝ぼけた頭の所為かまだふわふわが抜けなかった。
こっちです、ってアーサーさんが先導してくれるまま明かりの先へ歩く。
近づけば近づくほどがやがやと人の声がして、まるで呼び水みたいにまた心臓が鳴り出した。無意識に逃げ腰になりそうに足が止まりかける僕に、兄ちゃんが「大丈夫だ」と言って手を握ってくれた。
まるでまだ夢の続きにいるような感覚のまま、それでも兄ちゃんの手とアーサーさんが導くのを頼りに意識的に足を前へと踏み出す。扉にアーサーさんが手をかけて、ゆっくりと開かれた瞬間に内側の光が大きく溢れ出した。
一瞬目が眩んで思いっきり眉に力を入れて凝らす。
がやがやとしか聞こえなかった声が、今はちゃんとはっきり聞き取れる筈なのに「おお」という声しか聞こえなかった。暗い場所から一気に明るい空間に入った所為で目が慣れない。
途中から「来た来た」とか「遅かったわね」とか聞こえてきて、隣から兄ちゃんが挨拶するのが聞こえる。誰がいるのかもわからなくて、白い視界を擦ってなんとか凝らしたら
たくさんの人が、そこにいた。
…………僕の、知らない。
「すみません、ちょっとお邪魔します。気にしないで飲んでてください」
ざっと見回して、十数人くらい。
アーサーさんがぺこりと頭を下げて、大人達に挨拶をするとそのまま僕と兄ちゃんを一番奥の隅っこの席に先導してくれた。……そう、席だ。
使い込まれた木のテーブルと椅子、入ってすぐにはカウンター席もあったけど奥は二人、四人が座れるテーブル席ばかりだった。
どこかの酒場かな?と、今まで酒場に言ったことがない僕は適当に考える。天井から吊るされたランプの明かりが温かくて眩しくて、まだ夢見気分が抜けない。ぽかんと口が開いたまま兄ちゃんに引かれ歩きながら首ごと動かして空間を見回した。
……てっきり、村の人達が待ち伏せてるんじゃとか嫌な予感が何度もしたけど、どこを見回しても知らない人ばかりだった。誰かがこっそり隠れているような様子もない。
ただ全員が僕らに視線を向けて興味津々で、アーサーさんも兄ちゃんもちょっと居心地悪そうに肩が狭くなっていた。
なんで僕はこんなところにいるんだろう。
「アーサーが人連れてくるなんて珍しいなぁ。いや初めてか?」
「俺はアーサー自体久々に見るなぁ、おいアーサー!また背が伸びたんじゃねぇか??今何十メートルだ?」
「あらまぁ、もう良い年なんだからせめて彼女さんくらい連れて来てくれれば良いのに」
「おーい今日はこっち側に立たねぇのか?」
どっちかというとお客さん達みんな、僕らよりアーサーさんに興味があるみたい。
口ぶりからアーサーさんの知り合いかな。中には僕に手を振ってくれる人もいたから、ぺこりと背中を曲げて挨拶する。「可愛い子」って言われて、……なんか、そういう風にみられるのも久々だなと思う。
アーサーさんの方から長くて深い溜息が突然聞こえて、どうしたのかと見るといきなりげっそりした顔で「勘弁して下さいよ……」って低い声がした。
仲が良いのか悪いのかあんまりわからない。むしろ兄ちゃんの方がすごく細かく「お邪魔しています」って案内された席に座ったままぺこぺこ頭を下げている。明るい場所だから、顔がまた赤いし汗も掻いてるとわかる。緊張してるみたい。
村の人もいないし、周りの人も怖くないし明るい場所にも慣れたし座ったしでちょっと落ち着いた僕は、一体ここはどこなのか二人に尋ねようと口を開く。「あの」と言いかけたところで、間が悪くまた別の声に潰された。
「ほら、アーサー達には構わないでねって言ったでしょう?ランドルさん!せっかくアーサーが紹介してくれたんだからいきなり怯えさせないであげて下さい」
ごめんなさいね、と。そう言って声に張りのある女の人がグラスを三つ持ってきた。金色の長い髪を顔の横で纏めて留めていて目元が柔らかい人。さらりとした真っすぐの髪がすごく綺麗だし美人で、村でもこんな美人な人いなかったなぁと思う。やっぱり城下だと美人も多いって噂本当なんだ。
女の人が近づいてきた途端、兄ちゃんが勢いよく立ち上がった。
「お邪魔しています!」って頭を下げたらその途端お客さん達がどっと笑った。「アーサーの友達にしては行儀が良いな」って言うから、兄ちゃんが馬鹿にされたわけじゃないみたい。ていうかアーサーさんの友達に〝しては〟⁇アーサーさんの友達なら皆お行儀良い方が普通じゃないのかな。
女の人は「アーサーから聞いています」と柔らかく微笑むと、最後に「ごゆっくり」と僕にも笑いかけて去っていった。
美人な微笑みに背中を目で追うと、そのまま回り込むようにしてカウンターの中に入っていった。そういえば扉から入った時にカウンター向こうにいた人だと遅れて思い出す。兄ちゃんも挨拶してた。
「すみません……自分が帰ってくると大体みんなあんな感じで……」
構わないでくれって伝言も頼んだンすけど、とアーサーさんの絞り出すような声が聞こえてきた。見ると頭を抱えてまた溜息を吐いていた。まだ頭が重そう。
帰って、っていう言葉がなんだか妙で、首を捻る。
兄ちゃんは「自分は別に」と言いながら僕に視線を合わせてくる。
人混みが苦手なのはどっちかというと僕の方だから心配してくれてるのかなと、僕からも何度も頷く。人混みとかガヤガヤしてるの自体は嫌いじゃないし、村の人じゃなければ別に平気。何よりここの人達は嫌な目はしてこない。
本当にすみません、と疲れた声をするアーサーさんに兄ちゃんは一度視線だけを泳がせると席に付いたまま姿勢をもっと低めた。
「あの……」と声を潜めて、丸渕の眼鏡を中指で位置を直してからアーサーさんにそっと首を伸ばす。
「アーサー隊長……、先ほどの女性は……、……やはり……?」
「母です。……今日は、挨拶とか良いって言っといたンでマジで全然気にしねぇで下さい」
?!!??!?!?!?!?お母さん?!?!?!!!!