そして疑う。
「……すまない、ブラッド。今朝突然アーサー隊長がお前と話をしたいと言って、僕が教えた」
「僕は嬉しかったよ?あーでもびっくりはしたなぁ。いきなり聖騎士が扉叩いてるんだもん」
すまない、とまた今度はノーマンが平謝る。
ブラッドを長時間一人にすることが心配だったことと、彼の心境も不安に思っての行動ではあったがやはり勝手に決断したことは悪いと思った。結果として弟が喜んでくれたことだけが幸いだった。
美味しいねぇとまた三口目を頬張るブラッドも、頭を重そうにする兄はたいして気にしない。
朝とはいえ外が暗いうちから部屋を出た兄を眠りの浅い瞼で見送ったブラッドは、朝食も昼食も申し訳程度しか食べられなかった。昨晩のケーキが胃に残っていたこともあるが、それ以上に誰にも見られていない食事は食べる意味もあまり感じなかった。いつもなら母親と一緒に食べていた食事で、昨日はノーマンと妹のライラとだから食べたケーキである。アーサーが来てからは腹が減る暇もなかった。
「母さんとライラは元気だった?」
一つ食べきってから、大事な話題を思い出す。
聖騎士の登場で頭がいっぱいになっていたが、もともと兄が夜まで姿を現さなかったのは母親のもとへ行っていたからだ。さらには学校へ通わせることを決めた時、毎日ライラの様子を見に行くことを兄が約束していたことも覚えている。ブラッドの問いかけにノーマンも食事へ開けた口を途中で止めた。ああ、と一音零しながら正面のブラッドへと目を合わす。
いつものようにライラへと会いに行けば、彼女一人は一番平和なものだった。昨日の誕生日もあり上機嫌だったライラは、いまだに火事の一件も知らない。
誕生日を終えた今日こそ話すべきかとも考えたノーマンだったが、無邪気に笑うライラに口を結んだ。せめて新しい家が、そして母親がと。そう考えて学校を後にした後、騎士団で正式な休息を得て今度は母親に会いに行った。
保護所で既に目を覚ましていた母親もノーマンが会いに来てくれたことには泣いて喜んだが、しかしそれ以上に心配していたのは姿のないブラッドだった。家を襲撃され、ブラッドが一人で盗賊に立ち向かったところから記憶が途切れていた。
保護されている他の村人にノーマンが連れて行ったことだけは教えて貰えたが、詳しい怪我も今どうしているかもわからないままの時間はあまりに長かった。
「家が焼けたことには落ち込んでいたけれど、一番にお前のことを心配していた。怪我はしているけど元気だって伝えておいたよ」
お前が母さんを心配していたことも、と。
そう続ければブラッドからもほっと笑みが零れた。母親が無事だったことも、自分を心配してくれていたことも同じくらい嬉しい。
村人からの母親への扱いは最初から心配していなかったが、やはり自分が一緒にいなくてよかったなと思う。続けて兄から近所の人間や他の人達もと続けられれば、「良かったねぇ」と他人事で流した。まさかジャンヌに村人が死んでも良かったと言ったとは明かせない。
母さんは怪我もしていないし、国から補助も出るようだから次の住処はある程度安心だ。村の復興は時間がかかるが、お前は心配しなくていい。そうノーマンの話を聞きながら、もともと自分は家のことしか役に立たないと思い笑ってしまう。
「早く村に母さん戻せると良いねぇ。あ、兄ちゃん水飲む?」
「!あ……ああ、ありがとう」
ベッドから立ち、カップを手に新しく水を入れてくれるブラッドに話の腰を折られながらも頷いた。
まだここからが本題だったが、今朝と違う場所に置かれているカップが思考に引っ掛かった。水差しを傾けられるままに注がれながら自分が置き場所を間違えたかと考えれば、ノーマンから「あ、カップさっき借りたよ」と答えが告げられる。
そういえば自分の前にアーサーが来ていたのだと思い出せば、客用のカップも忘れていたと反省する。昨日急いで泊まりも日用品も買い集めた所為で、まだ母親分すら買っていなかった。
カップを使われたこと自体はアーサーが相手であれば気にしない。しかし一口飲んだ後、カップの水面を覗くノーマンはまた別のことが気になった。
「ブラッド、隊長には何を出したんだ?」
「水」
ゴフッ⁈とブラッドの発言に、勢いよく噎せこんだ。
中途半端に飲み込んだ水が器官に入り口を押さえながらゴフゴホと噎せこむ兄に、ブラッドは腹を抱えて笑った。数時間前に同じ席で同じカップの同じ水でアーサーも噎せていたことを思い出せば余計におかしくなる。
弟の無邪気な笑い声を聞きながらノーマンが必死に気管を落ち着ける。震える手でテーブルにカップを置くが、呼吸を整えながら頭の中ではブラッドの発言がぽつんと残った。
まさかの家に訪問してくれた上官に茶請けや酒どころか、水しか出していなかったことを今更気づく。
当然と言えば当然だった。昨日買い出しした時点で食料こそある程度補充していたが、あとは飲み水しか準備していなかったのだから。
台所も併設されていないこの部屋では手軽に湯も沸かせない。そして茶葉もなければ味のある飲料水も買ってはいなかった。ノーマンもそしてブラッドも、食事はさておき水分は飲み水さえあれば充分という判断だった。
「だってそれしかなかったし」と笑いながら言うブラッドにその通りだと思いながらも、動揺が先立つ。数時間も部屋で身内の面倒を見てくれていた相手に何のもてなしもしていない。しかも相手は自分の直属の上官であり、騎士隊長であり、歴代三人目の聖騎士だ。
「せめて宿屋に言えば買えただろっ……」
「だって隊長さんが水で良いって言ってたしー。大丈夫だよどうせ一杯しか飲んでないから」
何かあった時の為の金も預けてた。にも関わらず水一杯で済ませたのだという事実が腹部を殴られた時のようにじわじわと五臓六腑に響いた。
今から謝罪の数がひしひしと増えていく感覚にまた首が重く垂れ、頭を抱えた。アーサーの人格はよくわかっているつもりだが、それでもやはり頭が痛い。しかもそんな相手へ今さっき自分は辛辣な言葉を浴びせて追い返した後である。
「アーサー・ベレスフォードさん。すっごく良い人だったねぇ。本当兄ちゃんの言う通りだった」
「…………そうか」
弟からの賞賛に、にわかにノーマンの肩から力が抜けた。
やはりアーサーは自分の弟に良くしてくれたのだなと確信する。後日も会いたいと言っていた時点でそうだろうとは考え付いたが、こうして弟の口から聞けたことは嬉しかった。
沈んだ頭が少しずつ浮上し、落ちかけた丸眼鏡を中指で戻しながら顔を上げる。その間もブラッドから「全然押しつけがましくなくて偉そうじゃなくて」「格好良かったなぁ」「すごく話しやすくって」と重ねられれば顔も綻んだ。
騎士団の前では見せない柔らかな兄の表情に、ブラッドも鼻歌を交じらせそうになる。いつもライラはうんざりしたが兄が一番生き生きとする時でもある。
兄からも聞いていたアーサーの話と寸分狂いもなくその通りだったと次々重ね、ついさっきまでいた聖騎士の優しい顔を思い返しながらブラッドは
「ほんとに、〝昨日のあの子が〟聖騎士様なんて夢みたい」
はッ⁈と。
次の瞬間には俯いていたノーマンの顔が風を切る速度で上がった。
目が零れ落ちそうなほど見開く兄に、ブラッドは視線を合わすと今度は笑顔だけで返した。にこーといつもの柔和な笑みだが、今はノーマンの血圧を下回らせるだけである。
ここで言葉を間違えて墓穴を掘るわけにはいかないと、言葉を高速で選び考える。自分の聞き間違いや弟の冗談やカマかけである可能性も忘れない。
「ブラッド、昨日のとはどういう意味だ?」
「ジャンヌと一緒にいたすごく強い銀髪の子、でしょ?良かったぁ、ジャックが〝ああ〟ならジャンヌも〝そう〟だよねぇ」
成人にしては小さいと思った。そう確信をもって言うブラッドにノーマンは唇をきゅっと絞って何も言えなくなった。
扉越しでこそわからなかったブラッドだが、アーサーの顔を見れば一目で気付けてしまった。
部下である自分はひと月近くずっと気付かなかったのに、とノーマンも流石に肩を落とす。
弟は昔から勘が良いと胸の内で唱え観念する。アーサーも知っているのかと尋ねれば、「たぶん気づいていない」と余裕の返事だった。自分よりもアーサーよりも鋭い弟に敗北感を覚えつつ、息を深く吐き出した。
「…………この件については騎士団長からも正式に箝口令が出た。頼むから母さんにも誰にも言わないでくれ」
「兄ちゃんにしか言わないよー。兄ちゃんもアーサーさんも困らせたくないし」
もちろん子どもにした特殊能力者の存在も。
その一言だけは飲み込み、敢えて声にはしなかった。兄からも母からも特殊能力を触れ回るなと言われているブラッド自身もまた、特殊能力の秘匿の重要性は理解している。
さすが城に行くといろんな特殊能力者がいるんだなと思えば、兄はやはりすごいところで働いているのだと思う。誇らしげに鼻を小さくならしたブラッドは、そこで再びテーブルの上の食事に手が伸びた。
対称的に弟から怒涛の事実に自分の空腹感もわからなくなったノーマンは、完全に食事の手が止まる。
アーサーもそれを知らないという事実に報告すべきかも悩む。しかしそれよりも先に今日の分も含めた謝罪を優先だと、菓子一つで済ませられるわけもなければ、ここで弟には一目で気付かれましたなどと報告すれば自分がその後にどんな言葉をアーサーに浴びせてしまうかも大概は予想もついた。
深呼吸を繰り返し、肩ごと動かし息をする。最後に「フーーッ……」と息を吐き切る兄の音を聞きながらブラッドが最後の一口を放り込んだ時だった。
「あと……これは、落ち着いて聞いてくれ」
もう一つ、弟への大事な報告事項を思い出す。
さっきまでと違う低めた声とわずかな震わし方に、深刻さが違うと察したブラッドも息を止めた。ごくんと大きく鳴らして咽喉を上下させ、それ以上は口にしない。
自分と同じ水色の瞳が重なり、五秒以上の沈黙を突き付けられる。眉を寄せ言うことを躊躇するように難しい顔で自分を見返す兄に、きっと今日一番の本題はそれなんだと確信した。
「まだライラにも当然話していない」と兄にしては歯切れの悪い言いにくさに勝手に心臓が鈍く鳴る。どうしたの、の一言も口が閉じたまま動かず固まったままだった。気になるがそれ以上に嫌な予感が酷く全身に脈打った。
口は動かずとも瞬き一つしない眼差しで催促を受けるノーマンは、大きく呼吸を二度繰り返してからその口を開いた。そしてブラッドは
……うそぉ、と。
最初はあまりにも間の抜けた声しか出なかった。
聖騎士訪問以上の衝撃に兄の言葉を、初めて疑った。




