Ⅱ404.見かぎり少女は呼びかけ、
「ブラッド」
騎士団長との通信を終え、再びブラッドへ歩み寄った時にはパタパタとした涙雨が細雨に変わり始めていた。
騎士の数も、そして村人の数も増している。無事盗賊の殲滅を終えたとさっき騎士が報告に来てくれた。川岸向こうで保護された全員がずらりと並ぶようにひしめき合っている。
雨が降ってきたから、身体を濡らさないようにと木陰へ騎士団が誘導をしている。
雨から逃れようと促されるまま動き出す人達の中、ブラッドは両膝を抱えて小さくなったままだった。周囲を囲むように守ってくれている騎士からの呼びかけにも応じず顔を上げようとしない彼は、腕を引かれても置物のようにじっと動かない。
私にも返事がない彼に、正面まで歩み寄ってから膝をついて肩に手を添えた。その途端、ビクッと肩を震わせる彼が静かに顔を上げてくれた。
私の声が聞こえてはいたのか、目を合わせても別段驚いた様子はない。護衛の騎士達が私も周囲から見えないようにブラッドごと囲みなおしてくれる中、アーサーがじっと私の隣で同じように膝をつく。エリック副隊長も背後について背中を丸め私達と一緒に彼を覗き込む姿勢になる。
「木陰に行きましょう。ここじゃ風邪を引いちゃうわ」
先に倒れていたお母様がそっと騎士に抱えられて運ばれる中、もうついていこうとしないブラッドに私から木陰を示して伝える。
首だけくるりと回してお母様の方向へ振り返る彼は、それでもその場から動く気配もなかった。むしろ周囲の囲む騎士達を目で見上げて、それからまた私に視線を合わす。
「……ねぇジャンヌ。君さっき、……いややっぱり良いや。ごめん。ちょっと僕って頭が空っぽだからさ勘違いして。ほら、ジャンヌも見たでしょさっきだっておかしかったし」
はは、と力なく笑いながら途中で首を振ったブラッドは、恐らく私が騎士達に叫んだ時のことを聞こうとしたのだろう。
普通に考えて十四歳のこんな姿の私が王女なんて耳を疑うに決まっている。さっきだって、は家で彼を見つけた時のことだろうか。でもあの時は気が動転していて当然だ。突然盗賊に襲われて家まで焼かれたのだから。
眉を寄せるだけで答えられない私に、ブラッドはふわふわ笑いながら何でもないように自分で言葉を否定した。このまま勘違いと思い込んでくれれば一番だけれど、……自分の目で見たことにすら否定してしまう彼に胸が痛んだ。
「ブラッド。さっきは勝手に話を切り上げてごめんなさい。一度、木陰に」
「騎士格好良かったねぇ。兄ちゃん以外にもこんな大勢の騎士に囲まれちゃってさ、これすごい特等席だと思わない?」
わざと遮るように言う彼は、手でくるりと周囲の騎士を示した。
さっきまで蹲っていたのが嘘のように嬉しそうな笑顔の彼に、雨音だけが勢いを増していた。
エリック副隊長が背後から自分の上着を私へ羽織らせてくれるのと殆ど同時にブラッドの背中にも頭からかぶらせるように騎士が上着を貸した。上等で厚い生地に雨が遮られる。
アーサーだけが、羽織れせてくれようとする騎士へ大丈夫ですと一言断った。
被らされた騎士の団服を上目で見たブラッドは「うわぁ」と声を漏らしてからまた私に笑いかける。
「見てよ騎士の団服。こんなのなかなか普通の人は触れないよ。僕は兄ちゃんからたまに借りたりしたけど、やっぱ重いよねぇ。ジャンヌ、すっごく似合ってるよ」
ここが晴れた日の市場だったら、本当に平和な会話になっただろうと思う。
それくらい、無邪気に笑うブラッドは悲壮感を感じさせない口調と表情だった。前世の記憶でゲームの攻略対象者だったブラッドに嫌でも重なってしまう。
村も家も無くしたこんなところで、そんなことを言って貰えても笑えない。
口を結び、借りた上着をぎゅっと中心に寄せて握りながら見つめ返すブラッドはやっぱり一歩動くどころか立ち上がろうとすらしなかった。あんなに逃げようとしていた彼が、今はその場から動かず「兄ちゃんが初めて新兵になって帰ってきた時なんて」「ライラが遊んじゃって」と世間話を続けてしまう。自分でも今どうしてそんな話をしているかわかっていないのかもしれない。
次第に騎士達が私達だけを囲んでいるまま、周囲の人達が消えていく。皆、木陰の方向に去って私達だけが取り残される。
保護された人たちの誰も、子どもすら殆ど何も言わずに移動する中で細く明るいブラッドの声は雨がなかったらきっと彼らまで響いただろう。
私達が無言を返し続ける中、他に誰もいなくなった空間で次第にブラッドも長い話をぷつりと閉じた。ブラッドも黙した途端、静かに嵩の増した雨音だけが私達の耳を塞ぐ。
ぎゅっと眉を寄せて見つめ続ける私に、やっとブラッドは肩を落として目の前の話を返してくれた。
「……このまま、僕だけ残っちゃだめかな」
だめよ、と。言葉の代わりに首を横に振る。
眉まで垂らして淋し気に言う彼がそのつもりなのはわかっていた。再び膝を抱えるブラッドは笑いながら雨粒が高い鼻に当たっている。被らされた団服の下で、既に濡らされてしまった止血部分が赤く滲んでいた。
「馬車、乗りたくないんだ。母さんはもう大丈夫みたいだし、安心だから」
「こんなところに残ってもどうしようもないわ。何処に行くというの?」
「何処でも良いよ」
「なら、一緒に城下へ行きましょう。暫くは安全な場所で保護して貰えるわ」
怪我もしているのだから。そう言いながら彼の傷を指し示す。
痛々しく赤く滲むそれに「あ、止血ありがとうね」としか答えない彼は返事にならない返事しかくれない。彼が逃げ出そうとした理由も、それに今ここにとどまりたい理由もわかる。
きっとここで本当に一人置いて馬車を走らせてもずっと同じ笑顔で笑うだろう。けれど、そんなこと見逃せるわけがない。
「……城下も嫌だな。ここよりたくさん人がいるから。…………怖いんだ」
ぎゅっと強く膝を抱き締め直した彼の水色の瞳が悲し気に揺れる。
今まで、一体何年こうして彼は生きてきたのだろう。
怖い、と言った途端肩を震わせ出したのが雨の所為じゃないことがわかる。思わず両腕を伸ばしたら「濡れちゃうよ」とやんわり手を防がれた。ひっこめたまま自分の胸を押さえる私にブラッドは首を小さく傾けてみせた。
「聞いていい?」と突然尋ねられ、頷きで返せば彼は何でもないような口調でゆるやかな声を続けた。
「君、僕の事なにか知ってるでしょ?兄ちゃんかライラから聞いたのかな。じゃないとあんな風に僕のこと止められるわけないよね」
秘密にしてって言ったのに。と言いながら肩を竦める彼は、焦燥も怒りも感じない。
ちょっと困ったことがあるぞくらいの動作で、ただ私から目だけをじっと離さない。雨粒の向こうで彼の瞳が真っすぐに私を鏡のように映す。
予知と言うか、それとも人の弱みを知る特殊能力と語るか少し悩む。彼はまだ自分の目の前で起きたことすらも信じていない。
けれどどちらにせよ聞かれた以上、口止めすることは間違いない。せめて兄妹の誤解だけでも解きたいと私も事実だけを彼に告げる。
「お兄様にも、それにライラちゃんにも聞いていないわ」
「本当?じゃあなんで知ってたの?……これ、見ても驚かなかったよね」
詰めて尋ねてくる彼は、そこで自分の腕を指し示した。
雨で滲んだ布が、上着の影から出て余計雨に当てられる。傷に悪いから、と私が引っ込めるように手で促すとすぐにまた上着の下の膝へと戻した。
いつの間にか私の方が返事を待たれる立場になっている。不気味なくらいにこにこと愛想の良い笑みに押されるように返答を考えるけれど、その前に「言えないかぁ」とブラッドが諦める方が早かった。
「怖くなかった?最初は近付きたくないと思ったでしょ」
「そんなことないわ。貴方はなにも悪くないもの」
首を振り、彼の瞳を意思を込めて見つめ返す。
優しいねと。柔らかく返してくる彼だけれど、本当に他人事のような言い方だ。
騎士の団服がどんどん水を吸って重くなっていく中で、羽織る私と同じように被らされた彼の団服もべったりと彼に上から密着していく。
身体の体温が奪われていく感覚に、指先の感覚がしびれだした。私でもこんなに寒いのに、動いてなくて細いブラッドはもっと辛いだろう。
「……でも、僕は怖いし近付きたくないんだぁ」
のんびりと日向ぼっこでもしているような声色で、語った言葉は悲しかった。




