Ⅱ397.見かぎり少女は認める。
「うわ~痛いってばジャンヌ」
「ごめんなさい。でも、貴方が行くというのなら放せないわ」
柔らかな笑みを声を向けながら、おもむろに手を振りほどこうとするブラッドにプライドは首を振る。
彼の傷に振れないようにと握り直そうともするが、少しでも緩ませたら今度こそ駆けていってしまいそうで容易に放せない。「血で汚れちゃうよ」と言われ、袖に新しく血が滲んでいるのを見れば余計に掴む手を躊躇いそうになる。
止血をしたくても今自分の手持ちは使い切ってしまった。カラムにやはり強引にでも任せれば良かったと思いながら自身の裾へ目を向ける。
「……まだ、止血も全部終えてなかったわよね。ちょっと待って、今やりましょう」
「良いよぉ、それより見逃してくれると嬉しいな。これぐらいの傷は自分でできるし、唾でも付けとけば治るから」
「今逃げたら大声でカラム隊長達を呼びます」
ピシリと鞭を打つように断ったプライドは、釣り上がった目で睨んみ彼から手を離す。
騎士を呼ばれたら逃げ切れないと理解しているブラッドも、その脅しには素直に動きが封じられた。ぺたりと地面に座ったまま、目の前でスカートの裾部分を破るジャンヌに困り眉を垂らす。
服が勿体ないと言ってはみたが、その間にも容赦なく剣を使って巻く布を作ってしまう。
アーサーに頼んでカラムから受け取っても良いが、こちらの方がプライドには手っ取り早い。それにブラッドの傷自体は確かに本人の言う通りそこまで深くなかった。貴重な包帯を使うなら、これくらいの傷は自分の服で代用させて貰おうと考える。
ビリビリとスカートを裂いてから「左腕出して」と逃げるまでの時間を稼ぐようにブラッドへ強めの口調で命じる。首を捻りながらも彼女の機嫌を損ねられない状況に追いやられたブラッドもそれに応じた。
「あのねぇ、僕。実はそんなに良い人じゃないんだ」
あらそう、とブラッドの伸びやかな声に敢えてそっけなくプライドは返す。
彼がどうしてこの場を去りたいかもゲーム設定を知る彼女はよくわかっている。しかしだからといって「はいどうぞ」と見過ごせるわけもない。
既に行方不明者が一人いるのに、また増やすわけにもいかない。たとえここでプライドが逃がそうとも、騎士二人がブラッドを探索しないわけがない。
簡易の包帯もどきを手に取りながら、彼の袖を肩までまくり上げた。痛々しい傷跡に一瞬顔を顰めたが、口の中を飲み込んでからは何も思わないようにくるくると巻きつける。
プライドのその表情にすら気付かない彼は「助けてくれたのに悪いんだけど」と続けて口を動かした。
「嫌いなんだよね、村の人」
口の端を上げて笑った顔を作りながら、その表情は枯れきっていた。
先ほどとは違う、冷め切り突き放す声はまるで別人のようにも聞こえた。上目でちらりと彼の表情を見れば、その目は声色以上に冷ややかだった。
嫌でも頭の中には彼のゲームの設定が蘇る。最悪の状況は今のところ避けられているが、それでも埋められないほど既に彼の心は荒みきっていると理解する。
「勿論家族は好きだよ?母さんもライラも兄ちゃんも。母さん優しいしライラは可愛いし、兄ちゃんは格好良くて面白いし」
ぷふっ、と思い出すように小さく吹き出す彼の顔から僅かに強ばりが解ける。
話しかけている筈のプライドの方を見ず、遠い先に思考が向く彼は「父さんは」と言いかけて言葉を止めた。話題が逸れたと思い直す。いま、自分は身の上話を彼女にしたいわけでないのだから。
くるくると手首から肘関節まで巻き付けてからプライドは一度布を止めた。関節部分を避け、二の腕も止血すべくまたスカートの裾を切った。
「でもさ、村の人らは全然。僕のこと腫れ物に触るように扱って避けるし最悪。正直、あの向こう岸の人達みんな死んじゃっても良いんだぁ」
母さんさえ無事なら。そう語る声に躊躇いは無い。
枯れた笑みを浮かべながら、この場の誰に軽蔑されてもおかしくない言葉を吐く。プライドが目を向ければ水色の瞳が沼の底のように濁っていた。ゲームで最後にラスボスを嬲る前の目にも似ていると思う。
最低なことを言ったにも関わらず殆ど顔色も手の動きも変えない少女にブラッドは反対側に首を傾け直す。
初対面でこれくらい言えば耳ぐらい疑うと思ったのに、その気配もない少女にちゃんと聞いているのかなと思う。しかし「聞いてる?」と尋ねれば間髪入れずに言葉が返ってきた。
肩を竦め、また続ける。
「……騎士ってさぁ、格好良いよね。人の為に国の為に身を危険に晒して戦ってさ。でも僕はそんなことできないんだ。怖いし、痛いこと嫌いだし、毎日鍛錬なんて疲れるし、会ったこともない人の為に命なんかかけたくない。危ない目になんか一生遭わないでぬくぬく平和に生きていたい。ね、最低でしょ?」
最後は自虐めいた言葉も含めて、いま語った言葉は彼の本音であることもプライドは知っている。
兄にすら吐露したことのない本音を語れば、ブラッドは少しだけ胸の奥がすっとした。家族以外の人間とまともに語らったことも長らくない彼にとっては貴重な〝他人〟との会話である。
家族に言えないことを初めて言葉にできたと、言い終えてから気が付いた。
ぎゅっと眉を寄せて口を閉ざす彼女に、やっと幻滅してくれたと笑う。巻き付けた布を最後に結うところで止めたプライドの手へ重ねた。
「だから僕のことなんか放っておきなよ。これで逃げた僕が野垂れ死んでもジャンヌは全然胸を痛めることなんてないから」
まるで他人事のように自分で自分を突き放す彼の言葉に、プライドは奥歯を食いしばる。
変わらず柔らかく笑う彼の表情は、ゲームでアムレットに語った時と全く同じ表情だった。もう彼は既に彼なのだと、言葉を交わせば交わすほど思い知らされる。ゲームが開始されるたった三年前という事実がこの上なく残酷に思えた。
そっと手を降ろさせようとするブラッドに、プライドは細腕に力を込めて抗った。ぐぐ……と、僅かに力が鬩ぎ合いながら彼女は反対の手も使い両手で無理矢理彼への布に結び目をキツく作った。布を結び終えた後には両手で自分の腕を包むようにして離さない。険しい顔で睨んでくるプライドに、ブラッドは小さく息を吐く。
「…………さっき。本当に嬉しかったよ。大丈夫って、言ってくれたの」
根負けし、下ろさせようとする手をブラッドから力を抜く。
ぶらりと垂れた手がプライドの両手で持ち上げられる状態になる。気楽にも見える笑みのまま、ブラッドは彼女の紫色の瞳を覗き込んだ。
火の中でみた時よりも丸みは帯びた筈なのに、その瞳は揺れている。最初にも告げた感謝の言葉は、同時に彼がここで最後したいという強い意志が込められていた。
「村の人はどうなってもいいけど、ジャンヌのことも銀髪の……ジャックだっけ?彼のこともあの騎士さんも僕は好きだよ。母さんを助けてくれたことも本当に感謝してるんだ。僕なんかと違って君達は強いし良い人だよ」
そう語った時だけ、ブラッドの瞳が澄み切った。
今までのヘラついた笑みではない、自然の優しい笑みで彼女とそして岩陰に控えるカラムとアーサーを見る。兄や母親、ライラと同じように彼らも善人でそしてこの上なく羨ましいとさえ思う。
その気持ちが嫉みへと歪まなかった自分に少しだけ救われた。
兄に対しての気持ちと全く同じ感情を確かめ、今度こそ自分からプライドの手を握り返す。ぎりっ……と細腕とはいえ今は同年の男性であるブラッドの握力は、プライドの非力な手首が痛むほどには強かった。
思わず零れそうな声を噛み殺し、痛みに肩を強張らせて堪えるプライドにまたブラッドはにこりと笑う。
「だから、放して」
その低い声は、さっきまでとも別ものだった。
ギリギリとキツく締め上げられ、プライドの手が指先から震えながら緩んでいく。今度はプライドの方が締め上げられる手を離させようと反対の手を緩めて掴み返せば、すんなりと放された。代わりにブラッドを掴んでいた手も反射的に脱力し強制的に引きはがされる。
ごめんね、と乱暴にしたことを謝るブラッドにプライドは自分の手首を擦りながら上目で睨み返した。
しかし構わずブラッドは自由になった両手で地面に付くと、また足音を殺して二本足と両手で退路へ下がる。村の方向でも、川岸の方向でもない深い森の方向だ、
この場を去ろうとするブラッドの意思が固いことはプライドも知っている。
村人を置いて、大事な母親すら置いて逃げたがるのもブラッドの設定を考えればわかる。いくら足止めを試みようとも、ここでアーサーやカラムを呼んでも、また隙を見ては逃げだそうとする確信が胸にある。彼がそれほどまでに今ここに一秒も居たくない気持ちも知っている。
この場でブラッドを放っておくことも、考え方によっては一つの選択肢である。本来であれば救助に来た側と他人だが、プライドは今や彼のこともよく知っている。彼が村でどんな扱いを受けてきたのか、彼がどれほど家族だけが支えだったのかも。そしてゲームで語られる過去では
ブラッドによって村人全員が死に絶えたことも。
「だめよ」
パシッ。
手を叩きつけるようにして重なる音が、小さく鳴った。
川岸までは届かなかったが、岩陰にうっすら届いたその音にカラムとアーサーも首だけで振り返った。見れば、両手足を付いているブラッドの手にプライドもまた同じ体勢で右手を重ねて縫い止めている。
手の響く音に、岩陰の二人から視線を受けてしまったブラッドは退避の歩みを止める。ここで逃げてもどちらかに捕まるだけである。
ここまで言ってもしつこい少女に、僅かに貼り付けた笑顔が強ばりながらブラッドは両目でプライドを見る。
しかしその瞬間、逆に鋭い眼光に睨み返されるだけだった。紫色の瞳が自分の柔和な顔を鏡のように映すのが至近距離ではっきりわかった。
さっきのように掴むでもない、ただ自分の手の平に重ねる少女の手は今までになく重みが増していた。
「〝大丈夫〟が嬉しかったのでしょう?なら何度でも言うわ。貴方は大丈夫よ。ここに居て良いの。お母様の横で、誰よりも安全な場所でお兄さんが迎えに来るのを待っていれば良いの」
僅かに早い口で語る声は、小さいにも関わらず凜とブラッドに届いた。
大丈夫とその言葉を聞く度に、小さく唇を噛んでしまう。笑みが強ばり、柔らかさが死んでいく。重ねられた手を振り払うのが簡単な筈なのにすぐにはできない。
瞬きもしない紫の鏡が、表情の固まった自分をそのまま映す。心音が、正直過ぎるほど遅く鳴った。
「最低なんかじゃないわ。普通で、当たり前過ぎるくらい些細な願いよ。貴方の生き方は貴方だけのものなのだから」
淡々にも聞こえる声で告げながら、重ねる指先に力がこもる。
彼の一番の間違いを正すべく、事実を告げる。危険を避けたいと願うことも、平穏な日常を望むことも決して悪ではない。大勢の人間が願う当然の望みだと思う。
騎士の生き方の誇り高さも知る彼女は、同時に平凡な日々の尊さも知っている。
力を持たない人間が、自分だけでも助かりたいと。自分と自分に大切な人間だけでもと望むことは至極当たり前であることも。誰もが騎士のように己が身も顧みず他者の為に動く戦士などではない。だからこそ騎士は特別で、誰もに尊敬される存在なのだから。
そして平凡に生きることもまた、当たり前などでは決してない。
『嫌だ〝クロイ〟が良い‼︎‼︎なんでディオスばっかり苦しまないといけないんだ‼︎‼︎』
『僕だけディオスや姉さんばかり苦しむのを見てろっていうわけ⁈』
『お前らこそ平和ぼけの馬鹿のくせに偉そうにすんなよ!!何にも知らねぇくせに!!』
『俺様にはもう何もない‼︎まただ‼︎また!奪われた‼︎‼︎アンカーソンの支援無しに何が残る⁈』
その〝普通〟こそが欲しくて堪らない人間がいることも、狂おしいほどの願いにもなり得るのだと知っている。
今は、よく知っている。
重ねた手の冷たさを感じながら、プライドはたったひと月の間に出会った彼らの言葉が頭に駆け巡る。
誰一人としてもともと願っていたことは些細なものばかりだった。ただ大事な人達と普通の日々を送りたかっただけの民だ。そして目の前にいる青年もまた、そんな些細な幸福を欲しがっている。それを悪だと思い込み責め続けているのもまた彼自身だと、そう理解する。
胸に詰まる間隔に息を飲み込みながら、プライドは細くて自分より大きな手に小さく爪を立てた。彼がどうか、ゲームのような人生が全てだと思わないで欲しいと切に願う。
「強くなくて良いのよ。弱くて良いの。辛いのが嫌なのも、怖いことから逃げるのも、苦しいことを避けるのも、貴方が生まれてから与えられた当然の権利なのだから」
今この場で彼の呪いを解きたくて言葉を重ねる。
彼が去ることを止めるよりも、彼が去りたい理由を消し去りたくて手を伸ばす。
自分と目を合わせてから、急激に身動ぎ一つせず唇を止めた彼の頬を膝立ちのままそっと反対の手で振れた。指の腹だけで撫で下ろし、他でもない彼に告げたい言葉なのだと示す。
柔和に笑んでいただけの彼の表情に今は笑う余裕もない。先ほどまで緩みきっていた眼差しが今は開ききっていた。
「大丈夫、貴方はちゃんと優しい子よ。本当に村の人を殺しても良いくらい憎んでいたら、ここで去ろうとなんてしない筈だもの」
そう優しく笑まれた瞬間、一気にブラッドの顔が恐怖に強張った。
まるで自分の胸の底全てを覗くように語る彼女に、どこまで知られているのかと強張り肩が上がる。笑い方も忘れてしまうほど息もできなくなった。自分がこの場を去りたい本当の理由を、彼女は知っていると思えば声も出ない。今度こそ本気で彼女から逃げたいとすら思う。
指先から肩まで腕全体が微弱に震え出す。その間も柔らかく自分に微笑みかける彼女に現実味までかき消える。
「大丈夫、貴方は悪くない。大丈夫、ここに居て良いの。大丈夫、貴方の願いは間違ってなんていないから。堂々と望みなさい」
まじないのように繰り返し、嘘でも慰めでもないと心から笑って見せる。
そういう生き方を彼にして欲しいと、本心から望む。頬を伝った手を落とし、力を込めて肩へと置いた。ほんの些細な当たり前の幸せを、必ず守り通すと胸に誓う。
岩陰から二人のやり取りに振り返っていたアーサーは、抑えた声で彼女を呼んだ。
互いに互いしか視界に入っていない二人に、それ以上の干渉は躊躇った。微かな気配にカラムが武器を構え直し、プライドもまた気が付いた。ブラッドに重ねた手も、肩を温めた手もゆるやかに降ろし地面へ置いた武器を取る。
女性でありながら武器を振る自身を否定しない彼が、男性でありながら護られることを同じように受け入れてくれればと敢えて眼前で構えてみせた。膝立ちから片膝をつき、パラパラと纏めた髪の端から零れた深紅の髪を首を振って顔から避けた。
スカートが破け、汗と煤汚れに濡れ、人を殺せる武器を二つ手にしながら彼女は笑う。
『僕なんて、生まれてこなきゃ良かったのにね』
「弱いなら助けを求めれば良いだけよ。何も難しいことじゃないの。貴方達は戦わなくても隠れていても逃げても良いの」
あんなことを言うことがないように、彼に見せる自分に胸を張る。
強いことが義務ではないように。強さを求めることも、弱いことも全ての民が持つ〝権利〟だと彼女は思う。強さも弱さも決してこの世で幸せになる為の絶対条件ではないのだから。
視線を上げ、片膝をついたまま背筋だけを張るように伸ばした。両手をだらんと脱力させたまま口をあけて自分を見るブラッドに眩しく笑う。
足音も消し自分の傍らに戻ってきてくれたアーサーに目配せだけで示して笑い、「だって」と続けてブラッドへまた目を合わす。
次の瞬間。自分達しかいなかった筈のブラッドの視界に影が走った。光のような白の残像がいくつも近づき、目を見張る。
カンッとプライドの剣が軽く地面に刺さった。細身の剣は心許なくも見えたが、それを構える彼女からは強さしか感じない。
突然のことに視線を回したいのに彼女にしか焦点を合わせられず固まる彼の視界は、気付けばさっきまでと色彩が変わっていた。火事の赤と黒から逃れた先で、今はその大部分を白が埋め尽くす。
「そんな民を護る為に私達がいるのだから」
お待たせ致しました、と。
応援に駆けつけた騎士達が振り返るカラムへと片膝を突く中で、王女の言葉は青年の最奥まで凛と響いた。
Ⅱ327




