Ⅱ392.見かぎり少女は急ぐ。
「……ライラと兄ちゃん。もう、ケーキ買えたかな」
深鍋からコトコトと煮込む音を食欲の湧く香りと共に生みながら、青年は時計を見上げ一人呟いた。
妹と同じ柿色の髪と、兄や父と同じ水色の瞳を持つ青年は少し畝った髪を耳もとに掛けながら時間を計る。
誕生日を祝う為にケーキと共に帰ってくる兄妹を想いながら、ご馳走の準備は滞りない。料理の下拵えは終えた今、少し余裕もできた。
今朝に掃除も洗濯も終えたしと心の中だけで数えながら残った仕事を考える。あれもこれもと考えながら、ふと思い出すのと同時に視線が斜め下へと降りた。
「……ああ……、薪補充しなくちゃ」
はぁ……と少し重い溜息を吐きながら肩を落とす。
まだ予備はあるが、数が少ない。特に今日は四人分のご馳走を作るために火もふんだんに使ってしまった。夜にうっかり切らしてしまう前に買っておかなくちゃと考える。
「母さ〜ん、ちょっと薪取ってくるね。火、このままで大丈夫だと思うから心配しないで」
煮込んでる間に戻ってくるからと。料理の為に捲っていた袖を戻しながらブラッドは奥の部屋へと顔を覗かせた。
正直、兄が帰ってからその類の仕事は丸投げしようと思っていたが時間が余ったのなら仕方がない。
へらりと笑いながら手を振る息子を「ブラッド」と母親は言葉で引き留めた。背後手に閉めようとした扉をそのままに、隙間から覗くようにして顔だけ振り返る彼に母親は険しい表情で懇願する。
「お願いだから、もう喧嘩はしないでね。嫌な目に遭ったら薪なんて置いて戻っておいで。今日はノーマンも帰ってくるんだから」
「……。やだなぁ母さん、大丈夫だよ。もうあんな痛いことしないって」
あはは、と軽く笑い飛ばしながら心配する母へ柔らかい声で扉を閉じた。
すぐに去る気にはならず数秒だけ扉に背中を預け、音にならないように息を吐く。何もない薄汚れた天井を仰ぎながら、一度目を閉じた。呼吸を意識的に整え、それからゆっくりと玄関へ向かう。
火は平気、鍵もある、と出る前の確認をまた数えてからドアノブに手を掛けた。鍵を開け、あとは開くだけと思うがそこでまた立ち止まる。
洗濯物を干す時とは全く違う胃の圧迫感を空気だけで何度も何度も飲み込んでから、やっと外に出た。
玄関を出ても、今日は誰にも通りがからなかったことにほっと安堵する。
細い身体でスキップ混じりで歩く彼は、気持ちとは裏腹に口笛を吹き道を闊歩した。
林で薪を拾ってくるのも良いが、今日はライラの誕生日だし奮発して良いのを買おうかなとも思う。貧乏性は残るが、高級取りになった兄のお陰で金にも切迫はしていない。特に今は妹も学校で、普段の食い扶持も減っていた。
「うわ、いる」
……口笛でかき消されないほどには、その声は大きかった。
しかし予想していたその言葉に、ブラッドは口笛だけ止めて顔を向けた。見れば自分と歳の近い青年達が明らかに顔を顰めこちらを睨んでいる。
明らかに悪意しかないその眼差しに、ブラッドはひらりと手を振った。
「こんにちわぁベンジャミン、コリン。今日はいい天気だねぇ」
にこにこと愛想の良い笑みを浮かべてみせるブラッドだが、それに対し呼ばれた二人の顔は歪むだけである。
互いに目配せし合い、舌打ちを鳴らした二人は駆け足でその場を去った。彼らも彼らの仕事があってそこにいたが、目の前にいる青年と同じ空間には立つことも同じ空気を吸うことも嫌だった。
ばいばーい、と垂れ目で笑う青年はそこでまた口笛を吹き直す。もうこんなことは日常茶飯事だ。
─ 人に、会いたくない。
しかしだからといって出ないほど子どもでもない。
齢十四になった彼は彼でするべきことがあるのだから。いくら悪意のある視線に晒されようとも、その程度で落ち込んでいたら兄にまた心配される。
─ 村のことも、好きじゃない。
近所付き合いも希薄になったブラッドは、辟易していた。
城下にだって足で向かえば数時間はかかる、山に囲まれた小さな農村だ。就けるような仕事も少なければ、殆どが家業をそのまま継ぐか畑か家畜で賄われる。定期的にやってくる小間物行商と王都で働く騎士の兄だけが、外の世界の情報源であり都会の品や食べ物を得る入手源である。
騎士になれた兄のことは、収入の無い新兵の頃から輝いてみえる。更に今では城下に通う妹も羨ましい。
今日帰ってくる彼女は、きっと目をきらきらさせて輝かしい城下での生活を話してくれると思えば今から待ち遠しい。家での生活は嫌いじゃないが、村での暮らしは退屈を遥かに下回る。
「あ〜あ。…………消えちゃえば良いのに」
そう口の中だけでぼやき、手元の袖を指先で引っ張りながら単調な空を見上げた。
辿り着いた先の薪売りにも嫌な顔を向けられたが、空を仰ぐブラッドはまだ気づかない。
ただ今は、帰ってくる兄と妹がただただ待ち遠しかった。
……
「では、第一はブラッドの捜索ということで宜しいでしょうか」
それによって取るべき行動も変わります。と告げるステイルにアーサーもまた頷いた。
目的の一つである生徒。それがノーマンの弟だと告げた後も私は一つ一つ選んで彼らにブラッドの状態を説明した。あくまで予知として語れる範囲を選びながら、頭の別部分ではブラッドの設定を思い返す。
ブラッド。
十七歳の彼は、第二作目の攻略対象者だ。
主人公が入学してくるまでは、ネイトと同様にラスボスであるグレシルに傾倒していた人間の一人。
グレシルに利用され恩を感じていたネイトと違い、彼の場合は彼女に従っていた理由もただただ単純に『波風立たせず平和に卒業したいだけ』だった。
ゲーム開始時には生徒だったブラッドは授業をちょくちょくさぼりたい放題。……ッああそうだアムレットのクラスメイトだ。よく考えればファーナム兄弟は飛び級して三年のクラスにいたのだからブラッドは二年生に決まってる‼︎
彼は学校の権力をレイごと握るグレシルのご機嫌を取り、その恩恵を受けていた。
お陰で授業をさぼってもお咎め無し。真面目なアムレットは、ルートに入ると授業をサボる彼を何度も屋上で見つけては注意するようになる。飄々としている彼の秘密と過去を知り深い傷を残した心を癒し、最後はラスボスグレシルをレイの前で糾弾する。
表向きは全くラスボスに何の恨みも無い様子のブラッドだったけれど、……真実を知った彼の豹変ぶりは攻略対象者の中で一番凄まじかった。
ネイトとディオスルートでは、最終的にラスボスにとどめを刺すのは激昂したレイだ。レイルートではアムレットが止めるお陰で、逆にグレシルも学校から追い出されるだけで済んだ。
ブラッドルートの場合は、一度はアムレットの制止も聞かずブラッド本人がグレシルを嬲りものにしている。
それはもう、盛大に。
グレシルが泣いて命乞いをしても構わず阿鼻叫喚を上げさせた。
怒り狂った彼を、自分まで傷を負いながら彼を抱き締め止めるアムレットはまさに主人公だった。結果、殺されずに済んだグレシルだけどそれでもやはりレイにやられたのと同じくらいえげつない姿の最後だった。
ただ、ブラッドがそこまでグレシルを恨むのも殺したいと思うのも仕方ない。何故なら彼もグレシルに隠し騙され続けていた一人なのだから。
「だから、二人もブラッドには気をつけて。もちろん、ノーマンとライラちゃんの身内ということはわかっているわ」
それでも。と、片手で頭を押さえながら彼らに再び警告する。
馬車を降りたらエリック副隊長にも伝えないといけない。それにパウエル。彼には村での道案内が終わり次第即刻ステイルに瞬間移動で帰して貰おう。正直ここまで巻き込んでしまったのも不安だし罪悪感もある。
第三作目の攻略対象者であることを抜いても今回の件に彼は関係ない。本当ならゲームを思い出してからも落ち着いて対処を考えたかった。
せめてもっと早くグレシルに会えていたら思い出せたかもしれないのに‼︎あの言葉一つで何人も陥れるラスボスにさえ会えれば‼︎
今更後悔しても仕方がないと思いながらやっぱり考えてしまう。思わず頭を押さえる手に爪を立てる。駄目だ今はまず現実を見て判断することが優先だ。
とにかく最優先はブラッド。ゲーム通りになってさえいなければそれで良い。彼と平和的に会話して、止めて、それから少しずつ……
「⁈ジャンヌ!フィリップ!ジャック!!外を見ろ‼︎」
突然飛び込んだ叫びに、肩が上下する。運転席にいるエリック副隊長だ。
重なるようにパウエルの叫び声も聞こえ、急速で走っていた馬車が急激に減速していく。
馬車を止めるより前に私達も馬車の窓から外を見ればすぐにエリック副隊長が言わんとしていることがわかった。確信した瞬間、全身の筋肉が硬直するのを感じながら息を飲む。鼓動が早くなって言葉がすぐには見つからない。脳が最悪の状況だと叫びながら瞬きもできない私の代わりに最初に叫んだのはアーサーだった。
煙だ、と。
ただの煙じゃない。もくもくと灰と黒が混じった煙が目視できる規模で山脈の間から空へと上がっていた。個人規模の火じゃないことは明白だった。
馬車の窓からでは煙の火元までは見えないけれど、もう間違いない。起こっていなければ良いと思った最悪の展開が目と鼻の先まで来ている。
窓に鼻も額もくっつけて凝視する中、ステイルが「あれが目的の村では⁈」と声を上げる。そうだ絶対間違いない。「山々に囲まれた小さな農村」とブラッドもゲームで故郷を語っていた。そんなところで火事なんて起こればただ事では済まない。
減速していく馬車の慣性に引っ張られ、手摺りに掴まるのも忘れて窓に齧り付く私をステイルとアーサーが片腕ずつで支えてくれる。
まだ村には遠い、見晴らしの良い丘の上だ。断崖から充分に距離を取った位置で馬車を止めてくれたエリック副隊長が扉を開くのを待たず、停止したと同時に馬車から私達は飛び出した。
御者席から飛び降りながら私達の名前を呼んでくれるエリック副隊長の声を聞きながら、火元を見下ろせる崖ギリギリまで私達は駆け寄る。見下ろし見れば煙の先はやっぱり村だ。
家の屋根が炎を上げて、黒い煙が私達の鼻先まで匂ってくる。煙幕のような空気の壁の隙間からは逃げ惑う人達がいくつも見える。
まだゲームの回想ほどの火の海ではないけれど間違いなくあの場面に近付いている。
あれは一体ッ……と声を漏らすエリック副隊長が私達の背後に立ったのを耳で確認しながら、確証を得てしまった私は喉を張り上げる。ブラッドが語っていた、思い出すことも辛い凄惨な過去を。それは
「──────です‼︎──────────────────‼︎」
即刻騎士団を呼んで下さい‼︎と、そう続けながらも私は目の前の惨劇から目が離せない。どうかこの展開だけでも変わっていて欲しかった。
救出も含めこれはもう騎士団の出動案件だ。エリック副隊長が馬車方向へ翻す音がしたと思えば、私が落ちないように手を前に出し支えてくれていたステイルが消えていた。代わりにアーサーが私の斜め前に立つようにして支えてくれる。
潜める声で「予知ですか」と尋ねるアーサーに、私は一言で肯定した。思い出したでも、たった今の予知でも良い。今はこの現実を変えることの方が先決だ。
頭の中で高速でこれから取るべき行動を考える。ステイルが騎士団を出動させてくれるし、きっと策を打ってくれる。騎士団の先行部隊ならきっとすぐに駆けつける。……ッでも、このままだといつゲームのように最悪へ転じるかわからない。けれど、もう、これ以上は
「……エル‼︎パウエル‼︎パウエル!!!ジャック!ジャンヌ!パウエルがいない‼︎」
えっ⁈
さっきまで村の惨状にしかいかなかった目が、強制的にエリック副隊長へと振り返る。血の気が引いた色のエリック副隊長が馬車の周囲を何度も確認しながら彼の名前を呼んでいたことに今やっと気が付いた。
さっきまで御者席で道案内をしてくれていた筈のパウエルがいつの間にか何所にもいない。私が騎士団をと言った時点でパウエルの安全確保に向かってくれたのであろうエリック副隊長が一番最初に異変に気付いてくれた。
アーサーも血相を変えて「パウエル‼︎」と喉を張り上げるけれど、返事はない。一気に私まで全身の血が引いていくのがわかる。
丘から見える村までは、後は馬車で下るだけの一本道。危険を感じてパウエルが一目散に一人逃げてくれたのならまだ良い。ステイルが瞬間移動する前に帰してくれたなら一番良い‼︎もしくは村をよく知る彼なら他にも近隣の村とか集落に助けを呼びに行ってくれたのかもしれない、けど一番いま恐ろしいことは
「ッまさか先に村に……⁈」
思わず溢した言葉に自分で一気に背筋が凍り付く。まずいまずいまずいまずいそれが一番絶対まずい‼︎‼︎
ぞぞぞぞぞっっと寒気に押されるように背中が反る。どうか間違いでありますようにと私も声を張り上げてパウエルを呼び叫ぶけれど、いるのはアーサーとエリック副隊長。そして馬車と森に崖だけだ。
あまりの混乱に自分で自分の腕を抱き締めながら意識的に呼吸を繰り返す。パウエルがどのルートで行ったかはわからないけれど、この道真っ直ぐなら馬車で追えばすぐ追いつく。けど村に精通している彼なら馬車では通れないような別の近道を知っているかもしれない。
彼だって自分の足より馬車で向かった方が早いのは知っている筈だ。時間がない、パウエルが降りているかもしれない、ブラッドを止めないと
「ップライド様!」
覚悟が決まった私の手を、そこでアーサーが阻むように掴んだ。
崖へ前のめりになっていた私を支えるようにも、……引き留めるようにも見える手に私も彼へと目を合わす。
眉をぎゅっと寄せ、銀淵眼鏡の向こうで蒼い瞳が真剣な色で私を見つめている。
歯を食い縛り敢えて続きを言わない彼はきっともう、私が取ろうと決めた行動を知っている。だってアーサーだもの。……だから私は
ぐいっ、と。
崖に向け、彼の手を引っ張り返した。
「ッ⁈」
「来てくれるでしょう?聖騎士様」
一人で行くわけがない。そう敢えて笑って見せれば、大きく見開かれたアーサーの瞳が確かに揺れた。
エリック副隊長も気付いたように私を呼んでくれれば、私から断崖に足を掛けて彼へも胸を張る。アーサーと互いに手を握り合い、近衛騎士であるエリック副隊長へ王女として命じる。
「私達は〝先〟に向かいます‼︎エリック副隊長は馬車でこのままパウエルを探しつつ降りてきて下さい!途中でパウエルを見つけた場合は保護し安全な場所に避難を最優先に!」
見つからなければこのまま村で合流しましょう!喉を張り続ける。
エリック副隊長は肩を強張らせながら私とアーサーを見比べた。もう私達の行動をわかっている。
そしてアーサーも今度は私を引き留めない。エリック副隊長ならパウエルを見つけたら絶対護って無事に逃がしてくれる。
最後に、もしステイルが私達より先にエリック副隊長と合流したらと他の近衛騎士の出動も託す。今頃騎士団が動いてくれているとしても、ステイルがいつ戻ってくるかはわからない。彼も今きっと最善を尽くしくれているに違いない。
私の言葉に、険しい表情だけど了承してくれたエリック副隊長が最後にアーサーの背中を叩いた。「必ず護れ」と、いつもより低い声で命じるエリック副隊長にアーサーも響く声で返した。
お願いします、ともう一度言葉で託し私は崖のふちへと足を掛けた。アーサーの手を引き、合図も不要に飛び降りる。
ラスボスチートの私と、ゲームの最強騎士のアーサーぐらいしかこの高さは飛び降りれない。
崖下の地上を睨みながら、着地しやすいように一度互いに手を離す。ここまで来れば私も逃げようがない。
「着地したらすぐ村に!ブラッドを探します‼︎」
「わかってます‼︎」
アーサーの声をすぐ傍で聞きながら、私は煙の先へと身を委ねた。
活動報告より来月の新刊書籍特典について更新致しました。




