〈書籍6巻発売決定‼︎・感謝話〉真白の王の夢見は。
この度、ラス為書籍6巻の書籍発売と発売日が決定致しました。
感謝を込めて、書き下ろさせて頂きます。
時間軸は「頤使少女と融和」あたりです。
『…………うか………ど………よ……!」
……ここは?
ぼんやりと、気付けば視界に広がる白だけの世界に僕は立ち尽くす。
何も見えない。どうしてこんなところにいるのだろう。まるで雪の中だ。
寒くもない、そして熱くも何の感覚もない無の世界に、もしかして天の国への階段を昇ったのだろうかと考える。記憶を振り返ってみたけれど、何も思いだせない。いつものように祈りを捧げていて、そこでぷつりと切れている。
今にも神がこの場に訪れるのではないかと、気付けば心臓を押さえ付けた。この身が肉体なのか魂と呼ばれるものなのかも確信できない。ただ、ここが神の聖域ならばと思えば、万が一にもと僕は履いていた靴を脱いだ。そこでふと、自分の姿を確かめる。
いつもと変わらない、国王としての白の装束だ。着慣れている格好なのに、どうしてかやはり僕は死んだのかと思う。
何の隔てをない白の空間は壁も、天井すらない。足の裏に伝わる固く平らな無機質な感覚だけは唯一人工物のような違和感がある。とある書物では神が天の国で神殿を築いておられるとも説があったけれど、ならばここはその神殿だろうか。
雲の上ではないことに少し落胆している自分に、そこで口元が少し緩んだ。まだここが神の国であると決まったわけでもないのに。…………けれど。
「…………もし、貴方様の御意思であるのならば」
胸の前で指を組み、そこで初めて僕は一歩踏み出した。不思議と恐怖はない。
ぺたり、ぺたりと冷たさと痛みもない床を僕は慎重に歩む。いつどこで神が見ているかもわからないと思えば、自然に姿勢が正された。
誰を呼ぶでもなく、呼びかけるもなく、そして助けを求めようとも思わない。もし、僕が今死んでいて来たるべき場所へ呼ばれたとするならばそれはとても光栄なことだ。ここが神の国であるならば、ここの王は僕ではない。
何時間でも途方もない距離と時間をひたすら歩き続けることもきっと今ならできるだろう。
どこか高揚感すらある。一説では、天寿を全うした国王の元には神と共に歴代の王達が列をなし迎えに来るとも聞いたけれどそんなこともなかった。実際僕もそこには落胆もない。
けれど、神に一目でもお会いすることができたらという期待はまだ胸を膨らませている。たった一度で良い、姿かたちなどどのようなものでも、光そのものでも構わない。ただ、僕と民を見守り支えてくださったあの御方へ直接感謝を込め膝を突き祈りたいと願ってしまう。
ぺたり、ぺたりと歩き続けながらやはり白以外は何も見えない。これも神の試練だろうかと思いながら、この身と共に連れることができたクロスを握り締めたその時。
『……ど……か、…………』
声が、聞こえた。
うっすらと、掠れたけれどどこか聞き覚えのあるような声だ。
逸る胸を抑えることもできず、息を飲み周囲を見回す。最後に背後を身体ごと使って振り返れば、僕の歩いてきた筈のそこに誰かがいた。
畏れながらも慎重に来た足跡を辿るように戻り、その白の影へと歩み寄る。白に解けるような輪郭に、人ではない形なのかとも思った。
こんなに歩むまで何故僕は存在に気づかなかったのだろうと胸に釘が打たれるように悔恨が波立ち、……そして止まった。疑いようもない、その方がいた場所は最初に僕が立ち尽くしていた場所だった。脱ぎ揃えた自分の靴が片割れに揃えて置かれていた。神は常に傍にいて下さるのだと、わかっていた筈なのに。
白く、白く、白の世界にどこまでも溶けているような白い人型が見えた。その場に悠然と佇むではなく両膝をついて縮こまっているようにも見える。そして見覚えのある装束に、僕は鼓動が一瞬止まった。
『神よっ………』
白く、小さく、脆いその神は、誰でもない僕の信じる神へ祈りを捧げていた。…………いや、神ではなかった。
けれどそれは僕の目の前にいるわけのない存在で、ならばここで思考する僕は誰なのだろうと目の前の彼に立ち尽くす。両膝を突き背中を丸め顔を俯け、結ぶ指の手を胸の前に固く握る男はこんなにすぐ目の前にいる僕にも気付いていないようだった。ただただひたすらに、両目を閉じて険しい表情で祈りを捧げている。
僕の胸にいるのと同じクロスを祈る手の中に込め、その震えはきっと力を込め過ぎただけではないだろう。
さっきまでの胸の高揚は嘘のように消えてしまった。代わりに吹雪くように心臓を中心に身体の端まで冷えていく。こんなに、祈る僕の姿は情けなく弱弱しいものだったのか。
民や神官達には「神々しい」と持て囃されたのを一瞬でもお世辞以上かもしれないと信じようとしたことのある己が恥ずかしい。神々しさの欠片もない、ただの弱い線の細い男だ。
これは、神からの試練か天啓だろうか。
ぽつぽつとまるで真冬にでもいるように掠れた声した零さない彼の声は、立ったままでは聞こえない。神へ祈っていることだけは拾えたけれど、それ以外は全くだ。
たとえ相手が何者であろうとも、祈りの途中で触れるような邪魔する行為は許されない。僕は深く呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けてゆっくりと彼の目の前に膝を折る。
自分と同じ背丈の、身体つきの彼と同じ体勢になれば、当然彼の視線と同じ場所に目も置けた。そこから首を伸ばし、そっと彼の祈りに耳を傾ける。もしこれが本当に試練であるならば、いつかの僕が愚かな祈りを唱えたという咎めなのかもしれな
『どうか、どうか、チャイネンシス王国をお救い下さい……っ……』
どうか、と。掠れた声がまた響いた。
自分の目が開かれていくのが鏡を見なくてもわかった。息を引き、考える間もなく彼へと顔を向ける。変わらずこんな近くにいる僕に気付かずひたすら祈りを捧げる男は、閉じた目尻から大粒の涙が溜まりそして伝い始めていた。彼が何故こんなにも恐怖に襲われていたのかを愚かにも今やっと理解する。
僕がこんなにも怯えた時なんて数が知れている。
小さくて弱い背中の筈だ、震えるに決まっている、情けないのは当然だ。この時の僕には本当に祈ることしかできなかったのだから。
ぺたりと、両膝だけでなく両手もまた床に付いた。目の前でひたすら祈る男に、掛ける言葉が見つからない。彼は現実か、過去か、本当に僕の知る男なのだろうか。
再び彼は震える唇をまた動かした。…………まるで、誰かに聞かせるかのように。
『たとえ植民地になれ果てようとも、我が国の民の貴方への信仰は変わりません』
『どうかお許し下さい』
『抗う力も持たない弱き我らをお許しください』
『どうかお救い下さい』
『侵略に怯える民を、明日は己や愛すべき家族や隣人が奴隷とされることに怯える民をお救いください』
『どうか御守り下さい』
『ラジヤの支配に抗えぬ我らが民と、そして隣人であるサーシス王国にまで侵略の火がかからぬように御守り下さい』
『どうか怯える民に、審判の時まで心の安寧と平穏を』
『我らの心は常に貴方と共に在らんことを』
祈りの言葉は止まらない。
祈る言葉はそのまま僕の願望と欲求だ。神へと祈りながら己の弱さに何の言い訳もできなかった。彼のこの祈りは全て、僕にも覚えがあるものだった。
セドリックのように確かな記憶力なんてない僕だけれど、この願いは全て覚えている。ラジヤの牙が向けられたと知った日から毎日のように繰り返した、……繰り返すことしかできなかった祈りだった。
不安を、恐怖を、震えを、叫び出したい欲求を全て振り払うようにただただ祈り続けた。何もできない己への無力感に苛まれれば苛まれるほど神に祈り、心の安寧と救いと…………きっとどこかで奇跡も期待していた。
『っ……これしか、ないのです……』
苦し気に顔を更に歪めた彼に、一瞬胸がくぐもった。この感情は、羨みだ。
こんな誰もいない場所で、誰も聞いていない場所で、ただただ祈りに没頭できる彼が少し羨ましい。どこか妬ましさもあるかもしれない。僕はずっと祈ることはできてもそれを口にすることはできなかった。
人の為に、民の為の祈りでもそれを口にすることは、誰かに聞かせて己を良く見せるような行為に思えてどうしても嫌だった。僕と、神との唯一無二の対話を誰にも知られたくも評価されたくもなかった。
僕の祈りは僕の評価を上げる為でもなく、ただただ僕だけの祈りとして神に伝えたかった。たとえ人払いをした礼拝堂でも、誰もいない私室でも、どこかで聞かれるのがどうしても嫌で唇を結び祈り続けていた。…………あの時も、祈りだけでなく声で、言葉で吐いてしまいたいくらい本当は辛かった。
ひたすらにチャイネンシス王国のことばかりを祈り続ける彼に、まだサーシスやフリージアを巻き込む前かなと考える。
ベッドに沈んでしまったランスのことを祈っていないのならばその前、国を飛び出したセドリックのことも祈っていないから更にもっと前だ。
あの時は事態が動けば動くほど祈ることが増えていた。初めて国を飛び出したセドリックの無事を祈り、かすかな希望を祈り、僕らのことで気に病み崩れてしまったランスの回復を祈り、…………そして援軍に現れたフリージアのことも祈った。
『っ……っっ…………』
とうとう、祈りを繰り返す彼から言葉が消えた。
変わらず閉じた目から涙を溢れさせながら、下唇を噛み身体を酷く震わせる彼はもうこの時点できっとこれ以上ないくらい怯えてる。まさかこの後に、更なる受難と試練が待っているなど思いもしない。
自分達には何もできないと知りながら都合の良い奇跡をどこかで期待した。けれど同時に、もうどうにもならないともわかっていた。神が共に居て下さればどのような苦痛も孤独も困難も耐えられると信じながら、もう降伏しか道はないのだときっと我が国の誰よりも最初に僕が理解した。
仕方がない、と。いつかはこんな日が訪れるのだともずっと昔にわかっていたことだったから。
鉱物の国と一時は国の名を知らしめながら、侵略に抗う力は持たない小さな国。諍い合っていたサーシスと生き残る為だけに一つに併合するしかできなかった力なき国。他国を拒み扉を閉じ壁で囲み長い月日の間、外界を拒絶し時代に置いて行かれるばかりの自国に未来はないと僕はずっと前に知っていたのだから。ただその時は僕の代で来てしまったそれだけだ。
今こうして思えば、当然の時代の流れだったのかもしれない。諦めるのが正解だったのかもしれない。外界を拒み進歩を止めていた我が国が世界に身を晒し発展した外界に喰らわれるのも当然の──
『っ……嫌だっ……』
は、と。
苦し気な息の音しか聞こえなかった世界で、それは僕の奥底まで響いた。それは、…………僕が口にできる筈のなかった言葉だ。
もう、この時の僕は確かに諦めていた。神に祈り奇跡に縋りながらそれでももう降伏しかないのだと理解して、諦めていた。神へと祈り続けた時もただ、国と民のことを祈るだけでそこにこんな言葉は一度もない筈なのに。
一瞬空耳か聞き違いかと思った。けれど開いたこの目で見つめる先の彼は、全身を震わせながらさっきとは比べ物にならない量の涙が溢れ床を濡らしていた。喉までしゃくりあげ、唇を噛むだけに収まらず食い縛った歯まで歪めた口の隙間から見えた。
『いやだ……嫌だ…………せっかく……これからだったのにっ……』
何を、かは考えるまでもない。彼の吐露はそのまま僕が言葉にしないだけで全部知っていることだから。
震える手が指を組むことすらできなくなってほどけて落ちた。祈りを捧げる神に対してとは思えない言葉に、これは祈りですらないのだと理解する。
床へ俯くその一瞬、見開いた金色の目が見えた。その瞳は目の前にいる僕を写さず、そのまま両手で覆われ床へと向けられた。
う゛っ……ぁぁ…………と、呻く音は僕自身が知るよりずっと低く醜い音だ。
『すまない…………すまない……罪なきチャイネンシスの民っ……僕らを隣人と呼んでくれたサーシスの、……っっ…………嗚呼…………ハナズオがっ……』
運命で宿命で因果で天啓であろうとも、僕の代で愛する神へと祈るこの国の在り方がなくなることは変わらない。国の命運を託された国王として、チャイネンシス王国の民として、ハナズオ連合王国の民として恥ずかしかった。
たとえ経緯にどれほどの時間と歴史があろうとも、その命運を自身の力で変えられなかった僕の罪深さは変わらない。
実際、本当に〝チャイネンシス王国の国王〟一人の力ではなにもできずに終わっていた。この地で生まれ、死に、後継に託した全てのチャイネンシスの民への罪だ。
『ランス……セドリックっ……ごめん…………!』
そして、夢を語り合い叶えると誓い合った友と弟に。
顔を覆ったままでも指の雪間から大粒が溢れ、そして落ちる。膝をついただけの僕よりも遥かに小さくなっていく彼の吐露は止まらない。
神に祈っていた時よりもずっと感情そのものを剥き出しにされたような声だった。
『奴隷なんてっ……そんなっ……そんな、人なんてっ……』
隣人を愛せ。神の元に我らは等しく平等だと。その神の教えに準じてきた僕らの国に、奴隷などという立場に堕とされて良い人間はいない。…………いや、世界のどこにもいないと思う。いるべきではない。たとえそれが途方もない罪人だとしても。
なのに、その奴隷を僕らが作り出さないといけない。チャイネンシス王国という名を失わずとも、植民地になればもう僕らだけの常識も法律も許されない。ラジヤ帝国の提示する全てが法で常識となるのだから。愛する民が奴隷に堕とされ冷たい檻の中に放られる姿を想像するだけで身が切られるようだった。
幼い頃に例えられていた人の形の悪魔なんて、きっといない。大昔敵対していたサーシス王国の民も、神子と呼ばれたセドリックも、そして僕らを侵略しようとしたラジヤ帝国やコペランディ王国等でさえも、等しく同じ色の血が流れた人間だと僕は知っている。
『どうしてっ…僕はこんなにも無力なんだ……⁈』
嗚呼、聞きたくない。
涙をこぼしたいくらいに苦しくて悲しいのに、僕の目は乾いたままだ。絶望と落胆の方が、強いからかもしれない。
また、指を組み出す。さっきまであんなに繰り返し祈り続けていたのに、また祈り出す。神への詔から唱え震える身体と声で縋りつく。歴代で優秀と呼ばれた筈の国王は、本当は知ったつもりでしかない無力な人間だった。
『力ない僕をお許しください』とその声がかすれ気味に拾えた。
本当に、どう考えてもどう世界を変えても僕には何も事態を好転させることはできなかった。
お許しください、お許しください、お許しください、こんな、こんなと。震える声が途切れ途切れにまた唱えた。嗚咽が漏れ、時折咳き込みそしてしゃくり上げながら子どものように顔をくしゃらせて泣き出した。僕がよく知る顔が僕の見たことのない顔で泣き出した。食い縛った歯が、今はどこか憎しみに黒ずんで見えた。神を愛し、友と兄弟を愛し、民を愛していた筈の彼が心の底から憎んで止まないのは
『〝こんな僕〟にっ何も、何、もっできは、しなっ…、』
「ヨアン、君はそれで良い」
気付けば、口が開いた。
神の国かもしれない床を濡らし、これ以上なく小さくなる男の肩へ手を置けば息を吸い上げるよりも前に声が出た。
恐怖と悲しみと、そして無力な己へと憎しみを抱いた彼へまるで僕自身が神の代弁をしているかのような口調で告げてしまう。
今まで僕の存在に全く気付くことなく嘆いたその男が、一度固まるように嗚咽まで止めた後一拍置いて俯き続けていた顔を上げた。涙で赤らみ苦し気に歪んだ顔を隠すことも、濡れた肌を拭うこともなく僕へと上げる。
ずっと傍に座っていた僕に、今更驚いたように目を見開く彼は開いた口が塞がらないようだった。自分でも、なんでこんな風に呼びかけたのかわからない。ただ、彼をよく知る僕だからこそ今の彼に伝えたいと思えて仕方がなかった。
僕の言葉を疑うだろう彼に、もう一度同じ言葉からやり直す。
「……君は、それで良い。」
続ければ、自然と自分の口が綻んだ。
僕自身がそう言われたかったのも知っている。そして、言葉以外の全てで僕にそれを伝え続けてくれたのは神とそして友と兄弟だ。
確かに僕は弱い。無力で、世界も知らず、あの困難を一人で乗り越えることなどできなかった。ランスが床に伏せば戦う気力もサーシスを巻き込む責を負う気力も完全に折られ、セドリックがいなければ他国に救いを求めることもしようとしなかった。……信じることも、できなかった。
けれど神はこんな僕らでも愛してくれる。こんな僕らでも許してくださる。それに
「そんな君だから、ランスとセドリックは力になろうとしてくれる」
頭に浮かぶのは、当然のように国も血も繋がらなかった彼らの存在で。
彼らがあんなに何度も何度も手を差し伸べてくれたのは、僕が弱かったからだ。僕が弱くて、情けなくて神に祈ることしかできない力のないただの人間だと、……そう理解してくれていたから助けようとしてくれた。
僕が何度も何度も拒んでも諦めても耳を塞いで目を逸らしても、それでも諦めないでくれた。見放さないでいてくれた。彼らは神ではないけれど、神が僕に導き与えてくれた存在だ。
口を開けたまま息だけで精一杯の彼はまだ、状況を飲み込み切れていない。あまりの驚きに涙が止まったのか、金色の眼球がきらりと光ったのが見えた。僕に、……僕の背後に何かが見えているかのように。
肩に置いた手をそのままに、反対手で彼の震える両手をそっと添える。肩からも手を引き、両手で包めば僕の手の中でもまだ彼は震えていた。
僕は弱くて情けない、広い世界の中でもきっと弱い分類の人間だ。けれど、誇るべく友と兄弟に恵まれた今は僕であって良かったと思う。この地で生まれ、この立場で生まれ、この生まれも立場も呪った僕だからこそ彼らに魅入られ、そして愛し愛された。
『……れは試練、なのですか……?』
震える唇をぱくぱくと何度も動かし、やっと声を生成できた彼の最初の言葉だった。
僕の包む手を彼からも組み換え握り返してくる。僕を僕として見ないかのように言葉を整え、畏れ多そうに微弱に息の音も混じった声で尋ねる。
試練。……確かに、試練だったのかもしれないと今は思う。神が、僕らチャイネンシス王国とサーシス王国が真の意味で一つとなるべく、そして世界と繋がる前にと与え給うた乗り越えるべき試練だったのだと。…………今〝だから〟思える。
縋るように僕を見上げる彼から、一度視界を閉じる。これが、目の前の彼こそが僕への試練なのか、夢なのか、幻なのか、それとも過去なのかも無知な僕にはわからない。そして決めつけてはきっといけないのだろう。
ただ在りのまま、目の前で嘆き苦しむ彼の心を少しでも救いたい。
『許されるのならばどうかお教えください。僕は何をすれば良いのでしょうか?チャイネンシス王国と民を救えるのならばどのようなことも致します』
どうか、と。最初はゆっくりだった口調が少しずつ加速していった。
最後は握り返した僕の手に力を込め、目を開けば僕と同じ瞳が涙で再び湿り出していた。
知っている、彼は本当にこれが神の御意思であればどんなことでもするのだろう。たとえ己の身が炎に晒されることになろうとも、断頭台に立つことになろうとも、民全てに憎まれることになろうとも、…………なんでも、する。それは僕自身がよく知っている。
何を言えば良い?これからいくつもの困難と絶望が待ち受ける彼に。国境を閉じてはいけない、戦の覚悟を決めろ、フリージア王国を待ち従え。そのたった一つでも、今の彼には希望だろう。いっそこれから起こる全てを伝えるだけでも心の安寧と平穏は守られる。
だけど、……どうしてだろう。今僕が、目の前の藻搔き苦しむ彼に伝えたいことはただ一つ。
「信じよう」
僕らの神を、友を、兄弟を。
それは今までで、こんなに弱い僕がそれでもずっと当たり前のようにできたことだ。何故なら彼らの方が僕よりずっと先に僕のことを信じてくれたから。
握り合った両手を片方解き、彼の頬へと添える。何度も何度も伝った涙で濡れた頬は熱く、そして震えは止まっていなかった。皮膚と皮膚同士が触れただけで彼の全身が大きく震えあがる。嗚咽が思いだしたようにまた込み上げだしていた。
今の彼にはこれだけではまだ安心などできないかもしれない。けれど、僕らができることも、そしてするべきことも全てはそれ一つだ。
最後まで聞き切り、僕が口を一度閉じたところで震える彼はこくこくと何度も頷き返してくれた。重ね合う手から自分の指を組み直したところで涙の声も返された。
「わかりました。従います。貴方様の、御心のままに」
その声色と、言葉はきっと僕ではない何かを見ている。僕の後ろにもしかしたら居られるのかもしれない。
けれど、今は振り向かない。
神を信じ、友を信じ、弟を信じたからこそ弱い僕らは救われた。信じることしかできない非力な僕らの、力になってくれる王女と援軍が訪れる。
ランスが信じ、セドリックが信じた彼女を信じられたからこそ、僕らの国はまだハナズオ連合王国としてこの地にある。僕らにできるのは戦の前もその最中もただ、信じ祈ることだけだ。
頬を撫で伝い、涙を溜めるその目元を指でそっと拭う。僕らは僕らのことは少し嫌いで、だけど大事な人の目に映る自分だけはそうじゃない。
「君が君でいてくれて良かった。……大丈夫、君の祈りは穢されない」
自分でも驚くくらいの穏やかな声になった。
最後の一音まで拾ってくれた彼は、一度苦しそうに顔を歪めまた大粒の涙をこぼした。それでもずっと僕から目も、そして結んだ指も離さない。
あ、あ゛ぁっ………と、泣きじゃくる彼を見てこんなに僕は泣きたかったのだと今知れた。あの日まで声に出して泣かずにいられたのは、それこそ神が傍にいて下さったからだろう。ランスが伏しても、セドリックが国から姿を消しても、神だけは僕の希望で救いなのは変わらなかった。…………そして、あんな風に泣けたのはきっと彼らがいてくれたからだ。固く祈りの指を組み、また顔を俯ける彼の身に今は絶望や憎しみの色はない。
身を引き、触れていた彼の頬と、組んだ両手から手を離す。そのまま両手で抱き締めようとすれば、…………するりと。彼を透け、指の先がすり抜けた。
まるで白の世界に溶けていくように、彼の身体が透け出した。一瞬戸惑い手を引っ込めた中で、彼は自身の変化に気付かないように俯いたままだった。声を掛けるべきか、何か告げようかと頭では思うのに、白の世界に溶ける幻想的な光景に目を奪われ言葉が出なかった。
身体の端から少しずつ泡のように姿と、そして嗚咽も消えていく。輪郭が小さくなって、最後に彼の顔しかわからなくなった時にとうとう彼が顔を上げた。涙の痕を残したまま、なのに微笑む彼と目が合った。
『感謝します』
静かな声は、自分と同じものなのにそうではないようだった。
声を最後に完全に白の世界に溶け切った彼を前に、僕は動けなかった。
最後の彼の瞳と言葉が信じられないくらいに胸を揺さぶり、感情がいくつもいくつも湧き立って表情の一つも動かせない。
どうしてかは、わからない。ただ、彼の消えた後を前に涙が泉のように溢れて止まらなかった。
視界が涙でぼやけ、瞬きもできない身体で唯一動いた両手で僕は指を組む。僕の手もまた溶け始めていると今気付く。……だけど、恐れはない。
真っ白な視界の中でひたすらに僕は祈り続け、この身が光に溶けるのを待った。
………
…
「…………ふわ。……!……ごめんランス」
思わず音にも零れてしまった欠伸の口を片手で押さえ、途中で噛み殺す。
人前で欠伸を溢してしまったことが少し気恥ずかしく、目をぎゅっと閉じて顔の筋肉全部に力を込める。もう今日で何度目だろう。今朝の礼拝でも聖歌の心地良さは少し眠くなって危うかった。国王である僕が礼拝中に欠伸なんで絶対に許されない。
寝不足か?と軽く尋ねてくれるランスは気にしない。聳え立つ本棚を首が痛くなる角度で見上げながら、今も感嘆の声を漏らし歩んでいる。
「ちょっと今朝は眠りが浅かったみたいで。眠りで疲れるとどうしても身体に響くね」
「眠いならばやせ我慢せずに仮眠を取った方が良いぞ。引き返すか?」
いや良いよ。気遣ってくれるランスにそう断り、僕は更に向こうの本棚を指差した。目的の棚はもう少し先だ。
夢見のせいで眠りが浅くなることは珍しくもないけれど、今日は特に疲れる夢だった。目が覚めたら涙まで零れていて、…………なのに不思議と満ち足りていた。
あの夢は何かの啓示かとも考えたけれど、結論は出ないままだ。それに、今朝と比べて大分記憶も薄くなっている。
「不思議な夢をみてね。妙に現実離れしたというか、……誰かを救ったような、救われたような、それで祈っていた」
「ならば良い夢だな。それに現実離れというほどでもあるまい。お前には常に私も我が民も救われているし、お前は常に祈りを欠かさない」
君がそれを言うかい?と、思わずランスの飾らない言葉に肩を竦めて笑ってしまう。それを言えば僕の方こそなのだけれど。
確かに、ランスが言う通り僕も常に神や周囲の支えに救われているし、そう珍しいことではないかもしれない。ただ今回は相対した相手が互いに僕だった。
今思い返すと、どちらが僕の意識だったのかもはっきりわからない。鏡に話しかけていたのか、それとも自問自答していたのか、本当に僕がいたのかもあやふやだ。夢は神の啓示とも、深層心理とも呼ぶけれどたとえどちらにしてもあの夢は説明がつかない。己を見つめ直せということだろうか。
「……ここ一帯が児童書だよ。ええと……絵本の方が良いかな」
「そうだな。できるだけわかりやすいものが良い。絵が多い方が親しみも湧きやすいだろう」
目的の本棚が並んだ場所で一度僕らは足を止める。
今日ランスが我が国に足を運んでくれた目的である児童書棚だ。我が国の本をいくつか勧めて欲しいとランスに頼まれ、チャイネンシス王国でも最も大規模な図書館を選んだ。城にも図書館はあるけれど、ランスが知りたがっている本は城よりも城下の図書館の方が多く揃っている。
入った時から年季の入った本棚を見上げ感嘆の声を漏らしていたランスは、今度は難しそうに眉を寄せていた。「多いな……」と正直すぎる彼の感想に思わず笑ってしまう。彼の要望通りの本は、条件は限っているつもりだったのかもしれないけれど、むしろ我が国では多い分類のくらいだ。
「チャイネンシスでは子どもの頃から神の話を語り継いでいるからね。寝かしつけでも使うくらいだよ」
チャイネンシス王国の文化に理解をと。ランスがサーシス王国の国民図書館に僕らの神についての本を増やしたいと提案してくれたのは嬉しかった。
もともと互いの国でそういった持ち込みも禁じていないハナズオ連合王国では民同士で本の交換や行き交いもあったけれど、国営の図書館にはやはり偏りが大きい。もちろんサーシスの民が我が国の図書館で読んでくれることはできるけれど、サーシスで取り扱われる数は少ない。
これから世界や常識を吸収し理解していく子どもにこそ、〝自国〟のことをよく知るべきだと自分からこんな提案をしてくれたランスは本当に昔から変わらない。
「ヨアン、お前はどれだけ読んだことがある?できることならばお前の選んだものにしたい」
「大体はあるかな。どんなのが良い?天地創造の歴史とかよりも、礼拝とか祈りとか僕らの生活とかが描かれている本とかも良いかな」
「だがやはり一番はお前達の神についての本が良い。あくまで教訓めいた主旨の内容で頼みたいが」
ならこの辺かな。
ずらりと並ぶ本棚から、見覚えのある題目でも神関連の物語を主軸にいれた本を選ぶ。僕らチャイネンシス王国の取り扱う絵本は七割以上が神関連の要素が含まれている。神に関わる聖なる物語や神の子が生きた時代の物語を児童向けに簡略化したもの、奇跡の物語。日々の日常から行事、特に12月の聖夜関連の物語は多い。
その中から覚えのある本を手当たり次第取っては衛兵や従者、司書官達に手渡していく。
梯子も使い、上の段まで探り出せばランスから「寝惚けて落ちるなよ」と注意される。流石にそんなうっかりはしないと下を向けば、まさかの国王であるランスまで僕の梯子を衛兵と一緒に押さえてくれていた。セドリックがいなくなってから僕への過保護が少し増しているんじゃないかと思う時がある。
「…………あ」
いくつもの本を選別する中で何気なく取った本の表紙に、目が止まる。
他の絵本と同じく、ランスの希望通りの本の一冊だ。我が城にもある、子どもの頃に何度も読み返した本だ。
懐かしいな、と思えばそのまま表紙だけでなく中も開いてしまう。子どもの頃の記憶通りの絵は、今の目で見るともっと幼く可愛らしい絵と文字に見えた。…………懐かしい。
王位継承者として勉学に忙しくなってからは数は減っていったけれど、子どもの頃はこうして本棚に齧りついていた頃もあったと今更ながらに思いだす。特にこの本は、本当に心温まる物語で
「ヨアン!思い出に耽るのは良いがせめて降りてから読め!」
「…………君のその声でちょっと落ちかけたよ」
うっかり本に没頭しかけたところでランスに怒られ、肩が揺れた。本当にもう少し没頭していたら足を踏み外したかもしれない。
けれど下を見れば心配していたのはランスだけでもなく、僕を昔から知る司書官は遠目でもわかるくらい目を大きく開いていた。寝惚けていた頭に、僕も反省して本を下の衛兵に預け、一度梯子を下りる。
このまま預けて続きの本を探索でも良かったけれど、不思議ともう少し読み返したくなった。
梯子を下り、床に両足をつけたところで再び衛兵に預けた本を受け取り開く。
「何か思い出深い本か?」
「子どもの頃によく読んだんだ。神が訪問するとお告げを受けた服職人が、約束の聖夜に持て成しの準備をするんだけれど……」
興味深そうに僕の隣から覗き込んでくるランスに、頁をめくりながら説明する。子ども向けの絵には神の姿も光そのもので、姿は描かれない。僕らの祈るクロスや光の描写だけで、絵本に神そのものを描くことはまずない。
こんな風に神についての絵本をサーシスの国王に読み聞かせるなんて、歴代の国王は絶対信じられないだろう。しかもランスは何の偏見もなくそれを見て聞いてくれる。
「服職人は神に会えると大喜びで自分のできる限りのもてなしのご馳走や上等な上着も用意する。けれど結局彼はそれを約束の日に神を迎える前に全て使ってしまうんだ」
お腹を空かせ冬の寒さに震えている物乞いに食事と上等な上着を与えてしまう。聖夜にはもう、何も残らなかった。
そう語り聞かせたところで視線を上げれば、まるで子どものように真剣な顔のランスが本を凝視していた。………こういうところはセドリックと同じだな思う。やっぱり兄弟だ。
僕は一人で読むか侍女に読み聞かせられることくらいだったけれど、聖夜の近くになると飛ぶように売れる本の一つだ。暖炉の前でこの物語を子どもに語り聞かせる家族の様子を想像するだけで胸が温かくなる。
「聖夜になると服職人が助けた物乞いが現れて言うんだ。私は─……」
〝私は弱く苦しみ助けを求める者の身を借りて貴方の元に訪れた〟
〝この者にしてくれたことは私にしてくれたことと同じなのだ〟
〝貴方は間違いなく私に尽くし、持て成し、そして救ってくれた〟
「?どうしたヨアン」
「…………あ、いや。なんでもないよ。教えとしては困っている人の為に尽くすことは神に尽くすことと同じ、という話かな」
掻い摘んで言えばね、と。要約したことを前提に断り、そこで本を閉じた。
絵本の文面が目に入った途端、何かを思い出しかけた気がする。やっぱり、疲れているのだろうか。
腕を組んだランスが「良い話だな」と頷いてくれる中、今梯子を上るのは危ないなと自分でもわかる。先に下段の本から選別しようとまた隣の列へ歩みを進めた。
…………なんだったのだろう。やっぱり今朝見た夢のせいかな。似たような夢を見たのかもしれない。もう記憶が薄れてあまり思いだせないけれど。誰かを救って、救われたような感覚だけは覚えている。
あくまで絵本は絵本で、児童向きのそれは聖書でもない。特に今の絵本は教えに沿っているだけで完全な創作本だ。……けれど。
『感謝します』
「……ふふっ」
「?どうした」
もしかしたら僕も、夢の世界で物乞いの姿を借りた神に会ったのかもしれない。
そんなことを思ったら笑みが溢れた。自分でもあまりに傲慢とも言える考え方だ。
ただ、いま頭に過った言葉が夢の中の誰かに貰えた言葉なら大きく間違えてもいないかもしれない。夢の中で誰かを感謝され、そして救われた僕はきっと神でありそして物乞いでもあったのだから。
そう思うともっと具体的に思い出したいと思う。こういう時セドリックの記憶力は羨ましい。
僕は夢の中の物乞いに、何ができたのだろうか。どんな言葉を掛けられたのだろうか。何かを与えられたのだろうか。……もう、わからない。
「神は常に僕らと共にいて下さるんだなと思って」
「それもお前がいつも言っていることだろう」
ただ、その言葉に僕自身も救われたのはきっと間違いない。
参考・靴屋のマルチン(※あくまで参考)
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