Ⅱ377.三は想い耽り、
「おいどうすんだヴァル 、姉の方寝ちまってるぞ」
あー?とヴァルがこっちを向く。
カウンターでいつものようにヴァルがベイルさんとお話しをしている間、僕とセフェクは後ろのテーブルで食事をしていた。
昨晩はグレシルと一緒に遠くまで往復して歩き回ったけど、ご飯は全然食べてなかったから今日はいつもより沢山食べた。ベイルさんの料理はいつも美味しいけど、今日は特に美味しく感じられた。
お腹が減ってると話したら、セフェクがたくさん僕に「ケメトはいっぱい食べて‼︎」「お肉私の分も食べて良いから!」と言ってくれて嬉しかった。……グレシルがご飯を食べる時間もくれなかったことにはちょっと怒ってて困ったけど。
でも僕とセフェクだって下級層に居た時はその日食べるのだって大変だったって、セフェクが言ってた。僕はもうその頃のことはあまり覚えてないけれど、初めて林檎を買った時のことだけは覚えてる。
それを考えると、今頃グレシルはお腹が空いてないかなとだけ心配になった。
「放っとけ。昨日もぐたぐた起きてやがったからそのツケだ」
積み上げた皿の横でテーブルに突っ伏したセフェクは、今はすうすう眠ってる。
最初は一緒に食べていたけれど、お腹いっぱいになったら眠くなっちゃったのか椅子に座ったまま眠っちゃった。ここはソファーも毛布もないから、寝ちゃったセフェクをどうすれば良いか僕もウロウロ店中を見回しちゃう。レオンの部屋ならいつものことだけど、ベイルさんのお店で寝ちゃうのは珍しい。
ヴァルの話で、もしかしてセフェクは僕のことを心配してとか寂しくて眠れなかったのかなと思う。
セフェクが寝相でうっかり皿を落としちゃう前に、僕は食べ終わった皿を片付ける。食器を全部一気に持ち上げようとしたら意外に重くて、ちょっと傾けただけで崩れちゃいそうな食器の山を数枚ずつ運ぶことにする。カウンターまで置けば、ベイルさんが順々に回収してくれた。
「なんだまた野宿か?」
「宿だ。ベッドで何度も何度も寝返り打ってもだもだぼやきやがって……」
そう言ってまだ深く溜息を吐く。
やっぱり僕の所為でセフェクも眠れなかったみたいだ。何度も往復して食器を運びながら、ヴァルも寝不足になってないかなと心配で見上げれば視線に気付かれて鋭い目がこっちを向いた。どうしたと言いたそうに僕から目を離さないから、僕から尋ねる。
「ヴァルは寝不足じゃないですか?もう宿で休みますか?」
「テメェらガキじゃねぇんだ。それよりケメト、皿運びなんざクソ店主にやらせろ」
「そのクソ店主は面白家族の所為で午前も午後も忙しいんだよ。弟、お前は絶対そのまま俺には良い子でいろ」
ヴァルへすかさず言い返したベイルさんが、今度はカウンター越しじゃなく直接僕に手を伸ばして皿を受け取ってくれた。
初めて来た頃からずっと一人でお店をやっているベイルさんは、僕とセフェクにとってはすごく身近な大人の人だ。僕らに美味しい料理を作ってくれるし、なんでも大人と同じ量を出してくれる。一回も僕のこともセフェクのことも叩かなくて、一度も僕らには嫌な顔をしなかったベイルさんはすごく話しやすかった。……ヴァルが「宰相の使いだ」と言った時は、すごく嫌な顔をしてたけど。
ベイルさんはどうしてかジルベール宰相のことが怖いらしい。やっぱり裏稼業の人達がよく来る酒場の人と、宰相だからかな。……でも、それだと今度はどうしてジルベール宰相がベイルさんとお友達なのかなと思う。
ジルベール宰相は怒ると時々ヴァルをぶつけど、主と一緒で配達人の仕事ができるようにしてくれた人だ。
ジルベール宰相とステイル様が女王様を説得してくれたからって主が言っていた。それにステラのお父さんで、ステラも大好きだって言っていた。前にステラに会いに行った時も、お父さんとお母さんの話ばっかりだった。
プライド様やステイル様やティアラにも優しい目をするし、きっと家でも優しい人なんだろうなと思う。
『ケメトの〝お父さん〟や〝お母さん〟や〝お兄ちゃん〟だと堂々と言ってくれる人がいたかもしれない』
「…………」
グレシルは大丈夫かな。
またグレシルのことを思い出して、心配で胸がぎゅっとなる。僕を困らせたかったのかそれともただ裏稼業に売りたかったのかはわからないけれど、あの子も寂しかったんだろう。
あんなに色々な〝幸せ〟を教えてくれたんだから、グレシルだってそれだけたくさん幸せを夢見たってことだ。
グレシルはそのどの幸せも欲しくて欲しくて頭に描いて、だけど手に入らなかったんだと思うと悲しくなった。僕にとっては他人事でも、グレシルにとっての幸せはきっとそれなんだなと思えたから。
最後の食器の山を持ち上げる。食べこぼしちゃったものがまだポロポロとテーブルに零れているけど、これで寝てるセフェクが皿を割っちゃうことも怪我しちゃうこともない。
皿もコップもなくなったテーブルで、早速セフェクは頭の位置をごろりと変えていた。さっきコップを置いていた場所に寝ぼけた手がボトンと落ちて、やっぱり片付けて良かったと思う。
『このまま、私と来ない?』
グレシルが僕を欺したのは絶対だけど、でもあの夜まではちょっとだけ違ったような気がする。
大事で特別、一緒に生きようと。そう言ってくれたグレシルの言葉は本当に嬉しかった。今までそんなことを言葉にしてくれる人はセフェクだけだったから。
ヴァルに出逢うちょっと前に、セフェクは一人ぼっちだった僕を下級層で拾ってくれたらしい。
ヴァルが「俺を石避けに使いやがった」と言っていたから、お陰で僕らは下級層にいたのに石を投げられなくて済んだんだなと思う。
セフェクと出逢った時のことはもうあまり覚えていない。でも、真っ暗で痛くて怖くて寂しくてどうしようもなかった時に手を取ってくれた時の嬉しさと抱き締めてくれた温かさだけ覚えている。
もしグレシルが言う通り僕がセフェクにもヴァルにも出逢えなくて一人ぼっちだったら、絶対あの時の言葉に頷いていた。だから断る時は苦しかった。僕がもしセフェクやヴァルに誘いを断られたら、きっと生きていけないくらい辛いと思ったから。
だけど、グレシルのあのお願いだけはどうしてもできなくて。
「……ケメト。なに突っ立ってやがる」
「!あ、ごめんなさい」
つい食器を持ったまま立ち止まっちゃっていた。慌てて顔を上げてカウンターに急げばベイルさんが「ゆっくり運べ、だから割るな」と落ち着いた声をかけてくれた。
食器は大事で、割れたらお金がかかるものだから転んじゃ駄目だと僕も走りそうな足を途中で元に戻す。そっと歩きながらカウンターまで辿り付けば、今度はヴァルが座ったまま片手だけ貸して食器を持ってくれた。
そのままベイルさんが受け取って、僕はヴァルが手伝ってくれたことが嬉しくて「ありがとうございます!」とちょっと大きい声が出た。
いつも食器もグラスも酒瓶も全部片付けなくてセフェクに怒られるヴァルが手伝ってくれるのがすごく珍しい。
手が空いた後もテーブルに戻らずにヴァルを見上げる。
テーブル席とはちょっと違う足の長い椅子に座って、ベイルさんと話すヴァルはすごく大人で格好良い。記憶の中では気が付いた時は当たり前みたいに傍に居たヴァルだけど、昔はすごく一生懸命セフェクと一緒に背中を追いかけていた気がする。
今よりずっと子どもだった僕は、初めてヴァルを見た時にどう思ったかも忘れちゃっている。
どうした、とヴァルがまた僕に気が付いてちょっとだけ照れ笑いしちゃう。
ヴァルはあんまり昔の話はしてくれない。尋ねても大体は「セフェクに聞け」ばかり。昔自分が悪いことをしたことだけは何度でも聞いたら当たり前みたいに教えてくれるのに、僕らとの思い出は言いたがらない。
でもセフェクは「ヴァルは昔から変わらないし、ケメトもずっとそう」って言ってるから、きっとそうだと思う。昔のことをちゃんと覚えているセフェクが、僕は羨ましい。セフェクは僕とヴァルとの思い出を僕よりもいっぱい覚えているから。……あ、でも。
セフェクは隷属の契約のことは知らないんだった。




