そして捉える。
「……その為に、もしかして嘘ついたんですか?僕がずっとヴァルとの仕事を断らなかったから……」
「違うわ。だってほら、もう城下の外まで来た。ちょっと休もっか。秘密の場所があるの。すごく見晴らしが良くて」
村を一望できるんだから、と語る彼女にもしかしてこの辺に住んでいたことでもあるのかなとケメトは思う。
てっきり未知の土地へ行くから付いて来て欲しいという意味だったと思ったが、行く当てがあるのかもしれない。なら自分が付いて行く必要はやはりあるのか疑問だが、女の子一人じゃ心細いかなと結論付いた。
彼女の案内のまま裏道や獣道を進み辿り突いたのは、本当に見晴らしの良い場所だった。
断崖絶壁といえば言葉は悪いが、だからこそ誰にも見つからず過ごすことができる。女性一人で自分の身を守ってきた彼女には大事な領域でもある。ヴァルとの配達でこういった場所には慣れているケメトだが、ヴァル以外でも秘密の場所を持っているグレシルを純粋にすごいと思う。
口を開け、ぐるりと空まで見回せば薄くだが月も見えた。
グレシルが太い幹を椅子代わりに腰を下ろせば、ケメトも向かいの地面にそのまま座った。下級層育ちの後も野宿が珍しくない彼は地面に寛ぐことにも何ら抵抗はない。
「グレシルが行きたいところはあとどれくらいですか?僕、明日の朝には帰らないといけないので……」
「ねぇケメト」
柔らかなケメトの声を遮るように、強張った声が放たれる。
上塗られたことを気にせずにくりくりとした目を自分に向けるケメトを、沼のような瞳が映した。
見返す彼に一度言葉を切り、すぐには続けない。風のざわめきがまるでこれからの彼の心の音のようだと思う。
こんな暗い場所で、誰も居ない、女性の自分より身体の小さいケメトをこのまま崖から突き落とすのは簡単である。
唇を結び、どこかジトリとした眼差しにケメトは小首を傾げる。暗くなっていく夜に合わせ、瞳が黒ずんでいるようにも見えた。不思議と呼吸に意識が向けば、自分の胸が上下するのを感じた。
「このまま、私と来ない?ずっと、このままヴァルからも自力して」
え……?と最初に出た声はその微かな一音だった。
表情ごと固まるケメトの小さな頭には、それ以上の思考が津波のように波打ち渦巻いた。
「セフェクの為に。もうわかったでしょ?ヴァルは貴方のことなんて必要と思ってない。本当はずっとずっと、ずっと前からケメトは可哀想だったの。酷い言葉を言われても気づけないくらい、もうずっと前から傷つけられてたの。もう私、ケメトがこれ以上辛い目に合うのは見たくないな」
擽るような綿糸の声が、ケメトの首をまた括る。
改めて説き伏せる必要はなかった。既に彼女は何日もかけてケメトに嘘を説き続けてきたのだから。
瞬き一つせず自分を見返すケメトに、グレシルはゆっくりと立ち上がる。
裾の汚れをはたかず、高所へ吹き上げ揺らめくスカートをそのままに歩みよる。夜に近付いていく空色と重なり、口を小さく開いたまま何も動かさないケメトの鼓動だけがどくんどくんと彼へ危険を呼びかけた。
純粋な、白しか知らなかったような優しい少年の顔を目下に見下ろしながら、彼女は微笑む。天使のような慈悲に満ちた笑みを薄い光の中で淡く魅せる。女性らしい高い声が、妖しく低められた。
「今しか機会がないよ?これが最後のお誘い。これを逃がしたらケメトはずっとヴァルに利用されて、セフェクに迷惑かけて、それが幸せだって思い込んで生きるの。後悔もできないの。ヴァルが自分達のことを好きって思い込んで、セフェクも自由にもできないで。…………本当はわかってるんでしょ?」
一つ、一つ、釘を打ち込む。
今まで自分が傷をつけた場所をなぞるように、印をつけるように柔らかく抉って嗤う。ケメトの細い喉が彼女の言葉を一度、二度と飲み込んだ。
自分の為じゃない、セフェクの為に離れろと。もうこれ以上はまるで引き返せないことのように語って偽の刃を喉元へも突きつける。彼の動きを奪えれば奪えるほど、高揚する彼女の胸は心地よく高鳴った。木々のざわめく音がより一層大きく二人の耳を塞ぐ。
膝を落とす。目下にいたケメトの視線へと、両膝をついたまま目の位置を真っ直ぐ合わせた。自分が沈むのに合わせ、ケメトの灰色がかった黒の瞳が降りるのに口端が小さく引き上がった。
自分の存在に目を奪われる彼に、決定的な言葉を選ぶ。
今までもそうやってきたように、自ら暗い場所へ落ちる瞬間はもう彼の踵際まで迫っていると確信し、……締め上げる。
「ヴァルが思っていたような〝良い人〟じゃなかったってことくらい」
ケメトは頭が良いものね?と、擽る彼女の言葉にケメトは今までになく目を大きく開ききった。
そのままコロリとこぼれ落ちてしまいそうなほど開かれた目にグレシルは優位に笑んだ。
最初からケメトがその結論に一人で辿り突くことは想像できていた。
学校でも〝特待生〟になれた少年が、自分が毎日毎日与えるヒントを頭越しに否定するだけで終わるわけがない。必ず自分で考え、正しい部分があることを理解する。
それを小さく小さく積み重ねれば、自らグレシルが言ったことが本当だと思い込む。上から言われたことよりも自分で〝気付いてしまった〟事実や違和感の方が遥かに残酷に心を蝕むのだから。
何も言い返せない様子のケメトに、グレシルは試しに両肩を軽くトンと突き飛ばした。
本当に軽い押しだったにも関わらず、まるで支えのない人形のようにケメトは地面にぱたりと倒れ込んだ。腕だけを支えに残りは地面に仰向けに転がるケメトへ、グレシルは両手と膝を付いて覆い被さる。青みがかった緑の長い髪が風に煽られ、ケメトの鼻先や頬に垂れ落ち擽った。
「代わりにイイもの、見せてあげる。ケメトだけ特別だから。私はケメトが本当に大事で特別で好きだから。ずっと一緒にいよ?ヴァルよりセフェクよりずっとずうっとケメトを必要に思って、愛してあげる」
ね?そう囁きながら、ケメトの寝癖混じりの髪を指先で耳へ掻き上げた。
今まで隠し続けた色香を、その時初めてケメトの前で露わにする。十五歳とは思えないほど、女性らしい豊満な身体の線は薄い布服一枚では最初から隠しきれてはいなかった。
立てていた膝を崩し、上体をさらに前のめる。するりときめ細かな肌が擦れ合う音と共に彼女の細い両腕がケメトの首を抱き締めた。同時に彼の耳元傍へ唇を運び、息音も拾えるように吹きかける。
今までも色事で食事や金銭を稼いだことも数え切れない彼女にとって、今さら異性のしかもたかが年下の子どもと密着することに抵抗などない。下級層育ちの子供が欲しくて欲しくて堪らないだろう、最大限の愛情に彼を溺れ惑わす為ならば。
「お願い」と。
込み上げさせた喉の音。擦れ、乞う少女独特のか細い声。震わせた腕と細い肩。
涙など見せずとも、自分の肩に顔を埋めているグレシルが本気で泣いて願っているのだとケメトは思い込む。求められていると思うままに、ケメトはそっと小さな自分の手を彼女の背中に回し、撫で下ろした。
泣き止ませるような仕草を暫く繰り返し、何も言わず返事を待ち続ける彼女へとケメトは一度苦しげに目を閉じる。そして、とうとう口を小さく動かした。
「ごめんなさい」
「…………え?」
木々のざわめきが、自分の内側でも二重で鳴った。
小さくもはっきりと返された言葉にグレシルは耳を疑った。先ほどまでケメトの肩で静かに引き上げていた口端が一気に落ちた。
気のせいか聞き間違いかと、自身の零れた声にも気付かず一人視線を彷徨わせる中、自分のドクドクと打ち続ける拍動が密着するケメトにも伝わった。
「ごめんなさい。僕はヴァルとセフェクと離れたくないです」
柔らかな声で二度目を言い直すケメトは、変わらずグレシルを抱き締めた腕を緩めずに続けた。
彼女に断ってしまうことを心から申し訳ないと思いながら、それでも言葉には一寸の躊躇いもない。今度はグレシルの方が衝撃で人形のように動けなくなってしまう中、形勢逆転のようにケメトの方が今度は一方的に言葉を続ける。
「もしグレシルが困ってるなら、一緒にヴァルに相談しましょう。力になってくれる人が大勢いますから、城下から逃げないといけない理由を教えて下さい。大丈夫です、絶対助けますから」
グレシルが自分を陥れようとしたとも、欺しているとも微塵も思わない。
ただ彼女が城下から逃げて自分を欲しがるくらいに追い込まれているのだろうとケメトは思う。ならヴァルや、プライドとティアラ、レオンに相談しようと考える。
彼女の事情を聞けばきっと力を貸してくれる。そうすれば自分が一緒についていく必要もないし、グレシルがわざとヴァルやセフェクの悪口を言うこともない。城下を離れる必要もなければ、これからも今までのように会って話せると。
今もグレシルの腕を振りほどこうとすら考えない。全てケメトの善意だった。
優しく自分の身を按じ語りかけてくるケメトに、グレシルは静かに思い返す。今日、今この時までたった一度でも彼の口から自分に傾倒した言葉が紡がれたことがあったか。
一つも無い。いくら自分がそれらしい言葉を言っても、彼は「そうなんでしょうか」の一つすら零さなかった。否定もしなければ、一度もセフェクやヴァルの不満どころか迷いも口にはしてくれない。それでも確実に内側には自分からの淀みや陰りが積み上げられていると信じて疑わなかったが、……それも全て無駄だったのだと今思い知る。
ケメトが必死に説得を試みて語りかける中、グレシルは沈黙を貫いた。
頭の中だけが忙しなく回り乱れ、血の巡りを異常に敏感に明確に感じ取る。
何故こんなに甘く押されるままの人間が、ここまでした自分の誘いを断るのか。どう考えてもここは自分を選ぶに決まっている。あんな泥も粗も探り放題だった二人なんかより自分の方が善人に見えたに決まっている。
そうじゃないならどうしてこんなところまで付いて来たのか。少しでもヴァル達よりも自分が正しいと、良いと思ったからじゃないのか。
無垢にしか見えなかった笑顔の裏で自分を本当は嘲笑っていたのか、可哀想な女だと、同情でもしていたのか、この、欺されやすすぎる少年に他でもない自分の方が〝見下されて〟いたのかと。
「………………………………………………………………………………………………………………」
ぷちんっ、と。
その音が何所でもないグレシルの頭中で響いた。
グレシル?大丈夫ですか?起きてますか?寝ちゃいましたかと。あまりの無反応に呑気に心配しだすケメトに今は殺意しか感じない。
このまま回した腕を使って首を締め上げてしまいたい欲求に駆られながら、ゆっくりとその腕からケメトを開放した。倒していた身体を膝を立て起こせば、ケメトもすんなりと地面から起き上がった。
グレシル?大丈夫ですか、と言いながら眉間を寄せて按じてくる少年にグレシルは
「うん。……大丈夫。ありがとうケメト」
にっこりと、笑顔をつくってみせた。
びっくりさせてごめんねと乱れた髪を不必要に整えながら照れたようにはにかむ。ケメトから悩みがあるなら話して欲しいと望まれれば、それにも素直に頷いた。
嬉しい、ありがとうと言葉を繋げながら彼女は低くならないように注意して女性らしい声に抑揚をつけ、返した。
「城下に、帰ろっか。明日の朝全部話すから。相談に乗ってくれる?」
勿論です!と元気よく答えるケメトは心から胸を撫で下ろした。
そんなに困っていたならすぐには話しづらいに決まっている。今から城下に帰るなら話を聞くのは明日の朝でも充分にヴァル達との待ち合わせには間に合う。もし彼女が危険な状態ならいっそ配達にも一緒に連れて行って貰えるかお願いしてみようと。
来た道を戻ろうと立ち上がり背中を向ける彼女に、そう考えながらケメトも続いた。
「今夜は野宿でも良い?ごめんね、裏通りになっちゃうんだけど」
「大丈夫ですよ。城下なら待ち合わせにも間に合いますし」
ありがとう。そう笑い掛けながら、グレシルは考える。
城下の裏通りに行けば当てなんていくらでもある。彼が寝入ったところでこっそり抜けて呼びに行けば良い。今まで下級層で生き、人を陥れ続けた彼女はそれなりの繋がりもある。
侯爵家の青年が墜ちるのを見る為に協力もした。もともと、彼らがどこを縄張りにしているのかも群れる場所も下級層や裏通りに精通する彼女は知っている。一夜を売る客だった時もある。
だからこそレイに何度も彼らを差し向けることができたのだから。
〝裏稼業〟
その中で、人身売買業者と繋がりを持つ人間も知っている。




