そして解く。
「とんでもありません。ネルもこれ以上なく喜んでおりました。昔から刺繍職人になるのは妹の夢でした。まさかこのような形で叶えて頂けることになるなど思いもしませんでした」
「そっ、それは何よりです。ネルのお陰で今日は一段と褒めて頂けて……、既に大勢の方が彼女にデザインを任せたいと望んでくれました」
顔中の筋肉に力を込めて笑む余裕もないクラークに、そこでプライドは助け船をねだる。
ね?と投げかけるようにステイルへ顔ごと向ければ、既に口が緩んでいたステイルは社交用のにこやかな笑みでそれに応えた。
先ほどまで書き綴っていた王侯貴族からの注文依頼の表紙を騎士達へ示すように掲げれば、今度は近衛騎士達からも感嘆の声があがった。王弟の誕生パーティーに招かれた上流貴族や王族の名までもがそこには記されているのはカラムでなくてもわかった。
ありがとうございます……!と、今度こそまたクラークの頭が腰ごと下がる。ここまでがっつりクラークに頭を下げられてしまうのも何年ぶりだろうと思いながら、プライドはまた慌てながらも頭を上げて下さいと願った。
しかしクラークからすれば、下げない方が呼吸が困難になる。
「あれから妹は毎日針に糸を通しているとのことです。本当にこのご恩は妹共々生涯忘れません」
そんな大袈裟な‼︎と、プライドは喉まで出かかった。
何を言ってもいつもと違い、まるでロデリックのように固い口調で腰の低いクラークにどうすれば良いかわからなくなる。むしろ若干「うちの妹に断りも無くそういうことをされては……」と怒られることも覚悟していた彼女からすれば、場所を移してしっかり話したくなる。
やはり懇願してでも先日の件とセットでステイルと一緒に演習場へ挨拶に行けば良かったと思う。
「むしろお礼を言いたいのは私の方です。是非ネルに会ったら大好評だったと副団長の口からもお伝え下さい」
「ええ、今夜中に必ず伝えます。妹は近々家を出る予定ですが、今後もご迷惑をかけないように私からも注意させて頂きます。何か問題がありましたら何なりとこの私にお言いつけ下さい」
何度も頭を垂らすクラークに感謝を返しながら、そんなに急ぐのかと頭の隅でプライドは思う。
既にネルから引越を考えていることは聞いていたが、それを知らなければつい聞き返したくなるほどの早さである。何か事情があることは察したが、やはり言及はできない。近衛騎士達も気になるように背後から視線を注ぐ中アーサーとロデリックだけが、じろぉ~と妙に冷ややかな視線を送っていることが余計に気になった。
「……そして、プライド様。畏れ多くも一つだけお聞かせ頂いても宜しいでしょうか」
互いに感謝合戦を重ね続けた中、昔なじみ二人からの痛い視線を肌で感じたクラークが僅かに声を潜ませた。
何でしょう、とさっきまで礼ばかりを重ねるクラークの言葉にプライドも少し肩を強張らせながら返す。
聞かせて、ということは妹を引き込んだ苦情よりも疑問点に近いそれに首を傾ける。先ほどまで何度も下げていた頭を起こし、一度姿勢を正し直したクラークは最初に一息吐いた。呼吸を整え、発する前から声色に細心の注意を払う。
ここまで緊張するクラークも珍しいと、隣で口を閉じるロデリックは頭の中で思った。既に彼が何をプライドに確認したがっているのかは聞いている。
一秒以上黙し、賑やかな中にも関わらず吸い上げる息の音まで聞こえるほど意を決したクラークの声は、プライドが予想した以上に低かった。
「被服講師であるネル・ダーウィンを直属として迎えられたのは、私の妹と存じた上での配慮ということはありませんでしょうか……?」
「⁈いいえ!違いますっ逆です‼︎むしろ契約を交わすまで本当に気付かなくて……!知っていれば事前に副団長にご相談しました‼︎」
誓って!絶対に‼︎と予想を斜め上に走る疑いにプライドの声が半分以上裏返る。直後には「ブッ‼︎」という吹き出した音が殆ど同時に二つ重なった。
思わず目を向ければ、揃って口を手の甲で押さえながら顔を背けたベルスフォード親子が肩を震わせ笑っている。
突然笑い出したアーサーにはカラムが「アーサー」と一言窘め隣のエリックが背中を叩いて止めたが、ロデリックは数秒止まらなかった。いつもは止めるクラークが今は動けない。
クラークからすれば深刻な疑問だったが、二人にとっては全くの杞憂だった。
事実を知るアーサーは当然ながら、ロデリックもプライドが知り合いの身内や同情というだけで技量もない相手を直属に雇うわけがないとわかっている。更には今こうして刺繍の評判も聞けば、ネルの実力であることは明白である。
クラークもプライドがそういう人間ではないと理解はしている。しかしそれでもまさか、と確認せずにはいられなかった。ネルからはそれとなく尋ねたが、プライドからも直接確認しないと完全には安心できない。
妹には本人も望む通り実力で躍進していって欲しいと願うクラークにとって「副団長の妹だから」という理由でプライドに召し抱えられているということが一番恐るべき事態だった。
そして事実を確認した今、深く安堵すると同時に、……また別の焦燥で胸が波打った。
プライドの必死な形相に、ステイルからも「僕も保証します」と太鼓判を押されればやっとクラークは安堵だけを表にだした。
ほっと息を深く吐き、胸を撫で下ろす。笑いは止まった騎士団長の温かな眼差しも今は甘んじて受け止める。
「心より感謝致します、プライド様。後日のデザイン提案も妹はとても楽しみにしております。こうして麗しいプライド様に身に着けて頂けたことは、我が一族一生の誇りでしょう」
いえそんな……と返しながらも、プライドはほっと身の力を抜いてはにかんだ。
やっといつもの柔らかな笑みを向けてくれるクラークの言葉は、気恥ずかしさよりも安心が強い。
私も今から楽しみです、と心からの笑みで返せば、クラークからこの上なく緩やかな表情の笑みが浮かべられた。真っ直ぐに妹の間違いない評価をしてくれた相手への笑みに、受けたプライドはどっきりと胸を両手で押さえた。
ささやかな余裕ができてきたところで、ハッと大事なことを思い出す。「ところで騎士団長」と、今までクラークに向けていた正面をロデリックへ角度を変えた。
彼女にとって謝罪をしなければならないのはクラークだけではない。
「先日の近衛騎士へ個人的な出動要請と、そして件の護衛。どちらもありがとうございました。お陰で民も救われ、護衛では恙なく目的を果たすことができました。……本当にあんなことに駆り出す事態を引き起こし申し訳ありませんでした」
レイを止める為の近衛騎士出動と、先日のアムレットの部屋訪問。
そこでわざわざステイルが選りすぐった優秀な騎士を三人駆り出したことに関しても、プライド本人からはまだ礼を言えていなかった。
社交の場で頭こそ下げられないものの、小さく細い肩を竦めドレスの裾を上げて感謝を伝えるプライドにロデリックも俄に目が開かれる。「ああ」と思わず小さく洩れた声の後、とんでもございませんと言葉を返した。
ネルの一件と比べれば、王族へ護衛を極秘に追加すること程度はなんでもない。むしろ騎士団としては、そこで振り払われずに相応する騎士を依頼してくれることは幸いだった。何より彼女を確実に護衛することが最優先なのだから。護衛についた騎士三人もそのこと事態は全く不満に思っていない。
「また何か在れば何なりとご用命頂ければ幸いです」
「騎士達もプライド様に頼って頂けたことを喜んでおります。また我々でお力になれることであれば何なりとご相談下さい」
調子を取り戻したクラークがロデリックに続く。
そのまま「そうだろう?」と背後の騎士達に投げかければ、覇気のある声がカラムも含めて四人分揃って返された。いつもの慣れた光景に戻ったことと心強い騎士達の言葉にプライドも感謝を笑みと共に返した。
予想外のクラークからの感謝の嵐で順番がおかしくなったとはいえ、無事に感謝も謝罪もできたと思えば背の荷も降りた。
心強いわ、と気持ちを言葉にしながら手袋に彩られた両手を重ねた。更には蝶のショールに飾られた姿に我に帰ればまた気が遠くなりそうになったクラークだが、そこは優雅に笑んで乗り越えた。
それでは、と。他の来賓よりも少し長く語らってしまった騎士を連れて、ロデリックがまた礼をする。落ち着いた足取りで騎士達が離れれば、また流れるように次の来賓がプライドへと距離を縮め集い出す。
次々に「今日も麗しい」「小耳に挟んだのですが、そちらのショールは」という言葉を耳ざとく拾って仕舞えば、クラークは遠ざかる足のまま今度こそ頭を片手で押さえた。プライドから離れたと思えば、騎士達を背後に引き連れながらも顔がまた険しくなりかける。
「……ロデリック、何故こうなったのだと思う?」
「この前と同じ答えが聞きたいか」
既に酒場で飲み明かした時に嘆かれた問いに、ロデリックは平坦な声で返した。
すると、周囲に聞こえないようにと細心の注意を払い声を潜める二人の背中にじわじわとアーサーが距離を詰め始める。他の騎士と同じく一歩分空けた距離だけでぴったりとロデリックとクラークの背後について口を動かす。二人の会話は聞こえていなかったが、何を話しているかは大体予想できていた。
「ある意味自業自得っすよ。副団長もネルさんにあんだけ気苦労かけたンすから」
ぼそっと呟くような囁き声に、ギクリとクラークの首が回る。
背後に迫っているアーサーには気配で気付いていたが、手痛い指摘に顔を引き攣った。しかも昨晩ロデリックに返された言葉と殆ど同じである。
やはり親子だな、といつもなら笑うところだが今は笑えない。あまりにも的を射た言葉へすぐには返せなかった。更にはロデリックまで無言で頷く始末である。
アーサーとクラークの旧知の仲を知っているカラム達も声を抑えている分今は止めない。再び顔色が優れなくなるクラークを見れば、社交の場で滅多に〝私情〟を出さないアーサーが彼らに歩み酔った理由も察しはついた。
クラークは自分への冷ややかな蒼い眼差しを数秒見つめてから「アーサー」と霞ませた声を返した。その途端、聖騎士の目が父親へと上げられる。
「騎士団長。やっぱり今からでもネルさんを家に呼びませんか?客間でも俺の部屋でも使って構わないンで」
「最良だが決めるのはネルだ。私と妻は一向に構わない」
「…………それより明日また酒に付き合ってくれ」
容赦無い親友親子の言葉に、クラークは目に見えて肩を落とす。
プライドへ縁故採用の憂いが晴れ、無事妹の夢も叶い実力を認められたいま心から安堵して泣いて喜びたい気持ちもある。しかし、それとは別に今すぐ家に帰って頭を抱えたい気持ちにもなった。
今まで何年も努力し、王国騎士団副団長である兄の立場も利用せず自分の力だけで努力してきた妹。それでも叶わなかった夢が、世界中の刺繍職人が羨む形で叶ってしまった。
学校の講師として雇われて安定した給金が恵まれただけでもクラークとしては創設者であるプライドに感謝したい気持ちはあった。が、今はそれどころではない。
もともと八年前の恩からプライドには感謝を尽くしたクラークだったが、まさかここまできて親友とその息子、そして新兵と先行部隊に続き自分まで妹のことで返せない恩ができてしまった。つまり
……もう一生頭が上がらなってしまったな、私も。
プライドへの多大過ぎる借りに、クラークは彼女の恐ろしさをひしひしと改めて感じた。




