Ⅱ310.奴隷だった男は選択肢を持つ。
「今日は早めに休め。あんなに客が来たら疲れただろ」
そう言って、仕事の中断が長かったにも関わらず休息を与えてくれた雇い主にトーマスはいつも感謝している。
気遣いに今夜も感謝を伝え、実際に気疲れした部分もある彼は素直に甘えることにした。一度屋根裏にある自室へ戻り、汚れた服の着替えを棚から選ぶ。今日はいつもより家畜の世話をしてはいないが、それでもベッドに横になる前には着替えたい。
城からの斡旋で紹介された職場ではあるが、自分のような人間には合っている。
人目も浴びず、平穏に暮らせる上に衣食住も整っている。雇い主も記憶喪失の自分のことを邪険にするどころか、やはり人を雇った方が楽ができて良いと言ってくれる。屋根裏部屋という自室も与えられ、雇い主自体も仕事以外では必要以上に構ってこないこともトーマスには居心地が良かった。
こういうことに楽さを感じる性分の自分に、以前の自分の影を見ることはたまにある。人付き合いは寧ろ好きに入るのに、だからといって密接になりたいとは思わない。
黒い炎を唸らせ、自分を睨んだ青年に対して以外は。
「レイさんもゆっくり休めてれば良いのですが……」
ぼそり、と思わず言葉に漏れる。
無意識に自分の視線は、彼が横になっていたベッドに向いた。ここで話した時には年相応の子どもだった青年の泣き顔は、今も頭に焼き付いている。思い出して欲しい、という彼の期待に応えられなかったことは歯痒いが、また会いに来てくれると意思を示してくれたことは嬉しかった。
今までは自分だけの人生だったが、今度から時折来るかもしれない来訪者を待つ日々になるのかと思うと楽しみである。
取り敢えず彼をまた憤らせないようにしなければと思い、同時に自身の特殊能力もまた制御できる限り使用もしない方が良いなと考える。
己の能力がどれほどかはわからないが、レイのように暴走すれば誰かを傷つけてしまう。しかも火となれば余計に被害は大きい。特殊能力者ということが表沙汰にもなりたくない今、できることならば一生このまま能力は使わずに生きていこうと改めて心に決めた。
着替えを小脇に抱え、一度部屋を出る。家の裏手だが、生活用と家畜用の水も大量に汲み溜めいる為、幸いにも身近に水が尽きる心配がないのもこの生活の幸いだった。
階段を降り続け、そのまま水場へ出るべく裏口を出ようと思った、その時。
「夜分遅くにすみません!先ほどのアランです、お時間宜しいでしょうか?」
ざわり、と。言葉にできない胸騒ぎが襲った。
その声も騎士の名も忘れるわけがない、今日一日での出来事だったのだから。
裏口へ向かおうとしていた足も硬直し、振り返ったまま訳もわからない動悸の音だけが増えていく。小脇に抱えていた筈の着替えが足元に落ちたことも気にならない。
雇い主が「なんだまたか……」と半ば疲れたように椅子から立つ音が聞こえたが、次の瞬間には理解が頭を通るよりも先に「私が!」と声を上げていた。
向かおうとしていた扉の方向とは正反対の玄関へとバタバタ足を急がせる。頭には意味もわからない焦燥への疑問と、そして何故か無性に黒い炎を溢れさせたレイの姿が頭に浮かんで離れない。
勢いよく扉を開け、勝手に舌が回ってしまう。レイに何かあったのかと、まるで最初から彼の素行を疑ってしまうような口調に直後で目が覚めた。
「いえ……彼には何もありません。どうしてそんなことを思ったんですか?」
首を僅かに捻りながら尋ねる騎士に、安堵すると同時に頭が冷えていく。
自分でもわからず、ただまるで反射のようにレイの身を案じた。彼が何かしたのではないかと、何かに巻き込まれたのではないかと瞬時に考えた。
もしかして記憶が戻ろうとしているのかとも考えたが、過去の記憶は一瞬すら思い出せない。むしろ頭ではあれほどレイと友人になれればとすら考えたのに、まさか深層心理では彼を信頼していないのかと自分を疑いたくなる。
自分の中ですら整理がつかないままに、言葉にして返せば余計に混乱したくなる。どうしてこんなに自分は焦燥してしまったのか。
「夜分遅くに申し訳ありません。レイ・カレンには何もありません。ただ、少しトーマスさんにお話したいことがありまして。ちょっとだけお時間宜しいでしょうか?」
「そうですか……わかりました。仕事も終わって、水浴びでもしようとしていたところです。時間ならありますので、遠慮なくどうぞ」
そんなにもレイの言葉が自分は衝撃だったのか。それともあの黒い炎を脅威に感じたのか。まさか彼も騎士も誰もが語っていない過去で、自分はあの炎に殺されかけたことでもあるというのか。
間違いなく今日自分は彼との親交を望み、そして彼もライアーではなくトーマスとしての自分を受け入れてくれた。なのに何故こんなにも胸が騒ぐのか。
そう考えながら、家の中を断るアランに応じて雇い主に外に出るとひと声かける。既に自分が手放した着替えのことは頭から抜け落ちていた。
「何の、お話でしょうか……?」
そう訪ねてから遅れて、騎士が何故わざわざ訪ねてきたのかと考えた。
まさか、秘密裏にレイとはもう会わないで欲しいと相談に来たのか。貴族であるレイであれば元裏家業だったらしい自分との接触を良く思われないのも納得できる。
それとも自身の過去の悪行から捕られるのか。どちらにせよ、穏やかな話題ではないだろうと覚悟した。騎士からの話であれば尚更自分は抗えない。
問いを投げた先で動いたのは騎士のアランではなかった。
これから話すべく自分へと向き直るのは、レイと一緒に居たジャンヌという少女だ。緊張するように僅かに両肩を上げる彼女はまっすぐと自分に目を合わせた。あの時もレイに仮面の下を見せてもらうように助言してくれた彼女のお陰で戸惑う彼と分かり合うことができたと考える。
胸を膨らむほど呼吸を整える彼女に、そういえばこの騎士とは親戚だったと思い出す。
ならば、もしかすると公的な用事ではなく彼女の付き添いかとも考え直した。レイのことを色々と気にかけていた彼女からの用事ならばと、トーマスも少し心に余裕ができた。
騎士としての任務でアランが訪れたのではなく、あくまでこの少女の保護者としてであれば立場も変わる。
何でしょうか?と穏やかに笑んだトーマは少しだけジャンヌに合わせて腰を落とした。闇夜にも映える紫色の眼差しを吊り上げた彼女は口の中を飲み込み、胸を両手で押さえた。
「トーマスさん、貴方の記憶を取り戻す方法が見つかりました」
息を止め、目を見張る。
彼女の言葉は一字一句間違いようなく耳に届いたが、同時に疑いたくなる内容だった。しかし、目の前で細い眉に力を込め苦しそうに訴えてくれる少女が悪い冗談を言っているようには思えない。
極限まで声を抑え、玄関の扉一枚向こうへも気を払う彼女はどうみても人に聞かれること自体を配慮している。
「私の知人に、実は記憶関連の特殊能力者がいるんです。あの後尋ねてみたらちょうど都合をつけてもらえて……。ただ、全てを思い出せる保証はありません。それにトーマスさんがもし」
「是非、お願いします」
迷いはなかった。自分でも驚くほどに。
彼に考える時間や断る権利もあると告げようとするプライドの言葉を遮る彼の結論は早かった。もっと躊躇われることを覚悟していたプライドも、彼女の説明を聞いて表情には出さずとも「そういうことか」と胸の内だけで留めていたアランもこれには目を丸くした。
聞き間違いない声で答えたトーマスに、プライドの方が僅かに狼狽る。で、でも……と僅かに喉を詰まらせながら、まだ彼に言うべき言葉で結論を押し留める。
「思い出せばっ……今の貴方ではなくなるかもしれません。それに、辛い記憶だって思い出さなければいけません。誰にだって、思い出したくないことはあると思います。一度記憶を取り戻したらいくら後悔しても、今と同じように忘れることはできません」
「それでも。……お願いします。大丈夫です、レイさんから私が昔何をしていたかについて大体は聞いています。許されないこともしたようですし、…………後悔する覚悟はあります」
それも、自分の罰だと思う。
レイから聞いて、自身が裏家業として長らく生きてきたことも知っている。人としてどうしようもない人間だったことも諦めてる。しかしそれ以上に、あそこまでレイが探し求めてくれたライアーを知りたいと思う。
知ることは怖い。正直そんな人間に戻りたくないと自分は思う。だが、それでも
『ッなんで!忘れられるんだ‼︎そんな全部……』
彼を、取り戻したい。
にこやかに笑うトーマスに、プライドの顔色の方が焦燥へ染まっていく。断られる準備もできていた彼女にとって、ここまですんなりと受け入れられてしまうと本当に大丈夫なのかと自分の方が心配になる。
断っても良い、悩んでも良い、その上で選択して欲しいのに彼は全く悩む気配もない。こんな提案を想定できた筈がないのに、どうしてこんなに落ち着き払っていられるのかと思う。
唇を絞り瞬きも忘れて見返す彼女に、トーマスは「気に掛けてくれているのだな」と理解する。レイに続いてこんな子どもにまで辛そうな顔をさせてしまったことを申し訳なく思いながら、彼なりに言葉を続けた。
「大丈夫ですよ。思い出したところで、もう悪いことをするつもりはありません。今はこの生き方も気に入っています。もしまた悪人に戻ったら、その時はアランさんに捕らえて貰いますから」
冗談めかして言いながら、息をするようにはぐらかす。
本当はそんな簡単な話ではないことはトーマスもよくわかっている。それを言われたプライドもアランもとても笑い飛ばせない。
記憶が戻り、本当にそんな人間になればせっかくの生き直せる人生を棒に振る。それを後悔できないくらいに、記憶を取り戻したせいでトーマスという人間自体が変わってしまう恐れもある。
ライアーだった彼を知らないプライドも、洗脳状態だったとはいえライアーに殺されかけたアランもその代償は容易に想像できた。
「どうか私の方からお願いします。その特殊能力者の方に会わせてください」
それでも、トーマスの決意は変わらない。
彼の少し垂れた眉と優しい笑みに、きっと考え直させることの方が不可能なのだろうとプライドも理解した。自分を写す鼬色の瞳には決意しかなかったのだから。
わかりました、と頷いたプライドはそのままアランと目を合わせた。少し歩いた先にいる馬車を指で示し、あの中にとトーマスへ告げる。
再びアランと手を繋ぎ、トーマスと共に馬車へと歩き出す。このことはレイにも雇い主にも私の親戚二人にも誰にも秘密に、特に特殊能力者の話はと。そう声を潜めて願うジャンヌにトーマスも躊躇なく返した。特殊能力として珍しくない火を使う自分すら立場を隠しているのに、そんな珍しい能力では狙われるに決まっていると思う。
止まられている馬車を見れば城下でも見るようなよくある物だったが、わざわざ馬車を出せる人間ということはそれなりの身分の人間かもしれないなと気を引き締めた。
馬車の前に立ち、アランが扉を叩けば内側からカラムが開ける。
どうぞ、と二人目の騎士から馬車の中を勧められれば、ここまで覚悟を決めていたトーマスも流石に喉を鳴らした。ジャンヌとアランは馬車の外で待つようにとカラムから告げられれば、余計に緊張感が跳ね上がった。
失礼します、と馬車に足をかけ中に入れば、そこに座っていたのはジャンヌと同い年くらいの少年だった。
レイよりも幼く見える顔つきをした目元の可愛げがある少年は、フードも被らず青い髪と鋭くした眼差しをそのままにトーマスを見据えていた。
カラムが内側から扉を閉じ、今度は少年と騎士と自分の三人だけの空間で閉ざされる。
どうも、と。緊張しながらも最初に挨拶をするトーマスに一言返す少年は、そこから前置きもなく彼へと尋ねた。
「……思い出して、宜しいのですね」
「ええ、……どうかお願いします」
どこか威厳の滲み出る話し方をする少年に戸惑ったが、それだけは迷いなく答えられた。
「わかりました」とひと言返す少年もまた、それ以上は確認しなかった。ここにジャンヌと共に来て、そして本人の希望を確認できた以上は尋ねる必要もない。自分のすべきことを、責任を取るだけだ。
手を、と握手を求めるようにヴェストが手を伸ばせば、トーマスもすぐに応じ握り返した。しっかりと互いの指の感触がわかるほどに強く握り合い、次の瞬間。
「っっ──────!」
目が零れ落ちそうな程限界まで開き切った直後、ぐらりと軸から傾いた。
正面にいるヴェストへ向かい倒れ込むトーマスを、隣に座っていたカラムが受け止める。「大丈夫ですか」と倒れこまれようとしていたヴェストと倒れたトーマス二人へ合わせて声を掛けるが、既にトーマスは気を失った後だった。
ヴェストは握手をしたトーマスの手を放しながら、カラムに落ち着いた声で答える。
「一度に大量の記憶を取り戻した反動だ。心配ない、暫くすれば目も覚めるだろう」
問題はない、と続けるその言葉にカラムはほっと息を吐く。
記憶という言葉に、やはりと頭を掠めるが今はそれよりも目の前のトーマスに意識を向ける。
丁寧に背凭れと窓辺へトーマスを寄りかからせてから、一応呼吸を確かめる。正常に呼吸している彼は、眠っているだけと同じ状態だった。
「扉を開けて良い。ジャンヌは馬車に、アラン隊長には雇い主へ断りを。御者にも伝言を頼もう。彼はこのままで良い」
淡々と的確に必要な指示だけを告げるヴェストに、カラムもひと声で応じた。
扉を開き、それぞれ指示を代わりに飛ばすカラムの声を聞きながら、ヴェストはのんびりと目の前で眠るトーマスを眺めた。彼に全く迷いもなければ、怯えもなかったことを思い出す。
あくまで自分は自分の責任を取ったまで。目を覚ましてからどう生きるかは、彼が決めることである。
もう、彼がやはり忘れたいと望んでも自分は決して記憶を消しはしない。だからこそ、本来の目的である洗脳を断ち切る為に必要な奴隷としての記憶消去のみ残し、それ以外の記憶を彼へと戻した。
目を覚ました彼は、奴隷として主人に売られるまでの全てを思い出している。裏家業からの扱いから、商品になるまで捕らえられていた己の人生を全て。
もうヴェスト自身が彼にしてやれることも、干渉する気も何もない。ただ一つ
目を覚ました彼が、最初に〝何を〟選ぶのか。
それだけは、心の隅でどうかそうであれと小さく願った。




