Ⅱ306.頤使少女は耳を疑う。
「先ずは座りなさい、プライド。そろそろ紅茶も冷めてしまう」
瞼を無くしたプライドを置き、ソファーの一つへと腰を下ろす。
青い瞳と髪。七三にピッシリと乱れなく整えられた髪に皺一つない服。その動作一つ一つも無駄がなく、自らポットで二つのカップに紅茶を注ぐ動きすら見本のようだった。
未だ心臓が煩く、バクバクと収縮する旨を両手で押さえ付けているプライドもその言葉に促されるように足を動かした。今までも叔父であるヴェストと話したことはあったが、完全に二人きりでの会話はほぼ無い。しかも今の自分の状況を忙しすぎる頭で振り返れば、今度は目まで回りそうになった。
自分は決して叔父と茶飲み話をする為にここへ訪れたわけではない。ジルベールに連れられ、ライアーを取り戻すたった一つの方法を手にするためにこの部屋へ足を踏み入れたのだから。
ぐっ、と口の中を噛み締め、改めて本来の目的を自分に言い聞かす。
促されるまま向かいのソファーに掛けながら、真っ直ぐとヴェストを見据えて視線を正した。まだうっすらとだけ湯気を放つ紅茶に鼻孔が撫でられる中、ヴェストは落ち着いた動作でカップの一つをプライドの前へと差し出した。
後から砂糖を足せるようにと角砂糖の容器も同時に彼女の方へと近付ける。彼自身は砂糖を使わない。
素材の味そのままの味を一口楽しみ、受け皿ごとテーブルへとカップを戻す。そうしている間にもプライドは膝に両手を重ねたままカップに手を付ける余裕すら持たなかった。
何も言おうとしない姪をヴェストが青色の目で捉える。それだけで張り詰めていたプライドの肩はビクリと上下した。
「……それで、私に何の用だ」
自ら本題を切り開くヴェストに、プライドは乾いた口の中をまた飲み込んだ。
やはり、と。ジルベールに導かれたこの部屋で、待ち人は目の前の叔父であったのだと確信する。眉間の寄せられた厳しい表情に、今から怒られることも覚悟しながらプライドはゆっくりと口を開いた。
緊張を誤魔化そうとカップを手に取ろうとしたが、少し腕を意識してしまうだけでビクビクとした動作に変わってしまう。暑くもないのにドレスの下がじわじわと湿って行く中で、先ずは確認すべきことから尋ねることにする。
「あの、ヴェスト叔父様はジルベール宰相からの紹介でこちらに……?」
「他に誰がいる。心配せずともある程度のことは聞いているから安心しなさい。それとも自分からは何も言わないつもりか?」
いいえとんでもない!と、声が今度こそ裏返りそうになりながら激しく首を横に振る。
不機嫌ではない筈だが、それでもギラッと厳しい目で言われてしまうとどうにも萎縮してしまう。自分と父親を初めとした目付きの悪い人間は見慣れているプライドだが、ヴェストのように目元の柔らかい人間からの厳しい眼差しはまた違った怖さがあった。
昔から厳格を絵に描いたような叔父に対し、反射のように全身が張り詰め強張ってしまう。
しかし、いつまで経っても怖じけてはいられない。
「……実は、学校潜入中にとある青年と知り合いました。レイ・カレンという中等部特別教室に所属する男爵家です」
意を決し、順を追ってプライドは話し始める。
未だジルベールの情報統制がどこまで解かれているかわからない今、レイがアンカーソンと関係があることについてまで安易に語れない。
レイの友人が先の奪還戦による奴隷被害者であること。そして記憶喪失であることを話せば、自分の中でも整理がついてきた。
目の前で紅茶の一口二口とゆっくり味わうヴェストを前にしながら、頭の隅では一体どうしてジルベールが自分をヴェストと引き合わせたのかを考える。
可能性は複数ある。ジルベールが呼び出した人物とヴェストが実は敢えて成り代わっている可能性も含めて思い至る。その、記憶を取り戻せる特殊能力者がヴェストに許可を得ないと会うことすら叶わない存在であること。自分にとってのアーサーやジルベールのように、第一王女である自分すら知らされないフリージア王国で極秘の存在であること。そうでなければヴェストの親族、直属の部下や従者。もしくは、と。
「なるほど、言いたいことはわかった。つまりはその奴隷被害者の記憶を取り戻したいということか」
全て語り終わったプライドに、ヴェストは短く要点だけを確認した。
ジルベールからも依頼を受けた際にいくらか説明はされていたが、プライドの話を聞けばとうとう合点もいった。彼女の性格を自分なりに理解しているヴェストは、カップをテーブルへ無音に戻しながら息を吐く。
あくまで嫌味ではなく、状況を細かく確認するように今度は自分から問いを重ねる。
「今はトーマスと名乗っている人物は、今回の極秘視察自体には無関係。よってアルバートが言っていた、お前の〝予知した全てが明らかにはなっていない〟件というのにも無関係ということだな?」
「……恐らく」
しかしそれでもグサグサとプライドにはペン先のように突き刺さる。
細かく言えばレイが〝学校を私物化し、裏稼業を動かして下級層生徒へ恐喝紛いの情報収集を行っている〟原因がライアーという予知をしたことにしている彼女だが、ここでそれを言えば余計にややこしい話になることは目に見えていた。まだヴェストはレイの容疑も知らないと考えれば特に。
どちらにせよ、厳格なヴェストにとってはレイの犯罪理由など知っても知らなくても結果は同じ。ここで中途半端に〝予知〟の言葉を使っても余計にレイへの心象を悪くするだけである。
しかし改めて言われてみればプライドは視線を正面のヴェストから膝へと下げた。
あくまで自分の目的は予知をした未来を変えること。その為に予知した内容を思い出す為に潜入した。そして裏も表も関係なく、レイの暴走は食い止めた。
ライアーが記憶を取り戻そうとも予知した未来は既に止め、何の影響もない。にも関わらず、王族である自分がレイという生徒たった一人の為に王族の立場を使い記憶を取り戻させる能力者に協力を要請するなど、過干渉である。
あくまで自己満足。既にレイもトーマスもゲームと同じように互いに新たな友人関係へと一歩踏み出している中、これ以上する必要はどこもない。
自分でもわかっていたことでありながら、ヴェストを前にこれ以上の望みを訴えるのは第一王女としてプライドも躊躇われ
「良いだろう」
「……へ。⁈は……えっ⁈」
すとん、と。簡単な口調で下ろされた承諾に、プライドは今度こそ声を裏返した。
規律に厳しいヴェストが、そう簡単に承諾してくれるとは夢にも思わなかった。思わず意味もなく視線をあちこちに散らせては、膝の上に重ねていた手まで行き場を失った。本当に目の前にいるのがあのヴェスト叔父様かとすら疑ってしまう。
自分でも戸惑いが大きい中、ヴェストだけが変わらず落ち着き払っていた。「本当に宜しいのですか⁈」と言いかけたプライドへ声を抑えるように途中で窘めてから、カップの最後の一口を飲み込んだ。
「ただし、私の問いにいくつか答えなさい。それが条件だ」
「勿論、です。……ですが、宜しいのですか?王族でありながら一個人に加担してしまうなんて」
自分の中に生まれた躊躇いを、そのままヴェストに投げかける。
自分が動くなら労力も変わらない。そして攻略対象者を助けたいと思っているのはあくまで自分の我儘だ。それに協力してくれるステイル達には感謝しても足りないと思っているが、だからといって叔父であるヴェストにまで協力させることに躊躇いがないわけがない。最上層部の一人を動かす重みは彼女もよくわかっている。
本来であれば、規則に厳格なヴェストが誰よりも眉間の皺を刻む案件である。
それこそ王族としての意識が足りない、ジルベールを巻き込むな、潜入中に無駄に民と関わるなと怒られることも覚悟した。それなのに目の前のヴェストは嗜めるどころか呑気に二杯目の紅茶をカップに注いでいる。
もう湯気もでない冷めた紅茶だが、侍女を呼びつけるわけにもいかずヴェストはそのまま味わった。
プライドも今更になって思い出したように、自分のカップを手に取った。未だに一口も口をつけていなかった紅茶は完全に冷め切っていた。唇に触れた途端、いつもと違うひんやりとした刺激に水面が揺れる。動揺を露わにするプライドに、やはりヴェストの落ち着きは変わらない。
「勿論、お許し頂けるのならこれ以上のことはありません。ライアーの記憶喪失を治すには、私だけではどうにもなりませんから。ですがっ……」
「質問をするのは私の方の筈だぞ、プライド。……それに、別にその者の記憶喪失を治すことを許したわけではない」
言葉を詰まらせたプライドは、一度そこで口を噤んだ。
質問をするぞと言われた筈なのに、一方的に自分が尋ねてしまった。それに反省しながらヴェストの言葉に唇を搾り続けた彼女だが、またすぐにポカリと開いてしまう。
え……?と、今度はヴェストにすら届かないほどの微かな一音だった。
ならば、さっきの「良いだろう」とはどういう意味だったのかと思考が回る中、彼女の惑いを手のひらに収めたかのようにヴェストは言葉を続けた。
「〝治す〟ではなく〝戻す〟と言った方が正しい。その者の記憶を奪ったのはこの私だからな」
何事でもないように、なだらかな声で言い放ったその言葉に。
プライドは、今度こそ本気で声が出なくなった。呆気を取られ、口が開いたまま顎が外れて動かない。紫色の目がこぼれ落ちそうなほど開かれ、心臓の細切れな音だけが時間を叩いた。
平然と二杯目のカップに口をつけ、眉間に寄せた皺を僅かに伸ばして見せたヴェストは暫く彼女の動きを待った。あまりの衝撃的事実に固まってしまった姪にカップの向こうで目を細める。
次に彼女がなにを言うかと想定すれば「それは一体」か「つまり」か「まさか」だろうかと考える。既にいま、こうして紅茶に一口しかつけず驚愕を露わにする姿は想定の範囲内。
ただし、これから自分が行う問いに十九歳になった彼女はどう答えるかと。
それだけは、ヴェストにも図れない疑問のままだった。




