Ⅱ305.頤使少女は見送り、
「それでは、これで。今日は本当にお忙しい中失礼しました」
保護者役を担ってくれているアラン隊長を始めに、私達も深々と礼をする。
レイがトーマスさんと部屋を出てきた頃にはもう日が沈み始めていた。予定よりも長らくお邪魔してしまった私達はこれ以上長居しないようにこのままレイの馬車で撤退だ。
トーマスさんの希望で、レイをベッドに寝かせてから二人で話ができるよう部屋の扉外をアラン隊長に任せ私達は居間で待機させて貰った。アラン隊長なら何かあったらすぐにレイへ対応できるだろうし、トーマスさんの部屋自体大人数は収まる広さではなかった。
屋根裏部屋、と聞いた時は一般より背の高いトーマスさんには苦しくないか心配だったけれど、一度レイを運ぶ為に同行させて貰ってみれば充分な広さはあって安心した。
病人でもない私達まで居間にお邪魔するのは悪いしと馬車で待っていようと思ったけれど、雇い主さんが良い人で「お構いはできませんが、仕事は自室でするのでどうぞ」とアラン隊長に勧めてくれた。
流石は〝保護観察者〟を引き受けしてくれる職場の社長だ。城から一定の管理費を与えられるからとはいえ、曰く付きとわかった上で引き受けてくれる職場、特に衣食住も賄ってくれる場所は貴重だ。……まぁ、これも元はといえば、我が国の優秀な宰相が五年程前に提案してくれた〝人身売買被害者保護法〟のお陰でもある。
居間で待っている間、屋根裏部屋も気になったけれどそこは自粛した。
廊下でレイが目覚めたかを確認したかったけれど、それ以上に立ち聞きは気が咎めた。レイにとってはきっと本当に大事な、気持ちの整理の時間だったことに違いがないから。
暫く経ってトーマスさんやアラン隊長と一緒に降りてきた時にも、左目だけでなく右目も僅かに充血が残ったままのレイはとても落ち着いていた。居間で待っていた私達に「帰るぞ」と一言だけ言うと、雇い主さんにも挨拶無しで玄関に向かった。
相変わらずの傍若無人ではあったけれど、自分を気絶させたのは誰かと追求することもなければ感情を荒げることもなかった。
「いえ、こちらこそお引き留めして申し訳ありませんでした。……またいつでも、気軽にいらっしゃって下さい」
大したお持て成しはできませんが、と続けながらトーマスさんが優しく笑う。
お邪魔しましたの挨拶を終えた雇い主さんから引き継ぎ、トーマスさんは馬車まで私達を見送りに来てくれた。最後、僅かに低められた声を放つと同時に馬車へと乗り込もうとするレイの背中へ視線が向けられていた。
返事をしなかったレイも、まるで後ろに目でもついているかのように馬車へ掛けた足を止める。数秒その形のまま固まり、最後に小さく首だけがこちらに振り返った。仮面を付けていない右目が瑠璃色に揺れ、確かにトーマスさんへと照準を合わせていた。
彼が、トーマスさんに仮面の下を見せたのか拒んだのかは聞いていない。ただ、仮面に隠されていない右半分はトーマスさんを目に捉えても歪むことはなかった。頷きもなければ、口を開くこともなく正面を向き、何事もなかったかのように馬車へと消えていく。
レイの分も頭を深く下げながら私からもトーマスさんに本当にありがとうございました、失礼しましたと馬車に乗る前に挨拶をした。ステイルやアーサーも順々に続いてくれる中、トーマスさんはにこやかな笑顔で返してくれた。
レイとどんな会話をしたのか、どう返してくれたのか。それについてはトーマスさん自身も敢えて口を噤んでいるような印象だった。ただ、レイの背中を見送った目が間違いなく優しかったから、きっと悪いことばかりじゃなかったんだろうと思う。
薄い扉を隔てて廊下に控えてくれていたアラン隊長だって、何も言わずとも表情は穏やかだった。
私、ステイル、アーサーと続いて馬車に乗り込み、最後にアラン隊長がトーマスさんと握手を交わしてから御者の代わりに扉を閉めた。既に運転席で控えていた御者がその振動音を合図にゆっくりと馬を歩かせる。
ガタン、ガタンとゆるやかに進んでいく馬車に揺らされながら、窓の外へと振り返る。一人佇んだトーマスさんが顔の横で手を振り続けてくれていた。
影が小さくなって、小さな粒になってもまだその場を去らずに見届けてくれる。私から手を振ったり、アーサー達が頭を下げたりもしたけれど、レイだけが頬杖を突いてトーマスさんとは関係ない窓の景色を眺めるだけだった。
とうとう見えなくなり、私達も振り返るのを止めて席に座り直したところで不意に独り言のような呟きが零された。
「……〝トーマス〟と話した。…………余計なことを」
トントン、と指先で仮面を軽くノックした彼は、視線だけは窓の外に固定されたままだ。
余計なこと、という言葉にトーマスさんが私のお願いを聞いてくれたのだなと理解する。反感を買うことは覚悟の上だったけれど、もしかしてその所為でトーマスさんへのあの態度だったのだろうかとそれだけ不安になる。
あくまで一方的に頼んだのは私の方だし、トーマスさんはただレイのことを心配して話しをしてくれようとしただけだ。せめてそのことだけでも弁明するべく口を開けば「言い訳は良い」と先に完封される。思わず飲み込み、口を閉じたままにすれば続きの言葉は予想より早く紡がれた。
「もうお前らはあそこに行く必要もねぇだろ。用事もなく足を運べばどうなるか覚悟しておけ」
相変わらずの俺様発言も、何となく丸い。
騎士であるアラン隊長の前だからだろうか。どちらにせよ棒読みにも聞こえる平坦な声に、言い返そうとも思わない。無言のままステイル達と目配せし合いながら首を傾ける。
行く必要と言われずとも、極秘視察が終われば私達がここまで訪れることも滅多にない。けれど口止めならまだしも、私達に用事もなく行くなという希望はどういうことか。
社交辞令とはいえ、トーマスさんが私達を遠ざけたがっているようには思えなかったのだけれども。
「…………俺様と〝鉢合わせでもしたら〟これと同じ顔にしてやる」
トトンッと今度は早めに指先で叩く仮面の音と一緒に、今度こそ理解する。
彼はまた〝トーマス〟さんに会いに行くつもりだ。それも、きっと何度でも。その邪魔をするな、もしくは見られたくない聞かれたくないと思うのは何とも彼らしいと思う。……そして、それがきっと良い。
彼と会う意思をわざわざ示してくれたレイに、私からも一言返した。わかったわ、の言葉に短く鼻を鳴らす音だけが零される。
一度もこちらに視線すらくれない彼だけれど、纏う空気が全然違うように感じられた。きっともう、彼の中で何かが決まったのだろう。
「……気は済んだ。これでもう、いつ衛兵に押し入れられようとどうでも良い」
なだらかな声のまま呟かれたレイの言葉に、自然と自分の眉が狭まるのを感じた。
そう、これで全てが終わったわけじゃない。〝アンカーソン元理事長〟の権力下で学校の運営を放棄し、裏稼業の人間を生徒としてねじ込み下級層生徒を標的に情報収集と脅迫を図った罪。……それがまだレイには残っている。
今はジルベール宰相が上手く取り計らって水面下で引き延ばしてくれていたけれど、全てが終わった今はもう止められない。どういう理由であれ、何かしらの形で罰は受けるだろう。
国家機関である学校に関わったことだし、貴族も関わっているからきっと城での裁判になる。そうなると審判を下すのは女王である母上だ。ジルベール宰相も公正な結果になるように最善は尽くしてくれるだろうけれど、絶対に法を曲げるようなことはしない。アンカーソンほどではないにしろ、彼にも法に則った処罰が与えられることは免れない。
そして今、レイ自身も受け入れている。
もともとライアーさえ見つかればその後はどうなっても良いと、手段を選ばなかった結果だ。最初から覚悟の上だったことは間違いないもの。
頭の中で我が国の法で判断してみるけれど、どんな罰が相応するか考えれば案件が難しいだけに絞れない。
罰金以外なら身体的処罰、判断が難しい場合は一定期間の懲役もあり得る。流石に国外追放にはならないだろうけれども、やはり母上の判断とジルベール宰相の手腕で大きく左右されるだろう。
今回の件が終わったことの報告も含めて、改めてお願いしておこう。罰を軽くすることはできないけれど、……できることならもうレイと彼を長く引き離したくもない。いま、こうしてレイにやり直す覚悟があるのなら余計に。
「本当に宜しいのですか。裁きによっては懲役もあるかもしれませんよ」
私と同じ事を考えたのか、ステイルの低めた声は逆撫でないように重々と気を払った声だった。
一向に窓の外に顔を向けるレイを私の隣から覗くように目を向けるステイルに会わせ、アーサーも僅かに身構えた。いつレイの発火点に触れるかわからない今、すぐに動けるようにと警戒してくれている。
それに比べレイの隣に座るアラン隊長は、注意こそ向けるものの幾分落ち着いた印象だ。やはりトーマスさんの部屋で何かあったのだろう。
ステイルの問い掛けに、レイはすぐには答えなかった。数秒は考えるかのように口を結び、それから小さく開けたかと思えばそれ以上動かさない。揺れていた馬車がならされた道に入ったのか、揺れが小さくなったところで気まぐれのように返された。
「どうせ、奴はもうあそこにいる。……何年後でも」
だから構わない、と。そう続くかのような口ぶりで、最後の口元は小さく緩んだのが正面に座る私には見えた。
もの悲しくない呟きは、彼の中では間違いなく希望が灯っている証拠だ。
ステイルもそれ以上は言及せず「そうですか……」と聞こえる程度の声で言葉にすれば、そのまま静かに眼鏡の黒縁を押さえ背もたれに身体を預けた。
ゲームのバッドエンドルートで城下から離れた地方のカレン家に帰るくらいならと行方を眩ました彼は、……現実でもカレン家に帰るつもりはないのだろう。
もともとアンカーソンとの繋がりを隠す為に学校でカレンの家名を名乗っていた彼だけれど、ここ数年はアンカーソン家で育ってきた。カレン家との繋がりなんてそれこそ皆無だろう。
ライアー……トーマスさんが城下にいる限り、レイがここを離れるとは思えない。彼にとっては貴族としての暮らしよりライアーとやり直す時間の方が大事だ。ハッピーエンドのライアーとの再会エンド後だってアンカーソン家のままだった。つまり、カレン家には帰らなかったということだ。
レイにそれ以上は誰も何も言わなかった。
沈黙だけが溶け込む中で、馬車の揺れる音だけが耳に残った。もう彼にできることは全部終わったのだと、そう示すような無の音だった。
彼の望んだ再会にはできなかったけれど、それでも会わせたことは間違いがなかったと思う。城へ帰り、ジルベール宰相に全ての報告とお礼、レイの処分についても任せればそこで終わる。レイは罰を受け、アンカーソンも正しい罪で処罰され、そしてレイはこの城下で生き続ける道を選ぶのだろう。……たとえ庶民でも、下級層でも構わずに。
最初にレイとの協力関係を結ぶことぐらいしか私は力になれなかったけれど、ステイル達のお陰で最悪の悲劇だけは回避できた。
もうこれでレイがラスボスにライアーを引き合いに出されて言いなりになることも、騙されることもない。
学校の実権を早々に没収された彼をどうしようとゲームのように生徒が支配されることもない。そう考えれば、もう一人の攻略対象者もある程度の安全は確保されたということだろうか。……いや、ない。
今までだってファーナム兄弟もネイトもそしてレイも、ラスボスと関わる前から苦しんでいた。あくまで彼女はその傷を使い利用し、抉っただけ。レイの威を借り続けた彼女の唯一と言っても良い得意技は〝それ〟だった。まだ、絶対に気は抜けない。
最後の攻略対象者捜しの一手へと考えを深め続ければ、レイの屋敷まで到着するのはあっという間だった。
馬車がゆっくりと止まり、今度はレイも急いで降りようとはせず扉手前に座るアラン隊長とアーサー、そしてステイルを待ってから腰を上げた。私を最後に残してくれたのが紳士らしい女性への配慮か、それともさっさと降りたいからかは彼の場合わからない。だた先に馬車を降りようと私の正面から抜ける直前。
「……ありがとう」
潜ませた声で、そう聞こえた。
返事をする間もなく早足で馬車を降りていった彼は、後はもう何事もなかったように目を合わせなかった。アラン隊長にだけ「お世話になりました」と礼をし、その後は私達に一瞥もなく背中を向けて屋敷の門を抜けていく。
馬車を見送ってくれたトーマスさんのように、私達もまたレイが屋敷の中に消えるまでそれを見届けた。
バタン、と閉ざされる重厚な玄関扉の音が、物語を語り終えた本のように耳に響いた。
Ⅰ70
 





 
 
