Ⅱ302.頤使少女は呼びかける。
「俺様を……忘れただと……⁈六年もッ六年も待たせておきながら……‼︎」
血を吐くような激情が、一音一音に込められた。
歯を軋ませる音が響き、顎が震えている。血流が増したように顔が赤らみ仮面側だけでなく素顔の方の瑠璃色の瞳まで血走りだした。微弱に揺らぎながらも低めた声が憎悪も纏っているようだった。
防火製の服を纏った腕から指先までビキビキと硬直させながら、黒い炎が渦のように彼を取り巻いた。私達が始めて彼の屋敷へ訪れた時と一緒だ。炎を取り巻く覇気が殺気まで帯びだし、アーサーとアラン隊長が同時に身構える。
ステイルが下がるように私の手を引いてくれる中、その殺気を一身に浴びたライアーは戸惑いの色を隠せない。
視線を四方に散らし、額から首筋まで汗を滴られながら危険から逃げるように自然と足がレイから距離を取る。アラン隊長が守るようにライアーの前へと立ってくれる中、それも見えていないかのようにレイの鋭い眼光はその背後のライアーへ突き刺さったままだ。
まるでラスボスに騙されていたことを知った直後のように、黒い炎が次々とふくれあがっている。このままだと外からでも建物へ引火してしまうかもしれない。
両手で鼓動が速まる胸を押さえ付けながら、私は口の中を飲み込み喉を張る。
「レイ‼︎聞いて!ライアーは悪くないわ!彼は忘れたくて忘れたわけじゃ……」
「知るかそんなこと‼︎俺様が今まで一体‼︎っ……どんな想いでッ生きてきたと思ってる⁈」
届かない。
当然だ、こんなレイを止められるのは彼を攻略したアムレットかライアー本人。従者だったディオス達だって止められなかった。彼の過去も中途半端にしか知らず介入した私の言葉がすんなりと届くわけもない。
ゲームのレイルートでは、暴走しきる前にアムレットが止めていた。ラスボスを殺そうとする彼を止めるべく、黒炎を取り巻く彼へ自分の身も顧みず飛び込んだ。
ライアーが記憶喪失だと知った時も激昂することはなく、膝から崩れ落ちた彼をアムレットが支え、慰めた。今のライアーを受け入れ、愛しいアムレットと共にもう一度〝初対面の〟友人としてやり直していけるようになった。……けれど、今は。
『思い出はこれから一緒に新しく作っていけば良いのよ。……私も、ずっと傍にいるから』
「全て忘れたっていうのか⁈俺様一人を残して!この炎を見ても‼︎何とも思わねぇのか⁈」
ライアー‼︎と、叫んだ直後に奥歯が軋み砕けるような音まで聞こえてきた。
ジュワッと小さく蒸発する音が弾けるように聞こえる。彼の目元から溢れる雫が一瞬で気化する音だ。……ゲームで、どれほどレイにとって恋人になったアムレットの存在が大きかったのかを痛感する。ライアーが名乗る名すら持たず一人で生きてきたことを知って悲しみに暮れることはあっても、その時は能力を暴走させることもなければこんなにも苦しむこともなかった。
レイの火を吐くような叫びにも、ライアーは喉を反らし顔を歪めるだけで返事はない。レイより高い背が縮み上がるように強張っている。望む反応がないライアーに、レイは響くほど強く地を踏みしめた。ダンッ!という音に呼応するようにまた黒炎が膨らんでいく。
「荷馬車を奪ったことは⁈下級層に俺様も引きずり回したことは⁈この俺様をふざけた嘘に巻き込みやがったことは⁈この力を隠せたと言ったのは誰だ⁈」
次々と、渡された資料どころかゲームにも明かされない彼らとの記憶が叫ばれる。
憎悪の色を濃くしながらも、必死にライアーの記憶へと呼びかける。どれかたった一つでも彼の記憶を刺激できれば、引っかかればと涙を蒸気させ続ける目はライヤーから離れない。……まずい。
レイっ、と思わずもう一度呼びかける。気持ちはわかる、けれどこのままライアーに聞かせるのはまずい。ただでさえこんなに傷ついているのに、この後にゲームと同じように苦しみ出したライアーまで今のレイには見せられない。
けれど私の声はやはり届かない。それどころか膨らんでいった黒炎が広がりすぎて、とうとう周囲の木々の枝にまで届きそうだった。家畜小屋を背中に硬直するライアーをアラン隊長がレイを刺激しないように少しずつ横へ移動させるけど、レイの攻撃範囲を考えれば余裕で小屋も消し飛んでしまう。
「ッッ始めて特殊能力を見せた日のことは⁈俺様の炎を見て何て言った⁈」
私も駆け寄るべくステイルの手を振りほどこうとするけれど、しっかりと掴まれたまま離されない。
まずいと思いながらレイへ駆け出そう意思を目で示しても「駄目です‼︎」と叫ばれる。ライアーへ届くように喉を張り続ける彼に、頭の中で危険信号が鳴り響く。強い眼差しで私を見返すステイルに実力行使が出来るわけがない。
でも、ここはもうレイを止める為には主人公のアムレットみたいに飛び込むしかない。彼の愛する人ではないけれど、それでもほんの少しでもレイの気が逸れれば良い。このまま止めないと建物かライアーが……!と必死にステイルへ向き直り説得を試みるも背後でレイの言葉は止まらない。一度ステイルを振り払うことを諦め、黒炎を取り巻く彼へもう一度息を吸い上げ振り返れば
アーサーの手刀が、レイへと落とされた瞬間だった。
「ぁッ……」
無音に近い呻きと共に、レイを中心に膨れあがっていた黒い炎が消失した。
さっきまで私達を守る為に目の前に立ってくれていたアーサーが、いつの間にか一瞬でレイの背後まで駆け込んでいた。……レイを取り巻いていた黒い炎を全て避けながら。
全身から力が抜けるように崩れだしたレイを、そのまま顔だけでも直撃しないようにアーサーが背後から支えた。
私もこれには流石に唖然として口がぽっかり開いてしまう。「よくやったジャック!」とアラン隊長の弾けるような声が上がる中、ライアー本人が緊張の糸が切れたかのように膝から崩れて地面に座り込んだ。相当怖かったのだろう。しかもそれを騎士ではなく十四歳の少年が倒してしまったから余計腰を抜かしたのかもしれない。
今度は背後からステイルが深く息を吐き出す音が聞こえてきた。しっかり握られていた手も緩められ、伸びきっていた腕が自由になる。
「……まだ、こういう時の癖は治りきらないのですね。貴方は」
んぐ、と溜息交じりに言われた言葉に思わす口を噤む。
振り返れば完全にやれやれと呆れるようにステイルが肩を落としている。「強く握って申し訳ありませんでした」と握っていた私の腕を優しく手の平で擦ってくれたけれど、また落ちた肩は変わらないままだ。
いえ、それは……と、私が強く握られたことは気にしてないと否定すべきか、無茶しようとしたことを謝るべきかと言葉を詰まらせていると、私の腕に注いでいた視線からチラッと上目で私に向けられる。
窘めるような確認するような漆黒の眼差しに肩が上下すると、また二度目の溜息を漏らされた。
「できれば「離して」よりも最初から「彼を止めて」と言って下されば。……俺も、ジャックもアラン隊長も大変助かります」
「ご……ごめんなさい」
結果、謝罪が最優先に決まった。
いえ俺は何も、と言いながら手で前方を示してくれたステイルに促されるままレイ達の方へ視線を戻す。倒れ込んだレイを一度仰向けになるように寝かせるアーサーが、他に火事がないか確認するようにキョロキョロと周囲を見回していた。アラン隊長が「取り敢えず運ぶか」と頭を掻きながら歩み寄ってくれる。そこで私とステイルも合わせるようにアーサー達へと駆け込んだ。
「いやー、助かった助かった。真正面から飛び込んだら絶対攻撃されてたからさ。流石ジャック」
「いえ、アラン隊……さんが対象を守りながら引きつけて下さったお陰です」
「ジャック!アランさん‼︎」
和やかに会話を進める二人へ、悪いと思いながらも先に声が割って入る。
その途端、ピタリと一度口を閉じた二人は同時に私へ視線を向けてくれた。アラン隊長と一緒に自然と姿勢を正すアーサーに今度は私の方から飛び込む。手近な方の彼の手を両手で掴み、目をしっかり合わせたいのに怪我はないだろうかとそちらの方が気になって先に身体のあちこちを確認しながら口を動かす。
「怪我はない⁈ごめんなさい、代わりに飛び込ませてしまって……」
「ッいえ‼︎俺もそろそろやべぇと思ったとこだったンで‼︎‼︎本当にあのままだと小屋かライアー、さんも心配でしたし……‼︎」
私が止めないとと言ったから……と続けようとする前に、アーサーが慌てた様子で反対の手を振ってくれた。
怪我もありません‼︎と訴えるように首まで横に振り出すけれど、やっぱりレイの炎の合間を縫ったせいか肌が熱い。顔までみるみるうちに紅潮していくアーサーが、本当に火傷をしていないのか心配になる。見たところ服や髪は焦げていないけれど……あの渦巻く炎の隙間を縫うなんて本当に綱渡り行為だった。
いや、むしろ綱渡りより遥かに危険だ。幾重にも膨れ、広がっていた黒い炎を全て避けた上でレイのすぐ背後まで潜り込んだのだから。余波でも火傷するような高熱が相手なのに。
一歩間違えれば大火傷じゃ済まなかった。普通の人ならまずレイに届く前に手足の一本は無くすことになるだろう。私だって全くの無傷で済んだかわからない。騎士であっても至難の業だ。
しかもアーサーは一度、その身を以てレイの特殊能力の恐ろしさが身にしみている筈なのに。
「本当に無事で良かった……本当に、火傷とかヒリつくところはない?」
「いえ‼︎全部避けましたから‼︎」
アーサー本人から確認を取りながらも、最後に背中まで確認するけれど目に付く新しい外傷はない。
こちらも余熱が残っていないかと手で擦れば、ビッッと大きくアーサーが背中を反らした。一瞬痛んだのかと思ったけれど、顔を覗いたら痛みを堪えるというよりは擽ったかっただけらしくまん丸の目で見返された。「本当に大丈夫ですから‼︎」と真っ赤なままの顔で言われても心配が増してしまう。
「寧ろ‼︎……その!今度こそ勝てて良かったです。!あ、いやそりゃあ不意打ちですけど‼︎」
声を上げ、緩んだように笑い、また慌てたように声量を強めるアーサーにやっと私も肩の力が抜けて笑う。
リベンジできて嬉しいなんて、なんともアーサーらしい言い分だ。不意打ちで言ったら前回だってレイからの不意打ちだし、これで引き分けというところだろうか。
ほっと息と吐けて、次に横たわったレイを両腕で抱えながら楽しそうに笑っていたアラン隊長にお礼をする。
ライアーを守って下さってありがとうございました、と感謝をすればステイルとアーサーも合わせるように続けてくれた。
自分にまでお礼を言われたのが予想外だったように一度大きく目を開いたアラン隊長は、その後には「いやいや」と手を軽く振った。今は王族としてではなく、あくまで親戚としての態度で「当然のことだから」と言いながらニカッと笑い返してくれた。本当に心強い。
「それより、一度こいつ寝かせとかねぇと。馬車でも良いけど、一応ベッド借りれねぇか聞いてくるな」
ジャック、頼むぞ。と両腕で丁重にレイを抱えたまま、本当に重さなんて感じていないようにアラン隊長が雇い主のいる建物へとスタスタ歩いていく。
アーサーが宜しくお願いしますと頭を下げる中、私はライアーへと視線を向けた。未だに膝から力が入らないように座り込んだ彼は、茫然と瞼のない目でレイと抱えるアラン隊長の背中を追ったままだ。
二人に視線を合わせ、それから三人で今度は足並みを合わせる。
ライアーは私達が歩み寄っていることも気付かないほど、未だにアラン隊長の背を目で追い茫然としたままだ。驚かせないように彼へ呼びかけようと息を吸い上げ、途中で止める。
頭の中で正しく呼びかける名前を改めてから私は、落ち着かせた声を彼へと選んだ。
「……トーマスさん」
ライアー〝だった〟人の名を。




