Ⅱ298.子息だった青年は縋り、
「〝黒炎の特殊能力者〟……こんな美味しい奴、なんでずっと換金せずに懐に入れてやがった?」
ぴくり、とそこで初めてライヤーの身体が揺れた。
それだけで、生きているということにほっとする。けど同時に男の言葉に、探されている人間が本当に俺様なのだと確信した。
暴れるなよ、と一言釘を刺されながら男は流暢に話を続け出す。
「しかも探してるのはこの辺一帯を取り仕切ってる侯爵のアンカーソン家だ。人質にすりゃあいくふっかけられるか……、指一本送ってやっただけでも大金はくだらねぇ」
カレン家じゃない。
聞いたことのない貴族の名前に視界が白と黒になる。俺様の話の筈なのに、なにが何だかわからない。なんで侯爵家が俺様を探しているんだ?父上でも母上でもないのになんで。
「それに、貴族出どころか希少な特殊能力者とまできたもんだ。〝市場〟どころか仲介業者に売っても暫くは遊んで暮らせるぜ!」
ぎゃははははっ!と高らかな笑い声に身体が震える。
つい三日前まで、もう売られないとわかった筈なのに今度こそどうなるかと思い知る。今、ここで特殊能力を使えば逃げられると思ったのに身体が熱すら発してくれない。
昨日まで知っていた世界が反転する感覚に、父上が目に浮かぶ。ライアーの背中に乗り上げている男が一瞬本気で父上に見えた。あの棺桶に押し込められる感覚を生々しく思い出す。
乗り上げた男が懐から出した縄を使って、慣れた手つきでライヤーの腕を縛り出す。
「悪く思うなよ兄弟。別にテメェに恨みはねぇさ。だが時間がなくてな。人身売買連中もこぞってレイを探してる。中にゃ結構な大物もいるって話だ。奴らに先を越されるわけには」
「じゃあ俺様のことも恨むなよ?兄弟」
ブォワッッ‼︎‼︎
ライアーが言葉を上塗った直後、腕を縛り上げていた男の顔面が火柱に飲まれた。
あっと俺様が声に出す間もなく、首から丸ごと火にかき消された。蝋燭よりも火まみれになった頭で男がライアーの上から転がり落ちる。悲鳴のような断末魔のような、人間と思えない声で叫んで地面にゴロゴロ転がった。その姿をよそに、周りにいた男達が一斉にライアーへ飛び掛かる。
テメェもか、特殊能力者だと、と。幾つも同じ意味の言葉が重なって、俺様を押さえていた奴以外全員がライアーへ武器を振り上げる。
「あばよォ楽しかったぜ兄弟ッ‼︎」
痛む右手の代わりにライアーが左腕を伸ばした瞬間、火柱がまた上がった。
ナイフを構えていた男とその背後に続いていたもう一人も丸ごと飲み込んで、一瞬で火だらけにする。相手が銃を撃ってもライアーが放つ火が銃弾ごと相手を飲み込んだ。一番身体の大きい男が向かってきても、また腕を突き出しただけで膝上までを巨大な火柱が飲み込む。
あっという間に全員を地面に転がすか火の塊に変えたライアーは俺様の方に向き直った。
「さぁ〜て!俺様に殺されるかレイちゃん逃してとんずらするか三秒で決めろ兄弟!」
来るな、と俺様にナイフまで突きつけた男にライアーの笑みは変わらない。
焼けた死体を転がしながら翡翠に染めた髪を掻き上げ、両手を広げて構えてみせる。その途端、返事を待っている間にも手の中で生まれた火柱が拳を握るような動作と一緒に太さも絞られた。
せっかく太い火柱がぎゅっと細くなってどうするんだと思えば、それを振りかぶる。槍のように空を切って放たれて、俺様を押さえる男を真っ直ぐ貫通した。俺様に突きつけていたナイフで槍を弾こうとしたのか、振り返った時にはそのナイフごと顔に大穴が空いていた。
俺様より酷い顔になった男がバタリと倒木みたいに倒れ込むのと同時に、駆け寄ってきたライアーが俺様の手を掴む。
「行くぞレイちゃん!時間がねぇ‼︎」
そう言って引っ張られるまま俺様も走り出す。
行くって何処へ、と言っても返事はない。俺様を引きずる勢いで走るライアーに何度も説明しろと叫ぶ。なんでまたこんなに必死になって逃げ回らないといけないのかわからない。
何処に、なんで、どうすればと何度も何度も繰り返し叫んで横腹が痛くなってきたところでライアーは叫ぶように答えた。
「聞いてただろ⁈アンカーソン家だよクソ‼︎もうそこしか安全なとこはねぇ!その大バカ侯爵が特殊能力まで広めた所為で面倒なことになりやがった!」
特殊能力者は人身売買に狙われる、と早口で言うライアーに頭が追い付いてこない。面倒っていうのはこのことだったのかと思いながら、ただ必死に走る。
アンカーソンなんて貴族の家の場所わかるのかと聞けば、「領主の寝ぐら程度知らねぇと悪さもできねぇだろ‼︎」と勢いのまま叫ばれた。
アンカーソン家に行くということは、とそこで思考が追いつけばまた別の疑問に喉を張る。
「ッ俺様はっ、アンカーソン家なんか知らない‼︎侯爵家なんか、行ってもまた父上みたいに何されるかっ……」
「熱り冷めるまではそこにいろ‼︎‼︎言ったろ⁈良い子ちゃんの振りして匿わせて利用しろ‼︎やばかったら迎えに行ってやる‼︎」
いやだ。
折角、一緒に居て良いと言われたのに。宜しくと約束したのに、なんでそうしないといけないんだ。ライアーが強いなら、このまま二人で何処かに逃げれば良いのに。
首を横に振っても、走る先に顔を向けたままのライアーには気付かれない。俺様の手を引っ張りながら息が荒い。やっぱりまだ右肩は痛んでいるのかもしれない。
「人身売買の連中よりはマシだ‼︎人身売買ってのはなぁ!獲物捕まえる為ならマジでなんでもしやがるんだよ‼︎特にフリージアじゃ特殊能力者だって捕まえられる手練れだ‼︎」
一本道を抜け、塀を越え、建物の隙間や敷地内を通り抜け、間違いなく直線距離を走っている。
気持ちも覚悟も固まらないままに、息だけが上がっていく。わけもわからなくなって視界が勝手に滲んでいって、息とは別に胸が苦しい。なんでこんなに俺様ばっかり何度も全部が変わらないといけないんだ。
もう変化なんか求めてなかった。俺様はもう、このままで良かったのに。
「最ッ高だろレイちゃん!アンカーソンっつったら指折りの名家だ!いつかタダ飯食いに会いに行ってやるからせいぜい取り入っとけ!」
「ライアーはっ……それまでどうするんだ⁈」
嘘か本音かわからない言葉に、どこを走っているかもわからない。
まだ裏通りの筈なのに、俺様達に興味ある奴なんてどこにもいなかった筈なのに、すれ違う奴が、通り過ぎた奴が「いたぞ!」「アレが例の⁈」「おい待てライアー」「レイよこせ!」「捕まえろ!」と叫んで追いかけてくる。屋敷の近くで張ってやがったかと舌打ちまじりにライアーが呟いた。
「アァ⁈べっつに俺様は指名手配でもねぇんだ‼︎足手纏いのテメェを厄介払いできたらまた平和ないつもの生活に戻るだけだ‼︎城下のどっかしらには居るから気にすんな‼︎‼︎」
どれが嘘か本当かわからない。
本当に俺様さえいなくなればライヤーは無事でいられるのか、ならなんで三日前には一緒にいるといってくれたのか、俺様を売るつもりだったのか邪魔だったのか守っていたのか助けてくれようとしているのか嵌めようとしているのかもわからない。
ただ、今俺様もライアーも助かる為には、アンカーソン家に俺様一人で入り込むしかないという諦めだけがストンと落ちた。
ただ掴まれている手だけが信じられないくらい強く、離そうとしないでいてくれている。これだけが、本物だった。
角を曲がり、塀を越え、木々の向こうに一際大きな屋敷の頭角が見えてきた。「アレだ!」とライアーが声を上げた中、俺様にはそれが希望が絶望かもわからない。あとちょっとだ踏ん張れとライアーがへたりそうな俺様に顔だけで振り返った時。
乾いた音が、二回響いた。
「ッガ‼︎……ックソ……」
パァン、パァンと。三日前にも確かに聞いた音は耳に届いた瞬間すぐわかった。
走ったままライアーが前のめりに転び、倒れた。ライアー、と叫んだまま手が繋がった俺様も転ぶ。夜と違って、晴れ渡った空の下でライアーの足から血が噴き出しているのが一目でわかった。一発は地面、もう一発はライアーの足に当たった。
背後からも笑い声や足音がいくつも聞こえて、振り返れば何人もの男達が迫っていた。当たった、よし俺の物だ。早い者勝ちだ、ガキの方だと言いながら、中にはやっぱり今まで気安く話しかけてきてた連中も混ざってた。全員が俺様を捕まえる為に迫ってる。
一人起き上がった後も、ギラギラ光るその目に思わず細く悲鳴が零れたら俺様の手を掴んでいたライアーの力が強まった。
「行けッ‼︎もう林も抜けきれる‼︎まっすぐいきゃあ屋敷だ!侯爵家の門前なら待ち伏せもいねぇ‼︎」
そう言って掴んでいた手を離し、俺様の背中を押す。前のめりにまた転びかけ、つんのめる。
足がそれ以上動くのを頭が許さない。怪我をしたライアーを置いて、こんなにいきなり全部を捨てて逃げるなんてできるわけない。震える唇の代わりに首を横に振った。顔の筋肉へ変に力が入る。ライアーに手放されたまま服の袖だけ握って男達とライアーを見比べる。途端、「行くんだよ」とライアーがまた俺様の腕を掴み引き寄せた。
「この俺様が助け呼んでくれっつってんだよ!テメェが言えば侯爵家の衛兵も動かせる。俺様が善良な一般市民で大恩人だって言い張って連れてこい。裏稼業だろうがなんだろうが侯爵家まで敵に回してぇ奴はいねぇんだ急げ」
水を打ったような落ち着かせた声に反して早口で言うライアーは、一瞬も俺様から目を離さなかった。
込み上げる喉を飲み込み、頷く。ライアーが動けないなら俺様が動くしかないとそれだけを今は一番に考える。今あいつらの狙いはライアーじゃなくて俺様なんだ。
裏稼業達が追いかけてくる中、決死の覚悟でライアーから駆け出した、その途端。
ブォワァアッッ‼︎‼︎と、分厚い音と熱気が背中を押した。
「えっ……⁈」
振り返れば、さっきまでただの林だったそこは火の海だった。
ライアー‼︎と、その火柱が誰のものかもわかって声を張る。足元から火の壁が上がって、さっきまでそこに居た筈の姿すら見えない。影の代わりに聞こえるのは「来るなよ」といういつもの調子の声だった。
ずっと向こうから男達の「火が」「ガキは⁈」「特殊能力者だ!」という声が聞こえる。姿も見えない筈なのに男達の殺気が俺様じゃなくライアーに向けられているのが肌の強張りで感じた。
「馬鹿‼︎そんな火じゃ誰も駆けつけられねぇだろ‼︎俺様が衛兵連れてきてもっ……」
「いーの、いーっの。お前の助けなんざ最初から期待しちゃいねぇよ。さっさと行け」
騙したな‼︎‼︎と喉が壊れそうなほど叫ぶ。
火の中で、もう近付くだけで顔が熱い。冷まそうと溢れるのが汗か水なのかもわからない。俺様の特殊能力じゃこの火の中に飛び込むこともできない。自分の火に炙られてこんな顔になった俺様にライアーの炎は越えられない。
「この先が安全なのは本当だ。衛兵もいる。さっさと行け。もう二度と会うことはねぇ」
「助けを呼べって言っただろ‼︎ただ屋敷に取り入るだけでっ、またライアーが」
「ああ、全部ウソだ」
直後にボワリ、ブォワッと火の唸る音が聞こえる。
同時に男達の叫びが聞こえて、この炎一枚向こう先にどれどけの数がライアーを襲っているか嫌でも想像できる。
火と赤と光で埋め尽くされて揺らめいて、目から滲んで溢れて余計に視界がぐちゃついた。ライアー‼︎と喉が枯れるまで叫んで呼んだのに、乾いた音と何人もの呻きと轟音に潰される。
急がないと、衛兵を呼ばないとと思うのに今度こそ足が固定されたように動けない。
「なんでだよ‼︎‼︎なんで!ッなんで、そこまでするんだよ‼︎俺様のことなんか最初から売るつもりだったくせに‼︎‼︎」
「そりゃあ俺様は大嘘つきだからな」
息が切れた声が突然返される。
弾が溶けた、銃が、ナイフが、獲物がと。男達の怒声に紛れたその声だけは聞き逃さない。今までも聴き慣れた言葉が、まるで最後の文句みたいで喉から肺まで引き攣った。
これが最後なら、本当にこのまま死んでも良いと思った。助けを呼べないならあの屋敷にだって何のは希望も期待もないのに。
ライアー、ライアー、と何度叫んでも轟音しか聞こえない。たまに返される言葉は「さっさと行け」の言葉だけだ。火の向こうへ飛び込む勇気も震えた足と滲んだ視界に殺されて、ただ叫ぶしかできなくて
「……頼むから。お前は俺様みてぇにならねぇでくれよ」
……今までにないくらい。弱くて静かな声が、聞こえた気がした。
耳が潰れるくらい轟音と怒号が酷いのに、それだけは怖いくらい耳に通った。
息を飲み、叫ぶのも数秒忘れた。頬を伝う涙が一瞬途切れて瞬きを拒んだ目が焼ける。意味もわからないのに、今まで聞いたことのない声に胸騒ぎが酷くて視界が無になる。
「ライっ」
「またな」
最後の言葉は、遮られた。
次の瞬間、空にも届くような火柱が上がって思わず見上げた。メラメラと燃える炎を最後に、もうライアーは返事をしなかった。
炎の向こうで誰かが誰かと戦っている声だけがいくつも重なって聞こえ続けた。足も固まって、消えない炎を前にへたりこんでしまうと、バタバタと炎とは逆方向から足音が聞こえてきた。今の炎は、こっちだ、火事だ、水をと騒いでいる声に肩だけで振り向けば衛兵だ。さっきのライアーの火柱で駆けつけたらしい。
鼻を垂らしてえぐえぐともうまともな声も出ない中、衛兵の一人が丸い目で俺を見た。
「君!その火傷に瞳っ……もしや件のレイ様では……⁈」
─ 助けて。
濁った声で言おうとしてもしゃくり上げて濁って言葉にならなかった。
ぱくぱくと口をひっくり返して鼻を啜り上げても、言おうとすればするほどに濁ったそれはただの喚き声だった。どんなに言葉にしたくても届かない。
─ ライアーをあいつらから。
「もう大丈夫です!どうぞこちらに‼︎」
「ッおい‼︎旦那様にご報告を‼︎レイ様が見つかった‼︎」
「ここは危険だ!すぐに屋敷へお連れしろ‼︎」
枯れた喉で何度言っても理解されない。
え゛え゛あ゛あ゛ッと泣き続ける俺様の言葉は、自分でも声にしたら何を言ってるかわからない。
助けて、向こうにライアーが、殺される、あの向こうにと。燃える壁の向こうを何度も震える指先で指すことしかできない。
示した先に衛兵の何人かが目を剥いた。誰か逃げ遅れているのかと足を踏み出したが、戦闘音しか答えない火の壁は衛兵すら拒絶した。
これ以上は近づけない、と火の勢いに怯んで戻ってくる衛兵を前に、やっぱり呼んでも無駄だったんだと理解する。俺様だけでも抱き上げようとする衛兵に手を付いて抵抗し、必死に何度も懇願する。
─ あの向こうにいるんだ。
「ア゛い゛ァ゛あ゛ぁぁあああ゛っっ‼︎‼︎」
「怪我をしているかもしれない!医者に見せよう‼︎」
「火の向こうで銃声が聞こえたぞ⁈追われていたのかもしれない!早く屋敷に‼︎」
「もしかしたらレイ様をここまで連れた者がいるんじゃないか⁈おい!俺達じゃこの火は手に負えない!誰か騎士団を」
「駄目だ‼︎旦那様から暫くはこの周辺に騎士を近づけさせるなと命じられているのを忘れたか‼︎」
抵抗も力が足りず無理やり担がれ、運ばれる。
手足を振り乱して暴れても大人には敵わない。今、自分の意思で特殊能力が使えたらと自分を呪う。
こんなに叫んでいるのに、呼んでいるのに、衛兵の声だって炎一枚向こうで聞こえている筈なのに、ライアーはもう答えない。
何かあったのか、生きているのか、死んでいるのか、なんで答えてくれないのか。頭もぐちゃぐちゃのまま、遠退いていく炎が乱反射し視界に焼き付いた。
ライアーが、と。必死に踠き助けてと濁った声で喚きながら、どこか冷たい頭の隅で
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛‼︎‼︎‼︎」
『またな』
あの大嘘つきの最後の約束に、縋った。




