Ⅱ291.次期王妹達は巡る。
「よって、ここの式の答えは……」
「…………」
どうして今に限って、と。
授業が迅速に進められながら、その教室の心は一つだった。
学校王族が訪問したと報せが入ってから、廊下を王族が通り過ぎた時すら最も静けきっていたその教室で教師が行う授業だけが時を刻んでいた。
教師の授業へと耳を傾ける中、生徒達は意識だけを正面とは別方向へと向ける。
教室で最も不人気である後方端の席に、一人の青年が突っ伏していた。常に持ち歩いている妙に重そうな荷袋を壁により掛け、褐色肌に焦げ茶色の髪を雑に束ねた青年だ。
ここ最近は教室自体から行方を眩ませることが多かった為、彼らも妙な緊張感に襲われずに済んだ。教師も穏やかに授業を進め、他の教室と変わらなかった空間が今は再び物音一つに気を払う場所に戻っていた。平穏だった教室に、今に限って恐怖因子が戻ってきているのだから。
彼が起きないように、そして再び隣国王子が現れてもどうか何事もなく寝入っていてくれるようにと願い、身を硬らせる。彼らも本来であれば他の教室のようにレオンやティアラの訪問に興奮を露わにし、教師から告げられた時点で自分達の教室にまた現れないかと夢を見たかった。しかし、不良生徒一名が教室に戻ってきてしまったことで今は王族が素通りしてくれることを望んでしまう。
ここ最近で妙に大人しかったとはいえ、裏家業に見えた生徒が次々と学校へ訪れなくなったにも関わらず、最も恐れられる彼だけがいつまでも校内から去ってくれない。最も授業を真面目に受ける素振りも見せない彼が何故まだ残るのかと、生徒も教師も疑問は尽きなかった。
しかし、ヴァルからすれば仕方ないことだった。むしろ本人も不本意でしかない。今夜はレオンに直接文句を言いに行ってやろうかと考える程度には腹も立っている。
プライドから許可を得てから、いつものように校舎裏に特殊能力で巣を張り惰眠を貪っていた。
しかし、レオンとティアラという王族の来訪の騒ぎに目を開けば、次々と騎士が学校を包囲し始めていた。更に校舎周りにも次々と騎士が入り込んでくるとわかれば、流石にヴァルも撤退するしかなかった。普通の相手ならまだしも、騎士相手にまで特殊能力の擬装がいつまでも通じるとは思えない。
不審者と思われても面倒だが、正体がバレたら更に面倒なことになる。
前科者としても配達人としても、今や自分は大勢の騎士に顔が知られているのだから。極悪の人相だけでなく褐色肌で特徴が強い自分では少し若返らされたくらいで騙し切れると思うほど楽観的でもない。
こうして騎士がいる間に最も避難に適したのは自分の教室だった。空き教室の施錠も強化された今、ここなら自分がいる分は咎める相手もいない。あとは寝ていれば少なくとも授業の間はやり過ごせるし時間も勝手に過ぎてくれる。
前回睨みを利かせた結果、レオンが二度と自分の教室へ来ないこともわかっている。面倒な相手とは思うが、自分が圧倒的に不利な立場の時に茶化してくる相手でもない。睨んでやった時の表情からも、それくらいは理解できた。
ただし、生徒教師は当然ながらそんなことを知るわけもない。
レオンとティアラが通り過ぎた後も、いつまた気が変わって教室に入ってくるかと半ば怯えながら授業を続けていた。強面の不良が急減したのに何故よりによって一番恐ろしい彼が残るのかと、疑問を通り越して不満とさえ思う。
……まさかその強面達が下級層生徒を恐喝していた本職の裏家業であったことも、ヴァルがその彼らを校舎裏で狩っていた本人とまでも思いもせずに。
……
「私もレオン王子に理事長をご紹介できて良かったです!」
鈴の音のような軽やかな声で、ティアラは傍を歩くレオンへと笑いかけた。
前回不在だった為に敵わなかった理事長との挨拶を終えた彼女達は、再び学校見学へと勤しんでいた。授業の妨げにならないようにと声をある程度抑える中、一定の速度で階段を登っていく。
「うん。プラデストへの考えもしっかりしている人だったね。教師としての経歴も申し分ないし、理事長に任命されたのも納得だな。次は副理事長にも会ってみたいな」
「私もですっ!確か今の四限は授業中ということでしたし、今度二限か三限に伺ってみませんか?」
良いね、とレオンが返す言葉にまたティアラが笑む。和やかな会話はまるで庭園でも散歩しているかのようだった。
事前告知されていたとはいえ、就任してすぐ王族二人の来訪に脈が不規則になった理事長だったがそれでも無事彼らへ対応することはできた。本人の人生経歴もさることながら、相手が穏和な顔つきのティアラとレオンであったことも大きい。
飛び抜けた美麗な容姿を除けば、二人とも相手に圧迫感を与える顔や表情を浮かべない。そして更には今回、就任から初めての王族訪問にも関わらず副理事長が自身の授業で同席不可能の中、血色を悪くしながら一人での応対を決死の覚悟で決めた理事長を見兼ねた一人の講師の同席も大きかった。
「カラム隊長とまさか理事長室でお会いできるなんて思いませんでしたっ。まだひと月も経っていないのに、本当に信頼されていて……」
「僕もだよ。お陰で理事長とも楽しく話せたな」
近衛騎士、そして爵子としてティアラとレオンと面識のあるカラムが間に入ることは、理事長にとってもこの上ない救いだった。
まさかカラムが騎士隊長以上の立場をいくつも持っていることまでは聞かされていなかった理事長だが、騎士隊長ともなれば王族との面識もあるということに疑問も抱かなかった。それよりも、緊張する自分に代わりその場の空気を居心地の良いものにしてくれたカラムにただただ感謝した。双方と面識があるカラムの存在は、理事長にとってこの上なく心強い味方だった。
案内を任されていた教師も、今も王族二人を先導しながら心の底からカラムに感謝する。流石騎士隊長ともなると、と思いながらこの時期に騎士が講師に来てくれたことは幸いだったと思う。
レオンとティアラも、見事に学校へ馴染んでいるカラムを流石だと思う。騎士の誰もが、このひと月足らずで教師から信頼を得られるとは限らない。むしろ畏敬の念から敬遠される場合すらある。
そこでふと、対称的に学校へ確実に馴染んでいないであろう友人をレオンは思い出す。
彼はどうしてるかな、と少し高等部三年の教室にも訪れてみたくなったがすぐに思い直した。少なくとも、自分達王族がこうして学校に滞在している間は彼も騎士に気付かれないようにいつも以上に気を払わないといけなくなっている。前回は事故で彼と遭遇してしまったが、今後は潜んでいる彼にも迷惑が少なからずかかると知りながらの訪問だ。ならば、せめてもう彼の元へ訪れるのはやめるべきだと結論はついていた。
むしろ二度目の学校訪問をした時点で、早くて今夜にでも彼から直接苦情に来るかもしれないとも思う。
「またレオン王子殿下がいらっしゃるの楽しみにしてますねっ。私もお姉様の代理としてたくさん御案内したいです!」
「ありがとう。確かティアラは明後日も……」
城に帰ったらすぐに部屋の酒の残量を確認しなきゃなと、ティアラと語らいながらも頭の隅で考える。
王族の会話に口を挟めず、頭の中で考える教師はやっとそこで目的の教室へと辿り着いた。第二王女の強い希望で見学を望まれたそのクラスの扉に拳をかけ、教室内の教師への合図にノックを鳴らした。同時に扉の窓と、廊下からの話し声で期待を膨らませていた生徒達も少なからず騒めき出す。
教師から事前に知らされたとはいえ、この教室を王族が訪れるのは今日が始めだ。先頭の教師越しに見える王族の影に、少なからず色めきだった。教師の案内と共にとうとう扉が開かれる。
「こちらが、中等部の特別教室となります」
普通教室と違い、貴族や上級層の人間が所属するクラスですと。改めて説明を添えられる中、授業を行っていた教師も恭しく頭を下げた。他の教室のように興奮の渦になることはなかったが、扉が開かれた途端にその場から一斉に立ち上がった生徒達は王族に向け教師と同じく深々と礼をした。普通教室の生徒と違い、彼らは家で一定の礼儀も教養も受けている。……当然、レイもその一人である。
こんにちわ、お邪魔しますとレオンと共に挨拶を返しながらも、ティアラの視線は真っ直ぐに彼へと向いていた。今回、レオンを案内するにあたってこの教室を見学に望んだのは、彼の姿をこの目で確認する為だったのだから。
ウェーブがかった翡翠色の髪と瑠璃色の瞳。顔の左半分を幻術的な仮面で隠した彼は、間違いなく予知で見たあの青年だった。
王族を前に、流石の彼も今は礼儀に倣う。目こそ合わせてはこないが、深々と下げた頭とその表情だけは予知で見た彼の姿とは別物である。
彼が……、と心の中で唱えながらも表情には出さないように意識しティアラはじっと視界に捉えた。予知した未来では裏稼業とはいえ何人をも焼き殺し、周辺住民にまで火の手をバラ巻き、そして現にアーサーへ火傷を負わせた彼に不満が全くないわけではない。レオンと教師との会話を耳で聞きながらも、ぷくっと頬を膨らませたい気持ちを堪える。それでもやっぱり彼がこうして自分の予知した先よりも優しい世界に生きていることは嬉しいと思う。ただし
『納得のいく、……再会になれば良いのですが』
城を出る前に語ったジルベールの言葉が引っかかる。
城に訪れたレオンを迎えるまでいつも通り王配である父親の手伝いに勤しんでいた彼女は、当然王配補佐であるジルベールと二人きりになることもあった。
今日も二人きりになり、ジルベールの手伝いもしていたティアラだったが、そこで彼が業務の片手間にプライドから頼まれた奴隷被害者の所在を調べる時も傍に居た。これで無事に彼がライアーと再開できれば私も嬉しいですと声を弾ませるティアラに彼は微笑み、そして小さく呟いた。
ティアラが首を捻ろうと聞き返そうともジルベールはやんわりと話を逸らすばかりだった為、未だに彼女もその真意は掴めていない。ただ、ジルベールの薄水色の眼差しがうっすらと陰っていたことに小さな胸騒ぎだけが残っていた。
自分は彼と直接会うのは初めてだが、プライドからいくつも話を聞いている。だからこそ、ちゃんとライアーとの再会を果たさせてあげたい。
……大丈夫。お姉様達ならきっと。
今はこうして直接声を掛けることもできない身で、胸を両手で押さえ付けながら静かに笑んだ。
既に自身が、彼が道を踏み外す瞬間を止めた立役者であることも忘れる。ただ、プライドならと。そして彼女の力に自分もなろうとそれだけを新たに決める。今、こうしてレオンと共に学校へ訪れるのもまた潜入中の姉兄達を守ることに大きな貢献なのだから。
予知した先で、今にも泣きそうで心の底から後悔と憎しみを叫ぶようかのようだった彼の力になりたいと素直に思う。
「へぇ、興味深いな。僕らもこのまま聞いていっても構いませんか?」
教師からの授業内容を聞き、興味を示したレオンに教師も顔を紅潮させ頷いた。
貴族個人相手に授業は慣れたものだが、まさか王族相手に手解きをする機会など滅多にない。しかも興味を持たれたと思えばそれだけで胸が高なった。
レオン自ら最後列に立って授業の話に聞き入る中、その隣でティアラもちょこりと並ぶ。生徒達の背中を眺めながら、やはり自然と目はレイへと向いてしまう。
教師の授業は自分も楽しい。城では習わなかった内容や雑学、違う観点での話は貴重で為になる。しかし今だけは授業よりも彼の姿が気になった。
強がり威嚇し、弱い自分を隠しきれないまま誰かの安否を求め続ける姿は、何処かのお馬鹿な第二王子だった人に似ているとも思うから。
レイを見つめているのが気付かれないように視点からは外しながらも眺め続けるティアラは、きゅっと小さく自分の裾を握る。
この後絶対に高等部の特別教室には行かないんだから!と、まじないのように自分へ言い聞かせた。




