Ⅱ253.男は呼び出され、
……どういうことだ……⁈
ガチ、ガチ、ガチと歯を何度も噛み締めながら男は考える。
上等な馬車に揺らされながらも、彼の心境は決して穏やかではなかった。自分の所有している馬車で自分の命令した先に向かい走らせているというのに、全く生きた心地がしない。
背もたれに身体を預ける余裕もなく、ただひたすら前のめりに背中を丸め、目を閉じては開くを繰り返す。ほんのひと月ほど前までは順調過ぎるほど順調だった生活が、今まさに崩れ去ろうとしているのだと長年の経験から早くも理解していた。
始まりは、昨晩に届いた一通の通知書だった。
王家の刻印が刻まれた封を開けば、そこに記載されているのは明日指定の時間に城へ訪問せよという王配直々の命だった。
一体どれがバレたのか、と普通ならばそれに頭を悩ませても良いほどに覚えがあるが、彼にとってはどれも〝大したことではない〟筈の疚しさのみ。わざわざ王配直々に呼び出されるほどのこととはと考えればその中で的は絞られる。更には以前、第一王子の誕生祭に招かれた時の身の毛のよだつ記憶を思い返せば最もそれが可能性も高いと考えた。
「旦那様、到着致しました」
緩やかに動きを止めた馬車の後、御者によって扉が開かれる。
まるで車酔いでもしたかのように顔色の悪くなった男はそれでもふらりと立ち上がった。専属の従者と共に馬車を降り、ゆっくりと俯きたくなる首を持ち上げる。正面まで上げてもまだ足りず、更に今度は空でも仰ぐように上げればやっと建物の遙かな頂まで視界に収められた。
目の前の建物だけでも大きすぎるが、これでも広い視野で言えばあくまで城内の〝一部〟に過ぎない。
軽く目を泳がしただけでも至る所で衛兵が配置されている中、一際豪奢な門を前に人形のようにずらりと彼らが並んでいた。整列する衛兵全員が示すのは、この国で最も神聖とされる王宮への一本道だ。
迎えに待たされていた一人の衛兵が前に立ち、彼を案内するべき足を規則正しく前へと動かした。
まるで連行される罪人のような気分で、衛兵の背後に男も続く。
一体王配は何の用事なのかと衛兵に尋ねたい欲求をぐっと堪える。騎士ならばともかく、一介の衛兵にそんなことを聞いて知っている筈もない。彼らはあくまで警備でしかない。それは、同じように自身の屋敷や領地に衛兵を携えている自分がよくわかっている。
表向きないつものように平静を取り繕い威厳を保ったが、決して良いとはいえない血色が正直に彼の心境を物語っていた。
今までも業務や式典で歩くことを許されたその建物内を進み、回廊と廊下を進み続けた彼はある一点でとうとう立ち止まる。衛兵がそこに近付くごとに、どうかそこで立ち止まらないでくれと心から願ったが無駄だった。
ピシリと両足を揃えて男へと向き直った衛兵は迷い無くダンダンッとその扉を力強く叩く。響く声で男の到着を伝えれば、扉越しの返事も待たずして衛兵は「奥で殿下がお待ちかねです」と男に告げた。
唖然と開いてしまいそうな口に力を込め、男も正面から身体を向き直す。
そしてとうとう左右に控える別の衛兵が無言のまま扉を奥へと開いた。
「ようこそ、お待ちしておりました」
なだらかなその声に、男はそれだけで脈打ちが気持ち悪く速まった。
薄水色の瞳と髪。肩の位置で結わえた長さの髪と温厚にしか見えないにこやかな笑顔。男を最初に迎える声を掛けたのは、この国の宰相だ。
扉から見て一番奥の正面に座していた王配の隣に佇むその男に、まるで蛇にでも睨まれたかのように背筋を冷たく駆け巡る。
今まで何度も顔を合わせたこそあるが、常に優雅な言動と笑顔を絶やさなかった宰相が今は遠目でもわかるほどに切れ長な目を妖しく細めている。自分が初めて城に足を踏み入れることが許された時には既に宰相の地位にいた優男だが、彼がその平静を崩したところなど見たこともない。
最奥に掛ける王配も常に相手を眼光だけで射止めるような威圧のある顔立ちと存在感があったが、男は時折宰相の方に薄寒さを感じる時があった。
若くして宰相の地位を実力のみで我が物にし、そして今も尚王配や女王に気に入れられているこの男は今まで〝失敗〟というものを味わったことなどないのではないかと考える。
生まれながらにして高等な血筋と地位、将来を全て約束されてきた男にとって、それを己が実力のみで手にした人間は不気味とすら思えた。きっと宰相の家柄がその権力を得る機会を与えられるほどに恵まれた、隠された名家であるのだろうと考えることだけが想像の限界だった。
「この度はお忙しい中突然お呼び立てして申し訳ありません。どうぞ、中央に〝お立ち下さい〟?」
ゆるやかな笑顔と共に宰相へと進められたのはまさに部屋の中央だった。
王宮にこそ何度も足を運んだことのある男だが、その部屋に入ったことは数度だけ。そして中央に立たされたのは人生で初めてだった。ギラギラと真夏の太陽に炙られるかのように乾いていく喉を一度鳴らした彼が足を進めれば、いくつもの目が差し向けられた。その部屋にいるのは王配と宰相だけではない。
「上層部もお待ちですよ」
上層部。
その言葉を宰相の口から語られれば、わかっていた筈にも関わらず指先が冷たくなった。
フリージア王国の心臓部である王都。その最も誉れ高い城で働くことを許された者。国で最も優秀な人材のみが付くことを許される彼らは、全員が男よりも遥かに上の立ち位置を国で位置付けられた者達である。
優れた特殊能力と、国を動かすに相応しい能力とを併せ持った者。
上層部として選出されたことで爵位を与えられた者や、中には生まれながらの高潔な一族である貴族からそのまま成り上がった者もいる。敢えて貴族の称号を断り、平民側に立ち続ける者もいる。
上層部として公爵にすら命令権を持つ彼らの共通点はたった一つ。優秀な頭脳や経歴を持った特殊能力者ということだけだ。
選ばれし貴族の中でも上層部になれるのは極一部。どれほど崇高な血を持とうとも、どれほど頭脳を持とうともそれだけでは選ばれない。
優秀な特殊能力。天から与えられた才能を得た上で、更に本人の能力や家柄の高い者が厳選される狭き門である。
この国の心臓部に最も近い位置で動くことを許された彼らは最上層部の手足といっても良い機関である。頻繁に王宮へ赴く彼らだが、一つの場所に全員が収集される機会は数少ない。式典などの国を挙げて祝う場か、もしくは
〝議会〟の時のみ。
「……この度は、私めに何のご用でしょうか」
バタン、と静かに扉が閉ざされた中、挨拶と共に決められた口上を述べた男は静かな口調で自ら尋ねる。
あくまで自分は疚しいことなどしていない。ここにいるのは何かの間違いか、もしくは思い違いだと己へ言い聞かす。
法案協議会など特別な議会を行う時のみに使用を許されるこの部屋に、全員が揃っている。その時点で、引き返せない証拠が掴まれていることなど当然。であるにも関わらず、今だけは都合の悪い思考を無意識に男は止めてしまう。
上層部が収集された上、待ち構えるのは王配。しかもこの場にいる王族は彼だけではない。
ええそれは、と落ち着いた口調で語る宰相ジルベールは、薄い笑みでその場を進行する。宰相として上層部の中で最も高い位置を与えられる彼は、王配の右腕としてその口をゆるやかに動かした。
「ご存じの通り、今我らがフリージア王国は重要な機関を創設したばかりです。教育機関〝学校〟……プラデストは、国内を初めとして周辺諸国からの関心も高い存在となっております。同盟共同政策の大事な基盤ともなるそこは、今我が国で最も注目を浴びているといっても過言ではないでしょう。勿論、それは貴方もよくご存じだと想います」
水の流れのように順序よく語られる口上に、まるで刃先で喉を撫でられているような感覚が男を襲う。
〝学校〟〝プラデスト〟……それは、彼にとって今最も身近で、そして今この場で最も語られたくない言葉の一つだった。
「存じております」と乾いた喉で口にしたが、思ったよりも上手く声がでなかった。抑えた声、と言えば響きも良いが単純にそれ以上の声が出なかった。姿勢だけを毅然と伸ばしながらも、手汗が酷くなり胸の前で自然と誤魔化すように手を重ね組む。
「プラデストは間違いの許されない、今が最も大事な時期とも言えましょう。……ですが、ここ最近少々〝問題がある〟と私共の耳に届いておりまして」
ゆるやかな声が、急激に低められた。
スルリ、と蛇に首を巻かれたような錯覚に男は息を飲む。唾を飲み、奥歯を噛み締めてそれでも平静を取り繕ったが、瞼が痙攣するように開かれた。
聞き返すか、しらばっくれるかと思考を回すよりも先にジルベールの言葉が続けられる。
「先ず、学内に数人〝裏稼業〟の人間が高等部に紛れ込まされていたことが独自の調査で判明致しました。今はその殆どは〝何故か〟姿を消しているようですが、裏も取れております。彼らは全員、学内で下級層出身の生徒を狙い恐喝行為を行っていたということです」
教育機関である学校に裏稼業の潜伏。出自を問わず十八歳以下であれば閉ざす門を持たない方針の〝学校〟だが、そこで犯罪を行われていては話が変わる。
学問を求めるのでも本来の目的を望むでもなく、一般生徒に被害を加えるのであれば学校の平穏を侵す存在だ。
しかも公的機関である学校内での犯罪であれば、更に重罪である。
そのままジルベールの口から、裏稼業による恐喝の影響で学校から逃亡し戻ってこない生徒も多発していることを語れば、閑静としている場の空気が重くなる。
もともと国内の一定水準の生活と学力を口上させる為の機関で、その最も狙いとされている下級層の住人が学校を去ったことは痛手だった。学校は彼らの為の機関。それを寄りにもよって裏稼業の人間によって侵されたなど許されることではない。
薄い笑みを崩さないまま語るジルベールの言葉に、男は息の吐き方も忘れて聞き入った。気が遠くなりそうなのを必死に留め、そして頭の中だけで絶望的にこう考える。
〝なんだそれは〟と。
男には、全く覚えのないことだった。
しかし、ジルベールの口上からまるで自分の罪のように語られていると男は思う。知らない、私はそんなこと認知していない、裏稼業の人間など関わっていないと何度も頭で繰り返す。発言の場を与えられたら即訴えようと今から決める。
このまま自分の罪として被せられては堪ったものではない。ジルベールの話を一語一句聞き漏らさないようにと耳を張り詰めながら、頭の隅ではどう反論するかと己の言い分を構築する。しかし
「更に、プラデストのとある学級が異常に〝偏り〟があることが判明致しました。……貴方も、よくご存じのことではないでしょうか」
拍動が、過剰に乱れ脈打った。
突然突き付けられたそれに、回り出していた思考が急激に停止させられる。いやしかしその程度のことでと、自分を守る為だけの苦しい言い訳が頭に過ぎる。
「〝アンカーソン〟卿?」
アンカーソン。
侯爵の地位を代々与えられた家に生まれたその男も、これには覚えがあった。




