Ⅱ239.私欲少女は重くなる。
くしゅんっ。と、思わず音にしてしまったくしゃみが部屋に小さく響いた。
「お風邪ですか?レオン王子殿下」
「いえ。……大丈夫です、気にしないで下さい」
心配してくれる従者に笑みで返し、扉の前で別れる。
城下の視察を終えたばかりの僕は、父上から受けた新しい資料を手に自室へと戻った。
昼食はどうするか尋ねてくる侍女に、今日は部屋に運ぶようにと伝える。食堂で食べるのも良いけれど、今は遅めの昼食よりも資料に目を通したい。
いつも通り仕事用の机に資料を置けば、先に湯気をたてたカップが音もなく置かれた。最近僕の好きな紅茶の香りに、淹れてくれた侍女へ一言感謝を伝えれば返事より前に彼女の顔がぽわりと火照った。以前の侍女のようにポットをうっかり落とさないかと心配になったけれど、無事にそのままワゴンに戻してくれた。
……プライドは、そろそろ三限が終わる頃だろうか。
時計を確認しながら、ついそんなことを考えてしまう。
昨日会ったばかりだというのに、話した時間が短かった所為がいつもよりも恋しく感じてしまう。
早く週明けにならないかなとずっと待ち遠しい。プライドとゆっくり話したいこともそうだし、提供してくれるという発明も楽しみだ。それに、……あのネイトという少年がどうなったかも聞きたい。
昨日、ステイル王子に呼ばれた〝ネイト〟という少年の保護協力。事情はある程度プライドから聞いていたけれど、現場はあまりにも切迫していたのには驚いた。突然馬車の中に現れたステイル王子は「お仕事中申しわけありません……!」と十四才の姿で現れたから、一緒に同乗していた衛兵と従者へもしっかりと口止めもした。 僕が急に不在になる場合も父上にステイル王子の特殊能力は伏せた上で許可は貰っていたから良かったけれど、あそこまで焦燥する彼を見るのも久々だった。
伯父から脅迫され、借金を盾に暴力を振るわれていた少年。
フリージア王国独自の存在である特殊能力者は優遇されることも常人より一段上に立つ力を得る人間も多いけれど、彼は逆に搾取される側に縛り付けられた民だった。
ステイル王子に連れてきて貰ってすぐに状況は把握できたけれど、正直気分の良いものではなかった。罪もない民が、小さな子どもが暴力を振るわれていたのだから。しかも僕とプライドの愛するフリージア王国の民だ。
僕が頼まれたのはあくまで〝アネモネ王国王族の立場〟とあの男を城の裁判所へ連れて行くだけの理由作りだけだけれど、……ちょっとだけ拳を振るいたい気持ちにはなった。
「…………やっぱり友人って似るものなのかなぁ……」
ハァ……、と資料を一枚捲りながら思わず溜息交じりに零してしまう。
王族である僕が、戦でもなければ身の危険というほどの場面でもないにも関わらず安易に腕を振るうなんて許されるわけがない。思わず感情のままに自分より弱い相手を攻撃だなんて、それこそアネモネ王国の王族として恥ずべき行為だ。
ちょっとだけでも振るいたくなったこと自体にもう呆れてしまう。昔だったら、こんな風に感情に揺り動かされるなんて絶対なかったのに。
何が何でも責任転嫁で友人の所為にするのは間違っているけれど、彼ならあの場で殴られていたのがセフェクかケメトだったら拳一つですら済まさないだろうとも思う。隷属の契約さえなければ、それこそ相手の顔の原型が保てなくなるぐらいのことはしそうだ。
しかもあの伯父は甥である少年の才能で甘い蜜を啜り、あまつさえその発明を売っていた方法が正規かどうかさえ怪しい。週明けにプライドに会えたら、そこについても詳しく聞かせて貰おう。
何より、ネイトの両親に課せられたという借金だって、正しい利息とは考えにくい。そうでなければ、平民である彼の家がどうやって〝そんなに〟借金を作れるのか逆に興味深いくらいだ。プライドが予知で彼の窮地に気付いて動かなければ、到底彼の家では返せるとは……
『どうぞご公務頑張って下さい。……レオン様』
「~~っ……」
カァッ、と急に顔中が熱くなる。
二枚目の資料を捲ろうとしていた手で思わずそのまま口元を押さえてしまう。侍女が気付いて「紅茶の中に何か……⁈」と心配させてしまったけれど勿論そうじゃない。手で違いますと否定しながら、逆に少し冷めた紅茶を含んで口の中から熱を抑えた。……うっかりあの時の彼女を思い出してしまった。
十四才の姿のプライドは、もう学校見学でも目にしたけれどああやって会話したのは初めてだ。しかもあんなに愛らしい姿で昔みたいに呼んで貰えるとは思わなかった。完全な不意打ちだ。
彼女と盟友になれた頃は敬称無しで呼んでくれたことが嬉しかったのに、婚約者の時と同じ呼ばれ方もこれはこれで懐かしさと共に熱が増す。
カップの中身全てか喉を通りきった瞬間、僕は一息吐いて呼吸を整えた。なんだか思い出したら余計にプライドに会いたくなってきた。また、早く彼女に「レオン」といつもの声で呼ばれたい。それと同時にまた学校見学に行きたいなとも思う。
「……とても美味しいです。おかわりをお願いできますか?」
上擦った声で返事をくれる侍女が新しく紅茶を淹れ直してくれるのを待つ。
今度こそ三枚目の資料に目を通したところで、学校見学が来週頃には再開できる見通しだとステイル王子が話してくれたことを思い出す。本来なら今日までにも何度か訪れることができる筈だった予定だけど、一回目の学校見学で問題が起こってしまった為に改善まで待つことになってしまった。
僕としても教職員達にまた不要な負荷はかけたくないし、改善してから見学も受け入れて欲しい。それからステイル王子達も色々と動いてはいるようだけれど、……そろそろかなとも思う。
上手くいけば、来週頃には再び学校見学も解禁される。アンカーソン家やそれなりに証拠も上がっている頃だろうし、ジルベール宰相がいつまでも手をこまねいているとは思えない。万全を期したとしても彼の手腕ならば判明から二週間あれば充分だろう。
首を挿げ替えることなんて。
たとえ相手があのアンカーソン家であろうとも。
……
「だ……大丈夫すか、ジャンヌ。その、さっきは本当にすみませんでした……」
「ジャンヌ、ジャック。一体何がどうしたというのです」
三限授業後。
アーサーに慰められ、ステイルに怪訝がられながら私は教室を出た。ヨボヨボと手すりに掴まって階段を上りながら、未だに自分の背中が丸いのを自覚する。頭も重いし、足も鉛がへばりついているかのように感じる。今ならマナーの授業でも余裕で赤点が取れる気がする。
三限中に悪知恵働く頭をフル動員して補習逃走計画を考えたけれど、結局良案は一つも思いつかなかった。私一人なら家の仕事があるから補習できませんと逃げることもできるけれど、アムレットを置いてはいけない。真面目な彼女がサボるなんて思えないし、大体どうして彼女が補習なんて……。
「ごめんなさい、大丈夫よ本当に……。まさか二度も補習を受けることになるなんてと思っただけ」
苦笑で誤魔化しながらも、ハァァァァァ………と考えれば考えるほと口から幸せが逃げていく。
裁縫の授業回避ができなかった私を察したアーサーと、そして唯一知らないでいてくれるステイルに一言二言返しながらとうとう階段を上りきる。
中等部三年の階へ訪れた私達は、またいつものように抜き足差し足で廊下を探る。
セフェクと会わないように細心の注意を払い、彼女の教室を早足で通り過ぎて五組へ向かう。私達が確認していない唯一の教室だ。
ちらりと最初に覗いてみたらちゃんと生徒達も揃っている。よしっ!と気を引き締め直した私は、口の中を強く噛んでから教室へと踏み込んだ。
他のクラスと同じような反応を生徒達から受けながら、生徒達の顔を確認する。
残り一人の攻略対象者。二年も一年も特別教室にも他に見つからなかったのならここしかない。一年生にネイト。二年生徒にアムレットとファーナム兄弟、そして特別教室に彼がいた以上、攻略対象者のバランスから考えても三年生のクラスにいる可能性は高い。私は入念に一人一人睨んでいると勘違いされる勢いで確認し続ける。そして
「……い、ない……?」
ポトリと零れた言葉が、宙に落ちた。
いない。誰一人として、記憶に引っかかる生徒は見当たらなかった。一人一人確認した後にばっと全員をもう一度見回してみても、ピンとくる子は一人もいない。
どうして?他のクラスで見逃しちゃったとか、まだ登校していない内に教室を確認したから会っていないとか、まだ学校に入学していないとか。原因ならいくらでも考えられる。けれどつまりそれは
「なら、もう一回回るしかないっすね」
「四限前よりも一限前の方が生徒が不揃いだった可能性はあります。今度はそのクラスから重点的に……」
そう、もう一度だ。
予知した記憶に引っかかる生徒が見つからなかった、と情けない報告しかできなかった私に二人がすぐに次へと促してくれる。折角今日で全員攻略対象者の記憶コンプリートできると思ったのに!まさかの一からやり直し決定の事実にいっそこの場で膝から崩れ落ちたい。
取り敢えず今日はセフェクに見つかる前にと、また二年の教室へと逃げ帰ることになった。己が無力感にずっしりと足が亀になる私を二人が「見つかっちゃいますよ」「ジャンヌは悪くありませんから」とそっと背中を押してくれた。
「ごめんなさい、二人とも……。折角今日で見つかると思ったのに」
最後の攻略対象者を。
その言葉を飲み込みながら階段を降りる二人に萎れた声で謝れば、まだ時間はありますよとこの上なく優しい言葉だけが返された。
残す方法はステイルの案通りにもう一度見逃しがないか見直しすることと、……後は他の攻略対象者や関係者から思い出すことくらいだろうか。
特別教室の彼を思い出せたのも元はといえば、ファーナム兄弟に会えたからだ。けれど、少なくともネイトやファーナム兄弟のルートは思い出しても全く残りの一人に記憶が引っかかった気がしない。第一作目でもレオンみたいに他のキャラと関わりが殆ど無い人はいるし、第二作目のネイトだってそうだ。それを考えると余計に希望が希薄になっている気がする……。
あとはイベントのありそうな記憶のある場所を聖地巡礼してみることぐらいだろうか。
ただ、もう既に結構な範囲は歩き回っている。校門や学食はもう何度も通ったし、男子寮もクロイの部屋へお邪魔した。図書室……は一度王女として見学した時以外は行っていないけれど、多分ファーナム兄弟との勉強イベントだ。ネイトは資料室用具室や空き教室だし、特別室の彼が……と考えると最終局面の場もあるけれど。でも、あそこは第一王女としてもう一度行ったことがあるし、あの時は攻略対象者どころか大筋ルートしか思い出せなかった。そうなると残すは屋上くらいだろうか。
ゲームの記憶にはあるけれど、今のところの三人の攻略対象者とのイベントで屋上でのイベントは思い出せない。
最後の一人が関わっている可能性は大いにある。……とはいっても、だからといって行ってみたところで思い出せるかどうかはわからないけれども。しかも、屋上はまだ出入り禁止だ。ゲームでは自由に出入りできたけれど、現実では開校したばかりで体制が整っていないから使わない教室と同様に今は施錠されている。またカラム隊長にお願いしてみるしかない。
攻略対象者の記憶を思い出したいだけなのに、ここまでやっても思い出せないなんて。重力が倍になった頭を片手で押さえながら、私は眉間に皺を寄せるだけで顔に出すのを堪える。
……攻略対象者の洗い直しと聖地巡礼で屋上探索、ネイトとレオンとの発明取引、そして超絶最難関試練の被服の裁縫補習。
週明けからまだ一息吐くのは遠くなりそうだと今から気が重くなった。




