そして急ぐ。
……………………………………なんで、こうなってやがる。
静かに目を覚ましたヴァルは、鋭い眼を丸く開いたまま考える。
プライドを囲い、適当に相手をしてから仮眠の続きに入っていた彼は目を覚ましてから未だに夢かどうか疑った。寝た時は確かにプライドは反対の壁際、そして自分は彼女に背中を向けて寝た筈。そして自分の寝ている位置自体は殆ど変わっていない。
なのに何故か、どう考えてもプライドの膝に自分の頭がある。更には目を開けた真正面にはあまりにも無防備に眠ったまま顔を俯けたプライドの顔がある。一体何の嫌がらせだと本気で思いながらも目が離せない。
しかも大分寝入っているのか、背中を丸めたままコクコクと小さくなっている彼女の顔は本当に目と鼻の先だった。そこまで判断すれば、このまま自分が何もしなくても彼女の責任で間違いが起こるのではないかと眉を寄せて考える。
これでは安易に自分も顔を起こせない。安易に刺激を彼女に与えたら前のめりに倒れ込んできそうなほど熟睡している。そして、わざわざ無かったことにしてやろうとも思わない。
プライドの寝顔を眺め、目が慣れ始めてからやっとヴァルは冷静に今の状況を整理する。
自分がうっかりこんな体勢になったとは思えない。ならば、原因は確実に目の前の主だと。現れた時から匿って欲しいと言うわりに授業をさぼることに気が咎めている様子のプライドが、自分の寝不足を知って罪滅ぼしにでも膝を貸したのだろうとまで行き着けば納得もできた。
ハァ……と深い溜息を短く吐き、視線を一度更に仰ぐように頭上へと逸らし、そしてまた別のことに気が付いた瞬間。全く別の羞恥心が込み上げる。
……どうして起きなかった……⁈
パシ、と。そう思えば細い隙間から片手を差し伸ばして自分の顔へ当ててしまう。
今の状況よりも遥かに、何故今の今まで自分は目を覚まさなかったのかということの方が屈辱的に熱が上がった。
もともと、下級層育ちの自分はどこでも大概の場所なら寝ることができる。身動ぎも殆どせず存在を消して寝ることも、そして一回寝たらどんな騒音の中でも寝付くこともできるし慣れている。簡単なことでは起きもしない。しかし、それ以上に周囲の変化に敏感でもあった。
寝ていても異変を感じればすぐに目を覚ます。熟睡していても今のように細切れで何度も目を覚ますことはしょっちゅうだ。一度寝ても長時間ではない。何度も何度も細切れに目を覚ましてはまた眠る。いつ自分が寝てる間に襲われるかわからない立場に昔からいたのだから。
なのに今、自分はこの体勢になっても一度も目を覚まさなかった。
それだけ泥のように疲れていたのかと思ったが、それでも納得できない。相手がセフェクやケメトならわかるが、何故プライドにここまでされて起きられなかったのかと考えれば、目眩を覚えるほどに頭がグラついた。
クソが、と口の中だけで呟き、固く瞑った目を覆う。ただ自覚してしまうのは今の寝心地に文句のつけようがなかったことだ。
彼女の温もりも、そして至近距離からうっすらと香る花の香りも。今もう一度寝入ることを決めれば、自分は確実にできてしまうのだろうとわかる。
そう考えれば腹立たしく、何故まだ彼女が起きないのかと思い歯を剥いた。こうなれば今の状態で起こして反応を見てやることで憂さ晴らししようと今決める。
「…………おい、……」
主、と反射的に言おうとすれば隷属の契約の効果で不自然に口が止まる。
彼女にこの姿の時は主呼びを禁じられている今、自分はそう呼べない。舌打ちを零し、彼女の仮の名を呼ぶ。
そういえば四年前の殲滅戦ではジャンヌと名乗る彼女をその名で呼んだ覚えがないと、そこで思う。自分のような裏家業の世界では通り名や偽名も溢れかえっているが、だからといってプライドやステイル、アーサーを偽名で呼ぶことには未だ違和感がある。
間抜けな顔を眺めながら、それでも他に呼び方がなく睨む。口を開き、潜めた声で呼びかける。
「ジャンヌ。おい、起きろ。……ジャン、…………………」
全く起きない。
気持ち良さそうな力の抜けた顔で眠る彼女は、どこからどうみても十四才の少女だ。
だから何故、こういう時に限って色気のない幼稚な格好ばかり自分に見せるのかと、ヴァルはまた考える。いっそこのまま涎でも垂らされそうだと思えば余計に幼く見えた。
人の気配は感じないが、流石にまた教師に見つかったら面倒だと声を抑えて彼女を呼ぶ。しかし完全に心地良く寝入っているプライドは人形のように俯いたまま目を覚さない。自分を起こせと言った筈なのに、何故自分がプライドをこんなにムキになって起こそうとしているのか。
そこまで考えれば、うんざりと彼は一人で息を吐いた。更にはとうとう二限目終了の鐘の音が鳴り出す。壁の薄いこの空間で、鐘の音は明確に耳に響いた。
プライドもこれには反応し、顔の筋肉に僅かに力に入る。細い整った眉がぴくぴく動くのを眺めながら、もう一声で起きるかと思ったヴァルは再び歯を剥いていた口を開き、……数秒だけ躊躇った。考え、思案し、鐘の音が途切れる前にもう一度だけ彼女を呼ぶ。
「────」
自分でも呆れるほどに擦れるような囁き声は、当然鐘の音に飲み込まれた。
そして自分でも、敢えてそうしたんだと自覚する。自分の声は関係なく、鐘の音で少しずつ覚醒していく様子を眺めていれば再び静寂に外に戻った時にはとうとう彼女の目も開かれ……
コンコンッ。
「あの~……ジャンヌ?あとヴァル。もう二限目終わったぞー」
声からでもわかる苦笑の乗った声を、ノックと共に掛けられる。アランだ。
突然、形成された壁が叩かれたことでプライドも「ふぇっ⁈」と全身をビクリと上下させてから顔を上げた。目を開けると同時に正面を見て、それから周囲を見回せば自分が今どこにいるのか最初に確かめる。
突然の刺激にくるくると何が起こったのか開いたばかりの目をぱちくりさせるプライドに、ヴァルは溜息混じりに「おせぇ」と断った。視線を泳がす彼女が混乱している間にと自分も柔らかな膝から頭を起こす。ガシガシと頭を掻き、上半身を起こしきったところで大きく欠伸をした。
自分の膝から頭一個分の重量がなくなったことで気が付いたプライドも、やっと自分の状況を理解する。
ヴァルに膝を貸したまま寝てしまったのだと思えば、うっかり寝顔を見られていないか、涎を垂らしていないかと慌てて乾いた口元を手で拭った。それから深呼吸をする前に潜めた声でヴァルへ投げかける。
「い、いまさっき、誰かに呼ばれたような……⁈」
「テメェの騎士だろ。壁の外で叩いてる」
彼女の言葉を一言でヴァルが切れば、またコンコンッと軽くノックの音が飛び込んだ。
あっ!と声を上げたプライドはふらふらと立ち上がれば、手近な壁際へと呼びかける。
「あっ、アラン隊長……!すみません、今もう外には誰も……?」
「ああ、いませんよ。でも昼休みになりましたし、壁から出てくるなら急いだ方が良いかと思います。人も増えますしフィリップ達も待ってます」
きゃああああああ!とアランの言葉に大事なことを思い出したプライドが声にならない悲鳴を上げる。
一体いつ鐘は鳴っただろうと微かな記憶を手繰りながら、ヴァルに壁の解除を頼んだ。彼の手により壁が解かれ、足下の地面に砂利が転がりだし、先ほどの設計が嘘のように元の校舎壁へと戻っていく。
それをプライドは見届ける間もなく「ごめんなさい‼︎」とまず最初にアランへ頭を下げた。
「その!ちょっと、どうしてもあの授業は……で!あの、できればフィリップとジャックにも内緒に……‼︎本当に変な行動ばかりとってごめんなさい‼︎」
自分が移動教室から逃亡し、あまつさえ校舎の外へと逃げ出した珍行動にアランをずっと付き合わせてしまったことを謝罪する。
アラン自身それには「いえ、別に……」と笑いながら手を振ったが、それ以上に配達人とこんな密室で何をしていたかの方が遥かに気になった。最初こそ彼女の行動の真意もわからずに首を捻りながらプライドを追いかけていたアランだが、見回りの教師が近付き警告を彼女達に鳴らして足止めしている間に二人揃って校舎の一部に見える箱の中だ。
直前にヴァルの高笑いと共にプライド逃走の真意が叫ばれた為に事情は理解したアランは、教師と話している時も顔に笑いが出てしまいそうになった。
教師を何とか凌いだ後、それなりに大きさも広さもある箱を見てこれくらいの範囲ならプライドとヴァル二人分でも安全だろうと思ったが、どんな理由があろうとも男女が暗がりの密室というのは心臓に悪かった。
何気なく気配を消しながら箱の横に付き、薄い壁の向こうへ聞き耳を立てていれば、わりと暢気で平和な会話ばかりだったことには心から安堵した。しかしヴァルに隷属の契約さえなければ、あの長い沈黙で自分は三度は目の前の壁を破壊しようと試みただろうと思う。
結果としては、プライドから許可を与える言葉もなければ怪しげな音も聞こえなかった。しかも、今の彼女の様子から見ても自分への申し訳なさだけで顔色を白くさせる姿は、どう見ても自分の心配するようなことはなかったという安堵の方が強い。
「まぁ……ジャンヌが、やったことないのは当たり前ですし苦手意識があるのは俺もわかりますよ。流石にまさか本当に逃げたのは驚きましたけど……」
「どうか!その、このことは誰にも内密に……‼︎」
わかってますって。と、あまりにも低頭なプライドに笑いながら明るくアランは返す。
正直今にも泣きそうな顔で、愛らしい幼い顔を歪めて自分に懇願してくるプライドに勝てる気もしない。
首の後ろを擦りながら、笑って許してくれるアランにプライドは心から感謝した。ありがとうございます‼︎とお礼を言ってから、慌てて教室へ向かうべく駆け、……出す前に振り返る。
「ヴァル!本当に助かりましたありがとう‼︎仮眠の邪魔をしてごめんなさい!」
手を振り、勢いのまま声を掛ければヴァルからは追い払うような動作で手だけ振られた。
立ち上がった後も、ぐったりと背中を丸くして彼女の方に横顔しか向けない彼は、プライドを後から再び追うアランに一声もかけることなく再び校舎の壁沿い上階へと上がっていった。
予想以上によく眠ってしまった敗北感に後からじわじわと苛まれながら、再び自分の定位置へと避難する。再び高台を形成してそこに転がれば、頭を降ろした先の地面の固さへ違和感を覚えてしまう。これ以上ない居心地の悪さに、顔を諫めた。
「あっ!ジャンヌ!」
プライドが最短距離で中等部の校舎へ向かい、早足で急ぎ階段を駆け登ればクラスメイトが声を掛ける。
階段を降りようとする彼女らに、既に全員が教室に戻った後なのだと思い知る。顔を青くしながらも急ぎ自分達の教室へと向かうプライドは生きた心地がしなかった。
うっかりとはいえ、あのまま寝てしまうなんて!と自分の爪の甘さを省みる。そして
……そういえば、あれって本当にアラン隊長だったのかしら……?
ふと、目が覚める直前の記憶が蘇る。
確かに呼ばれた。誰かに。ただそれが寝ぼけた頭で誰の声だったかどころか、現実か夢だったか気のせいだったかもわからない。しかし、もし記憶通りだったとしたら、あの場にいたアランもヴァルも自分をあんな風には呼ばないのにと疑問が残る。
『プライド』
なら、やっぱり夢だったのかなと。
そう結論付けたプライドは気持ちを切り替えて自分の教室へと急いだ。