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1206/2200

〈書籍四巻発売‼︎・感謝話〉王弟の夢見は。

本日、無事書籍4巻発売致しました。

感謝を込めて書き下ろしさせて頂きました。

時間軸は「私欲少女とさぼり魔」あたりです。


『……スモンド…………リア……ッキー……!』


……ここは。

気付けば白い。その感覚に落ち着かず、身体だけが茫然と立ち尽くした。

目が開いているままに見れば見果てぬ先までが白一色で広がり満ちていた。ここまで白い空間など人生で一度も見たことがない。ハナズオの冬を彷彿とさせるが、それより遥かに白くそして静かだった。

何故俺がこんなところにと、頭を捻るが思い出せない。息を吐いても白にはならず、寒さも感じないところから雪の中ではないと確認する。大体まだ冬ではない。

誰か、と声を上げて呼んでみたが返事はなかった。心当たりのある従者や身の回りの人間を記憶の限り名指ししようとしたが途中で諦める。ここまで呼んでも返事がないということはそういうことだ。


特殊能力者の仕業かと、最初に一番可能性のありそうなことから考えてみるが何故俺が狙われるかもわからない。

まさか城で、もしくは国規模で何か起こったのかと考えながらせめてと出口らしきものを見つけようと足を何とはなしに動かした。一直線に進みながら、扉がなくとも壁にでも行きつければと地平線の彼方を目指す。

歩きながらここに立っているまでの記憶を再び探るが、やはり思い出せない。いつものように寝室に入ったあたりから頭に靄がかかったようにそこで上塗られている。いつもならばベッドで目を閉じ睡眠に付く瞬間まで瞼の裏の黒すらも覚えているというのに。俺がまさか忘れているとも思えない。ならばやはり今のここは夢か、もしくは


『バータ、ルド……アナ……ンジャ……、……レア……シュ…、…イヴィー……カル………マス』


「…………?」

何かが、聞こえる。

ぶつぶつと何か呪文のように止めどなく聞こえる唱え声に、一瞬幻聴か何かかとも疑った。

足を止め、耳を立て目を凝らし首を回しながら音の正体を探す。だが、やはり見回した先も全て白に飲まれたままだ。その間も変わらず謎の唱え声が続く。

誰だ、どこにいると声を張ろうとも返事はない。変わらずぶつぶつと聞こえるその声はいっそ薄気味悪い。言葉も途切れ途切れの所為か、何を唱えているのか全くわからない。

異国の言語かとも考えながら必死に声が遠ざからないようにだけ聴覚に留意し進む。しかし俺の記憶力をもってしても、途切れ途切れの言葉が何の文章にもまとまらない。俺すら知りえぬ言語か、もしくはやはり呪文か何かか。

背筋がひんやりと冷たくなるのを感じつつ、もう一度喉を張り上げる。いるなら出て来い。名を名乗れ。そう呼びかけるが声は途切れることもなければ、近づいてくることもなかった。

クソッと一人悪態を吐き、首を回す。

右も左も誰もいないし何もない。ある程度進んだ筈だが声は遠ざかりも近付きもしない。ぐるぐると180度以上見回し、歩いてきた足跡の方向へも意味もなく振り返れば




金色の髪を地へ垂らす男が泣き伏していた。




今は見飽きた、過去には見慣れていた姿をした男は……顔を両手で覆いながら地へと首ごと垂らす。膝から崩れ落ち、あと少しで額まで地へと付きそうだ。

指の隙間からぶつぶつとやはり唱えられ続ける言葉が何か、……そこでやっと気が付いた。さっきまで聞き覚えのない呪文にしか聞こえなかった全てが意味をもって俺の中で飲み込まれていく。他ならぬ〝この男〟だからこそ、それが何かも納得できた。しかも全てがと気付けば、…………こんな風に胸の内だけで同じ言葉を唱え嘆き続けていた時の自分が記憶の中でも蘇る。……やはり、夢だろうか。


ぶつぶつとひたすら唱え続ける男に、このまま待てば一日はかかると理解する。

お前は誰だとその問いを投げようかと思ったが、目の前で床に敷かれた毛皮のように小さく蹲っているように見える男にそれを問うことも躊躇われた。先ずは俺へ注意を向けさせようと肩へ触れるべく手を伸ばしたその時、先ほどまで唱え続けていたそれがぷつりと止まった。

まだ続きはあっただろうと思いながら突然の停止に俺も触れかけた指先が寸前で止まる。床に伏したまま小さくなった男の背が一度大きく膨らみ、吸い上げる音が俺の耳まで届いた。

吐き出せば断続的に震えの振動を伴う音に、腕を引っ込め身構える。何を言うつもりか俺への返答かと頭を巡らせるのも束の間だった。俺自身へと告げているのか、それとも己自身かもわからぬほどに顔を伏せたままの男の声は低く、そして……絶望に満ちていた。




『チャイネンシスを救うには……これしか……‼︎』




残されて、いない。

首を絞められているかのように苦しげにも聞こえた言葉の続きは、語られずともわかった。

決定的なその発言に、やはり過去に思考の中で何度も繰り返し唱え続けた日々の、あの時かと理解する。引いたまま垂らした手で拳を握り、男の小さくなった背中を見る。…………あの時は、こんな風に声に出してまで弱音を吐けるほどの余裕もなかった。


その事実を思考の中では反芻しながらも、突き進む先を信じ続けた。……いや、信じる〝しか〟なかった。

脆弱で情けなく恥を上塗り続けることしかできなかった男の背後に佇んだまま、俺は顔を覗く度胸も出ない。彼に残された手段がそれしかないことを知りながら、……止めるべきかとも頭に過る。

この非現実的な空間で出会ってしまった彼がもし、記憶の中と同じ時の本人であればこれから彼は恥を上塗りあろうことかプライドへもフリージア王国へも許されぬべき不敬を行う。一歩間違えれば、たった一つでも彼女に許されず庇われなければ救援を求めるどころか二度と故郷の土すら踏めなくなる。


『ッ間に合う、間に合うに決まっている……‼︎フリージアと同盟を結べばそれで全てが上手くいく……俺様の手にかかればきっとプライド王女もー……‼︎」

やめろ愚か者。と、頭の中で俺の声か兄貴の声かわからぬ声が合わさった。

この先に目の前の男がどこまで犯すのか、誰よりも俺が良く知り覚えている。時間がない、もう刻限は残されていないと理解しながら許された時間の間際まで己が矜持すら捨てられなかった。

己が外面にしか取り柄がないと知っていたからこそ、それだけは否定したくもされるわけにもいかなかった。これさえあれば全てが上手くいくと、何もせずともできずとも無能であろうとも許され、回ると信じ続けた。その結果があの体たらくだ。


男の顔を覆う両手が、指先から力が籠る。

包んだだけの全指が屈折し、垂れた前髪ごと鷲掴み腕から肩まで震え出した。掠れる声で「間に合う、間に合う、決まっている」と繰り返し唱えている。自分へ言い聞かせなければ思考の記憶に潰されそうな時間を、フリージア王国へ向かう馬車の中で野営の中で宿の中で何度何百何千と数えるだけで息苦しくなるほどにその言葉で埋め続けた。間に合うと思考の中で唱えながら、胸の中で間に合えと願い続けた。

そこで一度全身まで酷く凍えるように震わせたと思えば、また男は先ほどの続きをまた唱え続けた。一から億を数えるような断続的な行為に気付けば眉の間が寄っていく。そんなのを唱えたところで何も変わらない。だが、……それ以上に取りこぼしたくなかった感覚を今でも生生しく覚えている。


今度は止めようと思えず、暫くは棒立ちのまま聞き続けた。断続的に続くそれに、顔を見る前からやはり彼はと確信する。

黙したまま刻一刻と聞き続け、男を発見してからちょうと二時間と三十秒が経過した時にまた男の口が一度閉じられた。まるで壊れたからくり時計のようだと思いながら男の一挙一動を見逃すまいと息を止めれば、肩が自然と上がっていった。

「終わったか」と、まだ終えていないと知りながらも投げかける。不思議と時間の感覚とは関係なく、棒立ち続ける間足に疲労も感じなければ空腹も感じない。この世界が夢であることを願う俺に、目の前の悪夢は振り向くことなく「何故」と声を張る。



『何故我が国が侵略など受けねばならないんだ……‼︎』



あ、あああ、あ、ァ、ァ…………と、直後には呻きにも似た一音が意味もなく紡がれた。

顔を覆い、ただでさえ丸かった背を余計に酷く折り曲げ、直後には逆に反るようにして天を仰ぐ。両手が動く度にジャラジャラと今では聞き苦しい音が繰り返し耳にひっかかる。客観的にみれば酷く演技がかり滑稽にも見えるが、いっそこれだけ馬車の中で一目も気にせず吐き出せれば良かったとも思う。

先ほどとは違い、この光景は記憶にない。発言も胸の奥や彼女に似た嘆きを吐き出させて貰えたこともあったが、当時はまだ希望の方が強かった。フリージア王国から助力を得られれば、プライドを味方に付けられれば全てが上手くいくと確信に近い自信がそこにはあった。

ダン、と天を仰いでいた男が次の瞬間に拳を地面へ叩き落した。何故だ‼︎と、空間全ての空気を震わすほどの怒声に、こんな声だったのかと妙に冷静な頭の部分が思う。鏡を見れば姿は映し出せても、声は己の耳と実際に放たれる声は微妙に異なった。


「ッやっと、あと少しだったのだぞ‼︎兄貴の夢が‼︎兄さんの、夢がっ……‼︎……………………っ……兄さんっ………」

言いかけ、途中で切れかけたと思えば縮みあがった声が最後はまた掠れて消え入りかけた。

肩ごと震わせながら、歯を食い縛る音がここまで聞こえる。あの時はまだ、誰よりも救いを求めているのは兄さんだった。ラジヤ帝国の思惑も知れず、健在だった兄貴もただハナズオの片翼として兄さんとチャイネンシスの民の力になりたいと願い手段を探った。あの時はチャイネンシスだけがラジヤの指先に侵されることを怯え震えていた、筈だった。

兄さん、兄さん、兄さんと、ここにはいない兄さんへ呼びかける。再び最初に見つけた時と同じように地へと伏して項垂れその声だけがさらに水気を増した。見るに堪えない己の弱い姿と醜態に、段々と嫌悪感が湧いてくる。

当時のことは全て鮮明に一秒の狂いも一度の改変もなく覚えている。しかしそれでも客観的に見ればこんなにも酷く弱い生き物だったのだと思い知らされた。己が自身で誇れる唯一は、兄さんの危機に何の役にも立たなかった。

兄さん、とたった一人を呼ぶ声が二十八回続き、そこからは雫の音だけを落とした。

これからかけがえのない存在をもう一人失いかけるのだぞと胸の中で呟けば、嫌でも思考に鮮明に当時の絶望と共に記憶が蘇った。悲しげにハナズオ連合王国の最後を告げようとする兄さんの笑顔は、今でも思い出せば胸が刺すように痛む。


ただ拒み、藻掻き、たった一つの糸へと縋るように国を飛び出した。

どれほど突飛であろうと先が見えなかろうとも、兄さんとチャイネンシス王国を諦める以上の最悪などあの時はないと思った。


『間に合う、間に合ってみせる……!終わりになどさせるものか……兄さんの、兄貴の夢を絶対に……‼︎』

ただ願い望むことしかできず愚策しかこの手に残されてはいなかった。無能だった俺にはもう、この身一つしか差し出せるものなどなかった。

兄貴と兄さんの、国の為ならばこの身程度いくらでも消耗して良いと本気で思った。大国の王女に、永遠に全てを望む通りに差し出せる覚悟もあった。……今口にするにはあまりに愚かしく、羞恥に身を焦がされるほどの愚策で、よくもこうも自信を持って決断できたものだと思う。


『待っていてくれっ……俺が、必ずっ……‼︎』

「…………やめろ、戻れ」

降ろしていた拳で腕を組み、眼前の遠すぎる男を眺める。正面で目にするにはきっと醜い。

気付けば開いていた口で、声は今までになく平たい心もとない量だった。きっと目の前の男が現実でも正常でもまともに聞き取れはしなかっただろう。

自分でも気付けば零れてしまった言葉を、一度口を結び考え直す。今目の前で醜態を晒す男を引き留めたい。それは本心だ。……しかし過去を変えたくもない。


この男が俺の記憶通り、あの時の俺ならばまだフリージアには到着していない。

道半ばであろうとも、いまサーシスへ戻れば兄貴が乱心する前に間に合うかもしれない。兄さんが同盟破棄を放つ前に引き留められるかもしれない。今、たった一つの愚策を支えに愚者が己へ言い聞かしている間にも兄貴は我を失い、兄さんは更に追い詰められ、民は生きた心地もせずに時を過ごしている。己の視野がもう少しだけでも広ければ、閉ざされた籠の中に置いて行かれた者の気持ちに気付けたというのに。


実際、フリージア王国へたどり着いた後の俺は余計なことしかできていない。

プライドを怒らせ傷つけ彼女を慕う多くを敵に回しティアラにも近衛騎士にもステイル王子にも睨まれ国の名すらも落としかけた。俺が国を発たなければ兄貴を苦しめることなく乱心などにもならなかったかもしれない。結局フリージア王国が動いてくれたのもプライドだ。

彼女が予知をし、ハナズオの危機を知り、俺という愚者を庇い守り引き上げ立たせ、女王を説得してくれた。兄貴が我を取り戻せたのもプライドのお陰だ。今記憶を思い返してもこの結論は変わらない。俺はただプライドに余計な労力と手間をかけさせただけで、唯一女王を前にできたことなど一つだけだった。


このまま地に伏し己が無力を噛み締めるのも一つの裁きだと思う。

プライドという存在に歯を向き唾を吐き、最後の最後まで縋り続けるよりも遥かに俺に相応しい。ここでこのまま己が怠惰を後悔すれば良いとも思う。……これがただの夢であってくれるのならば。

俺の声が届かぬ男が再び喉を震わせ、とうとう濡れる声で呻き出す。整えられていた長い髪を掻き乱し、また両拳を地面へ突き立てる。また繰り返すのかと思えば今度はそのまま額を地面に叩きつけた。

女王の前で平服した時よりも見すぼらしい。プライドに寄り添われるまで一度もこんな風に嘆きに向き合えなかった分際でと、吐き気にもにた嫌悪感に飲まれ






『…………ッ助けてくれっ……』






……絞り出されるような声に、気付けば手が伸びた。

ぱしり、と埋もれた肩を掴んでしまった瞬間に我に返る。触れることも躊躇われた筈なのに、どうしても今の言葉に抗えなかった。

今まで眺めていただけのそれに実態があると確かめれば、不安と恐怖が腹の中心で渦巻いた。触れて良かったのか、特殊能力ならば罠だったのでは、過去であれば決して俺が関わるべき相手ではないとわかっているというのにと。同時に複数の思考に呼びかけ囁きかけられる。


信じられないことに、実体があったそれは肩を掴んだ俺へと突然顔を上げ、振り返った。

今まで背中だけで良しとしていた男の顔は良く知ったものだ。涙に濡れた目が頬から顎まで濡らし、兄貴と同じ焔の瞳が俺を映す。呆気を取られたように瞬きもしない男に俺もすぐには言葉が出なかった。助けを求めるその声に、まるでプライドの代理にでもなったような気持ちで手が伸びた。〝この時〟の俺とは異なる、助けを心から望み声を殺したあの夜を思い出し、錯覚する。俺自身があの時に戻ったような感覚に半分浸かりながら、肩に触れたままに丸い目の男を正面から見返した。


「助けは、…………来る」

言える言葉がそれしかすぐには見つからず、言ってしまったことを後悔する。同時に男は目を零れそうなほど見開いた。

言っては駄目だ、過去が変わってしまったらどうする、俺がこのまま愚かのままでいてしまったらと足の裏から浸水するような恐怖を自覚しながらも放ってしまった言葉はもう取り戻せない。

俺の言葉よりも、今は俺自身の存在が信じられないのか男に返事はない。続ける言葉も失った俺は、そのまま両手で男の肩を掴みながら鏡を見るような感覚で上から下まで見つめる。

顔つきこそ殆ど変わらないが、髪型や装飾の数は俺と異なった。今では馴染んだ数の所為か、こうしてみると随分と重そうな格好をと他人事として想う。…………他人事であってくれ。

夢幻でも構わない、過去との邂逅以外であれば何でも良い。そう願いながらも、目の前の男へ撤回することはもうできない。覚えている知っているわかっている、兄さんをチャイネンシスを兄貴をサーシスをハナズオを救いたいと望みながらこの時の俺は




〝己自身〟もまた、救われたかった。




「迷うな、進め」

幸福だった日々を奪われる恐怖と不安から、一秒でも早く。

開けた口にまで水が入る男を前に、さっきまでの思考とは反対の言葉を告げてしまう。

自分でも顔の力が入っていると鏡を見ずともわかる。肩を捕まえ指が食い込むほど力を込めながらもう迷わない。目の前の男が現実でも夢でも過去でも、それだけはやはり変えられない。


今ここで言えば何かが変わるかもしれない。今すぐ国へ帰って兄貴を安心させろでも、フリージア王国へ駆け引きなど持ち込むなでも、プライド王女の心を奪うなど無駄だでも手を出すな下手に出ろ摘まみ食うなでも何でもいい。

その一つだけでも言えば、もしかすると俺の忘れることのできぬ汚点が一つ二つと減るかもしれない。時折思い出しては頭を抱え羞恥に焼け焦げることもなくなるかもしれない。しかし、その全てを引き換えにしてもあの奇跡には代えられない。

プライドにどれほどの苦痛を不快を与えてしまったとしても恥を上塗ることになろうとも、民の死より遥かに良い。チャイネンシスとハナズオ連合王国を失うより惜しいものなど持ち合わせない。この先間違え、恥を掻き、後悔し羞恥と後悔に一生消えぬ記憶と共に苛まれ続けることになる俺に俺は言う。


「その選択は正しい」

無数の後悔に相応する価値が必ず待っている。

あの未来だけはやはり変えられない。いくら鮮明に思い返しても、あの防衛戦は奇跡の集合体だった。ほんの少し、蝶のはためき一つでも余計な修正を試みるだけで全てが食い違ってしまうかもしれない。

今この場で己の愚かさも、間違いも訂正できる言葉は持っている知っている。プライドが与えてくれた言葉全て一字一句違うことなく覚えている。今この場で言えばもっと早く俺は変われるかもしれない。他ならぬ〝俺から〟の言葉なら、この男も受け入れるかもしれない。

この男と兄さんしか知らぬ秘密も約束も、この男と兄貴との過去も罪も全て俺は知っている。誰よりも理解している。兄貴や兄さんからも聞こうとしなかった言葉も、この俺ならば届くかもしれない。たった一言で、誰の手間も面倒をかけずともこの男の過ちも間違いも全てを訂正できる。……それでも。


「プライド王女を虜にしろ、その為に全ての手を使え存分に躊躇うな。お前の思い通りにならぬ女など居はしない」


間違え誤れ恥を掻き打ちのめされて後悔しろ。

最後の最後、奇跡の中でプライドに救われ解放されるその日の為に。

神へ仇為す男へ矛を持たせる覚悟で言い聞かす。低まった声で続ければ、男は赤い瞳を揺らしながらも頷いた。

「それで上手くいくのだな?」と弱弱しい声で確かめる彼へ俺は迷わず言葉を返した。こんな簡単に騙されるなど、………この時までその容易さも本当に何も変わっていなかったのだと思い知る。いくら人への不信感を渦ませていようとも、このたやすさでは誰でも手繰り落とせる。

プライドがもし悪しき心を持っていれば、俺のことなど指先一本でどこまで転がすことができただろう。


「フリージアと同盟を確約させ兄貴の元へ導くのだろう?その為ならばプライド王女のものになってやる覚悟も俺達にはある。何の不安も必要ない、時間ならば充分にある」

定められた時を削られ、狼狽え嘆き愚行で追い詰められてくれ。

ティアラの前でこれ以上ない恥を晒し、思う存分に嫌われてくれ。…………俺達の嫌う己を、嫌ってくれたティアラだからこそこんなにも愛おしくなった。



似て非なる彼女をまた見つけたい。



俺の恥も醜さも嫌い、遥かに高嶺で美しく咲き誇る彼女を見上げたい。

彼女に嫌ってもらえないと俺もきっとわからない。彼女が隠す強さも覚悟も見せて貰えずには気付けない。

両肩を掴む手を片方だけ外し、乱れ垂れる彼の金髪を掻きあげる。俺の手の平で覚悟に瞳を燃やす彼の片耳を彩るピアスに懐かしさが込み上げた。今はもう、こちらの耳は穴が塞がりかけている。もう二度と、通すことはないだろう。

無数とも言って良いほどの過ちを騙し連ねさせたとしても、この男からその一つも取りこぼせさせはしない。

俺が救われるだけではない。国も、兄貴も兄さんも、…………思い上がりでなければきっと、ティアラとプライドを救うにもこの道しかない。

愚かに転げ落ちのたうち回り、そしてその先に救える光がある。俺一人よりも遥かに眩い光だ。


『本当に救えるのだな……⁈俺が上手くやれば、兄さんも、チャイネンシスも、それにっ』

「コーニーリアス、エスモンド」

もう一度確信を求めるように湿った顔も拭わず俺の肩を掴み返す男に、迷わず〝初めから〟それを紡ぎ直す。

夢のような悪夢のようなこの邂逅に、彼へ〝俺が〟本物だと示してみせる。

遮られた口のまま、続けて俺が紡ぎ連ね続ける名に彼は言葉を失った。俺が見つける前、彼が一人紡ぎ続けていたであろう名を最初から紡ぎ直す。

ぶつぶつと呟いていた彼へ、俺ははっきりと舌を回す。一人二人十二十百二百といくらでも連ねることができるぞと乾かぬ喉で記憶の限り順々に羅列する。

互いに俺が俺である、無二の証明だ。いくらでも何人でも何百人も何億人でも舌の根が乾くまで紡ぎ続けられる。

「アルバータ、ブリアナ、ベンジャミン、クレア、シュリー、アイヴィー、カルヴィン、カドマス」




チャイネンシス王国に住まう民の名だ。




彼が止めぬまま、俺はいつまでも彼と同じだけ唱え続けた。

一時間そして二時間かけても構わず続け、ちょうど彼が紡いだ名を最後に一度口を止めた。これだけ語ってもやはり喉が枯れなかった。しかしもうこれが夢がどうかなど関係ない。


「…………愚かで弱く無知な第二王子、セドリック・シルバ・ローウェル」


目の前の彼を呼ぶ。

茫然と口を開けたまま、瞬きの少ない目で俺を見る彼はいつの間にか涙も乾いていた。

敢えて侮辱する言葉で呼んで見ても彼は全く咎めない。そうであることを最初から知り、覚悟の上だった俺達は。…………心からそうであることを望んでいた。


「後を、頼む。彼らを救うんだ。…………お前でないと、俺にはなれないのだから」


もう過去には戻れない。

消えあせぬ記憶をいくら持とうとも、過去に戻ることは叶わない。この先の彼を導けるのは過去にしかいない。

最後に掻きあげた手を彼の頭に置けば、兄貴よりもきっと重みも力強さも足りぬだろうと聞かずともわかった。プライドのたよやかさともまた違う。

頷き、力強い眼差しで「わかった」と了承を口にする男は俺の手に掴み、降ろさせた。そのまま今度は彼の意思でこの手を握り返し、……気付く。


『…………?指輪は』

ぱちりと大きく瞬いた後、俺の親指へと目がいった。

髪に隠れるピアスと異なり、こちらの方は一 ひと目注意に入れば気付いたらしい。

別にあの指輪自体が特別というわけではない。兄さん達とのペンダントと異なり、あれはただの装飾品だ。指輪など気分によっていくらでも変えていた。ただ、…………この指に祈る想いを託していたことだけは装飾に反し、変わらない。

驚く彼は鼻から息を吸い上げ、笑んでしまう。両耳のピアスと同じく、彼の左手親指には変わらず装飾が嵌められている。


「必要なくなった。…………いや、〝つけぬ必要〟ができたというべきか」

そう言いながら、反対の手で自身の髪を掻きあげて見せる。

両耳にはないピアスの後に、彼は短く息を飲んだ。きっとこの送り先などこの時の俺には見当違いの相手しか想像もつかないだろう。

力が抜けたように、彼の両手がそのままするりと抜けた。握り合っていた手もほどけ、自身の手の平を己に向け見つめ直す彼の指には願いと天への望みも含め、いくつもの飾りが嵌められていた。

何か言いたげに瞳を揺らす彼から、口の動きだけで「一体」「何が」と紡がれ空気へ帰った。声に出さずとも伝わる俺に、それでも彼は問い直そうと口を大きく動かし「一体っ」と放ったところで、…………その姿がは白に溶け出した。

俺が目を見張れば、彼も気付いたのか己の手の指先から溶けだしているのに気付き、言いかけた言葉をそのまま地に落とした。

整え揺らめかせた兄貴と同じ髪を掻き乱し、多くの装飾で己唯一の自信を彩り飾る彼は、まだ聞き足りないらしい。俺へと手を伸ばし身体へ突き抜け、まるで幻だったかのように最後は気化した。


甘言だけを残させて貰った彼には悪いとも思ったが、………過去よりも遥か身軽な己がそれ以上に、誇らしかった。






……






「「セドリック様?」」


二重の声に呼びかけられ、視線を上げる。

直後には「大丈夫ですか?」「えっ料理にまさか」と殆ど同時に投げかけられた。つい呆けてしまった所為で心配をかけてしまったらしい。

すまない、と言葉を返しながら両脇の二人へそれぞれ顔を向ける。気付けば周囲で様子をみていた生徒達にも同じ心配をかけてしまっていたらしく、いつも以上に大勢からの視線を受けていた。プライドの創設した新機関である学校へ一時的に体験入学している以上、王族としてもっと気を引き締めなければ。


「少し今朝の夢を思い出していただけだ。毒も入っていなければ心配もない」

俺の左右に座るディオスとクロイ、そして背後に控えるアラン隊長だけでなく周囲にも聞こえるように声を張り笑って見せる。

今朝は妙な夢を見た所為で寝た気がしない。今朝よりは夢の記憶も薄れ、俺にとっては貴重な忘れるに近い感覚もあるがだからといって良いことはない。むしろお陰で今朝から眠気が強く授業にもいつもほど集中はできなかった。記憶とはいっても所詮現実にはなかった夢の記憶だけだ。実際の記憶とはきっと薄れ方も異なるのだろうと思う。

何故また思い出してしまったのかと再びスプーンを動かし皿の料理を掬おうとしたところで、……夢に馳せてしまった理由を思い出す。

思わず途中でスプーンを止めてしまった俺に、ディオスが再び覗き込んできた。「夢って今朝話してたのですか?」と言いながら、手が固まる俺を見る。


「〝見たくないものを見せられた〟夢って、そんな酷い夢だったんですか?」

「ディオス。そういうこと人前で言わない。すみません、セドリック様」

いや構わん、とディオスの分発言を謝罪するクロイへ言葉を返しながらスプーンを置いて一度髪を掻きあげる。

今朝も眠気が強い俺を心配してくれたディオス達に話したことだが、こうして言われるとやはりあの夢はどうしようもなく悪夢だったような気がしてならない。

後味が悪くなかったことはなんとなく未だ覚えているが、まさか過去の己と対峙する夢などやはり俺には悪夢だ。


記憶の限り思い出しても、間違いなく両方とも俺だった。もうどちらが俺の意識だったかも確信がもてないが、片方は明らかに容姿を着飾り続けていた当時の俺だ。更にはそんな俺に対し、プライドへの不敬を唆すなど。

せめてプライドの料理を摘まみ食いだけはするなと言うべきだっただろうかと妙な後悔まで目覚めた時はしてしまった。しかし、夢の中の俺はどうにもあそこでボタン一つでも掛け違うのを恐れていた。

己の過去など夢で見ずとも鮮明に全て記憶している。今でも思い出そうとすれば明滅に胃も心臓も突き立て、顔を羞恥で焼く。なのにここにきて夢にまで見るということは、やはり思考のどこかで……。



「あっ!貝料理、やっぱりセドリック様は駄目でしたか⁇」



「……。…………そのようだ……」

すまない……、と見透かしたディオスの言葉に眉間を押さえてしまう。

今日の日替わり料理、やはり別の品を選べば良かったと反省する。まさか以前の魚料理よりもここまで口に合わないとは思わなかった。

魚料理ではなく貝類ならばまだマシかと試したが、むしろ逆だった。魚料理は美味いと感じなかった程度だったが、今回の貝料理は一口以上すら躊躇う。砂のジャリリとした感触の不快感と、全ての調味料の味を押しのけ殺す生臭さ。失礼ながら一瞬本気で毒かと吐き出しかけた。

書籍で貝などは調理方法によって砂が混じっている場合もあると知らなければ危うかった。クロイもディオスも毒見の時点で全く迷いなく食べていたというのに!

海産物自体は嫌いではない。寧ろ故郷では好んでいた方だ。フリージア王国へ移住してからも、宮殿で食す料理は食材も厳選されているお陰で美味と感じることもできるがそれでもサーシス王国と比べるとこればかりは異なり過ぎる。海が近隣に有るか無いかでここまで料理の味まで変わるのかと思い知らされた。兄さんの住むチャイネンシス王国が面してはいないが、俺が生まれた頃には既にサーシスとの交易で海産物には困っていなかった。しかしフリージア王国はここまで広大でありながら海に面していない。川や湖はあれど、海産物は全て周辺国や隣国頼みだ。

まさかこんなことで味の衝撃と郷愁の念に引きずられるまま今朝の夢を思い出すことになるとは。こうなるとやはり心のどこかで未だ故郷への想いが残ってしまっているということなのだろうか。こんなことを知られたら兄貴と兄さんに口を揃えて兄離れできていないと言われる。俺はちゃんと覚悟も決め、心から望んでフリージアに根を下ろしたというのに。


「僕、代わりの料理取ってきます。迷われていた方のビーフシチューで宜しいですか?」

「!ああ、頼もうクロイ」

俺が指示を出す前に椅子から立ち上がるクロイに、ここは素直に頼む。

代金だけ預ければ、そのまま早足で長蛇の列へと並びに行った。ディオスが「僕がっ」と遅れて声を上げたが「ディオスはそこで大人しくしてて」と断られる。最初に味に気付いてくれたのはディオスの方だったからか、クロイが去っていった後も不満いっぱいの顔でその背を睨んでいた。

構わず先に食べてくれと俺から促せば、ゆっくりと席に着き直すがまだ不満そうに片方の頬を膨らませていた。気持ちだけでも受け取っておこうと頭に手を置けば、そこで頬の膨れも収まった。だが代わりに視線が俺の料理へと止まる。やはり食材を大事にする民の目には丸ごと残すことは疑念が生まれるかと思ったその時。


「……セドリック様、もし食べないなら僕こっちも食べて良いですか?」

「⁇構わないが、自分の食事もあるだろう。食べきれるのか?」

大丈夫です!と力いっぱいに笑うディオスに、俺はそっと皿をそのまま手で押し譲る。

細い身体にしては意外と大食いなのかとも思ったが、「今日は夕食抜きます!」と言う所を見るとやはり腹自体は通常らしい。スプーンを片手に一口二口と頬張り、貝へ殻ごとバクつき貝肉を食べる間も満面の笑みは崩れない。やはり彼にはちゃんと美味らしい。

やはりこういうのも文化の違いかと考えながら、俺の代わりに美味く食べてくれるディオスの横顔を暫く眺めることにする。美味しい美味しいですと喉に通す間も惜しんで食すディオスの顔つきは、初めて会った時より血色も肉付きも良い。

実際の記憶であればこんなにも鮮明に思い出せるというのに、夢になると急に遠く霧散する。見たくはない夢、……一体どんなものだっただろうか。

さっきまで考えていた筈なのに、もう記憶が薄れている。確か口にするのも躊躇われる夢だったか。

不吉な夢か、それとも悪しき過去か。前者も後者も思い当たるものが多過ぎる。決して間違えてはならないと思った感覚だけが手のひらに残されたままだ。つまりはそれだけ大事な何かのかかった夢という



『本当に救えるのだな……⁈』



「……らしいな」

ふぇ⁇と、頬張った口でこちらへ振り向くディオスに、つい言葉にしてしまったと首を横に振る。

ならば余計に思い出しても口にはすまいと決める。記憶ならばまだしも口にすれば一生忘れられなくなる。見たくもない夢、且つ救えるかを尋ねる、思い出せないが誰かの声。記憶では誰に言われたこともない口調と台詞だが、それを俺が尋ねられるような状況などどれも幸福なものでは決してない。ならば折角忘れられるのならばこのまま黙して完全消滅を待つしかない。


「セドリック様、お待たせしました。……ディオス、何食べてるの」

すまないな。そう返しながら、トレーを持ったクロイへ振り向く。

えへへと食事で膨らんだ頬で笑い返すディオスを一瞥するように睨みながら、俺の前へ新しい料理を置いた。こちらは香りから既に美味そうだ。

カタン、と改めて椅子に座り直すクロイは俺の反対隣に座るディオスを…いや、正確にはディオスが食す皿を見つめ続けていた。ごくりと飲み込みきったディオスが、俺から食べて良いと言われたと説明するとクロイは肩ごと使い、ため息を大きく吐いた。


「だからって食べる?夕食入らなくなっても知らないから」

「大丈夫!今日は食べないから!」

「それで深夜にまたお腹鳴らすんでしょ。夜もスープくらいは食べときなよ。……僕にも、ひと口ちょうだい」

相変わらずの仲の良い二人を見ると、それだけでも穏やかな気分になる。

兄貴や兄さんとは違い、俺と兄弟というわけでもない二人だがそのやり取りに懐かしさすら感じる。決して同じ会話の記憶があるわけではない。ファーナム兄弟とずっと昔会ったことがあるわけでもない。ただ、


『セドリック、左は二個も穴を開けたのかい?その内耳朶がなくなっても知らないよ』

『問題ない。両方とも有効活用するだけの話だ』

『それでまた歩いている内に他を落とすのだろう。せめてイヤリングとカフスは外せ!』


「……やはり兄弟とは良いものだな」

自然と顔が緩む。

口の中だけで呟いた独り言は二人には届かず、ただ俺自身の中にだけ響き残った。

救えるのか、と尋ねられたそれが何かはわからない。しかし、それがただの悪夢ではなく過去のものであれば、きっと返事は間違いない。それが兄貴であろうと兄さんであろうと、ハナズオであろうとティアラであろうとプライドであろうと、……この両隣にいる双子であろうとも。


俺が救いたかった過去は全て、確かに救えてここにあるのだから。


Ⅰ324

とうとう書籍4巻が発売致しました。とうとう攻略対象者全員が揃います。本当に皆様のお陰です、ありがとうございます。

是非、お手に取って頂ければ幸いです。早く素敵な挿絵を見て頂きたいです。

これからもどうか宜しくお願い致します。

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― 新着の感想 ―
[一言] セドリックにとっては、消えて行く記憶って貴重なのですね…。元素表や言語など覚える時には、羨ましいと思いますけど(笑)例のつまみ食いまで記憶が薄れないのはいたたまれないかも…(苦笑)
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