Ⅱ207.私欲少女は落ち着く。
「ジャック、家に着くまでには落ち着けよ」
はい……、と力なく返すアーサーにエリックは思わず苦笑する。
肩を貸す形で腕を自分に回させ、今のアーサーの身長に合わせるように背中を丸めるエリックは救護をしているかのようだった。完全に真っ赤に茹だったままふらふらとしか歩けないアーサーに声を掛けながら、でもまぁ無理はないよなと心の中で思う。
護衛しやすいようにプライドとステイルを前方に歩かせてはいるが、二人も何度も振り返ってはアーサーの顔色を確認していた。未だに笑いを堪えているステイルと、そして申しわけなさでいっぱいになりながら肩の幅を狭めているプライドは前方よりも遥かにアーサーのことが気になった。
「大丈夫?」と何度も何度もプライドが尋ねるが、アーサーからの返答は変わらない。そして今だけは彼女にまともに顔を向けられる気力が残っていなかった。エリックに肩を借りて歩いている所為か、それとも心臓が未だに煩い所為か。足下がふわふわとするような感覚に目眩か何かすらわからなくなる。帰路でさえなければ交差する腕で顔を隠してその場に蹲っていたかった。
既に学校からいくらか離れ、他に生徒らしき人物はいない。何とか自分の足も前後に動かしながらアーサーはもごもごとした声でやっと口から言葉を紡いだ。
「エリック副隊長も……すみませんでした。自分の所為で、なんかすっげぇ生徒に質問攻めに……」
「大丈夫大丈夫。変なことは何も聞かれてないから。大概はジャックがどれだけすごいかの話ばかりだったよ」
相変わらず人気者だな、と軽く笑って返す。
アーサーが気負わないように楽しそうな声で返しつつ、立場を隠してもこうして人が寄ってくる彼はその人柄故だろうとエリックは思う。
ステイルやプライドにも聞こえるようにはっきりとした声で告げながら、彼らの正体が怪しまれていたわけではないことも伝えた。実際、誰一人として三人に興味こそあれど不審を露わにしている人間は一人もいなかった。ただし、
……大概は、な。
明るく返した言葉に潜ませた事実を、エリックは改めて飲み込んだ。
言った通り、〝大概〟はアーサーがどれだけすごいかという質問ばかりだった。家でも何か鍛錬をしているのか、エリックやアランはジャックと手合わせをしたことはあるのか、今日は高等部二人を運んでいたが昔からそんなに力持ちなのか、木登りの方法を教えたのは騎士なのか、ジャックなら騎士になれると思うか、エリック自身も十三の頃はあんなにすごかったのか、騎士になる人は皆子どもの頃からあれほどの身体能力があるのかと。そういった類いの質問に「あくまで上司の甥」ということを前提に答えていったエリックも、その返答自体は大して苦ではなかった。騎士に興味を持ってくれるのも、アーサーのことを慕ってくれるのも嬉しい。
騎士団では贔屓こそされないものの騎士団長子息として入団時から知られていた彼だが、やはりそれがなくともこれだけ好かれるものだなと再確認できたと思えば、自分まで誇らしくなったくらいだった。しかし、ただ一つ引っかかることがあるとすれば
『ジャックとジャンヌって家でも仲が良いんですか』
『フィリップとはどうですか』
『ジャンヌって家でもジャックの鍛錬中は一緒に付き添ってあげたりとか』
『えっ、ジャックとフィリップはジャンヌとはただの親戚だろ?』
『いやフィリップは故郷に恋人が』
『それを言ったらジャックも!』
なかなかに甘酸っぱい相関図が彼らの中で形成されつつあったことだ。
特に女子の中ではそれが顕著だったなぁとエリックは思う。今日エリックに集まってきた生徒はプライド達のクラスのほんの一部ではあったが、彼らの話から推測して確実に〝ジャンヌとジャック〟〝ジャンヌとフィリップ〟そして〝自分がジャンヌを狙っている〟の三つに分かれていたと理解する。
三つ目は言うまでも無く男子達だったが、他にもジャンヌが二人のどちらかに付き合うか片思いされているのを願うような様子の男子生徒もいた。恐らくは自分の好きな女子がアーサーかステイルに恋い焦がれているのかなと思えば、なんとも不憫というか意地らしいというかと考えてしまう。
しかし同時に『フィリップには恋人が別に居る』『ジャックには想い人がいる』『それは嘘にきまってる』と自分の目の前ですら噂が錯綜していた。
だからこそ女子がプライドへと飛び火した時もある程度その後の展開も察せたが、最後だけはまさかの展開だった。プライドからすれば、上手くアーサーを助けながらも彼を否定しない形を取りたかったのだろうとエリックも理解するが、実際は一人アーサーだけが大火事を起こす結果となった。
『私にとって〝強くて格好良い人〟一番はジャックじゃなくて、噂の聖騎士様だから』
それを言われた当の聖騎士が、今は自分の肩にぐったりともたれかかっているのだから仕方ない。
だが、それだけプライドのあの言葉が致死量を含んでいたこともわかっているエリックは、敢えて何も言わなかった。そして、アーサー自身もそれについて未だ頭の整理はついていない。
……さらっって……言うンだもんなあの人。
一度言葉を発して熱も出せたつもりだったアーサーは、その分頭を回せるようになればぐるぐるとさっきのことを思い返してしまう。
俯かせた顔で下唇を噛み、熱が上がりそうなのを必死に堪えた。しかし、あの時の衝撃を思い返せばまた再発火しそうになる。
プライドが誘導されるように女子達に自分を褒めさせられていたのはアーサーも気付いていた。自分の所為で、まさかのプライドにまで迷惑をかけてしまったという焦りと、それ以上に次々と促されるままに自分を褒めてくれるプライドに冷や汗と発熱の汗とが止まらなかった。しかも彼女自身がアーサーを褒める時には嬉しそうに顔を綻ばせてしまうのだから。
なんで自分がすぐそこにいるのに、平然とそんなべた褒めしてくるんだと思えば耳を塞いで逃げたくなった。いっそ否定して話を切ってくれればそれ以上は聞かずに済むのにとも思ったが、次々と彼女は「ジャックはすごいのよ」と自慢げに褒めてくる。何故女子達が自分をそんなにプライドに褒めさせたいんだと、アーサーは考える余裕もなかった。
『一番……ではない、かしら?』
最初の言葉こそ、アーサーも彼女達の話題を切る為だとはわかりながらも少なからず痛く打ちつけた。
自分ではプライドの一番など烏滸がましい、と思っていてもそれをはっきりとプライドの口から言われてしまうと鎧の拳を頭に落とされた程度の衝撃にはなった。
潜入視察からすぐの頃に「二人は全然私の好みじゃないもの!」と言われた時と同じような感覚が耳から頭に響いた。だが、これで自分を無理矢理プライドに褒めさせることも一区切りつくと思えば堪えられた。にも、関わらず。
……ッッそこに〝聖騎士〟で纏めてくンのは反則だろォオが‼︎‼︎
プライドが相手でなければ、そう叫びたかった。
ぐっ、と衝動的に思い返した言葉が喉までせり上がり、唇では足りずに奥歯を噛み締めた。ぐわんぐわんと頭に熱が回り出し、いっそ「好みじゃない」以上に否定する言葉の方がまだ早く立ち直れたと思う。
まさかの一瞬で落ち込まされた直後に倍以上の破壊力を打ち込まれるとは思ってもみなかった。結局はプライドから遠回しに「一番強くて格好良い」と全員の前で公言されてしまったことに火が回るのは一瞬だった。しかも、彼女がそれを言い放った時に全く取り繕いのない素直な笑顔で言い放ったのを自分は直視してしまった。あれが彼女からの本心だとわかれば、平静でいられるわけがない。心の準備もなく突然褒められてしまえば、心臓が発作どころかこのまま急停止するんじゃないかとアーサーは本気で思った。
ファーナム兄弟の時にも一度は言われた言葉だ。しかし、状況が全く違い過ぎる。
あの時はちょうど勉強がさっぱりな自分よりも、遥かに優秀なプライドとステイルに教師役を任せまだ十四才の双子にも勉学面で負けていることを認めた上でプライドに掛けた言葉がきっかけだ。
だからこそ自分を慰める為に元気づける為に言ってくれた言葉だと受け止め、熱を帯びるほどに嬉しかった。なのに今回は、褒められ続けた上で最後に大爆弾を放り投げられたのだから堪らない。少し気が抜けばプライドからの「聖騎士様」という言葉が何度も何度も頭を回ってくる。
……本ッ当に……いつか、マジで死ぬ。
以前より余計に褒め言葉の上限規制が外れてしまった彼女に、言葉だけで自分は殺されるのではないかと思う。
いくら鍛錬や演習で身体や精神を鍛えようとも、この心臓ばかりは鍛えられないとアーサーは思う。
そして未だ自分の前方で楽しそうな黒い笑みを浮かべてくる相棒についさっきまではコノヤロウと霞む意識の中で思っていたが、今は理解の方が若干上回った。
ほんの数日前に珍しく酒に潰れた彼の姿を思い出し、更には自分まで引き摺り巻き込もうとした彼の心境が今はあの時よりも理解できる。誰に当たるわけにもいかず、決してプライドは悪いことをしたわけでもなければただ自分が勝手に舞い上がってしまっているだけ。そんな中でこの激情にも似た感情に整理をつかせる方法は決して多くない。
取り敢えず今日は演習が終わったら死ぬほど鍛錬をするか、もしくはハリソンに頼んで手合わせに付き合って貰おうと決める。今なら朝までハリソンと決闘もできる気がしてしまう。
「あの……、それで明日から私どうすれば良いかしら……?」
暫くの沈黙の後、それを小さく切れ目をいれるようにプライドが細い声で尋ねだした。
自業自得だとはわかっているが、それでもこの沈黙の間にいくら考えても結論まで届かない。何より、また勝手に考えてアーサーやステイルに迷惑を掛けてしまうことの方が恐ろしい。
落ち着かないように胸の前で両手を組みながら低い姿勢で尋ねるプライドに、一番最初に意図を察したのはステイルだった。真っ赤に潰れている相棒の様子を充分に楽しんだ今、「そうですね……」と眼鏡の黒縁を押さえながら自分達の状況を冷静に分析していく。
「確かにこのままだと明日には〝ジャックがジャンヌに振られた〟と色々な意味で誤解が広がりますが、まぁ彼女らから悪意は見られませんでしたし、噂のままおいても大丈夫かと」
「け、けれど、それだとアー……ジャック!にだけ不名誉な噂がついちゃうし……」
「いえそっちは全ッ然構いません……。どうせあと半月もねぇですし、ジャンヌに危険や面倒がなければそれで」
「いえ、でもっ……」
─ いっそ表向きだけで良いからジャンヌがジャックかフィリップと付き合っていることにしてしまえば良いのに。
エリックは心の中だけでそれを思い、飲み込んだ。
今それを彼らに言えばどんな戦争が起こるかは容易に想像できる。下手にステイルを敵に回せば、それこそ以前のことを引っ張り出して「ではキースさんへの言い訳と同じようにエリック副隊長にジャンヌが片思いしているということにしましょう」と提案されかねない。
プライドが二人のどちらかに振られたという噂が広がってしまえばいくらか対処も考えたかもしれないが、そうでない限りステイルもアーサーも気にしない。自分の仮の姿に対しての風評被害など、プライドの安全と比べれば些末な問題でしかなかった。
それでも、自分の所為でジャックが誤解をと一人焦るプライドにステイルは仕方なく肩を落としてからゆっくりと彼女に言い聞かす。
「良いですか、ジャンヌ。ジャックのことを考えるのならば、下手に否定して回るよりも大人しくしていて下さい。貴方はただでさえ人目を引くのですから」
特に自分達が居ない選択授業の時は大人しく、と。一言一言飲み込ませるように伝えるステイルに彼女も唇を結んで頷いた。口答えを許さない真剣なステイルの眼差しに、ぐうの音も出せなくなる。
プライドもプライドで本音を言えば自分が試験でやらかしたことで目立つのは仕方ないとしても、それ以外で注目を浴びるのはひとえに女子の人気が高い二人が傍にいるからだと言いたい。美男子二人に挟まれている紅一点だから、それだけの理由でも噂が立ちやすい。たとえ顔がラスボスらしいキツい顔であろうとも。いっそティアラが居れば自分はモブキャラレベルの存在感で済んだのではないかと本気で思う。
しかし、二人に責任転嫁するような言葉も躊躇われ、最終的には「ごめんなさい……」と自分が折れることで終止符が打たれた。
萎れて首をがっくしと落として落ち込むプライドに、ステイルは小さく笑むと「明日は俺もなるべく対応しますから」と告げ、今度は静かな声で話を切り替えた。
「帰ったら、カラム隊長からネイトの話も聞けますね。彼が滞りなく作業が進んでいてくれれば良いのですが」
今はネイトのことを考えるべきだと。
そうプライドへと諭すステイルに、彼女も今度はしっかりと顔を上げた。そうね、と顔の筋肉を引き締めながらステイルに向け、最後にしっかりと前を向く。
ラスボスに出逢っていない彼が、どうかこれ以上の厄災が降りかからないようにと願いながら。
……
「ッ……げほ……ァ……ッ」
腹を押さえ、蹲る少年は暫くの時間を床に転がり堪え続けた。
沈黙が今は一番心地良いと思いながら、やっと吐き気が収まったと確認してから小さな身体を引き摺るように床から起き上がる。床に手をつき、生理的に零れた涙を手の甲で擦り、一番近い壁へとずるずると寄りかかる。ただ呼吸をするだけで肩が止まることなく上下するのを格好悪いと思いながら、口の中を噛んだ。
背中に腕を回そうとしたところで、いつものリュックがないことを思い出す。自分と一緒に床に転がっていたリュックは口を止めていなかった所為で横倒れのまま、中身が床にも零れていた。
手を伸ばすが、壁に背中を預けている状態では届かない。仕方なく立ち上がろうとすれば別の真新しい激痛が走り抜け、思わず声を上げて押さえた。仕方なく、もう少しもう少しと思いながら身体をリュックの方向へ屈ませ、なんとか紐に手を届かせ引き寄せる。
座っていると自分と近い高さまで膨らんでいるリュックを両手で抱え、今度は壁ではなくそれへ前のめりに自分の身体を預けた。
身体の痛みがただただ引いていくのを待ちながら、彼が今顧みることは単調だった。
……やべぇ……調子乗った……
独り言すら疲れると、頭の中だけでそう思う。
今日は自分にとって久々の楽しい日だった。夢中になってのめり込み、陽気になって少し滑らせてしまったらこうなった。
げほっ、とまた咳をしながら手探りだけでリュックの中からいつものソレを探す。見つかる前に、バレる前に早く、早く、と気だけが急きながら、手が指先までまだ思うようには動かない。
あとどれくらいこんな時間が続くのだろうと、今まで必死に考えないようにしていたことを今日だけは考えてしまう。夜の海で向こうに見えた小さな灯火のように、今はそれしか彼の目には入らない。
思った途端、考えた途端、今度はまるで現実になることを願うように敢えて声に出す。咳き込みすぎてまだガラついた喉で、それでも言霊を無音へ残す。
「あと、…………ちょっと……」
指先が目当ての物に掠めて摘まみ、リュックから引き出したネイトはもうそれ以上は何も言わなかった。
Ⅱ77




