Ⅱ154.記者は伏し、
─ 最初に思ったことは「やっぱり」だった。
カタン、と扉を開く。
「ただいま」と当てる先もなくただ零す。誰もいない居間は外と同じように灯りの一つもなかった。
蝋燭どころかマッチ一つを灯すのも面倒で、慣れたそこへ塞がった視界のまま入り扉を閉める。習慣的に時計がある場所に目を向けるけど暗くて全くわからない。
ただ、少なくとももう日付は超えているだろうことはわかった。いつものように仕事を終えて帰れば大体この時間だ。
床を踏めばギシリと音が鳴る。せめて寝室で休んでいる家族を起こさないようにと一歩一歩にすら気後れする。親も兄貴も皆朝から晩まで働いているのに、一瞬でも起こしちゃ悪い。婆ちゃんと爺ちゃんを介護していた名残で今もお袋は眠りが浅い。
ギシリ、ギシリと数歩更に歩いたところで足先がつっかかった。手探りでそれが何かを確認した俺は、上着だけ脱ぎ捨てて目の前のソファーに倒れ込む。
床と同じくらいに悲鳴は上げたけど、固い生地は寝返りさえ打たなければそれ以上音もしなかった。突っ伏したまま大きく肺を膨らました息を吐き、泥のように眠
「帰ったのか、キース」
落ち着いた声が無音の奥から掛けられた。
キィ……と扉が開く音も同時にして、兄貴だなとすぐにわかる。無視をして寝ようかとも思ったけど、その前に毛布を顔面に投げつけられた。バフッ‼︎と一瞬息が止まるくらいの勢いに毛布が捲り、身体を起こせば蝋燭を片手に俺を睨む兄貴がそこに居た。
暗闇に目が慣れていたせいで小さな灯りすら眩しい。目を絞って睨むような細さで見返せば、兄貴は溜息を吐きながら歩み寄ってきた。ギシリギシリと踏み鳴らして、頼むからお袋達を起こすなよとだけ思う。
「そろそろ今の仕事も考え直したらどうだ?その内身体を壊すのも時間の問題だぞ」
またその話か……。
返事の代わりに、うんざりと唸りが小さく口の隙間から溢れる。お袋達が居ないとすぐこれだ。兄貴は昔から俺の仕事に文句が多い。確かに稼ぎも大して良く無いし休みも雑だし仕事は多い。そんな俺を兄貴が心配してくれるのもわかる。
最近じゃ特に「この仕事はどうだ」と働き口を紹介までしてくることが増えた。けれど、どうにも今の生活も仕事も変える気にはならない。
その話はまた今度にしてくれ、と欠伸混じりに返しながら伸ばした腕でソファーの背もたれに掴まる。
「言ったろ、俺は今の仕事が気に入ってるって。そりゃあ新聞なんてまだ買ってくれる奴も少ないけどさ」
「もう昔とは違うんだ。…………〝そんなこと〟をしなくても良いんだと、自分が一番よくわかってるだろ」
……言いたいことは、わかる。
兄貴は、俺が新聞社で働き始めた理由も知っている。だからずっとこんな仕事をするのに反対していたし、きっと稼ぎが良くても辞めろと言われていた。俺がこの仕事をする理由は不純だし、今は確かにやっても無駄かもしれない。
けれど、やっぱり俺は。
「……兄貴が家を出ることになったら考えるよ」
「俺は出ない。父さんと母さんをこのままにしておけるか」
「じゃあ早く嫁いでくれる彼女つくれよ」
「話をすり替えるな」
叱られた。
珍しく少し尖った言い方をする兄貴に、今の反応だとそういう相手くらいはできたのかなと思う。いつもは仕事が第一とか言ってたくせに。
だとしたら、余計に俺のことが不安なんだろう。こんな不安定な職についた弟を紹介できるわけもない。嫁いでくるならこの家に住む事になるし、親はまだしも俺の世話までは面倒も見切れない。……なら、俺が出て行くかな。
「キース。お前こそ早く支えてくれる人を探せ。この前なんて深夜どころか明け方まで帰ってこなかっただろ」
父さんも母さんも心配してる、と。そう尖った口調のまま言う兄貴に耳を塞ぎたくなる。
もう話は終わりだと意思表示に再びソファーに寝転べば「そうやって毎回毎回ベッドですら休まない」とまた言葉で突かれた。もう俺も良い年なんだからそれくらい放っておけば良いのに。
いっそ家を出て行けくらい言われても当然だと自分でもわかってる。家にも殆ど居ないでこんな時間ばっかに帰ってきて、……お陰で爺ちゃんの死目にも婆ちゃんの死目にも会えなかった。金だって俺が入れられてる額はほんの僅かだ。
家に絶えず金を入れてくれている兄貴には感謝してるし、正論だってわかってる。今の仕事を辞めてまともな仕事に就いて良い人探して一緒になった方がずっと親孝行だ。ただそれでも俺が辞めたくないのは
「いつまでエリック兄さんの復讐なんかに囚われているつもりだ」
……静かに言ったロベルトの兄貴の言葉は、今夜の説教で一番効いた。
寝転んだ後で良かった。今顔を兄貴に見られてたら、きっと隠せないほど正直な顔をしていただろう。
手の甲で両眼を隠し、口を閉ざす。兄貴が一方的に抑えた声で切々と「もう時代は変わった」「女王は居ない」「エリック兄さんも喜ばない」「前を見ろ」と続けても、返す言葉は見つからない。どれも今まで何度も何度も言われた言葉だ。
八年前。兄貴が死んだと報せが入ったのは突然だった。
念願の騎士団にやっと入団して、本隊との力量差に絶望的だと自覚しながら「民の力になれさえすれば良い」と腐らず笑っていた兄貴は例年ある隣国への新兵合同演習へ向かったその日にあっさり死んだ。
国の為でも民の為ですらない。他の新兵達と一纏めで崖の下敷きになって死んだ兄貴は、その他大勢の被害者の一人だった。当時の騎士団長が死んだことは城下に広まって民の不安や嘆きで揺らしたけど、兄貴の名前で嘆くのなんて兄貴の友人か身内の俺達だけだった。
当時の騎士が悼みに来てくれたり、わざわざ新兵でしかなかった兄貴の死を詫びに来てくれたけど親父もお袋も爺ちゃん婆ちゃんも泣くことしかできなかった。俺とロベルトの兄貴は、その代わりに兄貴の後始末や家のことで嘆く暇もなかった。
全部が終わったら、残ったのは片付ける人間もいない兄貴の部屋だけだった。新兵になれてからは今の俺より収入がなくて、騎士団演習場に泊まり込むばっかで家にも休息日以外帰ってこなかった兄貴の死は驚くぐらいに俺達の生活には支障もなくてひと月もすれば変わらない日常だったのに、……〝俺達への〟影響はずっとだった。
昔から呆れるくらい温厚で、努力ばっかは怠らなくて、騎士になる為に何年もそれを続けていた兄貴の死はあまりにもあっけなさ過ぎた。
十年以上前から騎士になると言っていた兄貴が、新兵になってから死ぬまではあっという間だった。そして死んだと聞かされた時に俺が最初に思ったことは
〝やっぱり〟だった。
ろくでもない我儘姫様が女王になったと聞いた時点で、そんなのを守る為に命を掛ける仕事なんてろくな死に方をしないと思った。
それでも兄貴は王族の為じゃなく民と、民を守る騎士の為に戦うんだと聞かなかった。
兄貴の死を悼みに来てくれた騎士に、一体どうしてそんな大勢の騎士が死んだのか尋ねても俺達には〝事故死〟としか明かされなかった。頭だけをひたすら下げられて、力及ばずと言われてもぶつけられるわけがない。兄貴が憧れていた本隊騎士に俺達が頭を下げられて、怒鳴る気力すら湧かなかった。
ただ、俺達の家だけでなく他の新兵の身内にも挨拶に回ってくれていただろうその騎士達が、兄貴の死因を尋ねた時だけは下ろした拳も肩も震えていたのが忘れられない。
上から箝口令を敷かれて何かを隠してると、俺でなくても頭が冴えてる奴ならわかっただろう。
それでも庶民の俺がそれ以上わかるわけも、そんな頭を下げてくれた騎士に問い詰められるわけも、あの悍しい城に乗り込める度胸もあるわけがなかった。
ただ暫く経って、……国で不審な死者が増えたことが城下で広まった。騎士が死んだ、自害した、衛兵が〝事故死〟した、〝侵入者に殺された〟と。城で働く人間が次々と〝理由の言えない理由〟で死んで帰ってくることが増えた。兄貴の時と同じだ。中には遺体すら返されない衛兵も居た。
そんなことが増え続けて、とうとうある日。希少か優秀な特殊能力者が城に収集されて隷属に落とされた。拒んだ人間は全員その場で殺されて、広場の中央に晒されるように捨てられた。城の人間どころか、とうとう民まで女王の我儘で殺されたのだと城下中が理解した。……そう、あの時にはもう
誰もがわかっていた。女王の気紛れで徒らに人が殺されていると。
なら、兄貴もそうだと思った。
あの女王が戴冠してたった三年でのことだ。どういう理由かも、どうして殺されたのかもわからない。ただ、間違いなく兄貴も新兵も女王に殺されたのだと思った。
当時の騎士団長は史上最年少騎士団長。人望もあって騎士の鑑みたいな人だと有名で、兄貴も噂に違わない騎士だと話していた。それなら女王の命令から新兵を庇って始末された可能性だってある。〝傷なしの騎士〟と異名すら持っていた騎士がそんな簡単に死ぬとは思えない。
そんな事を一人で考えていた時、偶然見つけたのが〝新聞社〟だった。
別に稼ぎも良くないし、何か騎士みたいに特権を国から与えられているわけでもない民営の組織だ。
ただ、「事実を公に」という言葉に惹かれて気がつけば決めていた。女王の悪事、……までは記せなくても、具体的に城下でどんな被害が起こっているかだけでも書けば良い。それが女王の仕業だということは誰でもわかる。
〝城は危険だ〟〝騎士が死んだ〟〝衛兵が死んだ〟〝城で働けば帰ってこれなくなる〟〝女王に逆らえば殺される〟〝全ての元凶は女王だ〟
それが、一人でも多くに伝われば良いと思った。
ロベルトの兄貴には「下らない復讐心」なんて言われたけど、警告を鳴らして知らせないとまた誰かが死ぬ。女王の被害を知らないと、誰もが〝王族〟の響きに騙される。
俺の下らない復讐心で、兄貴みたいに死ぬ人が減れば良い。俺やロベルトの兄貴みたいに家族を亡くして未だに嘆く暇すら得られない人が減れば良い。俺らの両親みたいに「騎士を目指すなんて止めれば良かった」と後悔し続ける人が減れば良い。
爺ちゃんや婆ちゃんみたいに、孫に先立たれた所為で生きる気力も擦り減らして早死にする人がいなくなれば良い。……爺ちゃんも婆ちゃんも、女王の所為で生活が苦しくなってもお袋が必死に世話していたのに死んだら天国にいる兄貴に会えるからと言って、本当にぽっくり死んだ。
記録に残さなきゃいつかは風化する。特に王族の黒い歴史なんて百年も経てばなかったことにされる。兄貴の死が、新兵の死が、騎士団長の死が、もう今じゃ誰も語ることすらなくなったように。
「……兄貴。今日が何の日か、知ってるか?」
ははっ、と。気が付けば枯れた笑いが溢れた。
俺に説教を続ける兄貴が一度そこで口を噤む。知らないわけじゃない。城下に住んでいる人間なら下級層から上級層まで誰もが知っていることだ。俺だって今日はその取材だの印刷だので仕事漬けだった。
わかってるくせにそれでも答えない兄貴は、きっと俺が言いたいこともわかってる。
何も言わない兄貴に触れず、敢えて俺は口にする。
「我が国の誇る天才、ステイル摂政の御誕生日だ。……あの女王と一緒に兄貴を殺したかもしれない男が生まれ落ちた日を、国中が祭りまでして祝ってる」
馬鹿みたいだ。
女王が死んでも、あの男はまだ残ってる。俺が調べられただけでもあの女王の虐殺に絶対に摂政も関わってる。少なくとも隷属を拒んで殺された何人もの特殊能力者をその手で晒したのは摂政だ。そんなこと、新聞に書かなくても王都に住んでるやつならわかってる。
なのに新体制になってもドッカリその席に当然のように座ってる。ティアラ女王の義兄?補佐?摂政⁇そんなのどうでも良い。あの男が今日まで何万もの人間を殺しているかもしれないのにどうして処罰されないんだ。なんで誰も疑問にすら思わないで讃えてるんだ。なんで、どうして、民の誰も
女王の関係者全員を血祭りに上げたいとは思わないんだ。
「兄貴。……俺、この国が怖ぇよ。ティアラ女王が現れてやっと、やっと誰も殺されない時代が来ると思ったのに、……何人ものたれ死んでいる」
経済がそんな簡単に戻るわけない。
女王以外にも黒いことをやって私腹を肥やしていた連中は絶対居る。しかも都合良く革命の日に上層部はどいつも全員女王に殺されてる。本当に女王が殺したのか?口封じに殺されたんじゃないのか?なのに、もう国中がティアラ女王も摂政も讃えてる。……まともな実績もない、あの王族二人を。
まるで裏から糸で釣られてるみたいに、国中が無理矢理納得させられている。
新聞社で働いて、色々情報を辿るようになった俺だからそう思う。
いっそ俺も他の民と同じように馬鹿みたいに新時代を喜べれば幸せだった。裏を辿る仕事と、客観的に事実をみることが増えた所為で俺だけが国に置いていかれた気分になる。
ティアラ女王は、ついこの前まで城の何処かに幽閉されていた王女。ステイル摂政は、繁栄が続いていたフリージアを傾けたあの前女王の片腕としてずっとその権威を保ってきた王子だ。そんな二人をどうしてどいつもこいつも讃えるのかわけがわからねぇ。もう俺自身が冷静なのか、それとも頭がおかしいのかもわからない。
女王の血族も、当時の関係者も皆信じられないし許せない。王族への不満や不審がごった煮されて、いっそあの女王が死ぬ前よりも憎しみが強まっている。民の全員が怯え震えていたあの時は良かったとすら思う。今は、……民の多くに讃えられる王族達が憎くて仕方がない。兄貴を、罪もない民を見殺しにしておいて何も責められず神のように讃えられる奴らが。
「新聞社辞めろってんなら教えてくれよ兄貴っ……なんで誰も責めない?祭りなんてする金あったら心優しいティアラ女王はどうしてそれを城下の子どもに分けてくれない?下級層どころじゃない、十三ぐらいの子どもが何年も前から貧民に金を支援して匿ってたって噂まである。大人でも城の人間でもない子どもだ。仕事がないんだよ、女王が死んでから城下解放で金がある奴は田舎に逃げてる。金持ちがいないと使用人の仕事もないし、金を使う奴がいないと売る側にも落ちてこない……。本当に、本当にエリックの兄貴は、…………こんな国で満足なのか?」
べらべらつらつらと、答えが返ってくるわけもなく嘆き零す。
見せられない顔を手の甲で隠し、目を閉じればまるで溺れてるような感覚に息も詰まる。
女王さえ消えれば、本当に全部が大昔みたいに戻ると俺だって思った。その日の新聞はいつもの百倍以上刷れたし売れた。時代が変わった、悪夢は終わったと誰もが目を輝かせた。けど、ここから本当に平和な国になるのに何百年掛かる?
他国にはフリージアの人間ってだけで特殊能力者じゃなくても拒まれる。あの悪魔の血を引いていると怯えられ、女王の目が無くなった途端に移住していたフリージア人が他国から追い出されたって話まで聞く。その上奴隷狩りだけは今も水面下で蠢いている。
特殊能力者よりも〝女王と同じ一族〟と国中の人間がそう見られる。唯一追い出さないでいてくれるのは隣国のアネモネ王国くらいだ。……前女王の婚約者が王位を継いだ国に逃げる。とんだ笑い話だ。あの〝名ばかりの王配〟なんか婚約してから私腹ばかり肥やして民の前に立ったことすらない分際で。
悪夢はまだ終わっていなかった。
表面上が綺麗に飾り付けられただけで、裏側はまだ濁り澱みきったままだ。
「……疲れてるんだな。仕事後にこんな話をして俺も悪かった。……ちゃんとベッドで寝ろ」
低く暗ずんだ声が返される。
何の答えにもならないその言葉に、俺も一言しか返さない。自分の部屋に戻る気どころか、身体を起こす気にもなれずそのまま毛布だけ胸まで引っ張り上げた。
確かに結構疲れてるのもあるかもしれない。今日は祭りの為に城下中が賑わって、取材で端から端まで歩き回ったから足にも結構きた。
ぐちゃぐちゃと気持ち悪く混ざる頭の中で、さっきまでの眠気が覚めた。ギシ、ギシと兄貴が部屋に戻る音を聞きながら寝返りを打って横を向く。懐から手探りだけで手帳を出せば、目が慣れたお陰か少しだけ字が追えた。
新聞社で働く前からずっと付けていたものだ。城の人間や城に呼ばれていった人間、兄貴みたいに大した理由もなく突然死んだ人達のことを書けば、どんなに細かく書いても簡単に頁は黒く埋まった。名前も、住処も、遺された家族の行末も、城からの処理も、書けば書くほど痛みに胸が軋んだ。まともな対応をしてくれたのなんて騎士くらいだ。……その騎士も、女王の時代では無意味な殺戮に加担していた。前前騎士団長と副団長が同時処罰されてからは、比例するように自害する騎士も後を絶たなくなった。
「…………なかったことになんかしてたまるか……っ」
噛み締めた声が自分のものじゃないようだった。
忘れちゃいけない。悪しき時代があったことを。
革命の瞬間に全部が一瞬で変わったわけじゃない、諸悪が全部清算されたわけじゃない。
これから何年何十年何百年も、犠牲になり続けた人間がいることを。
〝平凡〟で、〝普通〟な毎日を一生送れなくなった人間がいる。俺もきっとその一人だ。遺された人間が全員救われたわけじゃない、一度の王で数えきれない不幸が遺されたことを絶対に俺は
忘れさせはしない。
……
…
「キース。……ちゃんとベッドで寝ろ……」
はぁ、と。溜息混じりの声がする。……あれ、ここ何処だ?
いつの間にか眠っていたのか、手の甲で両眼を覆ったまま小さく呻くことしかできない。頭がぼやぼやしてはっきりしない。……何か、夢でも見てたのかな。
タン、タン、タンと床を踏む単調な足音が近付いてくる。
「……まったく」
独り言みたいに小さな呟きの後、ボフッと布を掛けられた。柔らかさから毛布かなと思いながら、頭がまだ働かない。
目が覚めたのに動く気力が出ない。寝ていた筈なのに信じられないほど疲れてる。まるでずっと沈んでいたような重い感覚に半分溺れながら、声の主が誰かと考える。
肝心の名前が出てこない。誰だっけ。ロベルトの兄貴かな、と思ったところで口が止まる。違うそっちじゃない、この声はと。わかった俺はやっとどうしてここにいるのかを思い出した。
「……エリックの兄貴」
小さく唸り、薄く目を開けてみたけれど視界は瞑っていた時と同じ黒だ。
まだ深夜で、日付は超えてる。俺がソファーに転がった時点でもうそれくらいの時間だった。
目を擦り、寝起きの頭どころか身体もまだだるいなと上半身だけ起こす。ソファーの背もたれに掴まり寄り掛かれば、灯りも持たずに俺の前に佇む兄貴がそこに居た。
まだ頭がぼやけてるのか、兄貴が帰ってきたことに妙な感じがする。ただ〝帰ってきた〟だけなのに、胸が大きく上下するのが自分ではっきりとわかった。いつものようについでみたいな感覚で「おかえり」と言ってみれば、何故だか目の奥が一瞬ツンとした。
騎士団演習場に住んでるとはいっても、最近は特に帰ってくることが多かったし別におかしくもないのに。……というか、大体俺がここに居たのも
「また仕事帰りだろ?いくら面倒だからって自分のベッドで休まないと疲れも取れないぞ」
「今日は兄貴を待ってたんだよ……」
項垂れた声が勝手に出る。
多分、いま俺の顔を照らしたら確実に見せれない顔をしてる。兄貴が「俺を?」と尋ねてくるから、夜目に慣れたまま兄貴をじっと睨んだ。
今日は取材だの印刷だので結構忙しかったし、疲れていて二階の自分の部屋に戻るのが面倒だったのも確かにある。お袋は爺ちゃんと婆ちゃんのことで眠りが常に浅いし、階段の音でうっかり起こしたくもなかった。今までもソファーで仮眠したことは数えきれないし、兄貴に発見される度に注意を受けたことも今日だけじゃない。
けれど今回は違う。お袋から今夜また帰ってくるという兄貴を待ち構える為にソファーで待った。
何か約束でもしてたかと言わんばかりに首を捻って訝しむ顔に、俺は眠気に押されながらも口を開く。
「いい加減に俺の手帳返してくれよ……」
それか、と。
兄貴がまた溜息を吐いた。この前、ちょっとやらかしたらまさかのお宝を部屋から盗まれた。いや俺も一回警告受けてたの無視したし悪いと言えば悪いけど、流石にあの手帳はない。よりによって最新巻。俺にとってどんだけ大事なのかは兄貴もよく知ってる筈なのに。
取材の時はうっかり落とさないように部屋に置いていたのが仇になった。まさかあれくらいのことで本気で兄貴が怒るとは思わなかった。たかが子どもけしかけられたくらいであそこまで怒ったことなんて一度もなかった。
「ジャンヌ達がうちで通うまでの間、これ以上余計なことをしなかったら返す」
「あと二週間以上あるだろ……本当に頼むから返せって。アレがないと落ち着かないんだよ……」
「追記したいなら別の紙に書き溜めすれば良いだろ」
「何年続いた習慣だと思ってるんだよ……あの手帳じゃないと駄目だ」
「ジャンヌ達に余計なちょっかい出すからだ。諦めろ」
クソ、今回はどうやら本気だ。
胸の中でだけ悪態を吐き、背もたれに顔を突っ伏す。こんなことになるんだったら肌身離さず持ち歩くんだった。いやでも何処かで落としたら俺の人生が終わる。……それをよりによって騎士の部下に預けるとか。
兄貴曰く誰も中身は見てないし、今は騎士館の部屋にあるらしいけど、それでも騎士団の真ん中にあるだけで落ち着かない。というか定期的に手帳の安全と中身を確認しないと無理だ。しかも、今はこんなに書き込みたいネタがあるのに追記できない。正直苦痛だ。
今までも何かやらかす度に私物を没収されたことはあった。ロベルトの兄貴と本の取り合いした時は本を没収されたし、軽い揉め事に巻き込まれて怪我した時も揉め事自体を誤魔化してたら手帳を隠された。兄貴は殴らない代わりに結構きっちりしてる。
成人してからはこんなことなかったのに、まさかこの年でガキの頃と同じ仕置きを受けるとは思わなかった。
「兄貴の大好きなプライド様にも似てるし、もうちょっと可愛がってやれよ。ジャックとフィリップより贔屓しても罰はあたらねぇだろ……」
「それが余計なんだ。似てるからってジャンヌとプライド様は別人だ」
「ほら見ろやっぱり似てるんだろ」
ついに言った。
そう思って報復ついでに言ってやれば、兄貴の肩がピクリと動いた。今まで一度も認めなかったけど、やっぱりジャンヌはプライド様に似てるらしい。
遠目以外は噂で聞く特徴しか知らない俺だけど、真紅の波立つ髪と紫色の瞳。凛とした強い眼差しも全部が当てはまる。まぁジャンヌは若干凛とというより吊り目の印象だけど、美人には変わらない。あと数年経てば引く手も数多だろう。
兄貴はゴホンと咳払いしながら顔を背けた。あんな年下に兄貴が手を出すとまでは思わないけど、もう少し良い思い出くらい作ってやれば良いのに。頭撫でてやるとか可愛いって褒めてやるとか。まさかジャンヌがプライド様に似てるからこそ手を出さないように距離を取ってるのか。でもだとしたらそれこそジャンヌが可愛そうだ。
「別人だって思うなら気にせず可愛がってやれよ……。兄貴は昔からプライド様のことになるとほんとに」
「プライド様のことを手帳に記録してるお前に言われたくない」
打ち消すように兄貴の言葉が重ねられる。
少しムキになった様子の兄貴はいつもの倍は大人気なかった。そういう言い方はないだろと思ったけど、実際そうだから俺も口を閉ざす。
俺の手帳は家族なら全員知っていることだけど、そう改めて言葉にされると気恥ずかしくもなる。顔を背けたまま腕を組む兄貴に、俺は頭を掻きながら言い返した。
「元はと言えば兄貴の所為だろ」と。
Ⅰ170. 78.
Ⅱ3-2.132.
Ⅰ6.523.458
Ⅱ1
Ⅰ132.358-2
Ⅱ41
Ⅱ138-1




