Ⅱ110.キョウダイは選ぶ。
「ディオス!クロイ!待たせてごめんなさい!」
後続の生徒達に続いてジャンヌ達が門を潜ったのは、姉さんの背中が人混みに紛れて見えなくなった後だった。
門番の騎士が「走るな!」と何度か早歩きから駆けそうになった生徒に叱咤しているのを聞きながら、僕とディオスはジャンヌ達を待った。
門を潜ってすぐに横の壁に背中をつけて逸れた僕らの横を何人もの生徒が大股歩きで過ぎ去る。当然だ、皆その為にこんな時間まで早起きして来たんだから。
なのに、僕らはまだここに居る。
「遅過ぎ。せっかく早起きしたのに先越されたちゃったし」
「もう良いだろ!それよりジャンヌ達も来たんだし早く行こうよ!」
門を出てすぐ僕らに気付いて横に逸れてきたジャンヌを、僕はわざと睨む。
直後には割って入るようにディオスが僕の背を押した。
やっぱり取り巻きの二人もジャンヌと一緒だ。フィリップもジャックもジャンヌに付き合って早起きしてくれたらしい。
本当にジャンヌに付き合ってよくやるよなと思う反面、心強く思う僕がいる。未だにジャンヌと同じくらい彼らの真意は読めない。フィリップは勉強を教えてくれたけど、時々怖い目をするし圧がすごい。ジャックは姉さんの時も荷運びの時も助けてくれたけど、ディオスがジャンヌを叩こうとした時は反応が速すぎて怖かった。きっとジャンヌが白なら二人も白だろうし、黒なら真っ黒なんだろう。
ええ、そうねと返すジャンヌが僕らの背後に続く。はぐれないようにか、指先で僕らの背中の裾を摘んだ。そりゃあんな人混みの中に紛れたらまたバラバラになるかもだけど。
ジャンヌの左右にフィリップとジャックも並べば、僕らは一塊になる。門を逸れた位置から早足で再び人の流れに飛び込む。門を抜けちゃえば人もバラけるように左右に広がるからそこまで密集はしていない。
中等部の棟まで歩けば、大した距離でもない筈なのに凄く一歩一歩が遅く鈍く感じた。歩いても歩いても近付かない感じだし、胃の中が裏返るみたいに気分まで悪くなった。
「……クロイ?」
唇を噛んでも落ち着かないし、交互に動かす足がぎこちなくなるのが自分でもわかる。
ディオスに呼ばれても目を合わせるどころか顔を向けることもできないし、呼吸を意識的に繰り返しながら吐き気に耐える。服が擦れ合う感触やジャンヌに摘まれた背中とか、ディオスの肩が当たるのすら変に気になるし気が逸れる。なにこれ、息が上手く回らない。
溺れた時の感覚によく似てる。視界まで目が開いているのに白と黒にチカついてよく見えない。
「大丈夫?クロイ。ほら、ちゃんと歩かないと」
不安そうなディオスが鼓膜を微弱に揺らす。
なに言ってるの。僕はちゃんと歩いてるでしょ、進まないのは道だけで。
進んでも進んでも進まないし、道が逆に動いてるんじゃないのかと思う。言い返そうとしたら、喉が妙に乾いているのに気が付いた。砂でも飲んだみたいにカサついて、僅かに開いた口をまた閉じた。
この先真っ直ぐ歩けば良い筈だけど、方向は本当にこっちで合ってるの?ディオスもジャンヌも言わないし、多分合ってると思うんだけど。
そこまで考えてからふと、本気で視界がまだらで見えないのに気が付いた。働き過ぎて貧血になった時に少し似てる。
嘘でしょ。そりゃ昨日は寝れなかったけど、この一週間は食事だってまともに食べれたし、働く時間だって途中からなかったし、こんなんで倒れるわけないのに。
背後からジャンヌだけじゃなく、フィリップやジャックの声もする。けどなに言ってるのかわからない。うわ、気持ち悪い。
どうしよう、息ってどうやれば吸えたんだっけ。多分もうこれ歩けてない。
いつからか、今度は本当に足が止まってる。ていうか笑えるくらい震えてる。さっきまであんなにはっきりし過ぎてた感覚が、今度は全く何も感じない。全身がまるで石だ。
馬鹿みたい、なんで今、こんなに、ここに来て、こんな時に、急にこんな、こんなにっ……──
「「クロイ‼︎」」
……響く二重音に、耳がキンとした。
凛とした声と、僕と似ている多分同じ声。それが殆ど重なって、僕の鼓膜から頭まで貫いた。
瞬きを何度もしていると、少しずつ視界が開ける。パチン、パチンと照準を合わすみたいに白と黒の光が晴れていく。肌の感覚も少しずつ戻ってきて、気がつけば僕の両手がそれぞれ誰かに握られている。
パチン、とまた視界が開けて大きく息を吸い上げる。居る、目の前に二人いる、僕を覗きこんでいて、恥ずかしいくらい近過ぎる。
もう三回瞬きを繰り返せば、真剣に顔を硬らせているディオスと心配そうに紫色の瞳を揺らすジャンヌだとわかった。二人とも僕の手を両手で握って、力が強くて、なにこれ僕が子どもみたい。
「……なに」
震える喉で声にしたら、自分の中だけか妙に息の荒さが響いた。
頭では僕の所為で足が止まってることも、僕がおかしいこともわかってる。同調もしてないのに、僕の身体が僕の物じゃないみたいだ。
すると、僕が返事できたことにほっとしたのか二人の肩が僅かに下がった。次の瞬間には右手が掴まれたままグイッと強く引っ張り込まれる。
「クロイッ!大丈夫だから‼︎何があってもちゃんと僕が付いてるから!」
ディオスの声も、震えてる。
何が大丈夫なの、またそうやって無理するつもりでしょ。それが僕は嫌なんだから、と。頭に浮かんでは弾けて消えた。嫌味を言いたくなるくらいには頭が現実に付いていってると理解する。
ディオスに握られた手に力を込めたら、潰すつもりかと思うくらいに両手で握り返された。「大丈夫……‼︎」という根拠もない言葉に、すごく、気が遠くなるほどすごく安心する。長い息が口の隙間から抜けて肩が降りていく。僕の方もかなり肩が強張ってたんだなと今気付いた。
今までも、何度もあった。同調したディオスの記憶じゃなく、間違いなく僕の記憶で、子どもの頃から絶対。ディオスは子どもだし、すぐ泣くし、面倒くさいけど、でもやっぱりそれでも間違いなく
僕の、兄だ。
「…………怖いよ」
ぽつり、と思った途端に溢れた。
ちゃんと言えなかった口が、弱音に限って簡単に溢していく。言葉にできた途端に胸は少し軽くなったけれど胃が重い。鉛を飲んだような感覚にまた吐き気がこみ上げた。
ディオスからも呼応するように喉を鳴らす音が聞こえて、僕の腕を掴む手の感覚が強くなる。「僕も怖いよ!」と競うように発せられた声が、心臓を高く鳴らした。
ディオスも怖いんだと、わかってた筈なのに何だか救われる。いつもいつも僕にできない気持ちも言葉にしてくれる。僕の代わりに言って、こうして手を引かれるのはもう何十度目だろう。
……怖い。
本当に、結果を見るのが死ぬほど。
つい、さっきまでとは比べ物にならないほど、鼻先に突き付けられる現実を直視したくないと身体が拒絶する。ちゃんと、問題は解けたし、ジャンヌにも少なくともそこは騙されていなかった。けれど、それと結果が伴っているかどうかは別だ。ジャンヌに採点してもらったわけでもないし、僕らが一つでもミスすれば満点を取った奴らの勝ちだ。僕らより、ずっとずっと恵まれていて頭も良い生徒なんていくらでもいる。たった、たった数日勉強しただけで本当にそんな人達より結果を出せたのか自信がない。
これで、もし僕もディオスもダメだったら、この先どうやって生きていけば良いのか考えるのも怖い。学校だけじゃない、仕事もまた戻らなきゃいけない。前の仕事場にもう一度働かせて下さいと頭を下げて、それでまた雇ってくれるかもわからない。
ディオスが苦しんで、特殊能力にまた僕かディオスが縋りたくなるかもしれないし、姉さんにそれを知られたらまた無理をするかもしれない。
距離を置けば置くほど、前の暮らしに戻るのが嫌だと思う。なのに、ここで駄目だった時はまた戻りたくない筈の〝元の暮らし〟をする為に必死になることが怖い。あんな、ディオスが苦しむのに、身体の弱い姉さんが無理してまた顔色が悪くなって、毎日毎日力仕事でボロボロになって
それが、永久に続く生活に。
「大丈夫よ」
ぎゅっ、とディオスとは反対の手に今度は力が込められた。
凛とした明るく響くその声に俯きかけた顔を上げれば、朝日に照らされた白い肌が反射し目を焼いた。同い年とは思えないくらい力強い笑みを浮かべる彼女は、僕だけじゃなくディオスの手も掴んでいた。細い指一本一本が僕らに触れる。
何が、どこが、無責任な、大丈夫なわけないでしょ。言える言葉はあったけど、今は唇を絞って見返すのが精いっぱいで。ジャンヌの言葉を待てば、ディオスも目を見開いて彼女を見つめていた。
「もし駄目でも次の特待生試験があるわ。それもたった半年。もし今回駄目だったら、次の試験前にまた力になるから。辛いことは、ずっとじゃないわ」
同調もしてないくせに、心を覗かないでよ。
下唇を咬み、顔に力を入れる。喉の奥がつまる感覚に、まだ早いと自分に言い聞かす。
「任せて」とこんな時に明るく笑うジャンヌは本気でずるいし性格が悪い。そんなの揺らぐに決まってる。頼りたくなるし、助けて欲しくなるし、……ちょっぴり希望まで見えてしまう。
大丈夫、と言われた声が頭の中で繰り返し酷く響く。永遠じゃない、まだ機会はある。半年なんてそれと比べればあっという間だ。
すると、またディオスが僕の手を引いた。自分の方じゃなく、中等部棟に向かって一歩僕の前に出る。いつもいつもそうやって何も考えずに前に行っちゃうから、僕はいつも追わないといけない。疑う僕が立ち止まっても、絶対前を信じて踏み出すディオスだから、……僕も引っ張られて前に進める。
こんな頼れる兄を、なんでいつもディオスは卑下するのかわからない。
「クロイ。……約束するから。もし駄目でも、二度と同調はしない。僕が働くのも譲らない。けど、……半年後、また受けるよ」
ジャンヌの言った事をそのまま信じて、もう希望を持てちゃう。僕にはできないし、羨ましい。ディオスは僕より前に行ける奴なのに、絶対僕のことも連れて行ってくれるから。
きっと虚ろな目になっている僕に、ディオスは柔らかく笑う。僕と同じ顔で、全く違う表情で笑う。こんな時に笑うなんておかしいでしょ。まだ結果もわかってないし、駄目だったら半年はまたディオスが辛い目を見るって自分で言っちゃってるのに。……だけど
「……うん」
ずっとじゃない。その言葉は地獄の中だと酷く強い。まだ希望があるということがこんなにも。
ディオスに手を引かれ、再び足が働く。前に、一歩ずつ進めるたびに自然と酸素が身体に行き渡る。早足とはいえない、歩きながらの遅さでそれでも中等部棟に確かに近づいていく。ふとディオスに引かれてない方の手がいつの間にか空なのに気付く。手のひらを見つめて、それから振り返るとジャンヌはまた僕らの背後を歩いていた。押すことも急かすこともなく、僕らの足並みに揃えて続く。
フィリップもジャックも全くそれに文句を言わない。ジャンヌが力いっぱい握ってきたからか、手の温もりだけはまだ残ってて、少しずつ冷えていくのが嫌で自分で拳を握った。
歩き、歩き、とうとう中等部棟の前にたどり着く。昇降口の前にはもう人だかりが出来ていた。一年から三年まで纏めて張り出してあるらしく、中等部の生徒がこぞって騒いでいた。悔しそうに声を上げたり逆に悲鳴のような声で喜んだりして、その度に僕もディオスも肩がビクビク上下した。人の不幸にほっとしたり、喜んでいる生徒を見てそれが同学年じゃないことを祈る僕らは醜いなと自覚する。まるで内側から前へ押し出すように心臓がバクバクと収縮して音を鳴らした。臆病な僕より心臓の方がずっと前のめりだ。
人垣でまだ、張り出しが読めない。距離的には読めても良い近さなのに、人の頭や肩が邪魔だ。三年生とか、僕らと一年しか差がないくせになんでこんなでかいの。
一瞬、ジャックなら背からしても生徒の頭通り越して見えるんじゃないのと思ったけど、……振り返らない。もう見えてるならジャックの顔でわかっちゃうし、ちゃんと自分の目で確かめたい。たとえ良くても、悪くても。
ディオスと、一緒に。
握り合う手が湿る。どっちの湿りかわからないくらい湿って、同じくらい震えていた。
誤魔化すようにどちらからともなく握り合う手に力を込めれば、ぎゅっと肌が詰まる音が体を通して伝わった。膝も笑っているみたいにガクガク震えるし、心臓もどんどん煩くて耳の中の音で生徒の声も聞こえなくなる。ガクガク震えて、繋いだ手を通してディオスの鼓動まで聞こえるかのようだった。ぐいぐいと生徒の間を縫って読める位置まで前へ前へ進んでいくディオスの背中に僕も引かれ、潜り、突き進む。
人と人と肩がぶつかり合うし、窮屈で時々押し返される。揉みくちゃになりながら、僕と同じ細い身体のディオスは真っ直ぐ進んでいく。
ふと、また背中の服を摘まれた感じがして誰かはすぐわかった。すぐそこまで今度はちゃんと僕らに付いてきてくれていると思ったら、迷うより先に勝手に手が伸びた。細い手首の感触と、すぐに握り返してきた手は間違いない。そしてまた、見上げるようにディオスの背中越しの前を向く。もう、張り出しは目の前だ。
人の間から中等部二年の欄がちらちら見える。目を瞑りたいのをぐっと堪えて息を止める。ちょうど僕らの前に立っていた人が横に抜けていった。そして
〝ディオス・ファーナム〟〝クロイ・ファーナム〟
その名が、記されていた。
たった三人分しかない名前の一番上と、二番目。そこにあるのは間違いなく僕らの名だ。
理解できずに疑って、何度も何度も目でその名をなぞった。その上にある〝特待生〟〝中等部二年〟という字を確かめてはまた自分の名を確かめて。思い出した呼吸が今度は速まって、自分で吸っているのか吐いているのかもわからなくなる。
指の感覚が無くなるまで震えるその手を同時に握り合った。自分がどんな顔をしているかもわからない。ただ隣にいる存在とこれが夢じゃないことを確かめ合う。
強張り出す身体から反対で握っていた手が抜けていく。甲高い声が何かを呼ぶように叫んだけど聞こえない。ただ、また空になる手の感触が惜しくて寒くて
「すごいわ二人とも‼︎‼︎しかも一位と二位じゃないっ!良かった!本当に本当におめでとう‼︎」
花のような笑顔だ。
晴れた朝の花。それが、僕らの目の前に回り込むように飛び込んできた。
声も出なくて、反応も追い付かない僕らに代わり、ジャンヌが眩しくなるほどの満面の笑みで僕らに声を弾ませた。
僕の手とディオスの手をまた同時に握り締め、力を込め過ぎて自分の手の方が震えていた。
まだ、頭が追いついていない僕らより先に燥ぐ。本当に勝手だし、ディオスと同じくらい大人げない。
ディオスの方から喉が引きつる音が聞こえてくる。その途端ジャンヌは丸くした目を両方ともディオスに向けた。驚いた表情から、すぐにその顔は緩まった。
「おめでとう」と柔らかな声をディオスに掛け、僕と繋いでいない方の手で頭を撫でた。光るように白い手が触れるか触れないかの瞬間に、ディオスの頬を伝った滴が顎から滴った。ぽつり、と大粒一滴を皮切りにディオスの喉がえづきだす。
「っ……ゔっ、……あ゛あ゛っ……!」
もう、話すことも諦めた声でディオスが泣く。
目を擦り、鼻を擦り、下も向かずにぐちゃぐちゃの顔が皆に見える。数回擦っただけでディオスの目も鼻も真っ赤だった。ひっぐ、ひっぐ!と喉まで鳴らし始めて、今年で十四なのに子どもみたいに泣く。ジャンヌに頭をなんども撫でられて、その度に喉を鳴らして肩まで揺らす。さっきまで、あんなに強がってたくせに。
やっぱり嫌だったんじゃんか。やっぱりまだ怖くて、そのくせ僕の前で格好つけて、こんなにほっとして、安心して、安心……
ディオスも、学校に行ける。
「っ……、……ーーっ……」
急に実感が僕を襲う。
鼻の奥がつんとして、喉が熱を発して目の奥まで広がった。
歯を食い縛って、ディオスの手をこれでもかってくらい握り締めて堪えても目尻に水が溜まってきてるのを自覚する。鼻を垂らす前に強く啜れば思ったより音が響いた。
横でディオスがしゃくり上げる声に消されていればと思いながら、口の中を何度も皮が引っ付くまで飲み込んだ。
ディオスが、学校に行ける。ディオスだけじゃない、僕もだ。二人も、二人も特待生に成れたなら学校に行っても充分姉さんを養える。それに、何よりもディオスが学校に行かない理由がなくなった。
喉から漏れるようなディオスの泣き言が次第に子どもの喚きみたいに大きくなる。ジャンヌが微笑み掛け、頭を撫でていた手を背中へ伸ばした。丸くなったディオスの背を摩る。
「たくさん我慢したのよね。……本当に偉いわ。流石お兄ちゃんね」
また泣かすようなことを言う。
ずるいでしょ。お陰でディオスがもう言葉を話せなくなった。
酷い顔になって、それでも顔を俯かせるのも忘れて泣くディオスに、とうとうジャンヌが片腕で引き寄せ、自分の肩に導いた。無抵抗にジャンヌの肩に顔を埋めたディオスが、肩を酷く揺らして子どもみたいに泣き噦るディオスが、一音をひたすら濁して揺らして漏らしながら泣くディオスが、……羨ましい。
こんなふうに泣いたり、笑ったり、本当に素直にできるディオスが。ジャンヌに、正直な気持ちを言葉でも言葉にしなくても伝えられるディオスが。
「クロイ」
凛とした響きが、今度は僕を呼ぶ。
さっきまでディオスのことばっかり構っていたジャンヌが、肩を貸した体勢のまま首ごと顔を僕に向けてきた。握ったままだった僕の手を小さく手前に引き、呼ぶ。
赤くなってる目も、湿った目尻も、啜る鼻も、情けない顔も見せたくないのに。汚い顔をして、眉間に力を込めてジャンヌを意味もなく睨めば、逆に笑い掛けられた。さっきと同じ、花が咲くような嬉しそうな顔で笑う。
言いたいことは山ほどある。お礼だって今は言っても良いし、どうして本当にここまでしてくれたのとか、まだ信用しきったわけじゃないよとか、それで対価は代償はとか、何を企んでいるのとか色々、本当に色々言いたいことがあるのに今は出ない。一音だけでも言葉にしようとした瞬間、絶対に別の物が込み上げるから。まだ、僕はジャンヌのことを別に
「頑張ったわね」
簡単な、単調な言葉だ。
なのにその言葉を貰った途端、身体中に響いて目尻の湿りが熱を持って込み上げた。喉から響いて、心臓が遅く鳴る。視界が揺らいで、ジャンヌの顔が濁って見えなくなった。
もう無理、とわかった瞬間にムカついて握ったままのジャンヌの手を引き寄せる。ディオスごと僕の方に傾いたからぶつかるようにこっちから飛び込んだ。ジャンヌの手を力任せに振り解いて、その背をジャンヌごと捕まえる。
もう知らない。君が泣かせたんだから責任とって。
「ずるい。ずるい、ずるい、ずるいっ……君は、なんでっ……ずる過ぎるでしょ……‼︎‼︎」
ずるい。
こんなに全部くれて、ひけらかさずに笑うとか。
そんな言葉を言われたら、嬉しくなるに決まってる。信じたくなるに決まってる。
今日、いまこの時までの全部。裏も表もない彼女からの優しさだと信じたい。
あり得ない、信じちゃいけない、疑いたいと頭では思っているのにそれ以上の力で全身が叫ぶ。がむしゃらに彼女を抱き締めたら、ディオスの腕と重なった。さっきまでジャンヌに肩だけ借りていたディオスも僕と一緒にしがみつく。
視界が滲むしこんな顔見せたくないけど、ジャンヌの肩を借りるのも悔しくて食い縛る。もう良い。ディオスに見られてもフィリップに見られてもジャックに見られてもどの生徒に見られても別に良い。ジャンヌに見られなければどうでも良い。
「ずるい……っ、…………〜〜っ。……………………………………………ッがとっ……」
枯れた声が最後に擦れる。
最後まで絶対言わないと思ってた言葉が、とうとう出た。続くようにディオスも何かをぐちゃぐちゃの声で吠えた。多分ディオスも「ありがとう」って言っている。でも、僕以外には話そうとしてることすら絶対伝わらないほど潰れて混ざった声だった。
あり得ない。文字すらまともに書けなかった筈なのに。本当の本当にこの数日で何もかも。ジャンヌに見つかって弱みを握られて、……た筈だったのに。
僕らの力じゃ無理だった。特待生なんて羨むしかなかった。学も、金も、親も無い僕らが戦える場所なんかじゃなかった。
ただ流れるだけで身を任せるしかない人生の筈だったのに、生まれて初めて自分の手で掴み取れた、物にできた‼︎
身体が震える、喉が引き吊り腕が強張る。熱を求めるようにジャンヌに掴まった。
変えられる。僕と、ディオスと、姉さんの未来はもっと良くできる。
時間が掛かっても良い。しんどくても良い。今よりずっと良い場所にいけるなら僕はそれが良い。僕だけじゃ意味がない。僕と姉さんだけでも意味がない。ディオスもいて、僕ら三人できっと今より幸せになれる。
気が付けば、僕も声を上げて泣いていた。自分でも気付かなかった。今まで覚えがないくらい、ディオスと同じ格好の悪い遠吠えみたいな泣き声だ。
身体の芯から込み上げた声が大口を開けた口から溢れて止まらない。ジャンヌが僕の背まで摩ってきた所為で嗚咽が混ざり、咳き込むくらい余計に咽び、苦しくなった。
諦めきっていた僕らの人生に、一筋だけ陽が差した。この券を絶対に僕は手放せない。初めて僕は僕の意志で、自分の人生の道行きを決める。……違う、決めるじゃない。
決められる。
選べる。
それが、震えるほどに嬉しい。妥協じゃなくて諦めじゃなくて心から選びたい先を自分の意思で決められる。
僕の声とディオスの声。同じ声が二重で吼えてジャンヌを襲う。父さんと母さんが死んで以来初めて僕は腹から声を出して泣いた。
今日、僕らは決めた。僕らは選んだ。間違いなく自分の意志で。諦めなくて良い、諦める必要なんてない。もっと、もっともっと僕らは
幸せに、なるんだと。




