Ⅱ98.副隊長は省みる。
「あ……あの、エリック副隊長、本当に朝からごめんなさい……」
「いえ、元はと言えば全責任は僕にあります。本当に申し訳ありませんでした。この埋め合わせは必ずさせて頂きます」
「すみませんエリック副隊長、自分もやっぱり無理にでもジャンヌについて行くべきでした……!」
─ ああクソ、今回ばかりは絶対に許さない。
家を出てから数メートル。頭を片手で抱えたままぐったりとした様子で歩くエリックに、プライド達が声をかける。が、それでもエリックの内側の怒りは治らない。既に元凶であるステイルを始めとして、改めて謝罪と事情を聞いたエリックだったが、大人しく聞いているだけで内心は珍しく悪態をつくほどに怒っていた。
実の弟である、キースに。
「いえ、本当にお気になさらないでください。バーナーズ家の皆さんが仮にも世話になっている家のキースに逆らえなかったのはわかっています。こちらこそ本当に大変な失礼を致しました……」
ジャックも怒鳴って悪かったな、と穏やかに言葉を返しながらも未だエリックの顔色は優れない。
単純に朝目覚めて血圧の上がり下がりが激しくそのまますぐに家を出てきたこともあるが、それ以上に今朝のダメージが丸々残っていた。今こうしてプライド達と話していれば少しは気も紛れるが、そうでなければ穏やかな眼差しが確実に一人で釣り上がっていた。今も思い出せば血色が悪くなったり、プライドと話せば赤くなったりと顔色が忙しい。
ステイルの話を聞けば、元はと言えば単なる通達忘れ。責めるどころか、寧ろ自分が大事な任務を失念して寝ていたのではなかったことに死ぬほど安堵した。もし、ステイルからの通達を受けていたのに時間になっても自分が熟睡して王族を待たせて更には起こしに来てもらうなどであれば一生の恥でしかない。それこそ騎士団で罰せられるほどの大事だった。
そして、寝ていた自分を起こす為にプライドがキースにけしかけられたと聞けば気が遠くなった。よりにもよって第一王女にそんなことをさせるなど。しかも、婚姻前の王女を男の部屋に放り込むなど極刑ものだった。それについてプライドだけでなくステイルもキースを責めないでいてくれることは救いだった。弟のお節介な性格が災いして処刑されたら、流石にエリックも狼狽えるどころではなくなる。
エリックにもキースにも非は全くないと。プライド達三人がそれぞれ声を上げてくれるのをエリックは心からありがたく思いながら頭を下げた。そして、その内心では
─ 俺にも、非はある……。
状況を理解し、落ち着いた頭でエリックは省みる。
今回、自分があそこまで追いやられて取り乱したのには、少なからず自分の責任もあると彼は思う。
最初にプライドが部屋に入って来た時、そして扉が閉ざされた時。彼女が意識的に気配を消すまでエリックは二度ほど目を覚ましていた。
瞼の裏側で、寝ぼけた頭であろうとも侵入者の気配はちゃんと感じた。むしろその後に気配が無くなったことに違和感を感じたほどだった。誰かが部屋を覗いて閉じたのか、キースか、それとも真ん中の弟であるロベルトが帰って来たのかとぼんやり考えた。だとすれば覗いたのは彼の息子達の誰かか、と適当に考えたところで意識が途切れた。あの時にちゃんと目を開けて確認すれば、あんなことにはならなかったとエリックは思う。
そして次に、自分の傍でプライドは名を呼んでくれたのも覚えている。
『おはようございます、エリック副隊長』
『お疲れ様です』
耳を擽るその声に心地よく意識が引っ張られた。
いつもの凛とした声とも違う、優しい声にそれが誰かもすぐにエリックは理解した。更には髪先を撫でられる感覚まですれば余計に心地いい。花の香りが鼻腔を擽るような気もすれば、完全にこれは良い夢だと思ってしまった。
夢と現実のちょうど狭間にいるような感覚に、目を開けてはならないとエリックはすぐに思った。
ここで目を開けてしまえば夢から覚めてしまう。折角プライド様の夢を見れたのに、この声も香りも感覚もまだずっと浸っていたいと頭の隅で望んでしまった。
プライドが気配を消したこともあるが、それ以前にまるで敵意も悪意も感じない柔らかな空気を纏う存在にエリックは完全に気を許してしまった。しかも、実際に相手はプライドである。
─ こんなふうにプライド様が、王女ではなく普通の女性だったら。
今まで何百、何千も思ってしまったことだ。
それを寝ぼけた頭で考え、夢の中とはいえ今の状況を思えばこれ以上なく幸せだと思った。
朝になっておはようと声を掛けてくれ、お疲れ様と言って起こしにきてくれる。寝ている自分の髪を撫で、目を閉じていてもきっと彼女が花のような笑みで微笑んでくれているとわかる。とうとう夢で見るほどこの状況に焦がれてしまったと考えた。
「あれ」と、途中で妙に場違いなプライドの声がすれば違和感を拭おうと思考が夢へとしがみついた。まだ、まだもう少しこの夢を見ていたいと願うように自分の胸元に手を伸ばした。毛布越しに寝衣下のそれを押さえれば、そっと今度はか細い手が重ね絡められた。ひんやりとした質感が妙に現実味を帯びていると思いながらもまだ疑問にも思わない。自分で思っているよりもずっと今は眠りが深くて夢の中なのだなと思い込んだ。
しかし更には頭から頬にまで手の感覚がするりと感じれば、流石にエリックも違和感に気がついた。
自分の手も、そして頬にもしっかりとした感触と温度がある。そしてこうして自分は思考をしている。視界はあくまで瞼の裏で、自分の置かれている状況以外はあまりに現実だった。
まさか、と。
目を開けるのが別の意味で怖くなったエリックだが、同時に今の心地良さもまた手放せない。瞼一枚の向こうで、第一王女がいるなどあり得ない。彼女が自分の手にその手を重ねて絡め、頭を撫で、頬に手を添えているなんてあり得ない。そんな都合の良いことがあるわけがない。きっと目を開ければ甥か誰かがいるだけだと思った時だった。
『……我が、心優しき近衛騎士』
完全に、目が覚めた。
その声が間違いなく彼女であれば、その呼び名を知る人間など一握りしかいないのだから。
頭が水を浴びせられたかのように覚醒し、躊躇わずに開ければそこには本当にプライドが居た。自分の頬に手を伸ばし、手を絡め、至近距離から花のような笑みで笑い掛けてくれる女性は齢十四の姿でもどうしようもなくプライドだった。
声を上げ、状況と現実の把握が難しかった。自分の夢だと思ったことは全て現実で、更にはそれを敢えて寝たふりをして長引かせていた事実まで理解すれば恐れ多く恥ずかしい。しかも、間違いなく自分の粗末な部屋と決して護衛対象であるプライドに見せる筈がない寝顔まで見られてしまった。
何を言われてもどうしようもなく混乱が襲った。
考えるよりも先に胸元を毛布で隠すようにして、バクバクと働き続ける心臓ごと押さえつけた。自分が最も見られたくないものだけを毛布で隠し通せたことだけがその時のエリックにとって幸いだった。
─ ……いや、違うか。
そこまで思い返した後のエリックは静かに考え直す。
不幸中の幸いなどではない。あの時の自分の状況は身に余りありすぎるほどの幸福だった。
眠っている間にプライドに触れて貰え、自分から望んでもいないのに頭を撫で、優しくおはようと声を掛けて寄り添って貰えた。王族ですら受けられるわけがない最高待遇を与えられた。役得の一言では片付けられないほどの幸福だった。
目覚めて最初に見たものがプライドの笑顔などエリックにはこれ以上ない至福の瞬間だ。しかもそれだけではない。プライドが自分の部屋に居たことよりも眠る自分に朝の挨拶を呼びかけてくれたことよりも、頭を撫で、頬を撫で、手を絡めてくれたことよりも、目覚めに満開の笑顔を浴びせてくれたことよりも、何よりもエリックの心臓を高鳴らせたことは
『我が、心優しき近衛騎士』
あの瞬間だった。
眠る自分を、そう呼んでくれた。誰が聞いているわけでも、聞かせるわけでもなく彼女の心の内からの呼び名で目覚めさせてくれた。
まさかたった一度与えられただけでも幸福なのに、今度は彼女の唇から紡いでもらえた。
プライドが部屋を出て行った後は貧血のように視界が暗転し、倒れ込むこともできず横へ倒れ床に頭を打ち付けた。扉の向こうからプライドに呼びかけられても、ベッドから半分落ちたまま二分近く動けなかった。頭から全身が茹で上がり、浅い呼吸しかできなかった。息もできないほどの幸福に窒息死するところだった。
それも全てキースのお陰だと思えば、感謝すべきとも言えるかもしれない。彼のお陰で自分はそんな夢よりも贅沢な想いができたのだから。が、しかし
─ それとこれとは、別だ。
「……フィリップ。恐れ多いことは承知の上で、一つお願いがあるのですが」
暫く口を固く閉ざしていたエリックからの言葉に、ステイル達は同時に顔を上げた。
やっと応答以外で話し出してくれたエリックの発言だ。ステイルも間髪入れず「勿論です」と返す。未だに顔色の落ち着かないエリックだが、あくまで表情は王族へ対するに無礼のない顔付きに意識して一度足を止めた。エリックに合わせるように三人も足を止めれば、彼は上着の中から一冊の分厚い手帳を取り出した。使い古され、日焼けしているそれが年季の入ったものであることは一目瞭然だった。周囲に誰もいないことを確認したエリックはそれをステイルへと差し出す。
「これをジャックの部屋に瞬間移動して頂けますでしょうか。今日、自分が回収に行きますので」
お願いします。そう言ったエリックに、アーサーも「へ?」と目を丸くした。自分の部屋を使うのは良いが何故、とまで考えた後、ステイルは騎士館のエリックの部屋には入ったことがないと思い出す。
ステイルは一言で快諾すると、すぐにそれを人目につかない内にエリックの手から騎士館にあるアーサーの部屋の机へ瞬間移動させた。ありがとうございますと深々頭を下げるエリックは、事後ではあるがアーサーに「悪いな」と断った。
アーサーもひっくり返りそうな声で「いえ⁈」と叫ぶと姿勢を正す。彼も彼で今のエリックにはできる協力なら何でもしたいのだから。
「あの、エリック副隊長……差し支えなければ、今のは……?」
「キースの私物です。暫く没収することにしました」
はっきりとしたその言葉に、プライドもステイルも、そしてアーサーも兄からの弟への仕置きだと理解した。
以前、エリックがキースに言っていた〝アレ〟の正体かとも勘付きはしたが敢えて誰も指摘はしなかった。これ以上、エリックの顔を歪めることはしたくない。
結果がどうあれ、折角の善意でしっぺ返しを受けてしまったキースに同情しながらも三人は口を噤む。寧ろ宣言通りに燃やさなかっただけまだエリックの優しさだ。既に謝り倒し、それに関してはエリックからも許されてしまった三人はこれ以上の謝罪も言えない。そうですか……と、誰からでもなく呟けば、エリックは眉を垂らしながらも三人に笑い掛けた。
「兄弟喧嘩に巻き込んでしまい申し訳ありません。大丈夫です、この任務が終わったらちゃんと返しますから」
自分の弟にも気を遣ってくれている三人に感謝しながらエリックは、再び歩き始めた。
とぼとぼと自分達のミスにそれぞれ落ち込みから抜けず、地面を見つめながら歩く三人を横目にエリックはそっと自分の胸元を片手で押さえつけた。
─ 〝これ〟だけは、……気付かれないで良かった。
そのまま拳を握れば、団服越しに硬い感触が指に当たった。
プライドには決して見られたくなかった左胸、そこにあった深紅の銃の存在にエリックは僅かに身を硬くした。
自分の持ち歩く武器の中で唯一、片時も肌身離さず身に付けている物だ。万が一にも奪われることも失くすことも考慮した保管だが、まさかプライドから贈られた品を常に携帯しているなど本人に知られたくない。知られたら最後、本当に二度とプライドと目を合わせられ無くなってしまう。
しかしそれほどエリックにとっては大切で、家族であろうとも人目に晒したくないものだった。
その銃身の美しさも、転写された名も、そして与えられた名も全て。
それを携帯していた事実をよりにもよってプライドに見られたかもしれなかった危険性と、知らなかったとはいえ王族を顎で使う不敬にエリックがキースを許せないのもまた当然だった。
キースの宝物を没収し終えた彼らが、学校の校門に着くのはそこから間もなくのことだった。
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