Ⅱ96.支配少女は不思議がる。
部屋は、本当に静かだった。
二階の窓を開けたまま眠っていたらしいエリック副隊長は、無意識に窓からの陽の光を手の甲で目を隠して眠っていた。
テーブルとベッド、大きな本棚には端から端まで並べられた本と分厚いノートが整頓して並べられている。私物は多いように見えるけれどそれをきちんと収納して無駄がないように配置されていた。シンプルなワンルームの部屋でエリック副隊長の性格が出ているなと思う。一人暮らしの男性の見本となるようなお部屋だ。
机とか引き出しとかベッドの下とか探検してみたい欲はあるけれど、そこは淑女としてぐっと抑える。それよりもエリック副隊長を起こすことが先決だ。
騎士のエリック副隊長だし、もしかしたらこの時点で起きるかなとは思ったけれどまだ目を覚まさない。
耳を澄ますとうっすら寝息のような音も聞こえる。寝相が良いらしく、仰向けのまままったく上に掛けた毛布にも乱れもない。
三年も私の近衛騎士を担ってくれているエリック副隊長だけど、寝ているのは初めてだなと今更思う。防衛戦の時はお見舞いに行った時もちゃんと起きてたし、奪還戦前後は私の方が寝ているのも何度も護衛で見守って貰っている。
私からもなるべく驚かさないように足音も気配も消して歩み寄る。とうとうベッドの前まで辿り着くと、見下ろさないように傍らへ両膝をついて立った。
そこには気持ちよさそうに眠る横顔があって、なんだか起こすのが申し訳ない。もうこの一週間で大分ご迷惑をかけちゃっているし、休みも少ないのだと思えばこのまま寝かせてあげたくなる。でも、やっぱりファーナム兄弟との約束があると私はそっと手を伸ばす。
「……おはようございます、エリック副隊長」
「…………」
緊張のあまり思ったよりか細い声になってしまい、全く反応がない。
しかも寝息が聞こえなくなったから、生きてるか死んでるかもわからない寝姿にちょっぴり心配になる。けれど、そ~と耳をエリック副隊長の顔に近付ければ、ちゃんと呼吸音が聞こえてきた。
生存確認にほっとすると、腰を曲げたままの体勢が少し苦しくて両肘から腕を枕元に置かせてもらう。至近距離にあるエリック副隊長の力の抜けた顔に、本当に騎士にとって休息は大事なものなのだなと思う。
「…………お疲れ様です」
また細くなった。今度は代わりに伸ばした手でエリック副隊長の栗色の短髪を撫でる。
ちょんちょん、と髪先だけに触れるようにしてから少しずつ髪全体を撫でていく。すると最初は反応がなかったエリック副隊長だけど、少しだけ眉がぴくぴくと反応した。
このまま自然に目を覚ましてくれれば良いなと思い、そのまま繰り返し髪を撫で続ける。いつもは今から三十分後には起きてきてるというし、そろそろ目を覚ます頃合いでもある筈だ。なら、これくらいでも起きてくれると思う。
近衛騎士の仕事、と言えば仕方ないと思うけれど、もとはと言えば私の我儘で始まった任務だ。学校の送迎、しかもご家族を巻き込んで。ただでさえ、王族である私達に気を使ってくれる温厚なエリック副隊長なのに、家族にまで関わられるのはかなり胃を痛めることになっただろう。
今までも何度か謝ったけれど、一回も責められたり嫌味も言われたことがない。王族相手に言えるわけないわよねとも思うけれど、きっとエリック副隊長ならそうでなくてもー
「……あれ」
ふと、仰向けに寝ているエリック副隊長の胸元に目がいく。
目を日差しから覆う為に手を出した時に毛布が伸びたのか、毛布越しでもそこに何かがあるのがわかる。形状と懐の位置ということから考えると大体予想はつくけれど、少し意外だ。家の中でも騎士は警戒は緩めないということだろうか。
そう思っていると、何度も髪を撫でられたせいか小さく呻いたエリック副隊長がそのまま目元を隠していた手を今度は胸元を毛布越しに掴むようにして動かした。
それを見た途端、「まずい!」と慌てて私はその手を上から重ね、押さえる。いや、大丈夫!大丈夫とはわかるけれど万が一にもこんなことでエリック副隊長が死んだら嫌だ‼︎
もしかしてアーサーが言ってた「死にます」発言もこのことなのかなと思いながら、彼が寝ぼけて指を動かさないように私より大きく長い指の間に自分の指を挟みいれて絡める。寝ているからもあってか、体温が高くて陽だまりのように温い。
片手を重ね、反対の手で繰り返し髪を撫で続ければ、寝息も少し和らいで僅かに開いていた口も閉ざされた。起きる手前かな、と思いながらもう一度抑えめに声を掛けてみようと考える。
「おはようございます」か、「目が覚めましたか」と確認するか、それとも「起こしてごめんなさい」かしら。なかなかしっくり来ず、あまり驚かせないようにと言葉を選んでいると
『我々はっ、プライド様の近衛、ですか、ら。……た、とえ望まれずともっ、御傍に……っ』
「……」
不意に、あの時の言葉が頭を過ぎった。……さっき気付いた物の所為だろうか。
別にそれだと決まったわけでもないし、勝手に毛布を捲るなんてはしたないことはできない。それこそエリック副隊長に寝込みを襲おうとしていると誤解されてしまう。
けれどそれを思ってしまった途端、サラッ、サラッと短い髪を撫でていた手が止まっていた。
気が付いてから再び頭の端から端を撫で、止まった手を輪郭の流れのままにエリック副隊長のこめかみから耳元、そして頬へと添える。顔に直接触れられたことと、エリック副隊長より体温の低い手の存在に眉だけでなく顔の筋肉にも力が入り出す。絡めた反対の手も、ぎゅっと優しく握り返された。その顔を覗き込み目覚めを待ちながら、思考の海へ浸かってしまう。
弟のキースさんにも慕われて、お母様とお父様もお爺さまとお婆様も皆とても優しい人達だ。エリック副隊長が優しいのもこんな素敵な家族だったからなのだろうなと思う。
……きっと優しいエリック副隊長は、たとえ私が王族でなくても笑って全力で協力してくれたのだろう。
今の私はそう確信をもって思える。だってこの人はそれくらい優しい、本当に本当に優しい……
「……我が、心優しき近衛騎士」
はた、と。
思わず出てしまったその呼び名の直後、エリック副隊長の目がぱっちりと開いた。
つい遠慮ない声で零してしまった独り言は、今まで呼び掛けた中で一番大きかった。もしくは髪から頬に触れて刺激し続けたお陰か、それとも単に寝起きが良いからか……たぶんその全部を総合した結果、エリック副隊長の目は寝ぼけ眼にもならなかった。丸く開いた目が、水晶のようになったまま瞬きもせず固まっている。
取り敢えずエリック副隊長がすんなり起きてくれたことにほっとして、私は覗き込んだ体勢のまま笑い掛ける。さっきまで緊張していたのが嘘みたいに肩の力が抜けて、自然に「おはようございます」と挨拶できた。それでも未だ目の丸いエリック副隊長にそれ以上の反応はない。
「早朝からごめんなさい。実は手違いがあって……」
まだ頭は覚醒していないのか、頬に添えた手をそのままに親指だけでそっと上下に摩る。
絡めた手にも覚醒を促すように、きゅっと組んだ指に力を込めたら私の手とは思わなかったのかビクッッと肩ごと揺れた。勢いで本当に胸元のものに手をやってしまわないか心配になり、私からも微弱に震え出すエリック副隊長の手に力を込める。すると
「っっっっっプッ、ライド様⁈‼︎‼︎‼︎‼︎」
大絶叫。
阿鼻叫喚といっても良いかも知れない。部屋どころか家の外まで聞こえるんじゃないかと思うほどの叫び声に頭がキーンとして、思わず背中を反らした私は離した両手で耳ごと頭を押さえる。
直後に「しー‼︎」と口だけを引いて必死にその名で呼んじゃ駄目だと寝ぼけ頭のエリック副隊長に訴える。だけど、早朝から第一王女に寝込みを襲われたようなものになっているエリック副隊長はそれどころじゃないようだった。
さっきまでも体温が高めだとは思ったけど、顔から首元まで肌が覗かせた箇所が真っ赤になっている。毛布ごと胸元を押さえたエリック副隊長はそのまま上体だけで飛び起きた。ガバッと毛布が翻りベッドが音を立てる中、押さえられた胸元以外の姿がチラチラと露わになる。無地の上下揃った寝衣姿に、エリック副隊長らしいなとこっそり思う。
そのエリック副隊長本人は未だに瞬き一つせず目を見開いたままだ。こんなに驚かしてしまうなんて、流石に次は怒鳴られるかなと覚悟する。
取り敢えず私から危害を加えるつもりはないと示す為に、両手を肩まで上げて見せながら笑い掛ける。膝をついていた状態からゆっくりその場に立ち上がり、服の埃も払わず今はエリック副隊長に無実を訴える。不法侵入は現行犯だけど、一応キースさん許可は得ているし。
肩で荒く息を整えながら、目の丸いエリック副隊長は何も言わない。まだ現実かどうかもわからないのかやっと私に突きつけた視線を外したと思えば、焦るように時計へと目を向けた。違う、遅刻でも寝坊でもない。
「違います、エリック副隊長。私達が都合で早く来てしまって、フィリップとジャックも今は居間で待っています」
「なっ⁈、……ぜ、ご一緒ではッ⁈」
やっと返してくれたエリック副隊長の声は見事に裏返っていた。
やっぱり私が寝込みを襲ったと思われたのだろうか。ふしだらな王女と判断されたかしらとちょっぴり落ち込みながら、とにかく事情を話す。
「二人はその、キースさんに捕まっちゃって。このお部屋もキースさんが起こしに行くようにと教えてくれて、それで今回連絡不届きと早出をお願いしたい私が」
「キーーース‼︎ジャック‼︎‼︎お前達何を考えているんだ⁈」
私が言い終わる前に、珍しくエリック副隊長が思わずといった様子で廊下に向かい声を荒げた。
扉一枚先にある一階へ確実にこの怒鳴り声は届いているだろう。エリック副隊長が目を釣り上げて怒るのも珍しいし、ここまでの怒鳴り声を聞くのは初めてかもしれない。
王族であるステイルや私相手には怒鳴れない分もあってか、キースさんと私を止めなかったアーサーへの御怒りだ。あまりの大声に皮膚までビリビリきて今度は私が目をまん丸にし固まってしまうと、ハッとした様子のエリック副隊長が私に向き直る。そのまま「失礼致しました」とベッドの上から深々と頭を下げて謝ってくれた。
いえ、こちらこそ……となんとか口だけ動かしながら茫然としてしまうと、全身真っ赤のエリック副隊長が顔を俯け胸を毛布越しに押さえたままもう片手で両目を覆って項垂れた。
「……大変申し訳ありませんでした。急ぎ準備致しますので、少々一階でお待ち頂いても宜しいでしょうか……」
本当に重ね重ね申し訳ありません……と萎れた声を絞り出すエリック副隊長は、泣きそうじゃないかと思うくらいに沈んでいた。
王女相手に怒鳴ったわけでもないし、十割私が悪いから本当に申し訳ない。
出来る限り刺激しないように了承を一言で返した私は、一歩一歩最初は後退りで下がり、扉に近付いてからそっと背中を向けた。その間もずっと項垂れたまま私の顔すら見ようとしないエリック副隊長は確実に落ち込んでいるか怒っている。「それでは……」と届いているかも怪しい声量で呟き扉を開ける。その途端
「……プライド様」
弱々しい声で、引き止められた。
ジャンヌ呼びではないエリック副隊長に、まだ動揺しているようだと思いながら振り返る。扉の外には誰もいないし、聞かれてはいないと思うけれど。
目を覆って俯けた顔を少しだけ上げたエリック副隊長は、それでもまだ直視したくないように手の隙間から覗くように私を見た。遠目からだと指の隙間の目は見えないけれど、顎の角度から私の方を見てくれているのかなとわかる。
首を傾け、一応聞かれないように再び軽く扉を閉めてから続きを待てば今度はエリック隊長から潜める声が私へと放たれた。
「その……、自分の、……っ……で、何か、気付かれたことは……?」
どうやら寝ている間に私が家探ししていないか心配になったらしい。
やはりプライベートな空間だし見られたら困るものがあったのかなと軽く思いながら、ちゃんと部屋を入った時に礼儀を守って良かったと自分を褒める。
傾けた首をふるふるとはっきり横に振り、今はこれだけでも無実をとエリック副隊長に伝えるべく笑い掛けた。
「いいえ。エリック副隊長を起こしに入ってから起きられるまで何も詮索していません。ずっと私はお傍でエリック副隊長にしか触れていませんから」
安心して下さいと、そう告げて私は部屋を出る。
エリック副隊長から返事はなかったけれど、部屋を出て扉を閉めた瞬間にゴンッ!と鈍い音がした。家探しなれてないことに安心してベッドに倒れ込んでしまったのかなと少し心配になる。もう起きると言っていた分ここで扉を開いたら覗きになってしまうし、一応身の安全だけ確認すべく扉の向こうへ「お怪我はありませんか……?」と尋ねれば一言だけ返事が返ってきた。取り敢えず打ちどころは悪くなかったらしい。
指定通りに一階へ降りるべく階段へ向かい、段差に足を掛ける。すると私の足音に気付いてか、降りる先でアーサーとステイルが見上げてくれていた。
「ジャンヌ、あのっ……エリック副隊長は……⁈」
「無事目覚められたようですが……⁈」
二人とも顔が青い。
やはり仮にも第一王女が男性の部屋に入るなんてと心配させたのだろう。特にアーサーに至ってはキースさんと同列に怒鳴られている。
大丈夫よ、と笑って返しながら私はゆっくり段差を折りきった。キッチンの方向からキースさんの呑気な声で「兄貴ー!ジャンヌに謝ったかー?」と聞こえてくる。エリック副隊長の怒鳴った筈なのに何故逆にキースさんが叱るような台詞なのだろう。
「急いで準備して下さるって。ごめんなさい、よく眠っていたから少し驚かせてしまったわ」
あまり驚かさないようにしたのだけれど、と申し訳なさで眉を垂らしてしまいながらアーサーに謝る。
この後にキースさんと一緒にアーサーも怒られたら、ちゃんと私からも謝ろう。私の起こし方が悪かったから、驚かせてしまったのもある。
私の言葉にステイルもアーサーも何度も瞬きを繰り返した。口が開いたまま何度も私と階段の上とを見比べ、言葉にならないようだった。あんなエリック副隊長の怒鳴り声を聞いたのだから無理もない。
それからエリック副隊長が一階に降りてくるよりも先に、ご家族でもあるお母様とお父様が部屋から出てきた。多分エリック副隊長の声で目が覚めたのだろう。
「あら、今日は早いわね」「さっき怒鳴ったのはエリックか?」と寝衣姿に上着だけ羽織った二人に私達からも挨拶する。
私に代わって事情を簡単にステイルが話してくれる間に、キースさんはお湯だけ沸かしてさっさと仕事に出てしまった。エリック副隊長が怒鳴ったから、直接会う前に逃げたかったのもあるかもしれない。
玄関へ向かう前に身嗜みを整えたキースさんは私の肩に手を置くと、何故だか物凄く気を遣ってくれるような声でこっそりと囁きかけてくれた。
「ごめんな、ジャンヌ。まさか兄貴があそこまで寝ぼけるとは思わなかった。大丈夫、プライド様は恋人でも元カノの名前でもなくて我が国の第一王女のことだから」
まだチャンスはあるぞ、と。
何故か慰められるようにそう言われ、最後に優しく頭を撫でてくれたキースさんは足早に仕事へ去っていった。扉が閉まった後も私は意図もわからず、傾けた首をそのままに眉を寄せてしまう。
その後、十分間に何故かいそいそとギルクリスト家の朝の準備を手伝うステイルとアーサーの姿がまた不思議だった。
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