第一話 出港(前編)
トンネルを抜けると、そこは雪国であったという。なるほど、情け深いよなぁ、と彼女は思った。トンネルを抜けなければ、そこは雪国では無いのだ。山脈にせよただの山にせよ、雪国とそれ以外の間に境界は存在しているわけだし、境界を超える間、トンネルという猶予期間で心の準備まで出来るわけだ。
それに比べれば、地球と異世界の間は、境界らしい物が何もなかった。それが、彼女――水鳥希華の嘘偽りない実感というものであった。
ふと気付いたら全く知らない場所に立っていた。それが、彼女がここ数十秒の間に知覚できた全てであった。これが、自宅から近所のコンビニであるとか、逆に学校から自室であるとかであれば、まぁ無意識であるとか、或いは若年性健忘症であるとかを疑う所だったのだが、何の違和感もなく気付けば異世界に居ました、では自身に問題を見ることすらできなかった。
そう、気づけば異世界に居たのである。自分が突っ立っているのに気付いた瞬間、彼女はそう確信せざるを得なかった。
鉄板というか、何らかの金属が敷き詰められただだっ広い空間――それこそ、別の建築物がもう一つすっぽりと収まりそうなほどのそれ――は、まぁ良い。彼女の知るところによれば、工場やら整備区画やらというものは得てしてそういうものらしいから、即座に異世界と判断できる理由の訳がない。
その奥の方から漏れる光と、それから砂。そして、よく見れば隙間からこれ以上無く自己主張してくる砂漠の風景も、まだ分からないではなかった。なぜ平々凡々な日本の女子高生が気づくと砂漠に突っ立っていたかはともかくとして、砂漠は地球上に存在するのだ。むしろ、ゴビだのサハラだのモハーヴェだのという砂漠群に現在位置が絞れただけありがたいと考えるべきだろう。ここが鳥取だとはどうしても思えないことだけが玉に瑕だったけれども。
問題があるとするならば。今、彼女の目の前にある物体が一番の問題であった。いや、厳密に言えば、物体というよりも構造物なのかもしれない。
それ――この工場なのか何なのかよくわからない広大な空間に鎮座する物体は、ともかく巨大であった。全高おそらく50mという数字は、数字で見るだけならばそこまで大きな数字ではない。地方都市でさえ、これに匹敵するビルを一つは有しているところのほうが多いだろう。
けれども、異様なまでに幅広な台座のようなものは、明らかに浮世離れしすぎていた。おまけに、その左右の両端に、彼女の常識によれば履帯とか無限軌道とか呼ばれる、移動用の構造物が備え付けられているさまは完全に空想上の産物と言って問題ない。希華は物理は得意ではなかったし、もっと言えば理系でさえなかったが、であるからこそ直感的に目の前の物体が移動する様子を想像できなかった。何しろ巨大で、高く、幅広なそれは、見える範囲でゴテゴテと巨大な砲塔の様なものまでついているのである。丁度履帯と履帯の間、すなわち構造体のど真ん中に付けられた巨大な紋章のようなものもたしかに巨大では有ったが、インパクトでは砲塔の方が遥かに重厚さを伝えていた。
「どーお?」
希華が、この眼の前のセットかなにかと考えたほうが精神衛生上よろしい物体に考えあぐねていたときであった。いたずらっぽい少女の声が背後からかかった。慌てて背後を振り向けば、黒髪を後ろで束ねた、十四、五才くらいの少女が居た。足音を聞いた覚えはなかった。
「凄いでしょ、これ。皆腰抜かしちゃうんだよねぇ~。いやぁ、時の流れって残酷よね」
首の後に手を回した少女は、もったいぶった言い回しから自慢以外の何物も取り出せないように喋りながら、すっと希華の隣へと進んだ。その楽しげに歪まされた顔は、完全に悪戯を成功させた悪童のそれと同じである。
「あれ、だんまり? アタシ、そろそろ感想を聞きたいんだけどなぁ」
「えぇと」希華が、ポリポリと頬を掻いた。何やら常識外のことが進行していることはわかっていたが、聞きたいことはただ一つである。「どちら様で?」
「イティネラートル。って言えばわかってくれる?」少女が一言一句際だたせるように言った。映画とかで、核心に触れるときってこういう物言いだっけ、と希華がぽかんと口を開けた。
「ごめん。全然わかんないです」
水鳥希華の、知ったかぶりしたいであるとか、無知と思われたくないとか言った羞恥心を押し殺して放った一言は、自身が食らった精神的打撃を上回ってなお余りある効果があったようだった。
「何よ、アンタ馬鹿なの?」信じられないものを見たように、イティネラートルと名乗った少女は口を覆った。「墓荒らしが自分が荒らす墓の墓標も知らないで来るなんて」
「いやいやいや、は、墓荒らし?」
希華が慌てて否定した。自分は女子高生のはずだ。職業は学生と答えれば良い身分だし、仮に異世界に来ちゃったら前の世界の職業はノーカンと言われたとしても、それにしたって毅然と輝くのは「無職」の二文字である。まかり間違っても、墓荒らしなる冒涜的な職業に就いた覚えはない。
「あー。何、私は墓荒らしじゃありません、って否定するわけ?」呆れたようにイティネラートルが言った。不名誉極まりないことに、どうも墓荒らしだと決めつけているらしい。
「墓荒らしってね、指摘されると皆そう言うのよ。私は墓荒らしじゃない、ってね」
「そんな、酔っぱらいは自分のこと酔っ払いって言わない、みたいな論理で決めつけられましても」
「あら、それだって割と的を射た話じゃない。 安心して、アタシも決めつけてるわけじゃないから。酔っぱらいの介抱と同じで、経験則よ経験則」
「はぁ」
いつの間にやら希華の目の前に回り込んでいたイティネラートルが仁王立ちしていた。ビシ、と人差し指が希華を差す。ごごご、と背景とかしていた構造物の砲塔まで動いた気がした。
「さぁ白状しなさい墓荒らし――いいえ、アンタに配慮してあげるなら、トレジャーハンターさんとでも言うべきかしら? 今日のこそ泥はどこのだれに雇われてるのかしら? 連邦共和国正統政府? 白砂帝国? それとも、オルタリア大首長国の王族の誰かにでも頼まれた?」
「違います」
わけの分からない固有名詞が跋扈している現状では、いくら目の前の少女が決めポーズのまま硬直していようとも、取り敢えず全否定するしかなかった。なんだなんとか帝国とか共和国とかって。
「……この期に及んでとぼける気なの?」
「最初から一切とぼけてないんですけど」
「ここで嘘ついても何も良いことないわよ? 私神様だから、ある程度嘘とか見抜けるし」
「なんですかその衝撃の事実」
ビシ、と希華を指差しながら続いた会話はなんとも脱力的な内容であった。いや、会話している本人たちはあくまで真剣なのだろうが、振り上げた拳の落とし所を見失って、何の脈絡もなく私神様です宣言まで飛び出す始末では苦笑いしか浮かべられない。事実、本当に異世界なのだとすれば案外とこの子が神さまだというのも頷ける話なのかもしれない、と思いつつも希華はそのようにしていた。
「何よ、疑ってるの?」声を低めた少女が睨んだ。あ、まずったかも、と希華の顔が苦笑したまま固まった。
「そこまで言うなら見てなさいな。魔法使いども相手ならいざしらず、アンタみたいな魔力の欠片もない人間なんか、読心術で丸裸にしてやる」
おっかなく笑いながら少女が物騒なことを言った。神さまなのに魔法使いには負ける云々というのはツッコミどころなんだろうか、と思ったところ少女から笑みすら消えていた。どうやら心が読めるというのは本当らしい、と希華は思った。よっぽど集中しているところを見るに、実用性には疑問符がついたけれども。
「随分と余裕そうじゃない」少女が希華を睨みつけた。「アタシに害されるとか思わないわけ?」
「さぁ、どうでしょうか」希華が戸惑ったように口を濁した。余裕ぶっているわけでもなかった。ただ、言われるまで自分が目の前の少女のことを安心しきっていたことが心の底から疑問だった。
「……いいわ、今はそのことは置いといてあげる」怒りとは別種の感情で口を尖らせた少女が言った。「それよりも、アンタほんとにどこに雇われてんのよ。個人的にはオルタリアの継承権争いが臭いと思ってるんだけど」
「いや、ですから。オルタリアってなんですか。国名?」
「すっとぼけるのもいい加減に」そこまで言ってから、少女の口が固まった。希華の顔がまじまじと見つめられる。そのうち、固まっていた口は徐々に開いていき、ついにはあんぐりと大きく開けられてしまった。
「……あの」
「何でしょうか」希華がほっとした様子で聞いた。フィクション上の存在だと思っていた読心能力者がこれほどまでに話が早い人種だとは思っていなかった。
「もしかして、ほんとに知らないの?」
「さっきっからそう言ってますけど」
「トレジャーハンターじゃない?」
「他人の墓を荒らすのは気が引けます」
「陸上戦艦のことは?」
「空想上の産物ですか? それ」
そんな受け答えが進むにつれ、少女の顔が真っ赤から真っ青になっていき、体がワナワナと震え出した。随分と親近感が湧く神様だなぁと思っても、何も反応がなかった。どうやら、もはや読心術が使えるほどの集中が出来なくなっているらしかった。
「ご」
「ご?」
次に出て来るであろう言葉がわかっていながらも、希華はオウム返しにその一文字を繰り返さざるを得なかった。お約束は大事である。
「ご、ごご、ごめんなさいー!」
少女の謝罪は、だだっ広い空間の隅でも聞き取れるくらいには大きなものであった。
◇
「へぇ、異世界から来たの。珍しい来歴ね」
「いやいやいや、そんなすんなりと。異世界って言われてすぐに納得できるものなんですか?」
「だって、文献に残る程度には居るもの異世界人。全否定する方が難しいわ」
「なるほど。いきなり神様だって言われるよりは信憑性があると」
「だからさっきのことはごめんって言ってるじゃない!」
ふよふよと浮かんだ手足をジタバタとさせながら神さまが暴れるのを見て、目をつぶっていれば神さまだと信じずに済むのになと希華が思った。酷い言い草である。
あの後。恐縮しきりで詫び始めた自称神様を宥めるうちに、気づけば一人と一柱は自然と雑談へと発展していた。雑談、というか、基本先程の勘違いをネタに神さまを弄る展開に終止しているのだが、本人が嫌がっていないし、希華にとってはありがたい情報が事あるごとに垂れ流されてくるので飽きもせず、そのせいでそろそろ小一時間は経ちそうな気配である。どうも、あのフランクさは演技でも何でも無く素のようだ、というのが希華の理解だった。
「でも、異世界人にしては出現した場所が妙なのよね」少女がうーんと頭に手をやった。
「逆に、異世界人が出現して違和感ない場所なんてあるんですか?」
「召喚陣の暴発、魔力素の濃ゆい場所、古代からの聖地。あとは、まぁ、人為的な異世界召喚術もらしいけど、あの戦争からこのかたそんな事できる技術も人もいないからねー」
「ここがそうってことはないんですか?」
「ここ? ないない」神さまが下手な冗談を聞いたように笑った。「ここはオルタリア大砂漠半島のリュミナス砂漠港よ? あの戦争で気候がめちゃくちゃになる前からの、由緒正しい砂漠地帯にして激戦区らしいもの。暴発できるほど魔力が残ってたなら、とっくの昔に軍やらサルベージ業者に全部回収されてるわよ」
神様が言うには、魔力とは生命力から生まれるものであり、そうであるがために大森林や平原など、生命に満ち足りたところで多くなる傾向があるという。故に、砂漠などはその真逆で、オアシスなどを除けば濃い魔力などというものは存在していない。その理屈で言えば、文明発祥からこの方、砂塵に満ち溢れた砂漠地帯であるオルタリア半島は、魔力過疎地帯もいいところなのだそうだ。
「とは言え、あの戦争のあと、砂漠じゃない地域なんて数えるほどらしいけどね」
神さまは、「あの戦争」なるハルマゲドンの影響を一文で要約した。「魔力素融合兵器をパイ投げしあったら環境激変、気候変動。惑星中が砂漠化しちゃったなんて話らしいし、ねぇ」
「核戦争っぽいですね」
「ぽいじゃなくてそのものよ。放射能の出ないクリーンな大量破壊兵器って名目で異世界人が提唱したコンセプトだったらしいんだから」
実際は気象変動を誘発したけどねー。と神様が笑った。異世界人へのわだかまりは、はっきりいって何一つ感じさせない笑みだった。
「その」希華がおそるおそる切り出した。「怒ってないんですか?」
「何に?」さきほどの希華の鏡写しのような顔で少女が首を傾げた。
「その、先程からの話を聞いてると、異世界人が発端でこの星がしっちゃかめっちゃかになったような言い方でしたから」
「ああ」少女が笑った。「だって私、戦争前のことなんて直接見てないもの。だから、壊されたとか怒りとか覚え様もないし」
「……えぇー」希華は落胆をうめき声で表現した。聞いた瞬間それと分かる見事な芸術作品だ。
「何よ、その反応!」神さまは芸術に理解があった。「がっかりしてるの、読心しなくてもまるわかりだからね!?」
「だって、異世界に来た、と思った途端に会った神さまですよ? 全知全能の女神様はともかくとして、叡智に満ちたパートナーを想像するじゃないですか普通」
「アタシが違うとでも?」
「伝聞形式で言ってくる神さま、ありがたみ薄れますよ?」
「えぇい神さま相手に不遜な」少女が空中でジタバタとした。悔しいらしい。どうやら自分も読心に目覚めたらしいと希華は異世界転生による能力付与効果を疑った。
「あの戦争後ったってあの戦争の後すぐに生まれてるんだから! 生まれてからもう1万年よ1万年! どーよ、恐れ入りなさい!」
「年齢の話が地雷じゃない女の子、とっても便利だと思います」
「貶してるわよね?」いつの間にやら神さまは集中無しで読心術が使えるようになっていた。
「万年培われてきたアタシの神通力、そんなに見たいのかしら」
「神通力! どんなのですか? 強力な魔法? 念力? 読心――はもう体験しましたし、催眠能力とかですか?」
「うぇ、いや、あの、その、ね?」
口からでまかせだったらしい。期待はずれも良いところである、と希華は思い、それが読心されていないことを確認するとより一層期待はずれだと思った。以下、エンドレスである。
いや、そもそもの話として。希華は沈んでいく気持ちを支えた。そんな、期待値のデフレスパイラルに陥る前に、聞くべきことがあるじゃないか。
「と言いますか、結局神さまは何の神さまなんですか?」
えらく神学的な問いかけが希華の口から飛び出した。そう言えば、肝心要のことを聞きそびれていたのに漸く気付いたのだった。尤も、全知全能の唯一神、心優しい女神様、叡智の神さま、異世界転生の黒幕、といった心躍る選択肢が今までの雑談のお陰さまで尽く潰されたのは興ざめだったが。
「ふん、聞いて驚きなさいな」
気を取り直したらしい少女がバン、と胸を張った。名誉挽回のチャンス、というわけだ。
「私はイティネラートル。そこの無限軌道式決戦移動要塞――うんにゃ、陸上戦艦<イティネラートル>型一番艦、<イティネラートル>の船魂よ!」
「船の神さま?」
「平たく言えばその通り!」
イティネラートルはふふんと笑った。が、少女の様子よりも驚くべきことはある。
「陸上戦艦って、まさか、これ?」
イティネラートルが、希華の指差した方向を見てにやりと頷いた。そこには、先程からやれSF映画のセットやら空想上の産物だの酷評されていた構造物が鎮座していた。落ち着いてみてみれば、たしかに経年劣化の痕は見て取れたが、神さまの言葉が正しければ一万年の月日は感じさせなかったし、何より古びていようが動きそうにないほどに巨大なことには変わりない。
「とてもじゃないけど、船には見えないんですけど……」希華が履帯を凝視しながら思った。
「ただの船じゃないわよ。砂漠船。それも、戦艦クラスの陸上船舶ね」少女は得意気だった。「砂漠走行用の特殊大型車両、っていうのが実際の区分らしいけど、大きさに加えてホバー走行も出来るから誰も車両って呼びたがらなくてね。それに、無限軌道式決戦移動要塞、なんて言われるよりも、陸上戦艦って呼んだ方が分かりやすいでしょう?」
「浮くんですか、それ!?」
「浮く浮く」
少女の笑みが一層大きくなった。どうやら、希華の新鮮な反応がとても心地よかったらしい。いや、それだけでは説明できないくらいの上機嫌ぶりだったけれども、他の理由は見当たらなかったからおそらくそのとおりなんだろうな、と漫然と考える。チョロい。
「どうせなら、中も見てみる?」少女が笑いながら希華の手をとった。
「いや、まぁ、見てみたいのは山々なんですけど」好奇心で状況確認とか今後の方針立てとかをすっぽかして良いものかと希華が言いよどんだ。
「中に、乗組員用の図書館も設置されてるわよ? もちろん、この世界の文物がたっぷり――いや、乗組員の余暇を満たす程度にはあるし」読心術を使ったらしい少女が早口で言った。是が非でも自慢がしたいらしい。とは言え、言われてみれば、情報収集も方針立てるのも、まずはそれが出来る場所に行かなければならない。図書館があるのならば、それはどう考えてもうってつけである。
「決定~!」すっかり調子と余裕を取り戻した少女が希華の手を引いた。華奢な外見に比例せず、大の大人ですらまずありえないであろう力強さであった。どうやらこの子は本当に神さまらしい、と希華がやっと納得した。
そのままイティネラートルに引かれてやってきた<イティネラートル>の入り口は、巨大な格納庫――少女によれば砂漠船用ドックの一種らしいここの壁、その上の方から伸びている通路の先にあった。地上何階相当なのかは分からないが、ともかくそこまで登らなければならない。というわけで、まず外壁に到達するまでで一苦労だったのだが、案外と辛さはなかった。まぁ、時折存在する風化した骸骨は少々気に障ったが、全般的に言って危険性のない非日常空間での散歩というやつは好奇心を刺激してやまないものなのだった。
「次は、魔導エレベーターを使いたいところだけど」少女が笑った。「残念! 壊れてるので階段で登ってもらいます!」
「え~、あそこまで?」希華が嫌な声を出した。努めて、地球でよく見かけたものと似ているエレベーターの制御パネルが、弾痕のようなもので破損しているさまは無視する。一万年一万年と唱えれば、骸骨だろうが弾痕だろうが考古学の領分なのだ。そして考古学とは、得てして多くの現代人にとっては観光以外に利益のないことだ。
「ふっふん。人間は大変よねぇ。アタシは浮くだけだから楽だけど」神さまは希華の顔が微妙に顰められていることに気付いていないようだった。「さ、早く行きましょ?」
神様に急かされるまま階段をのぼる。異世界であっても階段は階段であったので、気づけば希華の努力は息を鎮めることだけに注がれるようになり、骸骨も弾痕も汗と一緒に思考の外へと流れ出してしまっていた。まぁ、考えても無駄なことではあったのかもしれないが。
「はい到着!」イティネラートルが、ぜぇはぁと膝に手をつきこれ以上無く外界との高度差を主張する希華に向き直った。「ようこそ<イティネラートル>へ!」
<イティネラートル>なる陸上戦艦とやらの入り口は、お世辞にも非日常への入り口とは言いがたかった。いや、たしかに無骨な金属で出来上がった入り口は、おそらく地球の軍艦でもそんなものだろうと言った趣であったが、であるからこそ大して気になるものでもない。しかも、先ほどとは違い、間近に控えているせいか巨大感すら感じられず、正直拍子抜けとしか言いようのない有様だった。
「さ、入って入って」神さまは、そんな希華の様子に気付いていないのか、自信満々に手を引いた。
「お、お邪魔します?」
「お気遣いなくー」
およそ軍艦に乗り込むときに交わされるべきではない会話の後、やけにあっけなく希華は陸上戦艦<イティネラートル>へと乗艦した。
<イティネラートル>の内部は、見る人が見れば広いものであった。軍艦の割には広い廊下に扉と、居住性の良好さがひと目でわかるからである。尤も、希華としてはなんとなく進むには苦労しないんだなぁと思うくらいで、さほど感動を覚えるものではない。むしろ、豪華客船のイメージからすれば圧迫感を感じるレイアウトには違いないから、途端に迷路に放り込まれたような感覚になってしまい、へぇこんなものですかと幻滅と言った様子である。いや、感覚と言葉を濁す必要はない。間違いなく、迷路としか言いようがなかった。イティネラートルに手を引かれてあれよあれよと進むうちに、気づけばどこから来たのかさえ上手く掴めなくなってしまっていたのだから。
「はい、お望みの図書室がここよ!」
神さまがまた胸を張った。やりきったという表情が隠せていない。
「変わり映えしませんね」
「軍艦だもの。飾り立てるのはむしろ問題でしょ? それに――いや、それは良いか。うん」神さまがブンブンと頭を振った。
「とにかく! ここがこの艦の図書室! そこのプレートにだってそう書いてるでしょ?」
イティネラートルが指を指したので、つられて希華の視線も動いた。なるほど、これまた地球とあまり代わり映えのしないプレートが扉の直上に取り付けられていた。確かに、そう書いてあるんならばそれ以上の説明は要らないのだ。まぁ、希華にはプレートの文字が読めなかったからそれはそれとしても、読める人間にとってはあまりに過度な説明も無駄どころか邪魔にだって――あれ、と希華が首を傾げた。何やら、とんでもないことをスルーしていたのを思い出したのだった。
「えっと、イティネラートルさん?」希華がおずおずと口を開いた。
「イティで良いわよ。長くて呼びにくいでしょう? それに、さん付けも要らない」
「じゃあイティ。えーと、その。そこのプレートって、ほんとに「図書室」って書いてあるんですか?」
「? 当たり前じゃない」何言ってるの? と言わんばかりにポカンとしながらイティが返した。
「ごめん、イティ。その文字、読めないです」
「……は?」
神さまが口をあんぐりしていたが、そうしたいのは希華も同じである。なし崩しで普通に話せていたから完全に失念していたが、そう言えばここは異世界。日本語が通じるとは限らないわけだ。それが通じてしまっていたから考える余地もなかったのだが、更に踏み込んで見るならば、話せたとしても読み書きができるのとはまた別問題なわけで。
「……あー! 忘れてた!」神さまが再び頭を抱えた。どうやら、思い至ったらしい。「アンタ、魔法は使えないわよね?」
「魔法使いになる資格はありますが年齢が足りません」あははと希華から乾いた笑いが飛び出た。
「じゃあ、翻訳魔法は使えない、か」イティがため息を吐いた。「ねぇ、今の異世界――あー、チキュウ、だっけ? 自動翻訳使えるデバイスとかないの?」
「いや、ありますけど相当制限されますし、というか異世界言語は対応なんかしてませんし」
「あぁ、脳スキャンは未実現か。じゃあどうしようも無いかぁ」イティが落胆した。何やら不穏な言葉が聞こえた気がすごくするのだが、希華としてもそれどころではない。情報の宝庫に入るためにはまず鍵が必要という、当たり前ではあるがこれ以上無く面倒くさい現状をどうにかしなければならなかった。
「えーと、イティ? その、翻訳魔法とやらで私にも読み書きができるように」
「無理に決まってるじゃない」先程自動翻訳だ脳スキャンだと発声したのと同じ口が言った。「翻訳魔法は自分で発動させるものであって、他者にかけるなんて神さまでも無理よ」
「じゃあ、どうすれば」
「……えぇと、子供向けの国語の本は」
「何年かけるつもりですか!?」
「5,6年あれば読むくらいなら万全にならない?」
「その前に餓死しますよ!」
神さまの特殊な時間概念に猛抗議した希華は、ぶんぶんとその首根っこをひっ捕まえて前後へと揺すった。涙目になっている少女に、鬼気迫る希華の顔が近づいたので、ひっと神さまが悲鳴をあげた。
「もっと現実的な方法は無いんですか?」
「んー……望みは薄いんだけど、一つあるかも」イティが顔をひきつらせつつも、大丈夫かなぁ、と眉を歪ませた。
「何です?」
「私の主演算機にアクセスして、昔の自動翻訳ソフトを起動するの」
「……動くんですか? 一万年前の代物が?」
「ソフトウェアは劣化しないし、記憶メモリも――まぁ、私は保存状態も良好だし、可能性は五分、かなぁ」
神さまが自信なさげに言った。小声で、いややっぱ40%?とつぶやく声も聞こえたような気がした。だが、希華としては是非もなかった。
「行きましょう」
「無駄足になるかもしれないわよ?」
「まぁ、そのときはその時です」
どうあがいたところで、現状では異世界の知識を得るために自動翻訳のアプリを立ち上げるという、なんとも頭の痛い文字列に頼るのが一番手っ取り早そうなのだ。それに、まさかソフトを起動するだけで我が身に危険が及ぶわけもあるまい、と希華は楽観していた。
「わかったわよ。乗りかかった船だもの。付き合うわ」
イティがしかたないわねと首をすくめた。「とすると、艦橋か戦闘指揮所の主幹制御ユニットからアクセスするのが一番ね」
「近い方で」
「ものぐさね。アタシは太らないから良いけども」イティがすべての女性を敵に回しつつ廊下を指差した。「なら、艦橋の方がエレベーターで直結してる分近いわ。こっちよ。ついてきて」
「はーい」
今度はエレベーターが動くようであったので、希華は気楽に返事をした。
エレベーターは、これがイティによれば一万年物であることを感じさせない程度には快適であった。もちろん不可思議では有ったけれども、自動翻訳やら陸上戦艦やらという遺物を探検している身としては、もはや誤差の域である。魔法か科学技術かは知らないが、便利なもんだなー、というのが正直な感想だった。
そんなエレベーターだったから、お目当ての階層にたどり着くのもまた素早いものだった。チン、と到着音を全力で主張する音の後、扉が音一つ立てないスムーズさで開けば、そこはだだっ広い部屋であった。いや、展望室、と言ったほうが適切かもしれないな、と希華は思った。写真や映像で見たことのある、司令室や制御室のようにコンピュータらしき端末が並んだ室内は、壁一面に広がった見晴らしの良いガラスに覆われており、ここが巨大格納庫の中でさえなければ素晴らしい眺望は間違いなかった。
「あーと、主演算機呼び出しはどれだったっけ」イティがそのガラスの眺望には目もくれず、その反対側――エレベーター入り口やおそらく階段の入り口があり、何やらランプ類で覆われている壁へと取り付いていた。
「イティ? コンピュータって、その辺のからじゃ駄目なの?」希華が先程見た整然と並んでいるパソコンらしき画面を指差した。
「それは末端端末。メインが立ち上がってないとただの黒い画面よ」イティが呆れたように言った。「ちょっと、まさかチキュウって個人所有コンピュータの普及すらまだなの? 遅れすぎてない?」
希華が引きつった笑みを浮かべた。まさか、異世界の神さまに現代文明の産物に関する知識で遅れてる呼ばわりされるとは思っていなかった模様である。のっしのっしと、おおよそ女性が出してはいけない効果音でイティの背後に近づいた希華は、そのまま神さまを押しのけた。
「ちょ、ちょっと、何するのよ!」イティが暴れた。一々所作が子供っぽい神さまだな、と希華が思った。
「私が探しますから。大丈夫です」希華が大丈夫ではなさそうな声音で告げた。似たもの同士の一人と一柱であった。
「あ、ちょ、アンタ! アタシの中を勝手に触るな! 危ないんだからね!」
「うっさいです! 現代っ子のデジタルネイティブ舐めないでください! このくらい見ただけでだいたい理解できるんですから!」
「絶対んなわけ――あ、そこは魔導融合炉の融合反応弁操作パネル! そっちは、三連装融合弾砲のセーフティー解除機構! アンタ、この艦を消し飛ばす気!?」
「メインコンピュータを起動させてるだけです!」
その他、希華の手は緊急魔導素推進セーフティーやら反重力装置調整パネルやらに伸びかけていたので、青い顔したイティが希華の腕を鷲掴みにしようとする。もちろん、希華としてもでぢたるねいちぶなる意地があるらしいので、手は重要制御機構パネルの上を彷徨い続けた。もっとも、そこは現代人の運動神経。幾らなんでも神格には敵うわけもなく。
「つぅーかぁーまぁーえーたぁー!」
漸く、希華の右腕がイティネラートルにひっつかまれてしまった。ふぅ、と一仕事終えたように、イティが息をつく。もちろん、希華としても諦めきれるわけではない。そんなイティの目の前で、希華は最後の悪あがきとばかりに強引に手を振り抜き――制御パネルをバン、と叩いた。もちろん、制御パネルの性である。そこには、何やら黄色と黒のストライプで警戒を表す表記の付いたボタンが有った。
「あ」
「えっ」
BEEP音の後、何やら音声が希華の耳へと入ってきた。おそらく、これが本来のこの世界の言語であるらしく、その内容は希華では聞き取れなかった。
「え、えぇと、イティ? これって」
「うっそでしょ」希華の視線の先で、疲れたようにイティがうなだれていた。「適当にやって再起動ボタンにドンピシャした挙句、AIも問題なく生きてたなんて」
イティが言い終わるのと、艦橋に変化が訪れたのは同時だった。
まず、先程希華が指差してイティに笑われた末端端末群にいきなり光が灯り、希華が見たことのある、PCの立ち上げ時のような画面――黒背景に細かな白字が流れるいつもの情景が見て取れた。と、同時に、視界の隅の方では、格納庫内の無味乾燥した様子を包み隠さず伝えてくれていた巨大な窓ガラスの端の方に、油膜のような汚れが見える。と希華が認識したときには、その油膜のようなものは薄紙を燃やす炎のように瞬く間にガラス全体へと広がると、一瞬で消えてなくなってしまった。
一方、艦橋内部では照明が点灯し、コンピュータの排熱機構らしいファンの回転音がし始めた。希華は今の今まで気づかなかったが、艦橋前方の最上面、窓ガラスの上には大型のディスプレイがあり、そこにも光が灯っている。まるで、SFに出てくる宇宙戦艦みたい、と思ってから希華は首を横に振った。みたい、ではない。これは陸上戦艦だと紹介を受けたではないか。つまり、これもまたあの空想的な兵器のご同類というわけなのだ。
「こちらを向いてください」
「……ふぇ?」
と、客観的に状況を見て取れたのもそこまでだった。イティとも、先程の音声とも違う声が聞こえ、希華が反射的に振り返る。そこには、全く見慣れぬ女性が立っていた。
金髪をショートヘアスタイルにまとめ、凛とした顔を希華に向ける美人さんがその女性である。どことなく親しみの持てたイティとは違い、どこを切り取っても「冷静」の二文字しか読み取れない顔をしており、怖いというか緊張する顔つきだ。おまけに、無表情に見つめられてはなおさらである。それでもなぜだかイティの面影が見えるのは、異世界人に共通した何らかの特徴でもあるからなのだろうか。
「ねぇ、イティ?」希華が、彼女とイティが知り合いであるという僅かな望みにかけて神さまを呼んだ。
「心配しないで」イティがつまらなさそうに言った。「そいつはこの艦の主幹AIユニット。敵じゃないわ。例え、言葉が通じなくとも、すぐに自動翻訳でわかるようになるわよ」
「え、イティ? 何言って」言葉は通じてるんですけど、と希華が何やら勘違いが進展していることに気づいて声をあげ――遮られた。
「しばらく、動かないでください」
希華の頭に手をやって、女性がそう告げた。何を、という疑問を口に出す余地すらなかった。次の瞬間、軽く殴られたような衝撃が頭に響いた。
「痛っ!?」希華が思わず叫んだ。さしたる衝撃でもなかったのだが、何分不意打ちであったし、それに痛いものは痛い。
「落ち着いて。それ、脳スキャン時の典型的な症状だから。特に害は無いわ」
「脳スキャン、の字面だけで健康を損ないそうです!」
「スキャニング完了。自動翻訳ソフト起動。網膜投影準備」
「すぐに文字は読めるようになるってさ。音声変換用の端末も、スキャン結果の解析と初期設定が終わればすぐ出てくるから。全く、いくら私の管理者とは言え、好き勝手に体を動かされるのは嫌な感覚よね」
「網膜投影準備完了。開始」
「きゃ」
今度は一瞬視界が光り、すぐに何事もなかったかのようにクリアな視界が戻ってきた。いたずらっぽい顔をしたイティが映った。
「ね、これ読んでみて?」
「え、『オルタリア首長国連邦観光ガイド ~世界旅行の仕方、砂漠地方篇~』? 何ですその本」
「ここに来る途中でおっこちてた、この世界の本よ。おめでとう。どうやら、リアルタイム翻訳機能は正常に働いてるらしいわね」
ぽん、と本を投げ渡された。その観光ガイドなる本には、明らかに日本語が書いてあるようにしか見えない。が、なるほど一時期話題になった画像を認識して翻訳する類だと考えれば、若干表紙のレイアウトが歪んでいることも含めて頷ける話だった。
「さ、これで問題はなくなったわね! それじゃ、図書室に戻りましょうか!」イティがやりきったという表情で言った。
「そうですね」希華が頷く。これで、楽しい楽しい異世界読書タイムへと漸く――
「お待ち下さい。希華、イティネラートル」
イティに主幹AIユニットと呼ばれた女性に呼び止められた。何事だろう、とイティをみやって、ますます困惑が大きくなる。ぎょっとしたようにイティが女性を見つめていた。
「ねぇ。アタシ、アンタに自己紹介したことあったっけ?」イティが怪訝さを押し隠さずに言った。
「私は陸上戦艦<イティネラートル>主幹AIユニットであり、またつい先程剥奪されるまで当砂漠軍港の非常時権限付与AIでした。貴女のことは生まれたときから確認しています、イティネラートル」
「の、割に話しかけてはくれなかったみたいね。記憶にないもの」
「艦艇搭載型に限らず、人工知能ユニットの目的は人間の補助です。意思決定プロセスに直接存在することは、特に軍事AIでは推奨されません」
「つまり、命令されなかったから人間ではないアタシには話しかけられなかった、ってこと?」
「はい」
「そんな理由で」イティが怒る、というよりも拗ねた調子で言ってから、自身のことを見つめる希華の視線に気付き、慌てて首を振った。
「いや、今はいいわ。置いといてあげる。で、何のようかしら? アタシは彼女に異世界のことを色々と教えてあげる仕事で忙しいのよ。補助が任務なんだったら、よほどの緊急事態でも無い限り口を出さないでもらえないかしら?」
「常識的に考えて希華の生命に危険の及ぶ緊急事態ですので、その言葉は無視させて頂きます」
「……えっ」
イティが目を見開き、希華がいきなり水を向けられて変な声を出した。
「イティネラートル」女性が、初めて無表情から切り替わった。同時に、声音も窘めるようなそれに変わる。とてもじゃないが、AIとは思えなかった。「貴方は、希華を艦橋へと連れてくるべきではありませんでした」
「何を」
イティの抗弁は途切れた。聞いた瞬間に警告音と分かるサイレンが艦橋に鳴り響く。同時に、また先程の理解できない言語が大声で怒鳴った。刹那、イティの顔色が、真っ青という表現ですら不足するほどに悪くなった。
「イ、イティ?」
希華の問いかけに応じたのは女性であった。左手を希華に差し出している。そこには、イヤリングのようなものが2つ載っていた。
「音声翻訳デバイスです。見た目通り、耳におつけください」女性が明瞭に、しかし聞き取れるかギリギリなくらいの速さで言った。
希華はひったくるようにしてそれを手に取った。慌ただしく耳へと装着する。「音声翻訳を開始します」という日本語が聞こえると、理解できなかった言語がいきなり日本語のように――いや日本語そのものとして聞こえた。
あぁ、と希華は思った。知らぬが仏って、こういうことを言うのか。いや、聞かぬが仏、とでも言うべきかな。
『警告! 警告! <イティネラートル>艦内に侵入者あり! ただちに制圧せよ! なお、敵味方識別信号はなく、ゲリラが疑われる! 制圧に生死は問わない! 繰り返す! 制圧に生死は問わない――』