昔のこと
鼻が慣れてしまって、もう血の臭いは感じなくなっていた。絶え間無く舞う土埃に目を細めながら前を向く。いつからかぼたぼたと涙が溢れていた。それでも前を見なければ、死んでしまう。
逃げたい。帰りたい。もういやだ。帰らせて。
少し遠くで爆音が響く。腹にズンとのし掛かるような音と同時に、沢山の悲鳴が聞こえた。
「……近い」
巻き上がる砂から目と口を守りながら呟く。
息を切らせて隊員達がこちらへ来る。傷だらけの彼らは、それぞれの背中に誰かを背負っていた。彼らの顔は汗と血と涙でぐちゃぐちゃだ。一度だけ鼻をすすって、彼らは私に叫ぶ。
「術師殿、処置を!」
「治癒術師殿! 隊員三名が重軽傷、エクトラ副隊長が重傷です!」
エクトラは友人だ。フレンドリーだけどどこか食えない、飄々とした男。この任務が終わったら城下町のいい飲み屋に連れて行ってやると言っていた。きっと奢らされるのだろうけど。
「エクトラ……!」
ぐったり背負われている彼の脇腹は大きく裂け、肉の隙間から内臓が見えていた。出血がひどい。彼の顔は青白く、血が足りなくなっているのが一目で分かった。呼びかけにも応えがなく、冷や汗が滲む。他の隊員も負傷していたが、エクトラが一番ひどい。
苦いものが喉元までのぼってきたが、どうにか押し留める。耐えろ、踏ん張れ。涙を拭って腹に力をこめた。
「彼らをそこに! 状態を確認します。サナーマさん杖と簡易結界お願い」
助手のサナーマさんに指示を出しながら、結界を開き清潔な厚い布を広げる。ベッドなんて持って来られないからだ。
泣きそうな、吐きそうな、最悪の気分を押し込める。今は、駄目だ。全て後にしなければ。
ゆっくりと横たえられたエクトラは、一度大きく咳き込んで血を吐き出す。びしゃりと私の服にかかった。鼻を突く鉄の臭い。死の臭いだ。膝をついて、両手の指先に魔力を込める。片方は隊員達に、片方はエクトラに。
「しっかりしてエクトラ。私だよ。目は見える?」
極力優しい声をかけながら、エクトラの腹の上に指で陣を描く。もう片方には違う陣を大きく描いた。片方ずつなんてしていたらまた次の攻撃が来てしまう。
エクトラは重そうに瞼を開けて、細目で私をとらえた。
「……お前か…………くっそ……いてえ」
「そりゃね。大怪我だ」
「さっきの……ゲホ、爆発に……最近来た、ばっかりの、部下が」
くそ、と弱々しい声で彼は悪態をついた。大丈夫、まだ大丈夫、まだ元気だ、間に合う。陣を手早く完成させ、サナーマさんが差し出した杖を構える。
「待ってて、もうすぐだから。治して……その人はまた、探そう」
生きているかは分からないけれど。
陣に魔力を注いで発動させるだけ。特に彼は大怪我だから魔力は沢山必要だけど、惜しみなくつぎ込んだ。身体中から指先へ、指先から陣へ、力が吸い取られていく感覚に陥る。いつもより倦怠感が強い。
陣が輝き、傷を照らす。早送りのように傷が塞がって行き、見守っていた隊員達の強張った顔がほっと緩んだ。
「エクトラ、痛いところは?」
「や、大丈夫だ。しっかし疲れた、死ぬほど眠い」
「君さあ……」
さっきまで弱々しかったくせにもうヘラヘラと笑っている。力が抜けて思わず俯く。落ち込んでいるのを隠すためだろうが、それでもエクトラのこの顔は安心してしまう。
「まあ多少擦り傷は痛いが、大丈夫だ。ありがとな」
「あ、じゃあ送るよ」
青白い顔でいつものように笑いながら、エクトラは隊員に支えられて立ち上がる。比較的軽傷だった隊員達はもうほとんど無傷だけど、エクトラはまだ細かな傷と疲労がある。送るついでに救護室へ行かなければ。
疲れたなあ、と心底思いながら立ち上がると。
バキンッ
「……え」
視界が回る。目を見開いたエクトラとサナーマさんと隊員達の顔が見えた。顔から地面に叩きつけられ、ああ転んだのかと足元を見る。やだ、恥ずかしいな。
見下ろした場所に足はなく、ガラスの破片のようなものが散らばっていた。
バキン、ともう一度頭の中で音がする。今度は多分、心の音だった。