泉の真実
女神は、困っていた。
「――どうされたんですか、泉の女神さま?」
神々しい女神の眉間に、苦悩の縦筋がうっすら刻まれている。
美しいマリンブルーのアーモンド形の瞳も、困惑の色に曇っていた。
泉の女神のお付きの精霊――ニンフは、真白な大理石のテーブルに頬杖をつく主人を覗き込んだ。
「あら、ニンフ。……また刻んでたかしら?」
「ええ、しっかり。ダメですよぉ、お美しさが台無しですー」
くるくると大きな瞳を動かして、ニンフは悪びれずに答えた。
丸顔に、肩までのボブヘア。幼い顔立ちだが、彼女も優に100歳は越えている。
「お世辞はいいのよ。……ねぇ、ちょっと聞いてもらえる?」
静かにため息をついて、女神は隣のチェアを示した。
ニンフは大人しく、テーブルを挟んで腰掛けた。
「半年前に、斧が落ちてきたこと、覚えてる?」
女神は、自分たちのいるテーブルの前に広がる10m四方の泉を眺めた。
大理石の貯水槽の中に、澄んだ水がたっぷりと湛えられている。
この水は人間界の泉に繋がっていて、泉に何か投げ入れると、この大理石の貯水槽に落っこちてくる仕組みだ。
「えー、斧ですかー? そんなの、しょっちゅう落ちてくるじゃないですかぁー」
ニンフは小首を傾げて答えた。
昔は願いを込めた金銀硬貨がよく降ってきたものだが、最近は物騒なものが頻繁に投げ入れられる。
――ザッパーーン……!!
言った側から、使い古された錆だらけの斧が貯水槽に飛び込んできた。
飛沫で大理石が水浸しになる。
「……まただわ」
女神の眉間に縦筋が刻まれ、ため息をついた。
「行かないんですかー? 待ってますよぉ、人間」
「だから、そのことで困っているの」
何度目かのため息を吐き出して、女神はまた頬杖をついた。
* * *
――3日前。
「……泉の女神、ゼウス神がお待ちです」
大神殿からの使者に直々の呼び出しを受け、泉の女神は即座に駆けつけた。
大神は気のいい御大だが、奥方が『女神』には手厳しい。特に、若い女神には容赦ない。
遅刻などしようものなら、この先50年はネチネチ言われること必至だ――。
「おお、泉の女神、よく来た」
玉座にだらしなく身を投げ出していたゼウス神は、泉の女神の姿を認めると、居住まいを正した。
「相変わらず美しいのぅ」
「ご用件は何でしょう、大神?」
目を細めるゼウス神の誉め言葉を聞き流して、恭しく頭を下げた。
「ふむ……そのことじゃが……そなたの管理している泉に、人間が斧を投げ入れてくるそうじゃの?」
「……ええ」
「そなたは、褒美を与えたそうじゃな?」
「――はい。勤勉で、……正直者でしたので」
『勤勉』も『正直』も、神々が尊ぶ美徳である。
人間は堕落や嘘に染まり易いから、美徳を示す者に褒美を与えることは、神々の慣例になっている。
「――ふむ……」
ゼウス神は豊かな顎髭を撫でながら、何やら思い巡らせている。
「何か、問題でしたでしょうか」
奥歯にものが挟まった物言いに、泉の女神は痺れを切らした。
「問題は、それが1人だけではないことです」
ゼウス神の玉座の背後から、生糸のような白髪を頭の後ろで結い上げた、年配の女性が現れた。
出た――、泉の女神は、内心舌打ちした。
「ヘラ、出掛けたんじゃなかったのか?」
ゼウス神が、古女房を見上げた。
ヘラは玉座に寄り添うと、鼻の下が伸び切り腑抜けた夫の頬をそっと撫でて、にっこりと微笑んだ。
「出掛けますわよ、この話が終わったら」
彼女は、泉の女神に意味あり気な視線をチラと送った。
ヘラが年甲斐もなく嫉妬深いことは、周知の事実だ。しかも彼女は、火のないところにもボヤくらいは平気で起こす。
火の粉を被るのは、たまったものじゃない。
「泉の女神は、褒美の大安売りをしている――もっぱらの噂ですよ」
小馬鹿にしたような声音で、ヘラは薄い唇を歪めた。
泉の女神は、挑発に乗るまいと、毛羽立つ気持ちをグッと堪える。
「――ヘラ、」
「大神、ちゃんと仰らないと――幼い者は加減を知らないのですから」
『幼い』はずがない。泉の女神とて、500歳を越えている。
要は、女神としての裁量が未熟だと言いたいのだ。
「私は、勤勉で正直な者にしか褒美を与えておりません」
「お黙りなさい!」
ピシャリと鋭く言い放つ。ヘラの双眸がサディスティックな高揚感に輝いた。
「『鉄の斧』を落としたとさえ言えば、金銀の斧が貰えると――人間界で評判になっているのですよ?!」
泉の女神は言葉に詰まった。
確かにこの半年余り、泉に「うっかり」落とされる斧の数が急増している。
それがエスカレートして、最近は2日と置かずに斧が『落ちて』くる――。
「まぁまぁ、そんなに畳み掛けてはいかん」
片手をスッと上げてヘラを諌めると、ゼウス神は泉の女神を見下ろした。
「じゃが、確かに、頻繁に褒美を与えることは、我々への感謝が軽んじられるであろう」
「……すみません」
ゼウス神は玉座からスッと立ち上がると、
「良いか、泉の女神。これから先は、いくら斧が落ちて来ても、金銀の褒美を人間に与えることは相成らぬ。勤勉で正直であっても、人間は自らの努力の末に金銀を得なければならぬ。さもなくば、世の秩序が乱されるであろう」
厳かに指示が言い渡される。ゼウス神の言葉は決定事項で、もはや反論も提案も許されない。
「はい――承知しました」
泉の女神は眉間に皺を刻みながらも、頭を下げるしかなかった。
俯いた頭上から、ヘラの声を挙げない嘲笑が、聞こえたような気がした。
* * *
「――そんな訳で、もう金銀の斧は与えられないのよ」
泉の女神は、途方に暮れた表情で、貯水槽の中に浮かんでいる小汚い鉄の塊を眺めた。
「……女神さまぁ、でも、何かリアクションしないと……あの人間、結構待ってますよぉ?」
泉の女神は、長く見事な金髪を掻き上げた。
ニンフでも滅多に見ない仕草――女神は苛立っているのだ。
「これまで『落とした』人間と何か違いがあれば、私も鉄の斧の返還だけにしてもいいわ。でも、何ら違いがなければ……この泉の評判が下がるのよ?」
これは、ヘラ様の策略だ。
『褒美が貰える泉』として、人間界で人気が高まったことを、面白く思わなかったに違いない。
ほとほと困り果てた主人の様子に、ニンフもまた眉間に皺を刻んで考えたが、不意にニマッと笑顔になって、チェアからピョンと飛び降りた。
「――泉の女神さま。あたしに良い考えがあります!」
* * *
森の木々に囲まれた小さな泉。
エンリケは、ヒョロリと長い身体を一杯に伸ばして、深い水底を覗き込んでいた。
噂の泉に斧を投げ入れて、半時近く経つ。
――どういうことなんだ? 話と違うじゃないか!
斧の投入後、女神は間もなく現れると聞いている。それが、ウンともスンとも音沙汰がない。
――何か、手順を間違えたのだろうか……?
樹木に切り取られた狭い青空を見上げ、時間の経過を計る。
いつまで待てばいいのか……それとも、もう諦めるべきだろうか。
「――畜生め! 詐欺じゃねぇかよー!」
エンリケは、苛立ちを吐き出した。彼のハイトーンボイスが、辺りの静寂を切り裂いた。
その時――。
ザバザバ……と泉に波が立ち、水面が盛り上がる。
驚いたエンリケは、畔に腰を抜かしてしまった。
「――そこの者」
水上に女性が浮かんでいる。
全体的に目映い光りを放つ白い肌、長い金髪に大きな碧眼――噂に聞いていた通りだ。
エンリケは胸の内で小躍りした。
「そこの者。お前は、先程、泉に斧を投げ入れましたね?」
澄んだ音楽にも似た響き――これも、聞いていた通りだ。
「すみません! うっかり手が滑ってしまって」
用意していた台詞。エンリケは、お宝の予感に頬が紅潮するのを感じた。
「……そうですか。では、お前が落としたのは、この斧ですか?」
泉の女神は、冷静にエンリケを見据えたまま、白い腕の中から光り輝く黄金色の斧を取り出した。
「違います!」
元気にハキハキと答える。
「……では、この斧ですか?」
女神は、次に銀色に鋭く光る斧を取り出した。
「違います!」
子どものように意気揚々と、エンリケは首を横に振った。
「それでは、この斧ですか?」
3本目に取り出した斧は、刃こぼれと錆のある、ボロボロの鉄の斧だ。
「はい!! それです、その斧です!」
コクコクと、エンリケは首を縦に振る。
女神は、少し表情を緩めた。
「……お前は正直者ですね。それでは、お前の斧と――この斧も差し上げましょう」
女神は3本の斧をエンリケに手渡した。
「ありがとうございます、女神様!」
ズシリとお宝の重さを受け止めて、エンリケは満面の笑みで答えた。
「……これからも、真面目に励むのですよ」
女神は青白い光に包まれて、スウッ……と幻のように消えた。
見届けたエンリケは、弾む足取りで村に帰った。
このお宝を売れば、家を買って、嫁をもらって……それでも当分遊んで暮らせるだろう。
ところが、エンリケの夢は粉々に砕ける。
彼の出来事は、一気に近隣の村々に伝わった。
それでも懲りない人間が、時折泉に斧を投げ入れに来て、3本の斧を手に入れた。
しかし彼らもまた、期待が叶えられることはなかった。
やがて、泉で一攫千金を目論む者はいなくなり、人間界に平穏な日々が戻った。
人々は、勤労によってのみ富めることを、教訓として知らされた。
エンリケ以降、泉の女神から与えられた斧は、鉄屑屋が安価で引き取り、鍛治屋に払い下げられた。
「親方ぁ、この斧、溶かしちまっていいんですか?」
下働きのテオが、溶鉱炉の側に転がる美しい斧たちを示した。
「あぁ、全部溶かしちまいな!」
職人頭は、つまらなそうに一瞥し、世話しなく弟子たちに指示を出している。
――ピカピカなのに、もったいないなぁ……。
テオは黄金色の斧を取り上げ、しげしげと見つめていたが、ふと柄に刻まれた文字に気づく。
『MADE IN CHINA』
「……なーんだ」
テオは納得すると、黄金色の斧も、銀色の斧も、次々に炉の中に放り込んだ。
【了】