旧峨春弥は魔法の匂いを嗅ぎ取る
駅を出た旧峨春弥は、思わず驚嘆の声を漏らした。
美しい線を描くガラス張りの建築物。
整然とタイルが敷き詰められた通路。
海上を走っていくリニア。
旧峨はまるで異世界に来てしまったかのように錯覚しそうになる。
ここは東京湾海上に浮かぶ人工島。
島全体が学園都市として開発され、魔法関連の学校が多く存在しているため、道行く通行人のほとんどは、10代~20代といったところだ。彼らにとっては見慣れた景色であろう街並みを、しかし、同年代の旧峨は物珍しげにきょろきょろと見回しながら、スーツケースを引きずって歩いていく。
旧峨が目指しているのは、今日から住まうことになる、学生寮だ。
しばらく歩き続けた旧峨は、大通りから逸れて住宅街に入ると、一つの建物の前で立ち止まった。
「ここか……?」
今一度、電子端末で地図を確認し、目の前の建物を見る。
豪華ではないものの、シンプルでモダンな建築。
入り口には『七桜院魔法高校 学生寮』と書かれている。
旧峨は、高校の名前から、歴史ある――もっと正直に言ってしまえば、薄汚い建物を想像していたのだが、どうやら杞憂だったらしい。よくよく考えてみれば、歴史が浅い学園都市の中央部に、昔ながらの木造建築があるはずもない。
旧峨はごくりと唾を飲み、入り口をくぐった。
玄関ロビーに入ると、整った目鼻立ちの女性が、快活そうな笑みを浮かべて彼を出迎えた。
「新入生?」
「はい、旧峨春弥です」
とりあえず、名乗っておく旧峨。
「私はこの学生寮の寮母をやってる吉葉。よろしくね」
「寮母さんですか」
「あっ、今寮『母』って年じゃないと思った? よね? ね?」
「は、はい」
「だよね。私まだ28だもんね」
「そうなんすね……」
彼女の台詞には単なるギャグを超えた、必死さが含まれていたような気がしたが、旧峨は気にしないことにする。
旧峨の相槌に満足した様子の寮母は近くに寄ってくる。
「ところで部屋番号、何番? 寮母さんに教えてごらん」
旧峨は自分の部屋番号を告げる。
「ああ、それなら、こっちの三階ね。一旦部屋に行って落ち着いたら、諸々の手続きをするから降りておいでね」
寮母は、ロビーの横にある食堂の中へと消えていこうとするのだが。思い出したように振り返る。
「そうそう。最近、この寮内で窃盗事件が起こってるから、降りてくるとき、戸締りには気を付けて」
「窃盗事件?」
「まぁ、事件ってほど、大したものではないのだけれどね。あまり大事にはしたくないから、警察にも言ってないし」
「何が盗まれたんですか?」
旧峨は何の気なしに尋ねる。
「魚」
「……魚?」
「そう。調理場の冷蔵庫にある魚だよ。一応、夜は食堂にも調理場にも鍵がかかってるんだけどさ。夜中の間に、魔法で開錠されてしまったみたいで」
以前にテレビで、泥棒の手口を紹介しているのを、旧峨は見たことがあった。開錠魔法というのは、結構難しいらしいが、魔法関連の高校が集まる学園都市なのだから、開錠魔法が使える人間も大勢いるのかもしれない。
それにしても、魚を盗んでどうするのだろう。
魔法燃料にでもするのだろうか。
魚を原料にするなど、旧峨は聞いたことがなかった。
「最初のうちは、まぁ、減ってる気がするけど私の気のせいかなと思ってスルーしてたんだけどね、三日連続でそれが続いたからさ、さすがにオカシイと思って、夜中に見回りをしたわけよ。そうしたら、なんとビックリ。犯人に出くわしてさ。まぁ、捕まえ損ねたし、顔も見られなかったんだけどね。……でもさ、これ」
寮母は、にやにやと笑いながら、エプロンのポケットからポケットタオルを取り出した。
「これを落としていったんだ」
ごくごく一般的なものだ。白の生地にワンポイントで、花の刺繍がされている。
「そのタオルから犯人を捜せないんですか?」
「さすがにタオルだけじゃ無理だよねぇ」
ため息をつく寮母に、旧峨は言う。
「あの、もしかして、役に立てるかもしれません」
「え?」
「そのタオル、貸してもらえますか?」
寮母が差し出したタオル。
それを受け取った旧峨は、――突然、匂いを嗅ぎ始めた。
「何やってんの……」
寮母はゴミを見るような眼差しで、旧峨を見る。
「匂いを嗅いでるんです」
「それはわかるんだけどさ。何なの、匂いフェチなの?」
「いや、違くて。……魔法の匂いを嗅いでるんですよ」
「魔法の匂い……、って旧峨くん、もしかして、特異能力者?」
旧峨は自分の特異能力について話す。
彼の能力、それは一般的に無臭であるとされている、魔法の匂いをかぎ取るものである、と。
寮母は、旧峨の話を聞いて、驚きの声を上げる。
無理もない。魔法の匂いを認識できる特異能力者の話など、旧峨自身、自分以外に聞いたことがないのだから。
「でも、どうしてタオルに魔法の……匂い? が残ってるわけ」
「開錠魔法は機器に影響を及ぼすために、直接手で触る必要があるんです。タオルを持っていたってことは」
「指紋を拭きとろうとしたと。その時に魔法の残り香も一緒に移ったってこと?」
「そう思ったんですが……うん、やっぱり」
タオルには、開錠魔法の匂いが、確かに残っていた。
魔法臭の差は使用された魔法の種類と、魔法燃料によって生まれる。旧峨が今回特に注目したのは魔法燃料だ。
魔法燃料は人によって、その素材や比率が異なるため、残された匂いから使用された魔法燃料が特定できる。
犯人がこの寮内の生徒だと仮定して、その魔法燃料の持ち主はすぐにわかるはずだと旧峨は考えた。
入寮手続を終えて、寮母と別れた旧峨は、タオルの魔法臭と同じような匂いを捜して、寮内を歩いていく。
――やがて、ある部屋の前にたどり着いた。
女子寮の一室。
部屋番号の下には「光堂朝来」更にその下にはローマ字で「Asaki Kodo」と記されている。
中に住んでいるのは、いったいどんな人間なのか。
旧峨は緊張しながら、ドアを叩いた。
「はい、どちらさまですか……」
ドアの向こうから現れたのは、並外れて可憐な少女だった。
驚いたように見開かれた目、その瞳は漆黒である。
長い黒髪は少し湿り気を含んでおり、透き通るような透明感のある肌は、少しだけ、紅潮している。
そして、彼女はパジャマを着ていた。
おそらく、風呂上りなのだろう。
「ちょ、ちょっと、なんで女子寮に男子がいるの!? 誰!? 変態!?」
「違う、入っちゃいけないなんて知らなかっただけだ。それに、俺は変態じゃない。ただ匂いを辿ってきたら、この部屋に着いただけで――」
「思いっきり、ド変態じゃない!」
光堂は片腕で自分の身体を抱きかかえるようにして、ドアを閉めようとする。旧峨は慌てて、閉めさせまいとして、ドアの隙間に顔を突っ込んだ。
「割れる割れる、頭が割れる」
「きもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもい!」
「違うんだ、待て。話聞け」
「帰って、警察呼ぶわよっ! ……っ」
そう言った後、光堂が一瞬戸惑ったような素振りを見せたのを、旧峨は見逃さなかった。光堂は多分、自分で言った警察という単語に反応したのではないか。
「こ、これっ! お前のタオルだよな?」
旧峨はドアの隙間から、寮母に預かってきたポケットタオルを差し込む。それを見て、光堂はドアノブを引っ張るのをやめた。
「な、なによ。それ」
光堂が旧峨を睨む。その顔からは急激に、赤みが取れたように見える。
「寮母さんに、借りたんだ」
「そう、でも……そそそそそそそ、それ私のじゃないわ」
と言う光堂だが、目は左右上下に泳いでいる。顔は真っ青なのに、額には汗をダラダラと流していた。
……うわぁ、こいつ、嘘つくのめっちゃ下手だ。
そう思った旧峨は、少し光堂を挑発してみることにする。
「そうか……、じゃあ、これの匂いをどれだけ嗅いだって、お前は文句ないよな?」
そう言って、タオルを鼻に付けて、思いっきり吸い込む。
魔法臭の他に、石鹸の香りが旧峨の鼻腔をくすぐった。
それを見て、光堂が嫌悪感丸出しの顔で、旧峨の手からタオルをぶん取ろうとするが――さっとそれを躱す旧峨。
「返して」
「何でだよ、お前のじゃないんだろ?」
「あなたが他人のタオルの匂いを嗅いでるだけで、不愉快なの。返しなさい!」
そう言って、光堂は手から眩い閃光を放つ。
旧峨はぎりぎりのところでそれを躱すが、旧峨の後ろにあった、開けられた窓から外へと一直線に向かっていった閃光の線は、そのまま、中庭に植えられた木のてっぺんを一瞬で灰に帰す。
「おい、今の、当たったら大怪我だろ」
名前はわからないが、あの魔法、上位魔法に違いない。だとしたら、光堂は魔術師として相当な腕前ということになるはずだ。
心の中で、旧峨はそう考える。
「大怪我? 当たったら『即死』よ。わざと外してあげたけれどね」
「ひ、人殺しっ!」
「さぁ、今すぐタオルを置いて、すべてを忘れて、この場を去りなさい。さもないと、あなたを拘束して、一生舌が回らなくなるくらい、電気ショックを与え続けることになるわ」
光堂がピースサインのように立てた二本の指の間に、電流が流れる。
「なるほど……構わないぜ」
「……なんで? ドМなの?」
「んなわけあるか! お前とこのタオルを賭けて、勝負しても構わないぜってことだ!」
光堂は顔を歪める。
「いいわ、表に出なさい」
中庭に出た二人は、向き合って立つ。
パジャマから学校指定の制服に着替えた光堂は、魔法燃料の入ったマガジンを腰にセットし直しながら言う。
「全く、またお風呂に入らなくちゃいけないじゃない」
いや、お前が風呂に入る時間が早すぎるんだろ。まだ15時だぞ。と心の中でツッコミを入れる旧峨。
「タオルを取ったら私の勝ち、ルールは以上」
「ちょっと待て。俺の勝利条件は?」
「私が降参したら。そして、私が降参することは、決して無い!」
そう言って、光堂が勢いよく手をかざすと、突如、旧峨の後ろから閃光がほとばしる。
旧峨は、一瞬の判断で、身体を包み込むように、防御魔法を展開しそれを受け流す。
先ほどとは異なり、威力は抑えられている。おそらく感電させて身体を一時的に麻痺させるためのもの。つまりは、本気で当てに来ているということだろう。
「いきなり、危ないだろ! 制服、今着てるやつしか持ってないんだからな」
「ふんっ、制服の心配をしていられるのも今のうちよ」
余裕をかます光堂だったが、内心、彼女は動揺していた。
旧峨の防御魔法の展開スピードが尋常でなかったからだ。まるで、光堂の魔法を先読みしていたかのようだった。
光堂は更に攻撃を仕掛ける。雷撃による、連続攻撃。しかし、それを光堂は容易く躱していく。
――どうして?
手の動きを読まれているのでは、と考える光堂だったが、旧峨はこちらを見ていない時でも、光堂の繰り出す攻撃をやすやすと回避する。
傑出して戦闘慣れしている様子はない、だが、明らかな能力の差を光堂は感じた。
ひたすら、魔法を連射する光堂。しかし、どうしても当たらない。
焦りがピークに達した光堂は、叫ぶ。
「もうっ! ……それなら、これでどう!?」
光堂は、両手を複雑な形に織る。
旧峨の周辺に、5つ、魔法陣の光が現出した。魔法陣の光は強まり、5つそれぞれが一斉に旧峨に向かって、光の柱を放った。
「やばっ、やりすぎたかも」
そう光堂が自ら言ってしまうほどに、火力は大きすぎた。
周囲の景色が一切、白く染まる。
生半可な防御魔法を展開していても、大怪我は免れないだろう。
そう思ったのだが。
次の瞬間には、5つすべての魔法陣が木っ端微塵に砕け散る。
「そんな!?」
わずかな時間の間に、魔法陣から放たれる光柱の正確な軌道を予測して、一度に5つの反射魔法を同時に展開するなんて、あり得ない。
思わず、声を上げた光堂の首元に、次の瞬間、手刀が迫る。
風切音。
思わず、目を瞑る光堂だったが――何も起こらない。
「俺の勝ちで良いかな」
おそるおそる目を開けた光堂に、旧峨はしたり顔でそう言ったのだった。
手刀を降ろす旧峨に、光堂は尋ねる。
「どうして予測できたの?」
「匂いだよ。魔法が起動し始めてから、実際に放出されるまでには僅かなラグがある。魔法が起動した瞬間の匂いを嗅ぎ取って、俺は正確に対応していただけだ」
「そんなことができるなんて、あなたもしかして……」
どこかで聞いたことがある、特異能力者。
「タオルの匂いを嗅いできたとか言ってたから、てっきりただの変態かと思ってたけれど、違ったのね」
「だから、変態じゃないって言ってただろ」
旧峨がため息をつく。
「それで。……お前が、魚泥棒だろ」
「ええ、そうよ」
光堂は観念したように、両手を開いた。
「どうして魚なんて。腹減ってるのか?」
「……ついて来て」
光堂の後に続くと、寮内へ、そして彼女の部屋に入っていく。旧峨が戸惑っていると「早く来て。静かにね」
と手招きする光堂。
旧峨が入ると。
――そこには、一匹の子猫が丸まって眠っていた。
「魚って、もしかして、こいつのために?」
光堂がコクンと頷く。
「この寮、ペット禁止でしょ。でも、新しい飼い主が見つかるまで、保護してあげようと思って……」
「なるほど、でもそれなら自分の部屋の冷蔵庫で冷やせば良いのに」
と言おうとして、旧峨は気付く。
「そう。引っ越してきたばかりだから、冷蔵庫もまだ届いてなくて……」
光堂は旧峨に深々と頭を下げる。
「寮母さんには、ちゃんと謝ります。旧峨くんにも迷惑かけてごめんなさい」
「いや、俺はいいんだけどさ――それよりも、この猫の新しい飼い主、もう見つかったのか?」
「まだ」
光堂の潤んだ瞳から、一筋の涙が頬をつたう。旧峨ははぁ、とため息をつく。
「じゃあ、俺が何とかするよ」
「え……?」
数時間後。
食堂には、自由きままに闊歩する、子猫と電子端末でそれを夢中に撮影する、寮母の姿があった。
あの後で、旧峨と光堂が子猫を連れて、寮母のところへ向かったところ、
「きゃ、きゃーかわいいお! にゃんこ! にゃんこ! う、うぉー! くぁwせdrftgyふじこlp」
見た途端、言語中枢に異常が生じるほど子猫に心奪われた寮母は、光堂を二つ返事で許し、おまけに子猫を寮全体のペットとすることにしたのだった。
猫と寮母をテーブルに座って眺めていた光堂は、旧峨に尋ねる。
「でもどうして寮母さんが猫好きだってわかったの? まさか嗅覚?」
「いや……ほら。あのストラップ」
旧峨は子猫を撮影する寮母の電子端末のストラップを指さす。
猫の形のぬいぐるみ。
「あれは猫好きだろ」
「確かにね」
ころころと笑った光堂は、ふと旧峨から目線を逸らし、もにょもにょと口ごもる。
「どうした?」
「……そういえば、君、名前は?」
「ああ、言ってなかったっけ。旧峨春弥だ」
すると、光堂はにっこりと微笑む。
「旧峨くん、本当にありがとう。あと、4月からもよろしくお願いします」
「え?」
光堂は胸を張って、クラス章を指さす。
そこには、旧峨の胸についているのと同じように「1-A」と記されていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。