08 - 噴出
天候がすぐれない夜は、館内の空気もじめつく。
巡回の歩を進めながら、少年はそんなことを想う。
時刻はすでに日を過ぎて、人も自然も館内も、全て息を潜めている。
自分の足音だけが、嫌によく響く。
恐怖は感じない。こうした空気は、奴隷時代には良く味わっていたことだからだ。
なおかつ、今の少年の環境は、当時のそれと比較にならない。なら、恐れることはなにもなかった。
恐れるのは――人形のいる、奥深い部屋に歩を進める僅かな時間だけ。
「……」
息を呑んで、止めていた歩を再開する。別に、気を構える必要などないはずなのに。
少年は、気づいていた。
その気を構える時間――足を部屋の前で止めぬための気構えが、少しずつ少しずつ伸びているということに。
人形に配慮して、少しでも足音を殺そうと気遣い、少しばかり歩を進める速度が遅くなる。
「――?」
だが、歩を遅めたためか、いつもと異なるなにかを感じることができ。 眼を凝らしてみれば、薄く開かれたドアが視界に入った。
なぜ開いているのか、と少年が立ち止まると――そこから、かすかにだが、人の息づかいが感じとれた。
「――っ!?」
行き先をドアの近くへと、ゆっくり修正する。
足音を殺すことは止めない。相手が誰であろうと、こちらの気配に気づかれない方がよいと考えたからだ。
耳を澄ませ、ドアに寄り添う。重みのあるドアは完全に寄りかからなければ、なびくようなことはない。
暗がりの中で、ゆっくりと眼をこらす。
かすかな灯火しかないはずのその闇の中には、おぼろな影の人形が一体いるだけのはず。
少年はそう考えて、中をのぞき見た。
「……?」
眼をこらした先にいたのは――人形と、一人の人間。そして、その人間の後ろ姿は、良く見知った者のものだった。
だが、その様子は奇妙だった。
椅子に腰掛ける人形と、かしずくように膝をつく紳士の姿。
常とは異なるその関係図が、闇の中ということも相まって、少年の瞳には異様なものに感じられる。
(こんな時間に、なにを……?)
人の気配は、他にない。侵入者は、人形の主たる紳士のようだ。
――だが、なぜ? 彼の立場なら、こんな密やかな逢瀬をせずとも、出会うことはできるのに。
少年が疑問を片付けられずにいると、紳士は膝を上げる。
少年の位置から、人形の姿が背中によって隠される。
かろうじて見えるのは、包帯を巻かれていない片眼だけ。
紳士の腕が、ゆっくりと伸びていく。その先は、少年には視ることのできない、白い包帯を巻かれている方にだった。
「――ッ!?」
想わず、声と動きが漏れそうになる。
だが、ここで気づかれるのはとてもまずい。今後の少年の処遇にもかかわってくるのは間違いない。
なのに、少年は眼を離すことが出来ない。なのに、この位置からではなにが行われようとしているのか判別できず、想像することしかできない。
紳士の手先から、音もなく、包帯が落ちてゆく。
本当に音もない包帯の落下は、しかし、少年の眼には重い鎖の崩落にも見えた。
少しして、紳士の手が止まる。
人形は微動だにせず、地面には白い鎖が広がる。まるで、白い花弁に囲まれる、一輪の花のような光景。
だが、少年に、その中心部を覗く手段はない。
身動きもできずに悶々とする少年を無視して、紳士はためらうことなく行動を続ける。
何度も何度も行われてきたかのような、流麗な動きで。
――口づけが行われたことは、なぜか、人形の瞳が甘くゆるむことで察せられた。
その口づけの先は、だが、人形の口元ではなく。
少年が最も知りたい、人形の秘密。甘くゆるんだ瞳の半面。
解放された顔の半面へ、紳士は、静かな口づけを送っていた。
まるで慈しむようなその態度に、少年の内心で、疑問と違和感がふくれあがる。
――あの下には、完全な形が眠っているのか? それとも、噂通りの半壊した跡があるのか?
疑問が浮かんでは消えてゆき、最後に、少年にふとした想いが浮かび上がる。
――なぜ、あんな鎖が必要なんだ?
人形の表情をうかがい、紳士の態度を見て、少年の心に浮かんだ疑問。それは、初めて人形を見た時から感じていた、大きな謎だった。
そして、同時に少年の心に、初めて館で紳士と人形を見た時の感情もふきあがってくる。
――なぜ、されるがままになっている?
――その場所を、なぜそのままにしている?
――どうして、僕じゃない?
あの時から時と知識を得て、少年は自分の感情を理解できるようになった。これは――歪な関係を慈しむような両者に対する、不可解な不快と、羨望だった。
少年は想う。
なぜ、彼女の顔には包帯があるのか。
もし、慈しむべき場所がそこにあるのならば――開いてみたい。
光の世界へと、一切の闇のない完全な『人形』を、さらけ出してみたい。
無意識に、少年の指先がドアへと伸びそうになった、その時だった。
「覗き見の趣味は、よくないわね」
耳元でささやかれた言葉に反応した身体と口元を、メイドに優しく包みこまれる。
そのおかげか、内部の二人に気づかれた気配はない。
「さあ、イタズラをした子にはおしおきをしなくちゃね?」
おどけるようにメイドはささやくが、態度は真逆だ。
その雰囲気を少年も察して、ゆっくりドアから身体を離す。
まるで、紳士と人形の光景を、これ以上見させたくないかのような――メイドの様子からは、そんな様子が感じられた。
少年は、その気遣いをうっとうしく想いながら、それでいいのかもしれないとも感じていた。確かに、あの闇を見つめ続ければ、なにかを踏み出してしまいそうだったから。
少年はメイドの後を追うように、静かにその場を後にした。
――だが、少年もメイドも紳士も、気づいていなかった。
人形の瞳が、まれに、光を求めるように、わずかに開かれたドアの先へと向かっていたことを――
「不相応」
人形の部屋から距離をとり、誰もいないキッチンへとメイドに引かれてたどり着き。
開かれたメイドの口元から少年へ発せられたのは、そんな言葉だった。
それがなにを指すのか、察せられない少年でもない。
「……そんな言い方、ないだろ」
メイドの物言いは、熱っぽさを内に高ぶらせた少年には、率直すぎた。
さきほどメイドに感じた温もりが、水を浴びせられたように引いてゆく。いつもなら冷静にさせてくれる彼女の言葉だったが――今回は、さざ波を立たせる役割を、少年にもたらしていた。
「ハッキリさせるのは、悪いことじゃないでしょ? それに、危なかったわ」
常なら平静に聞ける彼女の声も、今の少年にとって、煩わしいものにしか感じられない。
「……彼女は、あれで満足なのか?」
責め付けるような語気で問う少年。
彼女があそこで制止しなければ、といった意を含んでいるような強さ。
「さあ? 知ってはいるけれど、やっぱり知らないと答えるわ。わたしは、人形ではないけれど、彼女じゃないのだから」
謎かけのような答えに、少年は苛立ちを感じる。
だが、それをメイドにぶつけるのもためらわれた。
無論、彼にだってわかっている。
あそこでもし、考えもなく踏み込んでいれば、この館にとどまり続けることは不可能となっていただろう。人形に出会う機会も、もう二度と巡ってくることはなくなる。
自省する少年に、メイドは言葉を続ける。
どこか諭すような、冷たい口調で。
「なぜなら、あなたは知っているはずだから。知っているからこそ、この場所に来たはずなのだから。……それに、本当を答えられない立場の者に、答えなんかを聞くものではないのよ?」
メイドの言葉が、少年の心にきしみを造る。
それは、少年がなにに悩み、なにを成したいのか、それを知っている者の口調だった。
――彼女はなにかを知っていて、そしてそれを自分に隠し続けている。
少年は、その事実に気づいてしまった。そう、確信してしまった。
「……裏切るのか」
呟いた言葉は、少しばかりずれていた。初めから、少年は独り舞台を歩んでいた。それを端的に表した、感情だった。
――人形も、メイドも、おそらく紳士も、その役割を知っている。なのに、この舞台で悩み振り回され、戸惑っていたのは、自分だけだったのだ。
少年の言葉にメイドは、表情を変えることなく返答する。
「裏切る? 面白いことをおっしゃるのね。はじめから、わたしはあなたの教育係。それ以上でも、それ以下でもないわ」
メイドがそう答える姿に、少年の内心は追い詰められる。
「……しんじて、いたのに」
そう、囁くように言い残して。
少年は、メイドに背を向けて足早に歩き去った。
そして、独りその場に残されたメイドは、ぽつりと言葉をそこに落とした。
「……信じているから、会わせるのに。会わせたからこそ、違ってほしいのに」
メイドの表情からは明るさが消え、代わりにあったのは、どこか悲しげな眼差しだった。
彼女の呟きを拾うものは、その場に誰もいなかった。




