第4話「澪の暴走 ――修行開始――」
翌朝。
木窓の隙間から漏れてくる光が、薄く開けた目を割ってまぶたの裏に刺してくるのを感じた陽斗は、段々と目覚めを意識し始めた。
「――んぁ?」
視界の端を何かが撫でたような気がして、身体を起こし眠い目をしばたかせながら目を向ける。しかしそこには部屋のドアがあるだけで何もない。
「……気のせいか」
再びベッドに仰向けになり、手だけを伸ばして枕元においたはずのスマートフォンを探し手に取る。時刻は朝の五時を表示していた。
待ち受け画面には着信などを知らせる通知はない。
当然だ。
画面の左上には現在地に電波が届かない状態、つまりは圏外の文字を浮かべているのだから。
「……夢じゃなかったか」
見上げた天井は寮の壁紙の白色ではなく木材の茶色であるし、後頭部に感じる枕もいつもの感触ではない。
どうやら呪いのとばっちりで異世界に来てしまうという悪夢は、一晩経っても覚めてくれることはなかったらしい。
陽斗はもそもそと起き上がると、制服に着替えてログハウス内にいくつかある寝室から、廊下に出る扉を開けた。
「おはようございます」
「おわあっ!」
扉を開けたすぐそこ、誰もいないと思っていた場所から掛けられた声にビクリと肩を跳ね上げる。
バクバクと脈打つ胸を押さえて犯人に目を向ける。シワひとつないメイド服を着た茶髪の美少女が立っていた。
「ドッキリ成功っすねっ」
「澪……驚かさないでくれよ。ていうかいつからそこにいたんだ」
「つい今しがたっすよ。やっぱりメイドたるもの主より後に起きるわけにはいかないっすよね」
「いや……いや、だからってここで待機している必要はないだろ。びっくりするから次からはやめてくれ」
「畏まりました」
お辞儀をする澪の横をすり抜けるようにして部屋を出た。後ろから彼女が付いてくる気配を感じつつ、陽斗は一階に降りる階段に足をかける。
「顔を洗うのでしたら欲場へどうぞっす。そちらでお湯を出すっすよ」
「……ああ頼む」
浴場という言葉に昨日の事件を思い出して僅かに顔を顰めるも、水道などないこの家で水を使うには澪に魔法で出してもらう他ない。陽斗は仕方なく浴場へと足を向けたのだった。
顔を洗い終えてリビングに移動し、昨日と同じソファに座る。
「お茶を入れてくるっすね。朝食はもう少々お待ち下さいっす」
陽斗は微妙な表情で頷く。
昨日から澪は至れり尽くせりで陽斗の世話を焼いてくれるが、陽斗はこのままではダメになる予感を覚えていた。澪がいないと何もできない――というか、したくない――ダメ男になると。
確かにコンロも水道もないここでは魔法で火も水も出せない陽斗では何の役にも立たないのだが。
――一番最初に覚えるのは水を出す魔法だな。
と決意を固めつつ陽斗は朝食を待った。
紅茶が出てきて数十分が経った頃に朝のメニューの全てが陽斗の前に並んだ。今は二人で向い合って食べている。
「今日から魔法、それから戦闘訓練を開始するということでいいんすよね?」
陽斗は咀嚼の途中だったので言葉にすることなく頷く。
この世界にはモンスターという野生の動物以上に獰猛で危険な生き物が跋扈しており、外に出るなら戦えないと危険だという。
「本当に厳しくしてもいいんすか?」
澪は幼少からの修行で戦闘には慣れているらしく、陽斗は最低限の自衛さえしてくれればいいと言われた。
男だから女だからと言う気はないので、弱い陽斗が守られる側なのはいい。しかし陽斗は温い訓練ではいざという時、脚が竦んでしまう気がしていた。
澪が気兼ねなく戦う為に少しでも戦場で動けるようになりたい。足手纏だけは死んでもゴメン。
だから陽斗は厳しい稽古をつけてくれと頼んだのだ。
陽斗は真剣な表情で澪を見据えて、頼むと頭を下げた。
「はぁ……分かりました。じゃあ、これを渡しておくっす」
そういって取り出したのは一本の剣。鞘に収まっているために刀身は見えない。
「これは?」
「昨日お見せした手紙とは別にロイドの父からの手紙と一緒に置いてあったっす。どうやら王家に伝わるものだそうで」
陽斗は鞘から抜いてみた。陽斗は剣に詳しい訳ではないが、柄がやけに分厚いこと以外は何の変哲もない普通の剣に思えた。
魔法のある世界で王族に伝わるものなら何か特別な力を持っているかもと思ったのだが。
陽斗が魔法に詳しくないから力を感じ取れないだけかもと思い澪に聞いてみるも、
「私にもただの剣のように思えるっす。手紙によると、初代国王が使いこなした剣でそれ以降王の戴冠式で受け継がれるそうっすけど、力を発揮させた王はいなかったみたいっすね」
「なんでそんな大事なもんをこんなところに?」
澪はそこで難しい顔をした。
「手紙によると空属性の継ぎ手がいなくなったことで、王家は国内外に対して力を保てなくなるかもしれないと書いてあったっす。
この剣は空属性と共に初代国王から受け継がれてきた由緒あるもの。政治の道具にされるくらいならと、この家に隠蔽の魔法をかけてその中に封印したということみたいっすね。
それとロイドが帰って来た時に空属性とこの剣の二つがあれば、真なる正統という証明になるからという理由みたいっす」
陽斗は手元の剣を見る。
一見すると普通のこの剣は、日本でいうところの三種の神器に当たるものらしいと陽斗は理解する。途端に重みのあるものに感じられるのだから現金なものだと思う。
しかしそれよりも、
「じゃあセブリアント王国はなくなってるかもしれないってことか?」
続けて「じゃあ異世界転移の魔法は」と聞きたくなるのをぐっと堪える。
澪は目を閉じてふるふると首を振った。
「すまん……澪が知ってるわけないよな」
彼女はセブリアント王国がなくなっていることで、そこの王族に伝わる空属性魔法もまた失われているかもしれない。すなわち日本に帰る方法の手掛かりがなくなっているかもしれないことを、陽斗が知ることで不安にさせるのではと心配して剣と手紙を隠したというわけだ。
それが分からない陽斗ではない。意識して明るい声を出す。
「まだ王国がなくなったと決まったわけじゃない。それに空属性がレアな魔法だってんなら研究してる学者だっているだろうしな」
根拠も何もない希望的観測。でもそれに縋るしか陽斗たちにはないのだった。
「さっさと食い終えて始めようぜ。修行をな」
■
澪と陽斗の二人はログハウス前の拓けた外に立っていた。太陽の位置は未だ低く、木々の影に隠れて見えない。しかし活動するには充分な明るさだ。
澪はメイド服の動きやすさを確認しながら対面に立つ陽斗を眺める。陽斗の格好は虹高の制服だが、今はブレザーとネクタイは外し、スラックスとシャツだけを着ている。そのシャツも肘辺りまで捲られていた。
陽斗はトントンと足で地面を叩いて感触を確かめている。澪は頃合いを見計らって話しかけた。
「特訓メニューは私に任せてもらえるということなので、午前は身体能力向上に、午後を魔法習得に当てたいと考えているっす」
澪は顎にそのほっそりとした白い指を当てて思案する。自分の経験、それから今まで読んだ読み物で何をやっていたか。
「まあ武術で最初にやることといえば、やっぱり柔軟っすかね」
一見身体が固そうに思える力士も、股割りなど皆当たり前にできる。それをテレビで見たことのある陽斗も納得げだ。
「俺、結構柔らかいと思うぜ。ほら」
そう言って脚を真っ直ぐ揃えたまま手の平を地面につけてみせる。
「確かに」
澪はさも面白く無いというように呟いた。
(むぅ……これじゃ陽斗様に合法的にくっつく作戦が……しょうがないっすね。澪ちゃんの必殺屁理屈が炸裂するっすよ……ふふふ)
背筋に悪寒でも走ったのか、前屈姿勢からバッと澪の身体を見上げる陽斗。しかし澪の表情はいつも通りの快活そうな笑みを絶やしていない。
澪は指を一本立てて早口に解説をまくし立てる。
「身体の柔軟さは、一方向に曲げることができればいいというものではないのです。様々な方向に可動域を広げておくことで、いざというときに身体を守ってくれるのです。やはり柔軟はやるべきでしょう」
陽斗は急に澪の「~っす口調」が、「ですます口調」に変わったことを訝しんでいる様子だが、彼女の指導にケチを付ける気配はない。無駄を省く為に出来ることを見せただけだったのだろう。
「ではそこに足を開いて座るっす。僭越ながら私が後ろから押して差し上げ……あげるっす」
澪はこれからすることへの興奮で息が荒くなった為に言葉を支えてしまったが、陽斗にはバレていないようでホッと安堵の溜息をつく。
陽斗は澪の手を借りる前に自分で限界まで足を広げて身体を地面に付けようとしていたが、途中で止まってしまっていた。
澪はチャーンスっと目を光らせながら、なるべく息を押し殺して陽斗の背後からにじり寄る。
「で、では後ろから押すっすよ」
「ああ。最初はゆっくりで頼む」
陽斗は簡単に背後に澪を立たせた。おそらく澪を完全に信頼しているが故だろう。
それに若干の罪悪感を覚えながらも、自らの欲望に素直に地面に座る陽斗に、覆いかぶさるようにピタリとくっついた。
「!」
「はぁはふー」
陽斗は驚きで言葉も出ないといった風。後ろから押すとは、手で背中を押すことだと思っていたのだろう。というか普通そうだ。
(あぁ……陽斗様の背中暖かいっす)
澪の吐息が陽斗の首筋に掛かる。それは異様に生温い息だった。まるで身体中の熱気によって暖められたような。
陽斗は振りほどこうとしているが、全く身体を動かせていない。澪の雰囲気は掴んだ獲物を逃さない大型の肉食獣のそれだ。
「な、何を」
陽斗はかろうじてそれだけ絞り出す。
「修行は厳しくして欲しいってことっすから。こちらのほうが体重がかかっていいっすよね?」
我慢できないと言いたげに、はあと熱い息が形の良い唇から漏れでる。
「だからって――」
陽斗は最後まで言うことができなかった。熱にうかされたように自分の世界に入り込み、陽斗の言葉が聞こえなくなった澪が、前へ前へと体重をかけ始めたからだ。
「いくっすよ!」
「ちょっと待っ――」グキリともピキリとも聞こえる嫌な音が陽斗の股関節から鳴る。「――ぎゃあああああああ!」
陽斗の悲鳴も同時に上がった。
「ちょっと澪さん? 聞こえてます?! 痛い痛いギブギブ!」
そう言う間にも徐々に徐々に陽斗の上半身は前に倒れ、陽斗の手に重なる澪の手によって脚が開いていく。
澪が短いストロークで体重をかけるごとに、ムニョムニョと陽斗の肩甲骨の間で彼女の柔らかい胸が潰れる。
しかし普段なら意識するはずのそれに陽斗は気付けない。ただ制止を求める悲鳴を上げるだけだ。
既に澪に陽斗の言葉は届いていない。今までずっと我慢していたが、異世界で一つ屋根の下というこの状況。この機会に陽斗成分を摂取しておかないとという恋する乙女的使命感によって、澪の身体はつき動かされる。
彼はもはや悲鳴も上げることができないようだった。
そして澪の今の状態で適切な加減など出来るはずもなく、負荷はあっさりと陽斗の骨盤周りの可動限界を上回った。
ガゴンッ!
「あ」
身体からしてはいけない固いもの同士をぶつけたような音に、正気に返った澪が自らの失態に気付いて短く声を上げた。
見下ろせば脚を180度開いて頭を地面にめり込ませた主人の姿が目に入る。主人は死んだように動かない。澪は珍しく焦った声を張り上げた。
「陽斗様!」
痛みに耐えかねた陽斗は気を失っていた。
陽斗の無茶な体勢を戻して仰向けに寝かせる。そして患部であろう股関節に手を当てた。
「…………はっ」
数秒間考えていたことを破棄して、魔力の集中を高める。使うのは光属性の下から一番目の第九位階魔法。その名は――
「<治癒>」
澪の手に黄色い魔力の光が灯る。それは春の日差しを思わせる温かいものだった。
メイドは気を失った主人の顔が苦痛から安らいだものに変わったことに安堵してから、誰も聞いていない独り言を漏らす。
「あはは、失敗失敗……」
澪は陽斗の体の下に手を差し入れて持ち上げた。
陽斗は細身の女の子に易々と持ち上げられるような体重ではないが、まるで紙を持ち上げるように屈んだ澪はスッと苦もなく立ち上がる。
そしてスキップでもしそうな軽い足取りでログハウスへと帰って行く。
途中お姫様抱っこで抱えた主人の寝顔を見下ろして、ふふふと笑った。
「……まだ看病が必要っすよね」
■
「う……ん……」
新しくなったベッドでなかなか寝付けなかった陽斗の目が覚めたのは、死の柔軟から実に数時間が経過した後だった。食事をするのと同じソファーの上で寝かされていた陽斗の横から声がかかる。
「お目覚めっすか?」
「澪か……ああお目覚めだ……ってお前が気絶させたんだろう!」
瞬時に覚醒した陽斗がガバッと起き上がりながらツッコミを入れる。
「一気にやった方が痛みを長引かせるよりいいかなと思って」
澪が罪悪感など微塵も感じさせない声音で告げる。
「う」
それが修行だと言われると自分から厳しくしてくれと頼んだ手前、強く出れない。急激に勢いを鎮火させると幼馴染みに不満を言う口調で、
「だからって事前に一言くらいあってもいいじゃないか」
「でも……曲がるようになったっすよね?」
「えっ」
そう言われて脚を見下ろす。
「そういえば痛くない」
気絶する前の痛みは覚えている。それは生涯で一番と言ってもいいほどだった。
陽斗は窓の外に視線を向けた。
まだ外は明るい。腕時計を見れば十一時を指している。トレーニングを始めたのが七時頃だから約四時間が経過していることになる。
先程の痛みは数時間かそこらで治るものだったろうか。
陽斗は思い出す。
(いや違ったはずだ。ただの時間経過で治るくらいの痛みだったら気絶なんてしないはずだ……たぶん)
痛みに慣れている訳ではない陽斗だが、少しくらいなら耐えられると思いたい。というよりもちょっとの痛みで気絶するなどあまりに情けない。
陽斗は内心、大したことない怪我だったと言われませんようにと願いながら訊ねた。
「無理な開脚前屈で坐骨骨折、筋肉の炎症によって神経にも影響があったようだったっすから治癒の魔法で治したっす」
「おいおい……」
想像以上の重症だったことに、既に治っていることだとはいえ顔を青ざめさせる。
「問題ありません。全て計画通りです」
しれっと嘘で誤魔化そうとする澪。尤もわざとらしく丁寧語になっているので、もしかしたらあまり隠す気はないのかもしれない。
ジトっと陽斗が澪に疑いの目を向ける。澪は慌てて弁解する。
「ち、超回復を狙ったんすよ! 大負荷を掛けてから治癒の魔法で治すことで、短期間での効率化を図ったんす」澪がスッと目を逸らす。「……ただこの方法は危険もあるみたいっすからもう止めておこうかな~」
「あー! いま目を逸らしただろ! その設定絶対後付だろ。そうなんだろ?!」
「そんなことはないっす。私が陽斗様に嘘をつくはずがないっす」
その後もやいのやいのと、口喧嘩はヒートアップを続ける。不毛な言い争いは三〇分も続いた。
(人選間違えたかもなあ……)
しかし頼れるのは澪しかいないのも事実。
なんとなくこの先の特訓に嫌な予感を覚えながら、陽斗は重たい溜息を漏らした。
澪に悪気はありません。