第30話「ハルト覚醒 ――斯くて王は異世界に降臨す―― その1」
王
薄暗い倉庫の中、陽斗と澪の二人は20人を相手に大立ち回りを演じていた。
澪の動きに慣れた陽斗は、それに比べるとかなり緩慢に感じる盗賊の攻撃を躱し、剣で切り捨てる。
一方の澪は陽斗の死角をカバーするように、氷の棘で一人また一人と危なげなく順調に屠っていく。
盗賊たちはようやく澪との実力差に気付いたようだ。
最初の標的を彼女に定めるべきかと迷っているようで、手を出しあぐねている。
やがて戦闘が開始され十数分が経過し、陽斗が二人、澪が三人の盗賊を倒したところだった。
「――ピュイィイイ!」
澪の耳にドラゴンのヒナと思しき鳴き声が届く。
ソフィーがついに倒されたのかと考え至り、陽斗に一旦下がってもらってでも、ここは一気にケリを付けようと彼に声をかけようとした。
「ご主じ――!」
振り返った澪の眼に信じられない光景が映る。
視線を向けた先で陽斗が胸を抑えて蹲っていたのだ。
一瞬澪はヒナの鳴き声で隙を突かれ、陽斗が攻撃を受けたのかと心臓が止まりそうになる。けれどもすぐに違和感に気づいた。
陽斗を中心に――澪でなくとも――視認できるほどに、濃密な火属性の魔力が渦巻いている。さらに陽斗の黒髪が血を撒いたように鮮烈な紅色に染まっていた。
強烈な違和に時が止まったかのように、その場の誰も動けない。
が。
やがて主の明らかな異常事態に止まりかけていた澪の思考が戻ってくる。
自分が対処しなければならないと思ったからだ。
「陽――」
斗様! と駆けつけながら一度は隠そうとした名前を続けようとしてしまったが、それは主のかざされた手によって制される。
ただそれは名前を言うなという意味ではない。
「心配するな」
「えっ……は?」
今まで聞いたことのないような威厳めいたものを滲ませている陽斗の声に、澪の思考は再び一瞬の空白を迎える。
困惑に揺さぶられている澪の前で、陽斗はゆっくりと立ち上がった。胸を抑えた時に前留がはずれたのか、外套が肌蹴て虹高の制服が露になっている。
「心配するなと言ったのだ、澪……俺に同じことを三度も言わせる気ではないだろうな」
立ち上がった陽斗の表情を見た澪に、ビビビッと身体中を電流が駆け巡る。
冷たく盗賊たちを眺めている陽斗の紅く染まった瞳は細められ、澪には向けられていない。しかし陽斗はこの場全体を視界に収めて、上から見下ろしているかのような威圧感を放っていた。
澪はすぐさまその場に跪く。そうした方が――いや、そうしなければならないと思わされる程に、今の陽斗は絶対的王者の雰囲気を漂わせていた。
澪の奴隷根性がそれに拍車をかけたことは間違いがないが。
「はっ! 申し訳ありません」
陽斗は澪の謝罪を受け入れ鷹揚に頷く。そして片足を後ろに軽く振り上げると地面を踏みしめた。
それだけで倉庫全体が地揺れのように震える。見れば陽斗の足元は落ち窪み、そこから蜘蛛の巣のような無数の亀裂が走っている。
この間陽斗たちの敵である盗賊たちは一歩も動けないでいた。陽斗の圧倒的な魔力に身体が金縛りにあったように動けなくなっていたというのもあるが、陽斗と澪の芝居じみたやり取りに呆気にとられていたのだ。
盗賊たちを歯牙にも掛けずに陽斗は自分の目的を宣告する。
「さて……俺は傷めつけられた部下の借りを返しに行かねばならない。それには少しばかり……」陽斗は盗賊たちを睥睨する。「有象無象どもが邪魔だな」
陽斗は盗賊たちを見ているが、その言葉は彼らに向けられたものではないように澪には感じられた。ただ自分にとって邪魔なだけであり、事実を呟いたにすぎない。まさに雑魚など眼中にないと言わんばかりの態度だ。
「澪」
「はっ」
「道だ。あそこまで――」陽斗は奥を指差す。「俺に相応しい道が必要だ」
「畏まりました」
陽斗に支配されることは澪にとって積年の夢。澪の思考は停止し、ただ陽斗の威光に服し、命令に従う。この仕えるべき主人の命令に従っていられることが幸せだったからだ。
澪は陽斗に組み敷かれたにも等しい感覚にゾクゾクと身体を歓喜に震わせながらも、それを気取らせることなく立ち上がる。
そして手を向ける。変化は一瞬。
そこには氷でできたトンネルが陽斗の前から扉まで一直線に出来ていた。
男たちの表情に恐れと驚愕の色を作り出した澪は、これくらい当然と言外に示し、目を伏せて次の指示を待つ体勢をとっていた。これだけのものを創りだしたというのに息一つ乱していない。
陽斗は満足気に軽く顎を引くと、その中を潜り始めた。
「澪、ここは任せた」
「はっ」
平素の澪ならこの状況で陽斗と別行動をすることを良しとはしなかっただろう。しかし今の澪は陽斗を送り出すことに何の不安もなかった。何が何だかまだ良く分かっていなかったが、今の陽斗が負ける姿は想像できない。
澪は従者の姿勢を一ミリも崩すことなく、悠然と歩く陽斗を静かに見送った。
やがてトンネルを潜り終えた陽斗がバタンと扉の奥に姿を消す。
「……さてとっす」
澪は膝に付いた汚れを払いながら立ち上がった。
ライギェン――盗賊たちの副リーダーでバンダナをした男――の恐怖に狂ったような悲鳴が一同の耳をつんざく。
「な――何だよ! 何なんだよォ! あれは?!」
ライギェンの問いは澪の創りだしたトンネルのことも含まれていたが、陽斗のことしか頭にない澪には伝わらなかった。
そして陽斗のことについては彼女もまた、分からないことだらけなので肩を竦めるしかない。
「私にも何が何だかっすよ」
そう本音を吐露した後、澪はパチリと指を鳴らした。盗賊たちを二分し、王を通して役目を終えた道は砕け散る。
その光景は圧巻の一言に尽きた。長い道を作り出していた氷が片側からドミノ倒しのように砕けていき、キラキラと氷の破片が舞い散る。
その光景を作り出した少女。それはこの場にいる男たちにとって、絶対的王者の雰囲気を纏った陽斗に次いで第二の王の登場に思えてならなかった。
――氷の女王。
幾多の宝石を空から身に散りばめて着飾るこの世のどの国の女王、王妃にも勝る美の化身だ。
しかし当の澪は砕け散った物に用はないと、気の抜けるような口調で次の言葉を紡ぐ。
「……まあでもっす。主人に名前を呼ばれて『ここは任せた』と言われたんす。なら黙ってそれを遂行するのがメイ――部下の仕事っすよ」
澪はメイドと言いかけたのを陽斗の言葉を思い出して訂正する。
そして言い終えた澪の目には、口調とは裏腹に強い意志が籠められていた。
そこにあるのは絶対的な忠誠。澪の眼が孕んだ狂気に――彼女は一歩も動いていないにも関わらず――男たちの誰もが後退る。
澪は一撃で片を付けようとして、ふとさっきまで陽斗が立っていた辺りに転がっている男たちの仲間を見下ろした。
陽斗が覚醒するまでに斬った男は二人。彼らは派手に血を流しているものの、まだ息があった。
「やはり陽斗様はまだ人を殺すのに躊躇いがあるみたいっすね。ならその意を汲んで私も半殺し程度に留めるべき……」
男たちはこの絶対的な死の予感の中に一縷の希望を見た気がした。
まさに気がしただけだったのだが。
「……なんて言うと思ったっすか?」
ゾクリと男たちの冷や汗が滝のように落ちる背中に、さらに氷を入れられたように寒気が走る。いっそそれは目の前の美しい人間の少女からは感じるはずのない、化物に相対した時にのみ覚える怖気と言っても過言では無かった。
「陽斗様ができないと仰るのなら、世界の闇の深さを知らないと仰るのなら……この澪が標となって教え導く。それが私の仕事であり喜びなんす。……陽斗様に剣を向けた報い……」澪が刃のような視線で盗賊たちを射竦める。「受けてもらうっすよ」
「ヒ……ヒイイ!」
恐怖が臨界点を突破した盗賊たちは、手をかざした澪から少しでも離れようと倒けつ転びつ這々の体で逃げ出す。
しかし逃げ出した者から順に澪の魔法に囚われていった。
「〈氷母の棺〉(マザーズ・コフィン)」
澪は第三位階に位する大魔法を唱える。
澪に背を向けて逃げる盗賊の前方に影が立ち上がった。
上部は優しげな女性の顔を象られ、身体の部分は棺のようになっていた。
棺の蓋がパカリと口を開け、子どもたちを誘う。逃れようとしても中から伸びてくる水の手が男たちを捕まえた。水の手は触れた部分を凍りつかせて彼らを離さない。そして抱擁するように棺の中に引き摺りこんでいく。
「イヤ! イヤだぁ! し、死にたくない! た、助けてくれぇ!」
「ひゃああああ!」
「もがぼごぼごっ」
中には水の手が顔に張り付き既に息のできなくなっている者もいた。
氷の棺は子どもたちを中に迎え入れると蓋を閉めて逃さない。ただしアイアンメイデンのように蓋の内側に棘はない。
――一瞬で死ねる……そんな優しい魔法ではないのだ。
中に閉じ込められた男たちは徐々に徐々に身体を刺すような冷たい水に浸していく。
そして首まで浸かったところで棺の内部に氷柱が生えた。氷柱は男たちの首筋や手首、腿などの血管を傷つけて抉る。
すると内部に満たされた水が物凄い勢いで盗賊たちの血を吸い上げて紅く染まっていった。いつの間にか聖女のようだった棺の顔が、口から牙を覗かせる凶悪なものに変わっている。
中から「出してくれ!」と棺を叩く音は次第に弱まっていった。動けば動くほど血は流れだし、身体の中から凍らされていくような感覚に侵されていき、やがて必死の声は聞こえなくなる。
倉庫内に耳が痛いほどの静寂が訪れた。
そんな中最後まで逃げ出さなかったライギェンだけが、目を見開いて立ち尽くしている。
「……第三位階魔法……だと!? それも王族によって詠唱を闇に葬られた禁呪じゃねえか……いったいどこで……」
陽斗の魔力暴走に阻まれて詠唱の説明が途中だった(第5話参照)。
『魔法というのはすなわち詠唱である』。これは何も先に説明したように、魔力の放出やイメージの構築に役立つといった補助的な意味ばかりではない。
結論から言うと魔法には対になる詠唱が必ずあり、故に秘匿が可能である。
魔法は個人が好き勝手に開発できるような自由なものではなく、雛形が決められている。誰が定めたかはわからない。神と呼ばれる存在かもしれないし、創世神話に語られる虹竜かもしれない。
分かりやすく言うと魔法使いはインデックスとでも呼ぶべき全ての魔法が記されたデータベースの中から、詠唱という検索キーで欲しい力を特定、イメージと魔力によって現実の世界に構築している。
無詠唱の使い手であっても、まず一度は詠唱を唱えて世界にその魔法を使う許可を貰わなければならない。詠唱は世界に魔法使用の許可を求める祝詞であり、契約文でもあるというわけだ。『魔法とはすなわち詠唱である』というのはこういうことだ。
ちなみに魔法が先か詠唱が先かというのは学者たちの永遠のテーマである。
この場において最も伝えたい事は、詠唱を隠すことによって魔法は隠蔽できるということ。
澪が使った第三位階魔法〈氷母の棺〉は遥か昔にセブリアント王家によって禁呪指定されており、現在では水の国の王族にしか詠唱が伝わっていないはずなのだ。
それを澪が使う。これは本来ありえないことであり、故にライギェンが驚愕したというわけである。
喘ぐように零れ落ちるライギェンの言葉を聞いた澪は口元を綻ばせる。
これから死にゆく男を嗤ったのではない。これが禁呪だという情報を得られたことに感謝しただけだ。
ただし本来ならば敵に向けられるはずのない笑顔の代価は高い。花が咲いたように可憐な表情を見た敵対者に待ち受ける運命は、死しかありえなかった。
ライギェンの傍らでギィィという錆びついた扉のような乾いた音がなる。男の足は逃れなくてはという意思に反して、地面に縫い止められたように動くことはなかった。
バタン! と棺が閉まり、ライギェンも他の者達と同様に吸血の運命をたどる。
血を吸い上げられた盗賊たちは紅い水の中で次に身体を凍らせていく。そうして出来上がったものは人間ではなくモノ。一つの紅く染まった氷塊だった。
男たちは氷母に抱きとめられ一つになったのだ。
そして氷となったならば、それは澪の支配領域。
澪が指揮者の手つきで腕を振るう。
すると棺は一斉に砕け散り、紅い氷の華が咲かせた。
数秒後、そこに男たちがいたという形跡は微塵もなかった。
「陽斗様と同じ色っすね……」
澪は先程の陽斗の姿を思い出すと、股間の辺りから全身を巡るように背筋がブルッと震えた。
陽斗の真紅に染まった髪と眼。それに支配者の風格。
「あれはカッコ良かったすねぇ……そういえば」
自分は初めて人を殺したというのになんとも思わない。道の上を歩く蟻を踏み潰しそうになった時の方がまだ心が動いていた。
「陽斗様の為だからっすかね」
褒めてもらえるかなと思いながら澪は奥の扉へと――陽斗の下へと機嫌良さそうに足を浮かせて歩き出した。