第2話「転移 ――その後――」
瞼の裏で目が眩むような光が消えていることを感じた陽斗は、ゆっくりと目を開ける。
しかしそこはまだ暗闇の世界だった。
(どういう状況だ? 確か急に足元が光り出して……)
陽斗の最後の記憶は、澪が初めて見せる切羽詰まったような顔。そこまで思い出した時、暗闇が身じろぎしたように感じた。いや――
「澪か?」
目に映る闇は屈んだ陽斗を、誰かが覆いかぶさるように抱えて出来たものだった。状況的に考えて澪しかいない。つまり陽斗の視界いっぱいを覆い尽くしているのは、澪の制服ということになる。
「はいっす」
肯定の返事は頭の上から返ってきた。陽斗は顔に押し付けられる柔らかい感触の正体を悟り、それを努めて無視しようとした。
「は、離れてくれるか?」
無理だった。
声が裏返り心の内の動揺が手に取るように分かる。顔が赤くなるのを感じるが、それが澪に見られないことに安堵した。
左右を見渡したのだろう。首の動きに合わせて澪の身体がさらに押し付けられる。
(無心だ……無心になるんだ……ああくそっなんでこんなにいい匂いがするんだ)
ドクンドクンと鳴る心臓の音がうるさい。身体に血液を送る重要な器官だが、今だけはその機能が恨めしい。身体の中心に血が集まるような感覚――を覚える前に澪の身体が離れる。
今更に押しのければ良かったのかと思い至るが、思い至ったとして思春期の少年に果たしてそれができたかどうか。
惜しいような気がしなくもないが、陽斗にも異常事態が進行中だということが分かる。そんな場合ではないと首を振った。やがて暗闇に慣れた目が周囲の景色を捉える。
窓から差し込む月明かりがどこかの建物の内部だと教えてくれた。周囲の壁は丸太が剥き出しで使われており、床も天井も全てが木材でできている。
「ログハウス……?」
どう見ても、虹ヶ丘高校の校舎の中の一室には見えなかった。
「……のようっすね」
「ここはどこだ? 澪が連れてきたのか? ドッキリ?」
「落ち着くっすよ」
忙しなくキョロキョロと首を振っていた陽斗は、澪の言葉に動きを止める。それで陽斗は自分が相当に動揺していたのだと気付いた。
大きく息を吸って吐く。
「……悪い。みっともないとこ見せちまったな」
「この状況なら仕方ないっすよ。……それより」
澪はバッと勢い良く膝をついた。女子高生とは無縁のはずなのに、まるで臣が王に忠誠を尽くすかのように、片膝を立てた姿は何故か様になっている。
「なっ何してんだよ?!」
澪は陽斗の質問を意図的に無視して答えた。
「臣下にあるまじき今までの無礼をお許し下さい」
「……なに言ってんだ? 本気で訳がわからないぞ」
気がついたら知らない場所にいて幼馴染みに傅かれる。陽斗の脳みそは疑問符でパンクしそうだった。
「これまでは大袈裟にしすぎますと、いらぬ耳目を集めるかと思いましたので礼も最低限に留めてまいりました。しかしこの世界に来てしまったのなら、そういう訳にも参りません」
澪の雰囲気に、知らぬ場所に連れて来られたような困惑の色はない。しかしその声音は平素の通りとは決して言えない。
いつも彼女が「陽斗様」と呼ぶ時は、メイドロールを楽しむというか、戸惑う陽斗をからかうような雰囲気を漂わせている。けれど今の抑揚のない平坦な声は、本物のメイドが主に向けるもののようだ。
(澪の実家のメイドさんみたいだ……これも演技?)
陽斗の混乱は深まるばかりで、目の前の少女に立ってくれと言うことも忘れて訊ねた。
「ここがどこだか知っているのか?」
「……確証はありませんが……少々お待ちください」
そう言うと広い部屋内にいくつかある扉の一つに近づいていった。澪は閂を外すと慎重に扉を開ける。
そして辺りを伺って安全を確かめると、陽斗を手招きで呼び寄せた。
陽斗が外に出ると、このログハウスがどのような場所に建っているのかが分かった。
森だ。視界に入るのは土を枯れ葉や木の実などがコーティングした地面。それから多数の樹木だ。木と木の間隔は広く、間から青白い月明かりが差し込んでいる。一種幻想的な光景だった。
「綺麗だな……ん?」
陽斗は自然が織りなす景色におかしな点を見つけた。初めは木の葉を通すことによって、月明かりが青く見えているのだと思っていた。しかしそれにしては青すぎる。
「陽斗様、上をご覧ください」
彼女は陽斗の抱いた疑問を正確に読み取ったわけではない。澪は初めから彼に森ではなく、空をこそ見せたかったのだ。
「――なっ!?」
声に釣られるようにして天空を仰ぎ見た陽斗は絶句し、まるで金縛りにでもあったように驚き以上の言葉を紡ぐことが出来ない。
ブルームーンという言葉がある。満月を指す言葉だが、極稀に本当に青白く見えることがあるそうだ。
だから月が青いのはいい。理解できる。
――じゃあ月が二つあることは?
見間違いかと思った。疲れか何かで視界がぼやけているのかとも。しかし目をこすってみても頬を抓ってみても、大小仲良く並んだ月は消えてはくれなかった。
目も口も皿のようにして固まっている陽斗の横で、澪が静かに呟く。
「確信が持てました。ここは私たちがいたところとは違う世界――異世界です」
言葉の意味がじんわりと染みこんでくると、陽斗は足元を頼りなくふらつかせて乾いた笑いを上げた。
異世界? 何だそれは、である。
■
気が付くと陽斗はソファに腰掛けさせられていた。目の前にあるテーブルの上には湯気を立てたティーカップが置かれている。
「……澪」
「陽斗様っ」
背後に控える聞き慣れた澪の声が陽斗に活力を与えてくれる。これで澪まで取り乱していたら気が触れていたかもしれない。それとも自分がしっかりしなくてはと奮い立ったか。
「とりあえずそこに座ってくれないか」
「失礼します」
「……はは、そんな目で見るなよ。もう大丈夫だ。悪かったな心配かけて」
澪が小さく首を振る。
「……それで聞かしてくれるか? 澪の知っていること全部」
「もちろんです」
凜は何から話すべきかについて僅かに悩む。
それを見て取った陽斗が先に口を開いた。
「悪い。全部って言われたら、そりゃどこからどこまでか分かんねえよな。俺の質問に答えてくれるか?」
「仰せのままに」
これだ。最初に目につく疑問といえば、この澪の異常なまでの慇懃さである。が、陽斗はひとまずそれを口にすることなく飲み込んだ。
陽斗の記憶力が澪の一言一句を違わずに思い出させる。
(凜はさっきなんて言った? 『これまでは大袈裟にしすぎますと、いらぬ耳目を集めるかと思いましたので礼も最低限に留めてまいりました。しかしこの世界にきてしまったのなら、そういう訳にも参りません』だ)
これは澪のメイドのロールプレイ――だと陽斗は思っていた――は、異世界に来たことをトリガーにして、丁寧さを深めたと読める。ならば大前提である『この世界』について訊ねたほうが、効率よく話を聞けるはずだ。
と、陽斗は自分が冷静さを取り戻していることを確認してから、質問を開始した。自分でもバカバカしいと思える質問を。
「まずどうしてここが異世界だと分かる? 確かに月は二つあった。でもそれだけで、異世界だとは断定できないはずだ。もしかしたら地球上の何処かに、月が二つに見える地域があったのかもしれない。
それか……これはあまり信じたくないが、ここが地球とは違う星だとか。そういう可能性はないのか?」
「確かに後者の可能性は否定できません。しかし前者ならば違うと断言できます」
陽斗は続けてくれという意志を込めて無言を返した。
「まず私たちはいずれこのような事態が起こることを予期していました」
陽斗の目がスッと細くなる。どういうことだと聞こうとして、澪の言葉に違和を感じ、考えこむように顎に手を持っていく。
「いや……そうだ……私、たち?」
「お察しの通り、水野の家とそれから陽子様と和斗様もです」
二人の名は陽斗の両親のものだ。ふと小さいもう一人の家族を思い出すが、あれが知るわけはないだろうとすぐに忘れる。
「母さんと父さんも……このような事態ってのは俺たちがこの――もう異世界でいいか。この異世界に飛ばされるってことでいいのか?」
「そうです。しかし異世界転移は陽斗様だけのはずでした。私はくっついてきたというわけです」
「俺だけが狙われたっていうのか? 何のために?」
美少女でお嬢様な澪ならば、誘拐という理由で許せはしないが納得はできる。
だが陽斗に自分が狙われる理由の心当たりはない。
そう言うと澪はこの件に第三者は関係していない、事故のようなものだと述べた。
「厳密に言うと、陽斗様の直系の子孫でいつかこの異世界転移が起こるはずでした」
続く「……陽斗様の代で起こることはないって結論だったはずっすが。これはいったい……」という呟きは、陽斗の耳には届かなかった。
「子孫って?」
「もともと虹乃家の方と水野家の祖は、この異世界に暮らす人間でした。それが陽斗様の先祖であられる方が受けた呪いによって地球へと転移させられ、帰還することができなくなっていたのです」
陽斗は瞠目して言葉が出なかった。生粋の日本人だと思っていたら、国どころか違う世界の血が流れていたのだから。もはや一生分驚いたと言ってもいいくらいだった。
それでも驚いてばかりもいられなかった。ここが異世界なのだとしたら、帰る方法か、それがすぐには無理だと言うのなら帰るまでの食料を確保しなければならない。ことは命に関わってくる。
「……それがここが地球ではないという根拠?」
「もう一つあります」
――一生分驚いた。
残念ながらそれは甘い見通しだったと言わざるを得ない。彼女の言葉はさらなる驚きを陽斗にもたらしたのだから。
「この世界には魔力――魔法の力が空間に濃密に溢れています。これは地球ではありえない濃度です」
「――なんだって?」陽斗は耳に指を突っ込んで、何も詰まっていないことを確認してから頼んだ。「すまんもう一度言ってくれないか?」
答えは簡潔に、明瞭に行動で返ってきた。
「燈火」
上に向けた掌に直径10㎝くらいの光球が現れ、天井付近まで飛んで行く。
一連の現象を目で追っていた陽斗は酸欠に喘ぐように、開いた口から掠れた言葉を絞り出す。
「ま……ほう?」
魔女はクスリと妖艶に微笑んだ。
「ちゃんと聞こえていたのではないですか」
陽斗はそのしてやったりという笑みを見て、ガクリと肩を落として色々と諦めた。いちいち驚いている自分が馬鹿みたいに思えたのである。
「はぁー……まあここが地球じゃないというのは分かったよ。現実逃避ばかりしていてもしょうがないしな」
「お分かりいただけたのなら何よりです」
「……それで? 澪のその従者然とした態度は俺たちのご先祖様のこの世界での関係に拠るものなのか?」
「ご賢察の通りです。といっても陽斗様のご先祖様に傅いていたのは私の先祖ばかりでもないのですが」
「なんだ、そんなに偉い人だったのか?」
「王族でした」
「ぶっ」
陽斗は疑うように目を細めるが、澪の目にからかいの色はない。
「……マジ?」
「マジです」
陽斗は「王族……王様……」とその言葉で想像しうるありとあらゆるものを考えた。
「――あー分かんねえ。俺は俺だ。それに王族っつったって過去の話なんだろ? だったらもう関係ないな。だから澪、その背中がむず痒くなる態度は止めないか? ……ってこれいつも言ってることだな」
――昔の王族のことなんて関係ない。
そう言っていられるのは、今のうちだけというのをこの時の陽斗は知らない。彼にとっては異世界転移の呪いより、よっぽど呪いというに相応しい能力が受け継がれていたのだから。
ただ今はそれは発動されない。まだ条件が整っていない。
「……そういう訳には参りません。転移させられた水野の祖の時代から、『受けた恩義は当代で返しきれるものではない。唯一末代まで忠義を尽くすことで、御恩に報いることができる』、と厳しく教えられてきたので」
昔の人には昔の人の流儀があり、それにケチを付ける気は毛頭ない。ないのだが、
「あー、せめてこの世界に来るまでの水準に戻すとか」
陽斗にとっては迷惑でしかない。
澪は顎に手を当てて考えこむ素振りを見せ、そしてニコッと笑った。
「陽斗様がその方がいいならそうするっすよ」
明るい口調のお陰で、雰囲気が元の世界にいた時に近いものに戻る。
陽斗はホッと息を吐いた。ずっとこの調子だと息が詰まりそうだったからだ。
でも様付けは変わらないんだなと、頭をポリポリと掻き、
「じゃあ一番大事な質問だ」陽斗は表情を真剣なものに変えて言葉を続ける。「……俺たちは帰れるのか」
「いくつか条件の面でクリアしなければならないものがあるっすが」澪は気楽な口調だがそれでも力強さを感じさせる声で、「……必ず」
「……」
澪は感情を隠すのが上手い。それゆえに浮かべられた表情から、嘘などを読むのは難しい。驚くといったことでさえめったに表情には出さない。いつだって「分かってたっすよ」と言わんばかりの余裕の笑みを浮かべている。
しかし幼馴染みとして10年間も一緒に過ごしてきた陽斗は違う。彼女の微妙な表情の変化も――気をつけて見ればという但し書きがつくが――読み取れる。
そして目の前にいる少女が陽斗に心配をかけまいとしている訳ではなく、真実として帰れると言っていることを察した陽斗は、異世界に来て初めてニヤリと不敵な笑みを見せた。
「じゃあ帰るために何をすべきか教えてくれ」
一転、澪が真顔になる。
彼女は首筋と背筋に鳥肌を立てる。陽斗のその表情に隠れる、上に立つものの雰囲気を鋭敏に感じ取ってゾクゾクしてしまったのだ。
歓喜で緩みそうになる頬を鋼の意志で押さえつけて、代わりに行動でそれを表した。
「イエス、マイロード」