第1話「プロローグ ――転移――」
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胸を抑えてうずくまる陽斗から、巨大な火属性魔力の塊がほとばしる。
可視化されたそれは質量を持ったように、その場にいる敵対者を上から押さえつけ、微動すら許さない。
また、胸留の外れた外套が強風に煽られたように、陽斗の肩で翻っているのがその証明だ。
陽斗はゆっくりと立ち上がる。
その起立は同時に王の降臨でもあった。
異世界で再び名を轟かせる全属性持ち――『虹』。
陽斗は紅い髪を揺らし、燃える眼を開く。
その視線は敵対者の反抗心を焼きつくす。
「澪、ここは任せた」
陽斗は己の部下に、この場にいる敵対者を始末しておけと命令する。
その口調は己に従うことを微塵も疑わない者のそれだった。
事実、その部下は二つ返事で陽斗の命令を了承する。
陽斗は歩き出す。
圧倒的強者の空気を纏い、古ぼけた外套すら見る者を王のマントに錯覚させながら。
絶対支配者――そんな言葉が今の陽斗には相応しいだろう。
ただ――。
それが陽斗の本来の意思から出る言動かと言えば、それは違った。
本来の陽斗はふてぶてしい態度こそとるが、頭ごなしに誰かに命令するような心臓に毛が生えた性格はしていない。
しかし急に――そう急に気が大きくなり始め、こういう態度をとらなければいけない気がしたのだ。
背筋を伸ばし、軽く顎を引いた姿勢はまさに貴人といった雰囲気。
そうした歩き方も普段の陽斗とは違う。
(止まれ止まれ止まれ~~~! なんださっきの命令口調は?! 絶対澪引いてるよ! 恥ずかしい! こんな悠長な歩き方しないだろ俺! なんなんだよこれは! どうしちまったって言うんだよ俺はああああああああああ!)
別の人格が乗り移ったとかではない。これは――この言動は紛れもなく陽斗自身がとっている。それが分かってしまうからこそ、余計に恥ずかしかった。
しかしそうした内心とは裏腹に陽斗の足は意思に反し、動きを止めてはくれなかった。
――斯くて王は異世界に降臨す。
■
うららかな陽気の続く五月の初旬。
ゴールデンウィークが明けたばかりの教室は、授業中の静寂な雰囲気を保ちつつもどこか弛緩した空気を漂わせている。
教師の説明とチョークの伴奏を子守唄代わりに、船を漕いでいる生徒もちらほらと見られる。
そして窓際最後尾の席にも、授業そっちのけで惰眠をむさぼる生徒がいた。あろうことか机に突っ伏している。その姿勢に眠気をこらえる気がないことは一目瞭然だった。
そんな窓から差し込む光を浴びたぼさぼさ髪を教師に見せる少年の名は、虹乃陽斗。
カッカッと小気味よい音を鳴らしながら、生徒に知識を授ける国語担当の里枝教諭は、ふいに身体を生徒たちの方へと向けた。教卓の上のクラス名簿に目を落として生徒を指名する。
「じゃあ次のところを虹乃……おい虹乃!」
30を迎えたばかりという男盛りの大声が教室に響く。最前列に座る生徒は耳を塞ぎたそうにしていたが、それでは教師になんと言われるか分からない。結局僅かに顔を顰めただけに終わる。
教師につむじを見せ続けていた陽斗は、里枝教諭の声に身体をビクリとさせて飛び起きた。
「は……ふぁい!」
「ふぁいじゃない! ……ったく。45ページの始めからだ、読みなさい」
ようやく顔を教師に見せた陽斗。顔立ちはそこそこ整っているが、イケメンかというと10人中6人くらいは否定しそう平均顔だ。黒髪黒目の標準的な日本の少年というのが妥当な評価であろう。
さて教師に教科書の音読を命じられた陽斗であるが、授業の始まる前には既に寝入っていた彼は、机の上に一点の勉強道具も出してはいなかった。筆記具はもちろんのこと、教科書は言わずもがな。
しかし彼はその状態で口を開き始めた。
「雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音を集めてくる――――」
陽斗はそのまま教科書の三ページほどを諳んじてみせた。
文章がキリの良い所に差し掛かると、里枝教諭の「そこまででいい」という苦々しい静止の声を聞いて、陽斗は閉じていた目をそっと開けた。
陽斗の瞳に里枝教諭の複雑な心中を表したかのように、僅かに歪められた顔が飛び込んでくる。
「あいっかわらず記憶力だけはいいなあ……ったく。それでも授業は聞いとけよ。解説の内容も試験に出すからな」
それだけ言うと、里枝教諭は陽斗から視線を外して全体に向けて話しだす。
陽斗は着席して数分もしないうちに、陽気に当てられて重くなったまぶたに抗うことを止めた。
それを教師の勘か背中越しに察した里枝教諭のこめかみに、ピキリと青筋が浮かび上がる。
「虹乃ォ!」
体育教師も顔負けの敏捷性に富んだ素早い動きで、陽斗を射線に捉えた里枝教諭のチョークが撃ちだされた。
■
放課を告げる鐘の音が響く。生徒だけになった教室が俄にざわめきだす。すると荷物をまとめている陽斗の前で、一人の女子生徒が席を立ち振り返った。
「陽斗様っ」
「澪か……さっきは助かったぜ。お前が掴んでくれなかったら、絶対チョーク喰らってた。それと様はやめろって何回も言ってるだろ」
先程投げられたチョークは前の席に座っていた澪が掴んで止めてくれたのだ。
陽斗の礼と諌めの言葉に対して、彼女はなんでもない事のないように首を振る。そしてニコリと大輪が綻ぶような笑みを浮かべ、親指で里枝教諭が出て行った扉を指す。
「あの教師クビにするっすか?」
「おいっ!」
親指で首をクイっと切る仕草が妙に様になっている。
一生徒が決められるはずもない教師の進退について、過激な発現をした少女の名前は水野澪。
セミロングの髪を耳の上でサイドテールに結んだ明るい栗色の髪と、大きな瞳が明るい印象を見るものに与える。形の良い眉にすらっとした鼻筋、薄く朱い唇。神の如き造形で、一つ一つのパーツが黄金比率そのままの位置に配置されている。
常に腰に巻いているポーチが彼女のトレードマークだ。あれを手放しているところを陽斗は見たことがない。
彼女に他に何ひとつ勝てない女子生徒が、極稀に胸部をさして「水野さんってスレンダーだよね~」と言うことがあるが、そこに僻み以外の感情が見えたことはない。確かに同年代の平均よりは薄いかもしれないが、彼女の美しさを損なう欠点足り得ない。
澪は紛れもない美少女である。
その美貌だけで将来を約束された澪が、冴えない陽斗を敬称を付けて呼んだ。
陽斗と澪の関係はといえば、一言でいうと主とメイド――主従関係というのが適切であろう。だがそれは澪が一方的に言っているだけで、陽斗は黙認すらしたことはない。いつだって否定しているのだ。
その甲斐あってか当初こそ話題を集めたものの、入学から一月が経過した今となっては教室内に誰ひとりとして気にする者はいない。
「前から言ってるけど澪は過保護すぎんだって。里中さんクビにすんなよ。いい先生なんだから」
居眠りしていた生徒に褒められても、本人には皮肉にしか聞こえないであろう。
澪は黙して一礼した。伏せられた表情にどんな感情を浮かべているのか。見えないゆえに本気だったのか、あるいは冗談だったのか掴みどころがない。
そして陽斗が澪に念押ししたのは、彼女の母親が彼等の通うこの「私立虹ヶ丘高等学校」の経営者であるからだ。
澪の家はいくつもの分野で成功を収めている「Aquaグループ」を持つ、超のつく資産家一族だ。そしてそこの一人娘の澪はいわゆる「お嬢様」である。
しかし陽斗の家は良くも悪くも普通。親は父がサラリーマンで、母は旅行が趣味の専業(?)主婦。
陽斗と澪の実家(虹が丘高校は全寮制なので、既に一月程帰っていない)は隣同士だが、規模は月とスッポンだということは言うまでもないだろう。
もっとよい立地があったのではないかと陽斗は物申したい。
「澪ちゃん、バイバ~イ」
「また明日ね~!」
澪が陽斗を待つ間、一組のほぼ全ての女子生徒が別れの挨拶をしていく。
気さくで美少女な澪が、クラスの人気者になるのは小学校のころからの既定路線だった。さらに澪の可憐さは上級生にまで広まっており、高校に入ってからされた告白の回数は二桁に達している。
陽斗が寮に持って帰る荷物をバッグに詰め終え、二人は連れたって教室を出た。澪は陽斗の半歩後ろをさも当然のように歩いている。その位置こそが正しいと言わんばかりに。
もう一度言おう。澪が主張する陽斗と彼女の関係は、陽斗が主で澪が従の関係だ。
――どうしてこうなった。
陽斗は幼いころから何度となく頭を悩ませてきた疑問を、改めて思い浮かべながら歩みを進めている。今向かっている先は寮ではなく部室だ。
陽斗は肩越しに自称メイドをチラと見る。
幼少の頃から澪は出来る限り陽斗といようとする。メイドとして当然のことだというのが彼女の主張だが、本当のところは分からない。ここまでくると澪がその献身的精神の他、カチコチの敬語や態度を使わないのは彼にとっての救いである。
陽斗は、はあと心のなかでため息を付いて足を止めた。
部室の扉の前に着いた陽斗はポケットから鍵を取り出して開け、ガラガラと引き戸を引いて中に入る。
部室の中に先客は誰もいない。それもそのはず。陽斗と澪が所属するこの「クイズ研究部」は二人だけしか部員がいないのだから。
(部員欲しいよなぁ)
虹が丘高校は地方中小都市である奈名市に建っており、広大な敷地面積と数多くの校舎を持っている。それだけに部屋数も多く、部員が二人だからといってすぐに部室を取り上げられるようなことはないが。
陽斗と澪の二人は部室に備え付けられている会議テーブルに向かい合って座る。
そしてそれぞれの鞄から本を取り出して読み始めた。陽斗はクイズ用に雑学本。澪の読む本には書店のブックカバーが掛けられていて、陽斗からは窺えない。
しかし澪の趣味を知る陽斗には、その本がどのようなジャンルなのかはおおよそ察しがついた。
二人は黙々と自分の手元に目を走らせて、時折思い出したように短い会話を交わす。
そこに部活名に恥じないように、クイズの研究または研鑽をしようという気概は感じられない。
陽斗が全寮制で何かしらの部活に参加することが義務の虹高でクイズ部を選んだのは、純粋に己の能力を活かせると思ったからである。
先の授業で教科書のページを聞いただけで暗唱してみせたように、陽斗の記憶力は人並みを外れている。さらに彼は国語の教科書だけでなく、高校一年生で配られた全教科書を暗記していた。
陽斗は一度見聞きしたことを瞬時に記憶して忘れない。瞬間記憶能力。または完全記憶能力。陽斗の記憶力が良いことを澪はそう呼ぶ。
ゆえに問題を出し合うことで覚えようというのは無意味。陽斗は見れば覚えられるのだし、澪はそもそも陽斗に付いているだけでクイズには興味が無い。
しかしある分野の知識では、無類の強さを発揮するので陽斗は満足している。
だからクイズ部の活動風景がこのように静かになってしまうのは仕方のないことだった。
また本も覚えた後、記憶の中で読むといったことは可能だったが、陽斗はそれを滅多にやらない。傍目には何もしていないように映り、不自然に見られてしまうからだ。
活動とも言えない活動を始めてから一時間が経過した。陽斗が喉の渇きを覚えて顔を上げると、ニヤニヤと見知らぬものが見れば魅了される、しかし付き合いの長いものからすれば気持ちの悪い微笑を浮かべている澪が目に入る。
「なんか面白いことでも書いてあったのか?」
「うぷぷ……はいっす。この主人公が陽斗様に似ているなと思って」
澪は向かい合った主人に本の内側を見せた。そこには見開きの片側に線の少ないデフォルメされた少年少女のイラストが描かれており、もう片方は活字が並んでいる。
イラストの少女は随分と肌色――白黒だが――が多く、大きな胸を目の前の少年に見せつけているようでさえあった。しかし少年はというと、まるで少女には目もくれず明後日の方向を向いて拳を握っている。
陽斗はその少年を見て「そんなに似ているか? 俺こんなに切れ長な目をしたイケメンじゃねーだろ」と感想を漏らす。
「見た目の話じゃないっすよ」
「?」
澪はふふっと楽しげに笑うと、これ以上言うことはないとばかりに手元に目を落とした。
陽斗は納得いかないものを感じつつも、澪がよくわからないことを言うのはいつものことかと不承不承疑問を抑えこんだ。それに彼女が一度こうと決めたらなかなか覆らない。陽斗がそれに付き合わされたことは一度だけではきかないのだ。
(変に頑固なところのあるやつだからなぁ……)
これがクイズ部の日常。
そしていつものようにこのまま何事もなく部活を終えるのだろうと思っていた。
しかし日常の崩壊は突如として、地震のように陽斗を足元から襲う。
突然、陽斗の足元の床に魔法陣が浮かび上がる。それは幾重にも重ねられた様々な図形で構成され、白銀の輝きで陽斗を照らした。
「陽斗様ッ!」
「えっ、は?」
コロコロと表情を変えつつも、いつも飄々とした態度を崩さない澪の珍しく焦った声が陽斗に突き刺さった。
澪は二人の間に隔たる机に乗り上げて、状況を把握できず固まったままの陽斗に飛びかかる。
けれど突き飛ばそうとした澪の手は間に合わない。徐々に光度を増していく魔法陣の光が、部室を白く染め上げた。
二人の見る景色が一変する。