その日までに
強いて特徴を挙げるならば生活感がまだない、マンションの一室――俺の部屋――の明かりを消すと、カーテンの隙間からうっすらとした月光が差し込んでくる。月光は仕舞い忘れたコップを照らしていた。
一人暮らしを始めた俺にとってそれは幻想的というわけではなく、孤独感を増幅させる光景だった。
俺は椅子から立ち上がり、コップを台所へと持っていく。水のように、あの緑の球が流れていけばいい。そう、思った。
ベッドへ横になり、スマートフォンを手に取ってそれのスリープモードを解除する。表示された時刻は23時47分。
転入早々いろいろなことがあって気分が落ち着かないが、さんざん神城に痛めつけられて疲れているので、日付が変わる前には寝つけそうだ。
ベッドに付いているコンセントに充電器を挿し、逆側の端子をスマートフォンに接続する。それをスリープモードに戻し、目を背けるように寝返りをうつ。そのときだ。
ブルルルル。
『You got a mail !』
こんな時間に誰だろうと思いつつ再びスマートフォンを手に取り、画面をスライドさせて確認する。Fromの右に表示された名前は『神城紫織』だった。
『明日AM0:30。高栖公園でデート。来なかったら殺す☆ 絶対来ること♡』
明日の……AM0:30……。AMとは午前のこと。まさか。やはり。
――――あと40分ぐらいしかないじゃないか!
神城のことだから殺されはしないにしろ何をされるかわからない。それに、吸血鬼の関連で話があるに違いない。
まだこの街に引っ越してから私服もろくに揃えていないので、制服で出かけるしかあるまい。俺はさっき干したばかりの制服をハンガーから取り、襟が曲がっていないかを鏡で確認しながら、着た。鏡の中に映っている俺の顔は少し疲れたようだったので、冷蔵庫に備蓄しておいた瓶のエナジードリンクを飲む。微炭酸の刺激と多量のカフェインのおかげで真夜中でもバリバリだ。
登校の準備を済ませておいて、「はあ」とため息をついたあと、俺はドアノブを回した。
◇
明日――――日付では、今日――――、登校を控えているというのにツンデレ|(?)少女から謎のデートのお誘い|(しかも深夜に)が来て、ぜがひでも待ち合わせの時刻に間に合わないといけない|(俺の身が危ない)から猛ダッシュしてなぜか汗をかいている僕。とても滑稽だ。
待ち合わせた高栖公園へはまっすぐな道だったが、もし迷うと暗いから帰れなくなると思うととても不安だった。いくら都市とはいえ、人の出入りが少ない場所の夜は当たり前だが閑静だ。
大きめの電灯がある角を曲がったすぐのことであるが、公園に到着した。公園は住宅地のど真ん中にあり、敷地が広く、中心に大きな木があり、二台のベンチもきちんと整備されている。芳輝だったら絶対に「野球しようぜ」と野球ゲームの宣伝CMばりに言う、そんな公園だ。背丈の高い木々が住宅を覆っているため飛んでいくボールが窓ガラスを穿つなんてことはない。今度芳輝を誘ってみようかな、と思った。
夏に近づいているとはいえ、まだ夜風は肌に刺さるように冷たい。薄い上着では防ぎきれなかったようだ。
ふと腕時計を見ると、長針は丁度真下を向いていた。約束の時間だ。だが、あたりを見渡しても誰も見当たらない。
そのかわりなのか、ギー、ギー、と不快な音が断続的に聞こえてくる。どうやらそれはブランコから聞こえてきているようだ。
「え、怖すぎじゃないか。この公園」
確認して、思わず声に出してしまった。
ブランコがひとりでに動いていたのである。
ギー、ギー。
まだ止まらない。ブランコははっきりと動いている。
ギー、ドサッ。
土を蹴るような音も聞こえてきた。
「な、なんだよ、あのブランコ」
俺が後ずさりしはじめると、音の間隔が広くなりはじめた。
そして、音が変わる。
トサ。
トサトサトサ。
ざるで水を切るような音。
それは段々と近づいてきて……。
「うわぁぁぁぁぁぁあ」
羽交い締めにされたかと思うと、口の中に爽快感のあるタブレットが放り込まれた。
「なんなんだよ! タブレット持ってる幽霊なんて聞いたことないぞ! 仕返しとして塩ぶっかけるぞこの野郎」
言うと、少女が現れた。超能力による自らの不可視化を解除して、だ。
「残念。幽霊じゃないし野郎でもないし。そもそも公園でずっとブランコをしている幽霊なんて小さい女の子だって相場が決まっているでしょう? ほらほら、ぶっかけてみなさいよ。やれるもんなら私は今から蒸した芋にでも変身してあげようかしら」
「言っておいてなんだが俺はバター派だ。溶けた油の風味が口いっぱいに広がるのが好きなんだ。ローションを塗ったくるようなビジュアルもグッドな点だ。是非とも神城氏には溶けたバターを浴びてほしい。もちろん、蒸した芋としてだがな。そして、この話の根底に関わるが、食塩はふかし芋の下味を付けるために振りかけるのであって、出来上がったものにかけたりしない。後でかけるなんて誰がするか。いや、蒸した芋ちゃんが塩をぶっかけて欲しいと言うならそうしなければいけないかもしれないな。ま、それはさておき、さっきのタブレットはなんなんだよ。良からぬもの入ってるんじゃないだろうな」
「まあ……。勢いって仕方が無いと思うの。あんたが私にぶっかけるのも勢いよ。やってみるといいわ」
「まさかだよな」
「じょ、冗談に決まってるじゃない。あっ、え、自爆した!?い、いやうん、あれは差し入れよ。夜、慣れてないだろうし、寝落ちしないようにって。ほんと、それだけだから」
何故か顔を赤らめる神城。やはりタブレットになにかアブナイモノが……。いや、俺の思考は正常だ。タブレットは市販されている物だろう。輸入モノという線は捨てきれないが。粗悪品だったら許さないからな。
そんなことを考えてみたけど、やはり素直に嬉しかった。神城なりに俺を気づかってくれているのだ。だけど、吸血鬼を殺すのは俺だって決めたことだ。もう、覚悟は出来ている。だからエナジードリンクだって飲んできたんだ。女の子と二人きりで会う前にそれを飲むと考えた時は一人でいるのに赤面してしまったのだけど、この秘密は墓まで持っていこう。
「まあ、とにかくありがとな。そういえばほんとはデートじゃないんだろ、これ。見え見えだからな。本題にはいつ突入するんだ?」
「うーん、勘がいいんだか悪いんだか。気づいてないの? あそこのじーさん。ほら、木の陰にいるでしょ」
――――――全然気がつかなかった! ってか存在感薄すぎだろ。髪の毛もだが。
今にも膝が地面に付きそうな弱った老人が杖をつきながら近づいてくる。その姿はまるで、小説で読んだ魔道の伝承者のようだ。もうちょっと杖が歪曲していれば、ベストだったのに。杖を振ると巨大な斥力が思うのまま、みたいな。超能力を使う人がいるんだから、魔法を使う人がいてもおかしくないと思う。たった一日で随分と世界の認識が変わったものだ。
老人はやっとの思いで俺の目の前まで辿り着くと、杖をつきなおした。
「君は倫夫と言ったか。これからおぬしが吸血鬼を殺めていく上でひとつ忠告しておかなければならん。おぬしは過酷からは逃れられない。一度踏み込んだら逃げる術は一切存在しない。若造よ、これは使命じゃ。彼奴らに躊躇と呼べるものは一切ないのじゃ。守れる者は限られる。これを持っていくがよい。この剣はおぬしの命の次に大事なものになるはずじゃ。一度吸血鬼を殺めたら、これを儂のところへ持ってくるがよい」
言うと、短剣を懐から差し出してくる。鞘から取り出してみると、ところどころに秘境の民族を想起させる紋様が描かれ、中央には真紅の光を放つ宝石がはめられているのがわかる。持って少し振ってみると、見た目以上に軽く、使いやすそうなことがわかった。だけどこの剣が、吸血鬼を、自分のクラスの中にいるはずの誰かの身体を、切り裂き、肉塊に変えるのだ。それを自分の中で反復していくうちに、軽いはずの短剣はとても重く感じるようになった。
覚悟はできている、はずなのに。
「がんばるよ。ありがとう、じーさん。ちなみに、この剣、どうやって使うんだ。なんか特別なものでも入っているのか。よく吸血鬼には銀が効くっていうけど」
「儂は礼を言われる立場ではないわい。早う死ねと急かされる身だ。……そうじゃな、伝えておこう。その剣は、身体を切り裂くと同時に、記憶を奪うのじゃ。その全てを。つまり、吸血鬼化した人を殺めるときは、その人の苦痛を和らげることができる。吸血鬼として人々を襲った記憶を抹消することができるのじゃ」
「ちょっと待ってよ、じーさん。そんな剣、もらっちゃっていいのか」
「よい。今の儂に前線で戦える力は残っておらん。それに、無駄遣いはやめてほしいが、予備はまだ残っておる」
じーさんは、得意げに笑った。
「そうか、じーさんも超能力者なのか」
「そうじゃ。……じゃあの、若造。使命を果たせ。そして、生き延びよ」
「ま、まだ訊きたいことが」
「……老体に夜風は堪えるわい」
言うと、じーさんは迎えのセダンに乗ってどこかへ帰っていく。暗いから色はわからなかったけど、その低いフォルムから、高級車だと判断するのは容易だった。エンジン音が閑静な住宅街にじわりと響く。だんだんとその音が小さくなっていくと、神城が俺に近づいてきた。
「なあ神城。あのじーさんのことだけど。じーさんはどんな超能力者だったんだ」
「短剣、もらったでしょ? じーさんの超能力は、武器を精巧に、空気に手をかざすだけで鋳造する能力よ。まあ、鋳るわけじゃないから鋳造っていう表現はどうかと思うけど。じーさんの剣は美しいから高く売れるんだとか。家は豪邸。どこかの誰かさんみたいにマンションでひとりぐらしってわけじゃないみたいね」
「ほうほう。って、なんで俺がマンションぐらしなの知ってるんだよ。まあ、それはどうでもいいや。そうそう、ひとりぐらしだったからこそ深夜でも出歩けたけどさ、なんで夜じゃなきゃいけなかったんだ?」
「あのじーさんは夜しか起きてないのよ。昔は吸血鬼退治の前線で活躍していたから、生活が夜型になってしまったらしいの」
そして、これは俺たちにも当てはまる話なのだ。いずれ、たどる。
「まあ、体躯が強化されているから若いうちはいつまででも起きていられるわよ。たぶん、修学旅行とかも徹夜余裕だったでしょ?」
ただ、老後はあのじーさんのように破綻した生活が待っているのだ。身体はもちろん、魂さえ疲弊し摩耗した生活が。
「なに? 辛気臭い顔して」
「うーん、俺たちもいずれはたどる道なんだろうなって思ってさ。夜に寝れないのは精神的にも辛いよ」
「まあ、じーさんのチームには強力な吸血鬼探知能力者がいたらしいから出動回数は数え切れないほどでしょうね。まあ、その探知能力も夜でしか使えないからこそ深夜の出動だったのだけど……」
ただ、もし昼にも探知能力が使えていたら、吸血鬼化してしまう人間に『あなたは人間社会とは相容れない存在である』という旨を伝えなければならないのだ。
それはどんなに残酷な死亡宣告だったとしても、吸血鬼という存在に汚された当人の人権の最低限を守る道にほかならない。裏を返せば、吸血鬼化している状態の人間を殺めることはそれを放棄することと同義であり、本来ならば忌むべきだ。
「昼に吸血鬼を見つけることができたら、その人を説得さえできれば、平和的解決ってことだな」
「そうね。とても難しいけれど夜になる前に見つけるのがベスト。あんたが言った通り、平和的な面と私たちの戦力的な面でも。できれば戦闘を回避したい状況よね。正直言ってあんたの能力微妙だし」
「ああ、神城の胸を触ることだけに特化した稀有な能力だということは重々承知だ」
「あー、うっさい! 触りたければ触ればいいじゃない。ほら、ほらほら」
神城は頬をピンク色に染めながら両手を胸に当て、揺らしている。まあ、それぐらい自分の乳房に自信があるのだろう。実際、今も触りたい。こんな綺麗なおっぱいを拝めるだけでも最高だ。まあ、でも一度事故とはいえ鷲掴みにしてしまったのでその感触をしっかりと思い出すに留めておいた。追憶おっぱい。俺はこう呼んでいる。
「まあ、今更だが自らをジェントルマンと形容したい俺は遠慮しておくよ」
ただ、それは手遅れなのだと自分でもわかっていた。
「あんたが紳士かどうかの議論はクラスの誰かに押し付けとくわ。ま、今は帰りましょう。学校あるし。その剣は肌身離さず持っていなさい」
まだ寒い春の夜。おぼろ月をちらっと見たあと、俺は「じゃあ、また今日学校で」と手を振って、帰路に着く。
◇
緑の球が無数に浮かぶ居心地の悪い教室ですごす。寝不足もあって頭が鉛のように重くなっていたが、なんとか午前中の授業を乗り切った。
いつもどおり退屈にしていた芳輝は「昨日のマジでなんだったんだよ。後頭部がっつり打ったぜこの野郎」と言いながら俺の方に寄ってきた。
「おい、ミッチー。食堂行こうぜ。飯作るの忘れてたんだろ?」
危うく寝坊しそうだった俺は昼食となる弁当を作ってこれず、食堂を利用するために少しばかり多めに財布に札を入れてきたのだ。
食堂は一階だ。
階段を下る途中に聞いたのだが、芳輝曰く、ガッツリ系は美味しいらしいが、あっさり系は一部のマゾヒストのみが好んで食べているという。そんな彼らには是非とも神城紫織という女を紹介してあげたいものだ。思う存分痛めつけてくれるぞ。にやり。林? あいつはダメだ。男だから。
食券販売機に千円札を入れ、光ったボタンらを眺める。カレーライスやカツ丼といった、食堂では定番のメニューが上の方に並び、土筆の卵とじやほうれん草のおひたし|(にんにくを添えたデラックスバージョン)などの「これ、学生に対して需要のひとつでもあるのか」と思わずツッコミたくなるメニューたちは下段に追いやられていた。
俺はカツカレーのボタンを押す。週末といえばカレー。体にいいものといえばカレー。辛いものといえばカレー。そして、食堂といえばカレー。俺はカレーライスという奇跡の食べ物に恋慕のようなものを抱いているのかもしれない。口の中に広がる快感がもたらす錯覚なのかもしれないが、確かに俺の心はカレーによって満たされるのだ。つまり、神はカレーだった。
カレーだけだと瞬く暇もなく絶頂に達してしまいそうだから、彼、いや彼女かもしれないが、カレーの友達であるトンカツさんを呼んでおいたという寸法だ。
でもトンカツさんよ、カレーちゃんは寝取らないでくれよな。
「あれ、見ない顔だね。新入りかい? すぐ作るから待っててね。番号札、渡しておくから」
食堂の肥えたおばさんは俺が手渡した食券を受け取ると、厨房の奥へと小走りでむかった。私立高校だからか、厨房は広く、そしてなにより衛生管理が徹底されているようだ。
芳輝と共にテーブルの席に座る。
五月だからか、まだ部活動の新入部員募集ポスターが貼ってあるのが見えた。野球部、陸上部、サッカー部、テニス部、バスケ部、美術部、家庭科部。そこに剣道部の文字は見つけられなかった。この高校には剣道部はないのだろう。私立高校であるからあるかもしれないとは思っていたが、格技場と呼べるものが見当たらなかったのも事実だった。
――――あったとしても、入部はしないのだが。
「はい、三人とも、お待ちどうさま。カツカレーと、ダブルカツ丼と、今日のおすすめセットだよ」
おばさんは大変そうにお盆を三つ持ってきた。ん、三つ? 三人?このテーブルには二人しかいないはずなのだが。
「ありがとな! ばあちゃん! これで夜更かしの分の埋め合わせができるぜ!」
「ありがとうございます。今日のセットにはイナゴの佃煮が含まれているのですね」
芳輝の後に続いた言葉。神城の声だ。いつの間にか俺の左どなりに座っている。だが、もう驚嘆はしない。不可視の能力でできる悪戯なんてワンパターンだ。このペースだと一ヶ月後ぐらいには容易に神城の心中を看破できるようになっているだろう。
「イナゴの佃煮には良質なタンパク質が含まれるうえ低カロリーなので美容に役立つんですよね。ありがたいメニュー、恐悦至極に存じます」
「あらあら、そんな難しい言葉使わなくてもちゃんと伝わってるわよ。それで、カツカレー頼んだ子とは知り合いなのかい?」
神城は真剣な顔で、俺を一瞥してから返答した。
「はい、あたしの胸を触り、それだけでは飽き足らずあたしの貞操をぶち壊そうとした性欲モンスターです」
「ああ? ミッチー! 転入早々女子生徒しかも神秘神城神様の乳房をお揉みになるなんて! 許せねえぞ! トリプルゴッドを汚すな!」
「かなり誤解があるよ、それ。そのうえ俺は神城の弱みを握っているからな。これ以上は迂闊に喋れないだろう。あと、神秘神城神様ってなんだよ」
俺が言うと、とっさに言葉を発しようとした二人が息を大きくすったところで石化している。譲り合っているつもりなのかもしれない。「それじゃあ、神城から」と俺が言うと、解けたように神城が声を発した。
「あ、あれは、あれは事故よ!」
「あぁ、じゃあ俺からもあれは事故だと言わせてもらうよ」
そして、芳輝の番。
「そりゃあ神秘的な神様だからだろ。まあオレしかそのあだ名で呼んでないけどな。というか絡んだのも今日が初めてだったし、こんなに喋るヤツだと思ってなかったし」
「もしかして、人に勝手にあだ名をつけてもし絡んだときはそのあだ名で呼ぶなんていうアホな遊びをしてるわけじゃないだろうな」
「ミッチーってあだ名をつけた時からだったんだが」
変な沈黙が訪れた。おばさんは神城と俺を冷ややかな目を向けながら厨房へ帰っていく。青春もどきだとしても、おばさんの目には上向きにした車のヘッドライトのように眩しく映ったのだろう。
「てかよ。胸を触る以前の問題じゃねーの。なんでミッチーと神秘神城某とが知り合いなんだよ」
「なんかいろいろと突っ込みたいけど、それはこのクラスに紛れ……」
言いかけたところで俺の口の中にテーブルに備え付けられていたナプキンが放り込まれる。
「むごご……」
それで察した。吸血鬼の件は秘匿すべきだと。
そして、改めて確認した。芳輝が吸血鬼だという可能性もあるということを。
俺は、現実から逃げてはいけない。
◇
今日の授業が終わる。
担任の金元美恵はその長く赤い髪を窓越しに入ってきた春風に靡かせながらプリントを配っている。
プリントにざっと目を通すと、眼科検診のお知らせや模試の校内平均成績推移などが書いてあったが一際俺の目を引いたのはゴシップ体で書かれた『いざ、修学旅行へ!』という文字だった。この高校では二年の六月に修学旅行に行くらしい。つまり、それは来月だ。
当然のようにクラスががやがやとうるさくなる。
だが、俺と同じようにその文字を見て興奮する生徒の喧騒の片隅で、神城紫織は青ざめたような顔で俯いていた。
俺は、それにどんな含意があるか理解できなかった。
先生が「それではまた来週。さようなら」と、帰りの挨拶をするとクラスメイトたちは散らばってゆく。焦るような表情をした神城は俺の右手を掴んだかと思うと、俺を引っ張って廊下に出る。この先は中央階段。下には体育館がある。そして、上は屋上へとつながる階段だ。
「また、屋上か?」
「見つからないようにするのにはそこしかないでしょ。早くついて来て」
「おう。わかったから強く握るのはやめてくれ。痛いぞ」
「いいから、早く」
神城は俺の右手を握ったまま、屋上の手前にあるドアノブを回す。広がったのは、昨日と変わらない風景。
神城が柵に手をかけて寄りかかったので、俺も真似して隣へ行った。
彼女は夕焼けの空の遠くを眺めている。
――――まるで未来を、見透かすように。
俺が、呼び出した訳を訊こうと息を吸い話しかけようとすると、神城の方から話してきた。
「ねえ、トロイアの木馬って知ってる?」
「あー、コンピューターウイルスの一種だとかなんとか。あんまり詳しくないけど。それがどうかしたの?」
「いや、そのモチーフになった伝説のことよ。トロイア戦争において、ギリシア人の攻めの手が詰まりそうになっていたとき、ある提案をした人がいたの。木馬を作って人を潜ませ、トロイアの陣地にそれを運び込ませよう、ってね。ギリシア人は、自分たちが滅亡したように見せかけて人が乗り込んだ木馬を置いていった。トロイア人が木馬に群がると、彼らはそこに残っていた一人のギリシア人の言葉に欺かれて木馬を市内に運び込んでしまった。人々が寝静まった夜、木馬から出てきたギリシア人は、松明で仲間を呼び、トロイア人を見境なく殺戮し、ここでトロイア国は滅亡した。そう、吸血鬼も同じ。彼らは夜に動き出すのよ。そして、それはこのクラスに紛れ込んでいる」
眼下には下校する生徒たち。俯瞰して初めてわかる。彼らはとても弱く、脆い存在なのだと。彼らは、日常生活に潜む危機を把握したふりをして、それらを看過する。強がりなんだ。
例えば、トラックに轢かれる可能性。
例えば、ナイフを持った男に襲われる可能性。
可能性が存在することを認知できたとしても把握はできない。なぜならそれらは、日常の中に埋没しているからだ。
認知できる可能性でさえこんなに危険だというのに、認知すらできない可能性はどれだけ危険なのだろう。
――――正真正銘の非日常。
そう、例えば吸血鬼に血を吸われる可能性。
その可能性はトロイアの木馬よりも認知されにくく、トロイアの木馬に匹敵する危難以外の何ものでもない。
神城は、強い風が吹き止むと続けた。
「つまり、修学旅行までに吸血鬼を見つけないと大変なことになるわ」
感想や意見、間違いの指摘などをいただけたら嬉しいです。