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Lost Night  作者: 赤谷りんご
クラス内の吸血鬼
2/4

緑の球

 転入生がやってくるというのは小学生や中学生にとっては大きなイベントで、男子生徒の口には「どんな可愛い子なんだろうな」と、女子生徒の口には「かっこいい人だといいな」と言わせることが多い。その分、彼らは期待が裏切られると普段の一オクターブは音が下がっているだろう声で嘆く。転入生への、配慮がないのだ。だが結局彼らの多くはやがて打ち解けて、公園や児童館などで一緒に遊ぶようになる。

 ここで、高校生のケース。すなわち俺が転入する今回のケースと比べてみるとその差は歴然だ。こちらは、無配慮を通り越した無関心。空気が俺を拒んでいる。学び舎というものがいかに醜悪な場所かということを再認させられる気がした。だけど、彼らに非はないのかもしれない。口角が下がる感覚がしたので、俺の顔が青ざめていたのだと思う。そりゃあ、「なんだコイツ」と心の中で囁かれるのも当たり前だ。


 不意に、世界がぐるりと反転した。行き着くのは万華鏡の中心。外からの干渉がないと、戻れない世界だ。


 ◇


「あのー、倫夫くん。大丈夫ですか? 一目惚れするほどの可愛い女子生徒はいましたか? それとも、悶絶しちゃうほどの格好いい男子生徒はいましたか? うんうん、やっぱりそうですよね。先生が美貌すぎてビックリしてるんですよね。先生がエロエロすぎてビックリしてるんですよね。そんなに硬くしないでいいですよ。いや、硬くならないでいいですよ。先生は内気な子も大好きだけどやっぱり肉食な子の方がタイプなんです! 肉食の先生にはどっちみち関係ないって? それは言わない約束ね! まあ、それはさておき。ここのみんなはもちろん、先生もまだ倫夫くんのこと良く分からないから、教えてくれないかな? 自己紹介ってやつ、やっちゃって。使用言語はドイツ語でもスワヒリ語でも何語でもいいから、ね。あと3分で朝のホームルームの時間が終わっちゃうから」

 まるで、今まで幽体離脱をしていて急に体に魂が戻ってきたように、体が電気にかけられたように、俺は引き攣りながら覚醒した。

 新たに担任となる女教師の声が聞こえてくる。それは俺に話しかけているのだとはわかっているのだが、その内容は右耳から左耳に、突っかかることなく通り抜けていった。すーっと、まるで左右の耳の穴がつながっているかのように。その声が針のように鋭かったわけでも、細かったわけでもない。この教室が校内のどこと比べても異常で、吐き気がして、頭が真っ白になっていたから、脳と呼ばれる声を塞き止めるものが働いていなかっただけの話だ。だが、この異常は“とても”という副詞を無視するならばとりわけ異常ではなかった。そう、俺の生活はみんなと比べて、いつもおかしいらしいから。

 緑の球体。

 人混みに紛れるとしばしば見る、川辺に舞う蛍のような緑色の球体が、この教室には無数に浮かんでいる。大気の気相は窒素という気体がその8割ほどを占めているというが、球体が教室内の空間を占める割合も同じぐらいであろう。だが、クラスメイトはそこに緑の球があるのが当たり前かのように何も気にせず佇んでいる。否、気づいていないのだ。どうも俺以外の人間にはこの球体が見えないらしい。少なくとも今まで生きてきた17年という歳月のなかで、同じものを見ているという人に出会ったことは一度もなかった。

「倫夫くん。立ったまま寝るっていう一発芸が自己紹介のつもりだったんですか? それも目を開けたまま。別のところも起立させちゃいますよ?」

 艶かしい声色の裏に潜む魔物の存在に悪寒がして、俺は正気を取り戻し、自己紹介みたいなものをする。

「あ、はい。藤川倫夫っていいます。なんか、微妙な時期に転入するのは気分が乗らないところもあるけど、みんなに暖かく受け入れて貰えたら嬉しいです……」

 思ってもいないことを言った。

 締めの言葉が見つからず、助け船を出してもらおうと頭をポリポリと掻きながら担任を一瞥すると、青いタートルネックに誇張された豊満な胸が跳ねるように揺れていた。困った俺を見てステップを踏んで喜んでいるようだ。喜ぶ要素は一切ないと思うんだけど。

 風が吹き抜け、特に心もこもっていない目が向けられ、時の流れが遅くなった。こんな体験をするのは二度目だ。両親が死に、親戚の家に預けられるため田舎の学校に転入したときも、こうだった。でも、今回はだいぶ規模が大きいから心にくるダメージも大きい。優しそうなヤツをひとりでも捕まえて突破口としなければならない。なぜ優しそうなヤツがいいかというと、一番現実的だからだ。俺は極度ではないが人見知りだから、新しいクラスメイトなんかに自分から話しかけることなんてできない。まあ、好奇心旺盛なヤツでもいいだろう。

 そんな想定をしながら黙っていると、真上の方から鐘の音が鳴った。

「まあ、それでいいよ。倫夫くん。先生に比べればシャイなんだってわかったからオーケーだよ」

 天井より抜錨したチャイムという名の船に助けられた俺は大きくため息をつく。それを見ていたのか、担任も落ち着きを取り戻したようだ。

「じゃあ、後ろのほうの空いている席が倫夫くんの席だからね。ほら、廊下側。あと、昼休みになったら渡さなきゃいけないプリントがあるから職員室に来てくれる? 入口のそばに先生たちの座席表があるから、金元って書いてあるところ探してね。まあ、職員室に入ったらどっちみちすぐわかるとは思うんだけど。そんじゃあ彼女なり彼氏なりなんなり作ってそいつと一緒でもいいから絶対来てね」

 うん、落ち着いて見えるだけで全然落ち着いてなかった。むしろ質が悪くなっている気がする。獰猛じゃないだけで。

「はい、1人で行きます。期待しないで待っていてください」

 転入早々にもかかわらずやれやれといった表情を作れる自分に心の中で盛大な拍手を送った。

 壁の掲示板を一瞥して席に座ると、いくらか落ち着いたからか、教室に流れる春の風の流れを感じることができる。特段、熱くもなく、冷たくもなく、湿ってもいなく、乾いてもいない、人肌に合った心地よい風だ。ただ、緑の球体は風に煽られることはなく、教室内に漂い続けている。目障りで、目眩がしそうになるから、できることならこれを全て取り除きたい。俺は、ずっと俯いていた。

「おい、ミッチー。久々じゃねーか」

 俺は戦慄した。優しいヤツより好奇心旺盛なヤツの方が先に来たか――――なんてことではない。俺の古いあだ名が聞こえてきたのだ。見上げると懐かしい顔がそこにはあった。小学生の頃同じクラスだったことがある、関本芳輝だった。確か彼は、別の学校に転校して行ってしまったのだ。お互い、涙ぐみながら手を振り合ったのをよく覚えている。

「おお、芳輝。久しぶり。パッと見ただけじゃわからなかった。髪の色も変わっちゃってるし。でも、まさかここで会えるとはな」

「んまあ、仏教でいえば諸行無常だし、オレに言わせれば変化の術だな。ミッチーは風貌こそ大人びたけど雰囲気は変わらねーな」

「よくわからないけど、そうなのかもな。そういえば芳輝。夜、出歩いてるって噂聞いたんだけど、それほんと?」

「あ、あぁ。100パーセント中120パーセント正解だ。もっとパーセンテージをあげてやってもいいぐらいにだ。まあ安心しろって。煙草も酒もヤクもやってない。健康に悪そうだしな!」

 赤茶色に染まった髪のコイツから出てくる言葉とは思えないが、一緒に公園で野球をしているときも一方のチームを贔屓をすることなく、名審判として定評があった彼だからまあ信じていいのだろう。だが、彼の連帯保証人には絶対になりたくない。耳に重そうに吊るされた黄金のじゃらじゃらに俺の人生を削られるような気がするからだ。まあ、信用に対して一定の評価はできるヤツだ。

「まあ、殴り合いはしてるんだけどな。悪を敷くための一時的な悪さ」

 芳輝は、身体のどこかにあるスイッチが誤作動なのかどうか知らないがオンの状態になり、激しくシャドーボクシングを始めた。シュパシュパ。

「ダークヒーローってやつだよ。まあ、どハマリしちまったから悪以外の何物でもないんだけどよ」

「うん。まあ、元気そうなら何よりだよ」

 旧友に会えた喜びで、周囲の喧騒も、浮かんでいる緑の球体のことも、幾分か気にしないでいられた。もっと昔の話をしていたかったのだが、1時間目の始まるチャイムに邪魔された。

「んじゃ、オレ、席戻るわ。また休み時間に」


 *


 退屈というか、授業進度が以前の学校と比べて早いから全く授業についていけず、教科書に載っている偉人の肖像画に落書きをしてみたり、二次関数の放物線グラフを口に見立てて顔を描いてみたり、授業を真面目に受けているフリをした。画力の高い人間ならば、自分が描いた絵に萌えることも出来るのであろうが、俺の、髄から末端に走る神経にはおよそ繊細さと呼べるものが一切ないせいで絵心の欠片も持ち得ない俺はそれが不可能であった。

 午前中で唯一楽しかったのは体育だ。体育館は、さんざん教室で苦しめられた緑の球体がひとつもないから気分がいい。それに、スポーツは人を繋ぐと言うだけある。バスケットボールのパスなどを通じてクラスメイトと打ち解けることが出来た。ただ、林というヤツは気性がとても荒く、苦手なタイプだ。俺がドリブルしているボールを無理矢理奪おうとするなり失敗すると「っざけんなや。それファールだろうが」と罵ってくるのである。こいつは一部のマゾヒストとしか馬が合わないんじゃないかと思った。山田というヤツは単にノリが悪い。まるで図形の問題を作ってみろとばかりにずっと床と垂直に立っていた。


 体育が終わると、各々が汗の処理をし、教室に戻る。今日は女子が教室で体育理論を勉強する日だったようだ。次は昼休みだからプリントを取りにそのまま職員室に行ってしまってもいいのだが、昼食の時間込みの昼休みだから、先に昼食を取ってから行きたかった。体を動かしてとても腹が減っている。だが、球体がうじゃうじゃいる教室に戻りたくないという気持ちもあった。あと、汗の処理を何らかの原因で怠った人間に連帯責任のようなものを負わせられ、女子に「男子くっさ」と言われるのを危惧していた。転入早々そんなこと言われたら不登校になってしまうに違わない。その迷いで、俺は体育館からなかなか出られずにいた。

「どうした? 具合でも悪くなったのか。ヤバいなら保健室までおぶってくけどよ」

 勘がいいのか、芳輝が訊いてくる。打ち明けるべきか迷った。芳輝なら、意味はわからなかったとしても聞き入れてくれるかもしれない。とにかく、話したかった。今までは緑の球が見えるという仲間を見つけたかっただけ。だけど今は違う。同情してもらいたかった。それぐらいあの光景は不気味だ。普通ではないのだ。異常な俺でさえ、異常と感じるのだ。

「おい、なんか言えよ。体調悪いんじゃねーならさ、林とか山田とかがウザイんだー、とかでもいいからよ。なんでも聞くぜ」

 まあ、確かにその二人とは馬が合わなそうだが、今、芳輝に打ち明けなければ、クラスに馴染めないのかと誤解されてしまうかもしれない。教室では俯いていたし、体育のときしかノリが良くない質の悪いヤツだと思われそうだ。だけどクラスメイトとして仲良くとまでいかなくても、良好な関係を築きたい。それに、もしかしたらこれは病気のようなもので、高校生になって芳輝も緑の球体が見えるようになっているかもしれない。そうでなかったとしても、この学校で信用できるのはまだ芳輝だけだ。

「なあ、芳輝。相談があるんだけど。教室にさ、緑の球が浮いてるの、見えたりしないか?」

 言うと、芳輝が首を傾げた。やはり、見えていないのか。俺以外の人間にとって、不可視の球。

 それを見ていながら、無視しなければいけないのかと悟った刹那、突風と不可視の“何か”が俺たちを襲った。

 芳輝は顔に痣を作り頭から転倒し、俺は右手首をそれに掴まれ、引っ張られている。俺にとってもそれが不可視ゆえに、行動を予測することができない。体育館の正面にある階段もそのまま突破しやがったので、脛を幾度も痛めつけられた。途中、不思議そうに、気味が悪そうに俺を見ていたまわりの目が身体中に突き刺さるような気がした。傍から見なくても変な状況だとわかる。仕方が無い。自分が一体どうなってしまうのかと思案する隙もなく、俺の意識は遠のいていった。


 少し気を失っていたようで、気づくとそこは屋上だった。朝よりも春風が強くなっていて、思わず顔を歪める。気持ちを落ち着けたところで、先ほどの状況を想起した。

 不可視な何かに手を掴まれる。感覚のとおり、右手首の握られた跡は、明らかに人間の手によってつけられたものであるとわかる。ということは、霊の類なのか。オカルトネタはいつも信じていないが、今は信じざるを得ない状況に立たされている気がする。屈辱的だ。

「教室に戻りたくないなんて思ったからバチが当たったのかな。よし、すっげー教室戻りたい。今すぐ戻りたい。うん、戻ろう」

 霊とやらにでも響くように虚空に呟き、ボロボロになった体をゆっくりと起き上がらせ、背伸びと深呼吸をすると、後方のドアのノブに手をかけた。そのとき、また、右手首を掴まれた。

「あんた、見えてんの」

 冷たい汗が背中を流れる。

 俺以外誰もいないはずのこの屋上から、女の声がした。身体の芯と表面との温度差がとても不快だ。

「え?」

 女の姿は――――見えない。

「見えてるのなら正直に言いなさい。正直に言わなかったら殺すから」

 ――――だから、お前の姿は見えてないって。

「あんた、緑の球見えてんでしょ」

 思わず目を細めた。

 思いがけないことが起きている。

 俺にしか見えないはず緑の球のことを訊かれている。

 ただ、切羽詰ったこの状況において一番の問題はそこではない。

 返答するか否かということだ。

 この現象は奇妙である。その姿は、その影を含めて全く見えない。なのに、聞こえてくる声はとても鮮明で、透き通っていた。もしかしたら、美人の霊と邂逅したのかもしれない。美人の霊なら取り憑かれたっていいや。脳内妄想が捗るし。いや、呪われたり殺されちゃったりしたら困りまくるんだが。

「あぁ、見えてるよ。……正直に言ったから、殺されないで済むよね?」

 嫌な間のあと、俺の左側に日陰が増えた。

「ええ、けっこうよ。まあ、場合によっては正直に言っても殺してたかもしれないのだけれど。あんたは物凄い確率を見事パスして、生を得たわ」

 彼女が返答すると、俺の右手首を掴む彼女の右手が可視化していく。

 振り向くと、鋭い目の美少女が確かに顕現していた。見たことのあるセイラー服。私立高栖高校――本校――の制服だ。

 腰まで伸びた紫色の髪を通る風が俺の顔に吹き付けると、甘い、脳髄を刺激する香りがした。いつまでも嗅いでいたい。だけどすぐに風向きは変わってしまった。

 どうして、女の子の髪の毛はいい匂いがするのだろう。それは高校生の男子たちが必ず抱く疑問かもしれない。

 ――――って、なんなんだ! 如何なる忍術を以て身を没していたというのか。

 そうか、完成していたのであろう! 全身を覆う光学迷彩が! 現代の科学力には脱帽だ!

「ビックリさせて悪いわね。こうでもしないと言うこと聞いてくれないと思ったから。それにしてもはっきり言って異常よね、あのクラスは。あ、気づいてないようだし、一応礼儀として自己紹介はしておくわ。私は神城紫織しんじょうしおり。2年3組。今日からあなたのクラスメイトよ」

 こんなに綺麗な人なのに、教室にいるときは全く印象に残らなかった。もしかしたら教室でも先ほどのように身を没していたのかもしれない。

「さっきクラスで自己紹介したけど、藤川倫夫だ。その、神城も緑の球体が見えているのか?」

 神城は「当たり前でしょ」と、腕を組み、続けた。

「嬉しい話と悲しい話。どっちもあるんだけどどっちから先に聞きたいかしら」

「そうだな。うなだれてここを去るのは嫌だから、悲しい話からで」

「へぇ、弁当を食べるときは嫌いなものから先に手をつけるタイプなのね。覚えておくわ。それじゃ、悲しい話から」

 神城が一息つけると、風が吹き止んだ。

「あんたや私が見ている緑の球体。これはこのクラスの誰かから出ているものなの。そして、その誰かさんは夜になったら人の血を吸う。そして、その人を同類にする。所謂吸血鬼。ただ、創作物とかに出てくる、伝説上の吸血鬼と違うのは、昼間は普通の人だっていうこと。そして、吸血鬼になっても見た目自体はさほど変わらない。だから、私たちみたいに緑の球体を見れる人じゃなきゃ吸血鬼かどうか判別できない」

「初耳だよ。そんなの信じられるか。俺は緑の球を見れる人間に会ったのはこれが初めてだ。しかも吸血鬼なんて見たことないし本当にいるなんて聞いたことがない。証拠がないじゃかいか。お前はその、吸血鬼とやらが、人の血を吸うところを見たことあるのかよ」

「見たことがなければここまで強くあなたに説明なんかしないわ」

 一瞬、神城の表情が陰ったがすぐに元に戻った。

「さて、もう気づいているかもしれないけれど、嬉しい話に移るわよ。緑の球体を見ることのできる人物は、それぞれが固有の超能力を持っている。あなたもさっき体験したでしょう? 私の能力を。これからのこともあるし、とりあえずあなたの能力、見せてみなさいよ」

 そうか、忍術でも光学迷彩でもなく、超能力だったということか。なかなか強力な超能力だ。

 さて、俺の超能力といえば、アレのことであろう。誇らしいものでもない。中学生の時に所属していた剣道部でしばしば使っていた、あの力だ。

「この屋上で起こったトラブルについて一切の責任を負いかねますが、超能力とかいう俺の必殺技を披露して構いませんでしょうか」

「なんかイヤな予感がするのだけど。まあ、いいわよ」

 俺は太ももを叩いて気合をいれた。

「よし、じゃあ今から俺は目をつむって神城の体に触れる。腕に触れてもノーカウント。俺が胴体や首、足や頭などに触れることができたら俺の勝ちだ。神城は手を使ってこれを防いでもいいこととする。逃げるのはなしだ。そんじゃあ、勝負開始といこう」

 ルールに則り、目を閉じる。

 神経を研ぎ澄ますと、神城の視覚情報が全て俺の脳内にリアルタイムで送られてくる。それを舐め回すかのようにこれにノイズを加えた。

 それは俺にとって、呼吸するように、食べ物を咀嚼し飲み込むように、当たり前に出来て、方法の一切の説明は出来ない、使いどころの限られる、名ばかりの必殺技だ。

 神城の慌てふためく声が聞こえる。先ほどの口調からは想像できないような、裏返った可愛らしい声だった。

 だがそれがすぐに「何すんのよ!」という怒号に変わる。

 手には柔らかい感触。ほどよい弾力感。体の正中線より線対称の山。俺の両手は神城の乳房を掴んでいた。

「な、何でここを触る必要があるのよ! 別のところでも全然いいでしょ! この破廉恥ビースト! 性欲の塊! 悪い女に引っかかって金を巻上げられて金欠で何も食べられずに川の水だけごくごく飲んだあと餓死して死ね!」

 ご立腹のご様子だ。

 言い訳ではないが、理由付けをして言いくるめてやろう。

「まあまあ、落ち着いて。目をつむらなければゲーム性が破綻する。目をつむったらどこに触れるかわからない。そして、俺の超能力のせいで神城はこの手を防げない。ここで、この試合が俺の勝利に終わり、俺の超能力が証明された。ならば、この手がどこに触れるかなんて些細なことじゃないのか? それに、腕以外で1番俺に近い部位はどこだ。神城の豊満な胸だろう。俺の手が触れるべきはお前の乳房だということは至極当然である。故に俺はなーんにも悪くない」

「もう、あんたのせいで脱線しすぎじゃない! レールをあんた路線に合わせたのは私だけどさ。というか、事故でもこれは。これは」

 まあ、論理が世界一周をするぐらい飛躍した部分もあったが概ね理解してくれたようだ。

「で、嬉しい話ってなんだよ。まさか、俺に胸を触らせてくれたってことじゃないだろう。そうであったらもう一回触らせていただくんだが」

「なわけないでしょ! 富栄養化した湖に顔突っ込むわよ。植物プランクトンを100kg飲み込んだところでやめてあげるから。……話を戻すけど、嬉しい話っていうのはね、超能力を存分に発揮して吸血鬼を抹殺していいってことよ」

 抹殺という言葉に頭が揺さぶられるような感覚を覚えた。それは、貧血の症状ととても似ていた。

 緑の球体がずっと教室にあるのは嫌だし、吸血鬼が人の血を吸って下僕を作るのも許せない。

 人間を奪うのは許せない。

 だけど、そんな吸血鬼も人間じゃないのか。普通の人に判別がつかないってことは、人間そのものってことじゃないのか。

 人間を殺していいのか。

 それは正義の鉄槌と呼べるのか。

 そもそも法を破ることなのではないのか。

 さまざまな思いが、体を蝕むように俺の中で蠢いている。

「人を殺すことなんて、できない」

「あれは、吸血鬼なの。もう人間とは呼べない」

「人格が、自我が、ちゃんとあるじゃないか!」

 俺が激昴すると、神城は少し怯えたような様子を一瞬見せたが、すぐに悲しい面持ちに変わった。

「……気持ちはわかるわ。でもそれは昼の間だけの話。私も思うもの。夜の吸血鬼化だけを防げないのか、とか。強力な睡眠剤で夜中は起きられないようにできないのか、とか。でもそんな都合のいい方法はなかった。何度も何度も試した。毎日が試行錯誤だった。でも叶わなかったのよ。その全てが机上の空論だった」

 神城は唾を飲み込み、続けた。

「私のお父さんはね、吸血鬼に吸われたの。その後、お父さんはある日、昼間に家を出ていったわ。今もどこかで彷徨っているでしょうね。わかる? 人間として死ねない辛さ。自らが吸血鬼だと知りながら生き続ける悲しみ。それなら、吸血鬼は、自覚する前に殺してあげた方がその人のためなのよ。父のように後天的に吸血鬼になって既に自覚しているケースは多々あるけど」

 そうか、ただ殺す殺さないの問題ではないのか。俺も、化け物として死ぬのは嫌だ。人に恨まれ、殺されるのと同じぐらい。罪を犯し、裁かれ、絞首刑を受けるぐらい。

 それは人類共通の認識に違いない。人間から化け物に成り下がってしまうのだから。なら、それが自らを吸血鬼だと悟る前に殺めてやるしかない。それなら、多少は救いがある。自分は、自分を人間だと思ったまま死ねる。

「その面持ちなら、理解してくれたようね。さっきも言った通り、吸血鬼に対抗できるのは超能力者だけ。だけど、吸血鬼が増えるスピードはとても速い。既に超能力者の二倍はいると言われているわ。超能力者全てが吸血鬼討伐に参加しないと、吸われ尽くす。人間は夜を知ることができなくなるわ」

「あぁ、吸血鬼がどんなものかはわかった。だけど具体的にはどうすればいいんだ? この能力が無ければ俺は一般人だぞ。特に戦闘の訓練をしていたわけじゃない」

「じゃああなたが中学生の時ろくに練習もしてないのに剣道大会でいつも好成績を取っていたのはなぜ?」

 ――――俺は、確かにあの能力を使っていた。

 絶対に負けたくない相手。

 絶対に勝ちたい試合。

 相手が間合いを見切った刹那に発動し、相手がふらつくうちに胴に竹刀を当てる。

「能力を、使っていたからだ」

「その回答はおそらく不完全だわ。それだけじゃないはずよ。あなたは能力を使わずして倒せる相手が大勢いた。さっきも言ったけど、ろくに練習もせずにね」

 神城はセーラー服の袖を捲くり始めた。きゃー。一体何が始まるんだ。

「組手。レスリング。うーん、名前はどうでもいいわ。ルールも厳格には決めないけど蹴りとかは無し。もちろん超能力も無し。まあ、ほとんど相撲みたいなルールで。いきましょ」

 蟷螂かまきりのようなその姿。

 まさに、戦闘態勢だ――――――!

「突っ立ってると瞬殺するわよ」

 先ほど胸を触ってしまったのを実は根に持っているのかと思うほどの勢いで神城が向かってくる。強烈な殺気に圧倒されそうだ。

「うっ!」

 腰を掴まれる。華奢な体躯から繰り出されるその腕は、想像を絶する力を持っていて、その力に耐える足が悲鳴をあげそうだ。

「まあでも。女子には負けてられないぜ」

 神城の腕を掴み左へ払い、俺も腰を落とす。女子相手にこの体勢はちょっぴり恥ずかしい。

 だけど、気を抜いたら負ける。その方が恥ずかしい。

「あら、お似合いよ。ビーストフォルム。そっちがその気なら容赦はしないわ」

 また、腰を掴まれた。さきほどとは威力が段違い。その力は明らかに常軌を逸していた。女子高生の平均はおろか男子高校生の平均をゆうに超えている。

 だが、負けている俺ではない。躊躇もあったが、神城の腰を掴み返した。

 どちらが上手うわてだとかはどうでもいい。そんな、単純な力と力のぶつかり合いになっていた。

「あんた、やるじゃないの。まだまだ行くわよ!」

「そう言っておいて限界なんじゃないか? 神城。息が上がってるぞ」

「お互い様よ! それじゃあ、仕掛けるわよ!」

 神城は体を俺の方に近づけ、俺の左足を払おうとした。それはなんとかかわしたが、神城はすかさず体落たいおとしを繰り出し、俺はドサッっと綺麗に倒された。これで終われば神城の投げが綺麗でしたすごいですね、で終わるのだが、今日の俺は何かと災厄を被るようだ。

「あっ、あ。ご、ごめん。すぐどけるから」

 神城は顔を赤らめながら、馬にそうするように仰向けになった俺の上に乗っていた。もし、この体勢が誰かに見られていたのなら間違いなく誤解されるのではないか。

 そんな最悪の想定が実を結ぶ。

 右の方から、ガチャ、という音がした。

 鳴った方を見やると、ドアが開き、青いタートルネックを着た担任がそこに立っていた。

「あら、倫夫くんに神城さん。邪魔して悪いね。倫夫くんに、プリント持ってきたから。はい。それじゃあ続きはごゆっくり」

 今日の俺はとことんツイていない。


 *


 依然として緑の球が漂う教室で、面倒くさい授業を受ける。

 教卓と黒板の間に立っているのは、クラス担任である金元美恵だ。金元先生の担当教科は英語だ。流暢に他の国の言語を話している彼女はいったいどれほどの外国人を手に転がして遊んでいたのだろう。カナダに留学したときはモテモテだったそうだ。経験数は今の年齢を超えたとかなんとか。まあ、この風貌なら有り得ない話ではないだとクラスメイト全員が思っているだろう。

「でも、なんでわたし、独身なんでしょうね。困りますよね。先生が独り身だってことは生徒皆さんにチャンスがあるってことですよね。もちろん女の子もですよ。でもみんなは先生を口説いたりしないでね。攻めは先生の領分だから」

 今日初めてこのクラスで授業を受けているが毎回こんな調子だと先が思いやられる。金元先生がこんな勢いのまま続けている最中、ズズ、と窓側の方から椅子を引きずる音がした。先生は話をやめ、周りも静まり返る。

 女子生徒が1人、起立していた。

「せ、せんせい! それは授業とは関係のないことなのではないでしょうか……」

 振り絞ったようなその声は黒髪ショートカットの小柄な女子から発せられた。

 その言葉は、柔らかいけど柔らかい故に悪意はなく、悪意がない故に金元先生の胸に深く突き刺さる、のかもしれない。

「シクシク。やっぱり樋山さんはエラいな。それじゃあ、続きをやろっか。このイディオムだけど」

 金元先生が黒板に文字を書き始めると、樋山さんと呼ばれた女子は着席していた。

 樋山をよくみるとその頬は赤みを帯びていて、座ったあともじろじろとクラスを見回しているから、たぶん恥ずかしがり屋なのだろう。

 じゃあ、なぜ起立して先生に意見するような真似をしたのか。すぐに理解できた。

 ……芳輝の「よっ、クラス会長! さすがだぜ」という一声によって。


 英語の授業が終わると、クラスが騒がしくなる。今日の授業はこれが最後だったのだ。帰る支度を済ませ、上着を羽織ったところで、金元先生が職員室から教室に戻ってくる。

 金元先生は教卓に生徒指導手帳を置き、使われなかったプリントの裏紙らしき紙に書かれたメモを見て、ため息をついていた。

 クラスの喧騒が収まると、金元先生は「お疲れ様、明日の英語は小テストをやるから忘れずにね。それじゃあさようなら」と、エロエロ女教師らしからぬ普通なあいさつで帰りの会を締めた。

「なー、ミッチー! 一緒に帰ろうぜ! お前ん家知らねーけどな!」

「おう、それにしても芳輝は変わらずいっつも元気だな。俺の家は駅の方。芳輝は?」

「オレの家がどこにあるかは国家機密級のトップシークレットだから教えられないぜ。まあ、ヒントをやるとすると、駅を使う。つまりは一緒に帰れるってことだな」

「おー、よかった。正直な所、道に迷わないかけっこう心配でさ」

「ステイションマスターと呼ばれたこのオレに任しとき! 鉄オタには負けるけどな! 勝つ気もねーけどな! そもそも駅までの道のりに鉄道のダイヤとか駅の構造は全く関係ねーけどな!」

 そんな風にだべりながら、下駄箱から各々の靴を取り出した。目の前には校門と住宅街の景色が広がっている。駅までの道はジグザグであるためわかりにくいのだが、個人経営をしているパン屋や蕎麦屋などを目印にすればいいとの芳輝のアドバイスのおかげで、不安は完全に無くなった。

「なぁ、オレが転校したあとあの小学校はどうだった?」

 大きな民家を過ぎたところで、改まったように訊かれる。

 正直な所、あまり覚えていない。芳輝と遊んでいた頃のほうが鮮明に覚えている。

「特にインパクトのあることはなかったかな。強いて言えば、内川と柳田が付き合ったぐらいかな。あれはびっくりした」

「ななななんだって!? まあ、内川は可愛かったし内川は可愛かったし内川は可愛かったよな。で、でも柳田……が?」

「強烈だろ。芳輝がいたころは、屁をすることしか能がないとか言われてたのにな。まあ、あの時がさんざんな言われようだったのかもしれないけどそれにしても、だよ」

 思い出話に耽っていると、駅まではあっという間だった。路線を多く持つこの駅は、この街に来てからまじまじと見たことはなかったので、いざこうして大きさを目の当たりにすると思わず驚嘆してしまいそうだ。

「じゃあな、ミッチー。また明日。道、忘れんなよ」

「おう、芳輝もまた明日。あんま夜更かしし過ぎるなよ」

「ラジャー。ちょっとだけにしとくぜ」

 芳輝と別れひとりきりになった。帰宅ラッシュで駅から出てきたサラリーマンたちの足音が気になって目をやると、カメラマンやアナウンサーが道行く人にインタビューをしているのが見えた。

 以前はここと比べると随分田舎に住んでいたから、物珍しく思える。

 そんな駅前にも、緑の球が浮いている。改札機の真上、時計の横、時刻表に張り付くように。

 でも、その数は数えられる程度で、別段奇妙というわけでもないから、気に留めずに自宅のあるマンションの方へと歩き出す。


 途中でスーパーマーケットに寄って肉や野菜やヨーグルト、その他もろもろを購入し、店外に出た。

 そのころにはすでに空に星が見え始めていた。それはあたりが暗くなればなるほど疎らではなくなっていく。都会であるこの高栖市では以前住んでいたころの星空に比べると、星は少ない。否、見えない。

 人間の感覚や観測は感情や、相対的な視点に左右される。星空はその顕著けんちょな例だ。大きな幸福に包まれていれば小さな幸福に盲目となり、貧しい状況下では小さな幸福にさえ貪欲となる。人間というのはそういう生き物なのだ。

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