一
森に、咆哮が響き渡った。
それに続くのは木がへし折られる音。人の胴ほどもの太さのそれを片手で押し退けるように倒したのは、一匹の巨大な人喰い鬼だった。
身長二メートル半。灰色の肌に、岩のような筋肉。頭部に角を何本か持ち、唇の両端からも長大な牙が覗いている。
行く手を阻む障害物を除き、満足げな唸り声を上げると、オーガはゆっくりと走り出した。
その数十メートル前方。オーガから逃れようと走る二つの人の姿があった。
どちらもフード付きのマントを羽織り顔の半ばを隠しているが、内側に着込んだ衣服や足に履いた靴は人間の女性のものだ。
片方は小柄で、もう片方はそれよりは背が高い。
何度も背後を振り返りながら、二人は走る。
今、オーガの姿は木々に隠されて見えない。だが時折聞こえる咆哮や木をへし折る音、そして何よりその足音が、確実に迫ってきている。
と、
「――っ」
小柄な方が、足元の木の根に躓き、体勢を崩した。そのままなすすべもなく転倒する。
数歩を走り過ぎたもう一人がすぐに引き返し、手を差し伸べた。
その助けを借りて立ち上がろうとする。が、右足を地についた途端小さな悲鳴を挙げて再び倒れこんだ。転倒した時に足首を捻ったらしい。
地に伏したまま、背後を見る。足音は迫ってきている。
前方を指差し、もう一人に向かって何事かを言った。
言われた背の高い方は、しかし首を振り、肩を貸すような形で小柄な方を助け起こそうとする。
そうこうしているうちに、ついにオーガが姿を表した。
追い付いた獲物が動けないでいるらしいことを見て取ったオーガの顔に、残忍な笑みに似た表情が浮かんだ。
そのままその絶望を楽しみでもするかのように、ゆっくりと近付く。
背の高い方が、倒れたままの小柄な方の身体に覆い被さった。その身を庇うように。
顔だけはオーガの方を向き、フードの下の二つの瞳が真っ直ぐにオーガを睨み付ける。
オーガは無論意にも介さない。天に向かって一声吼えると、右腕を振りかざした。緩く開かれた掌、その指先には、鋭い爪が生えている。
大きく踏み込みながら、その右腕を二人に向かって振り下ろす。
そして、
「だらあああぁぁぁッ!」
人の声が響き、銀の光が宙を疾走り、そしてオーガの右腕が吹き飛んだ。
あわやというところで横手から飛び込み、大剣の振り下ろしの一撃でオーガの右腕を肘の下辺りから叩き斬ったのは、冒険者風の出で立ちの青年だった。
革鎧。金属の兜。手にした大剣と、それとは別に腰の剣帯にも剣を下げている。
右腕を斬り飛ばされたオーガは体勢を崩し、踏み込みの勢いそのままに二人の女性の横手を転がっていった。その先の木に背中からぶち当たり、根本からへし折って停まる。
青年は剣先を地面にめり込ませた大剣を持ち上げながら、女性二人に向かって、
「何してやがる! とっとと逃げろ!」
言われた言葉に、背の高い方の女性ははっとしてもう一人を見る。だが、未だ立ち上がれず、またすっかり息が上がっている様子に、青年の方を見て首を振った。動けない、と。
青年は舌打ち一つ。それからオーガの方に向けて大剣を構えた。全長約二メートル、両刃で真っ直ぐの肉厚の剣身と、両手で扱うための長い柄を持った、全体的にやや古びた剣だ。
オーガは座り込んだ姿勢で、血を吹き出す右腕の断面を見つめていた。何事が起こったのか判らないといった表情のままに。
やがてゆっくりと立ち上がりながら、顔を青年に向けた。その顔に、憤怒の形相が浮かんだ。
青年は剣を構えたまま横へ移動を始めた。オーガの注意を女性二人から引き離すように。
オーガもまたもはや彼女らは眼中にも無いとばかりに、牙を剥き出して青年を睨み付けている。
そして、青年が充分に二人から離れた頃、
「――――ッ!」
オーガが一声吼え、青年に飛び掛かった。
オーガの左拳が唸りを挙げて飛び、或いは横薙ぎに打ち払われる。まともに入ればそれだけで勝負が着いてしまうであろうそれらを青年は紙一重で躱し、隙を突いて剣を突き入れ、或いは斬り付ける。
青年の攻撃は散発的にオーガに傷を負わせるが、いずれも浅く、オーガは意にも介さない。先の一撃のような、充分な勢いを伴って不意を突いた一撃でもなければ、頑丈なオーガの肌を貫くのは難しい。
また、青年の攻撃は、殆ど二種類に限られていた。
刺突と、真っ直ぐの振り下ろし。
単調とすら言えるものだ。回避の身のこなしに比べて、明らかに大剣を使いこなせていない。
青年の攻撃が有効打にほど遠いのを悟ったのか、オーガの顔に嘲りのみ笑みが浮かび始め、それに反するように青年の表情には焦りの色が混じる。
「くそっ……!」
青年がオーガから大きく距離を取った。
呼吸を整え、大剣を青眼に構える。
そして、待つ。
「……?」
動きを停めた青年に、オーガが怪訝な表情を浮かべた。
しばしの、間。
だがそれでも青年が動かないと見て取ると、
「――――!」
一声吼え、疾走る。
その直前。
「おおおおおッ!」
青年が動いた。
突っ込んで来るオーガを迎え撃つ形で、剣を振る。狙いはオーガの首筋、斜め上からの袈裟懸け。
充分な距離。勢い。後の先を取ったことにより、オーガ自身が疾走る勢いも含め、最初の一撃以上の破壊をもたらし得る一撃。
だが、
「――っ?!」
硬い音が響き、青年の動きががくりと停まった。
斜めに振り下ろそうとした剣身が、脇の立木の幹に喰い込んでいた。
「しまっ――」
た、と口に出す間も無い。オーガの拳が眼前まで迫っている。
躊躇したのは一瞬にも満たない間だった。
青年は剣から手を離すと、後方に跳び、両の足でオーガの拳を受け止めた。全身の発条で拳の衝撃を吸収し、それが弾ける直前、さらに跳ぶ。
空中で身を捻り、地に着いた時には、腰の剣を抜いていた。
全長約一二〇センチ。短い柄を持った片手用だ。先の大剣と比べればいかにも頼りない武器に見える。
だが、剣を持ち替えたところから青年の動きはがらりと変わった。
再び拳を構えようとするオーガに向かって今度は自分から間合いを詰める。そして剣の連撃を叩き込んだ。
疾い。先程に数倍する速度で剣が宙を疾走り、オーガの身体に無数の切り傷を刻み込む。
一つひとつの傷は先程以上に浅いが、それでも数が多い。オーガが苛立ちの声をあげ、左腕を大きく振りかぶった。
青年は真っ直ぐ突き込まれるそれを躱すと、跳躍し、その拳の上に飛び乗った。
そのまま腕を駆け上がり、
「おおおおおおおッ!」
剣を、オーガの左目に突き込んだ。
「〜〜〜〜ッ!」
オーガが苦悶の叫び声をあげ、両腕を滅多矢鱈に振り回す。
その一つに殴り飛ばされ、青年の身体が吹き飛んだ。
立木にぶつかり、その根本に落ちる。どうにか足から着地し、剣を構えようとするが、その身がぐらり、と揺れ、膝を着いた。
「〜〜〜〜……」
オーガは顔の左側を手で押さえたまま、残った右目で青年を睨み付けている。
そのまま両者はしばらく睨み合い、
「…………」
やがて、オーガはくるりと振り返ると、茂みの向こうへ去って行った。
●
「……ふう」
さらにしばらく経ってから、青年は立ち上がった。
自分の身を調べ、負傷が無いことを確認すると、立木に喰い込んだままの大剣に視線を向け、
「……ちっ」
舌打ち一つ。
それから、二人の女性の方へ向かった。
二人は先程の場所に蹲ったままだった。
「おい、大丈夫か?」
「え? あ、はい」
掛けられた声に、背の高い方が返事をし、フードを除けた。
長い黒髪の、二十歳代の女性だった。やや呆然とした表情のまま、
「あの、助かりました」
「ああ。っつうかこんなところで何やってたんだあんたら。街道脇の野宿の用意、あれ、あんたらだろ?」
「ええ、そうです。旅の途中で、暗くなる前に野宿の用意をしようとして、それで薪が足らなかったので森の中に広いに入ったんですが……まさかあんな怪物が出るとは思わなくて……」
青年は嘆息を一つ漏らし、
「ああ、そうだな。普通はあんなもんが住む森じゃねえな。まあ巡り合わせが悪かったってところか、色々な意味で」
「色々な……?」
「それはこっちの話だ、気にすんな。それより、あんたらどっちから来たんだ? 野宿なんかしなくたってもう少し街道を南方向へ進めば村があるぜ?」
「そうなんですか……?! でも地図には」
「載ってねえか? まあ小さな村だしな。今からなら陽が沈む前には着けるだろ。俺も戻るところだし、連れてってやるよ。連れの様子はどうだい?」
女性はそう言われて初めてもう一人の存在を思い出したかのように、
「あの、大丈夫ですかー、シャルロット様……?」
すると、
「大義であった!」
言葉と共に、小柄な方が勢い良く立ち上がった。
同じく勢い良く跳ね除けられたフードの下から現れたのは、十五、六歳ほどの、金髪の少女の顔だった。眉を立てた笑みの表情で、青年を真っ直ぐ見ている。
「あの巨人を追い払うとは、強いのう、お主!」
「お、おう……?!」
シャルロットと呼ばれた少女は、思わずといった様子で身を引く青年に向かってつかつかと歩いて行く。右足を着いた時、僅かに表情を歪めるが、すぐに笑みを戻し、
「名は何と申す?」
「……ヴィンセント」
「ほう、ほう! 良い名じゃ。ますますもって相応しい」
「ちょっと、あの、シャルロット様ー? 相応しいって……」
と、女性。
「何じゃジャネット。不服か?」
「……おい、何の話だ?」
怪訝な表情で青年――ヴィンセントが問う。
シャルロットは、ジャネットと呼んだ女性を押し退けるようにすると、
「うむ、他でもない……と、そう言えば名乗っておらんかったな。これは失礼した」
「名前なんぞどうでも……」
「わらわはシャルロット。シャルロット・アレクシア・ラ=ファール。そしてこれは侍女のジャネットじゃ」
「大層な名乗りだな。どこのお貴族様だよ。ラ=ファール……」苦笑と共にそう言いかけたヴィンセントの表情がふいに変わり、「ラ=ファールだと?」
「うむ」
シャルロットは大きく頷き、
「ラファール王国国王、ディミトリアス・ラ=ファールの娘じゃ」
そして、こう続けた。
「どうじゃお主。わらわの騎士にならぬか?」
その言葉に、
「……ああ?」
ヴィンセントは思い切り眉をひそめた。