空から来た男
りん子が空を見上げていると、雲間から、とても太った人が落ちてきた。
その男はりん子の爪先から五十センチほど離れた地面に転落し、顔を打ちつけた。辺り一帯が振動し、りん子は砂煙を頭からかぶった。
「危ないじゃないの」
スカートを払いながらりん子は言った。
男はむくりと顔を上げた。頬肉に埋もれた、白目がちな目でりん子を見る。
「安い中華屋って、このへんにないんですかね」
「中華?」
「俺、昨日からものすごい中華が食べたい気分なんスよ」
男は半分地面に埋もれていた身体をよじり、起き上がった。太い、でかい、目の前に立たれると視界が悪い。りん子は半ば感心しながら男を眺めた。
「そんなに太ってるのに、よく飛べたわね」
「飛んでないです。落ちてきました」
男はきっぱりと言い、体を振って砂を吹き飛ばした。
「じゃ、そういうわけなんで、中華屋に案内してください」
「何よそれ。何で私が」
「あなたが空を見ていたところに、俺が落ちてきた。そういうことッスよ」
わけがわからない、と思いながら、男が空から来たことに引っかかりを感じたりん子は、そのまま並んで歩き出した。
「何で落ちてきたの?」
「ラーメンと肉まんのセットを食べに来ました」
「ないと思うけど」
「何ですと!」
男はりん子を振り返って言った。風でりん子のブラウスの襟が浮き上がった。
「とにかく歩いて。通行の邪魔よ」
「ラーメンと肉まんは最高の組み合わせなのに……」
ぼやき続ける男を引き連れて、りん子は『ぶたぶた亭』に入った。
背もたれのない小ぶりの椅子に、男の尻は入りきらず、不自然な姿勢でメニューを開く。むちむちとした腕を切り分けてチャーシューにしたらどうだろう、とりん子は思った。
男はとんこつ塩ラーメンと半ライスと餃子を、りん子はチャーシューメンを頼んだ。
「点心頼まないの?」
「点心、て上品な気分じゃないんスよ。どっしりもっちりした肉まんがいいんです」
どっしりもっちりした体で言われると、なるほど説得力があった。
「肉まんならザキヤマね」
「俺は名村屋ですね」
「名村屋って味濃くない?」
「そこがいいんですよ。ザキヤマは袋開けた瞬間にイースト菌のにおいがして、何だこれパンじゃねえかって」
ははは、とりん子は笑った。
店員が出てきて、二人のメニューがテーブルに並ぶ。男は麺をすすり、ばふばふとライスを食べ、汗をぬぐった。
「ラーメンは」
コップの水を飲み干し、ピッチャーから注ぎ足し、また飲んだ。
「シーフードヌードルが一番」
「それとんこつだけど?」
「そうっスね」
りん子は醤油味のチャーシューをひょいとすくって食べ、頬杖をついた。
小さい頃、一人で留守番をしながらこっそりタマゴめんを作った。冷蔵庫のかまぼこや焼き豚を切ってトッピングし、夢中で食べた。甘じょっぱい湯気で窓がくもり、つやつやの黄色い麺はあっという間になくなってしまった。
「意外とジューシーでしたね」
男は最後の餃子にたっぷりと醤油をつけ、口に放り込んだところだった。
「あっ、ちょっと、一つくらいくれてもいいじゃない」
「麺、のびますよ」
もう、とりん子は言い、どんぶりを持ち上げて残りの麺を一気に食べた。
勘定を済ませて外に出ると、男はズボンのポケットに財布を押し込んだ。
「帰るの面倒ですねえ」
「帰ってよ」
「帰らなくても、俺ならいくらでもいますから」
りん子は立ち止まった。男も立ち止まり、後ろから来た人たちが迷惑そうに振り返りながら追い抜いていった。
ざざざ、と頭の中を映像が走った。空が不気味にうねり、灰色の渦の中心から男が降ってくる。何体も何体も、電池の切れた人形のように、太った男が落ちてくる。体中の肉を振動させて、薄笑いを浮かべ、無数の男の無数の唇が同じ言葉を唱える。
「肉まん買ってきません?」
頭から波が引いていった。雑踏と車の行き交う音が戻ってくる。男は一人だった。
空はいつも通りの空だった。男は頬肉を持ち上げて笑った。まるで本当に空の彼方から来て、全てを知っているような顔だった。
コンビニで、男は特大肉まんとピザまんを買い、りん子は店員に頼んで冷凍肉まんを三つ包んでもらった。
「通っスね、りんさん」
男はそう言って、先にコンビニを出てどこかへ歩いていった。あっさりしたものね、と思いながら、りん子はインスタント麺のコーナーに目をやった。あのタマゴめんは、いつにも見かけない。パッケージも味も、本当のところはうろ覚えだった。
冷たい袋を提げて、りん子は道に出た。ふと、雲の中を遠ざかっていくいびつな飛行機のようなものが見えた。