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堺面×共闘 外伝

作者: 葉月作哉

堺面×共闘  外伝「始まりの閃光」

                             葉月 作哉




 罪を犯した者を裁くのは誰だろう。

 知識のある人か、人によって作られた法律か。

 では罪を感じていない人を裁くのは誰だろう。

 赤の他人か。

 幸せを奪われた者か。

 この救いを求める心を癒やすのは誰なのだろうか。

 わからない。わからない。




 寒さがまだ肌に染みる春の朝。

 部屋のドアを静かに開けた一人の少女が、その惨状を見て短く息を吐く。

 部屋には小学生ぐらいの少年少女が部屋の左右にある二段式ベッドで眠りについている。

 いつのまにか上下逆さまになった少年、枕を人形代わりに抱きしめたまま眠る少女。

 中央を男女に分けているカーテンを開けながら、吊り目になった少女は窓際に立つ。

 そして一気に窓のカーテンを開け放つ。

「ほおら、起きろ! 朝だぞ!」

 窓から射す光を背に少女は叫ぶ。

 凄みをきかせた声に眠りに落ちていた少年少女は瞼を擦りながら夢の中から帰還する。

「お姉ちゃん、ちっち」

「トイレに行ってきなさい」

「私の髪、ぼさぼさ」

「櫛でとかしなさい」

「お人形さんの夢を見たの」

「それは良かったわね」

「もう一回寝る」

「早く起きろ!」

 毎日の行事とはいえ、朝からの騒動は肉体的にではなく、精神的に疲れる。

 だがこれは決して虐待ではない。

 ここでは年長者が年下の面倒を見るのが義務となっている。

「刹那、そっちは大丈夫?」

 廊下から声をかけられ、刹那と呼ばれた少女は声を張り上げて答える。

「ああっ、知子。こっちは終わった」

「私達も早く準備して行きましょう。学校に遅刻するわよ」

 ドタドタと駆け足の音を聞き、時計に目を移せば余裕が無いことを示していた。



 ここは京都より東、名古屋にやや近いとある街。

 その街はずれにあるのが養護施設『育ちの家』で、いわば両親を不慮で亡くした子供達を、悪く言えば育児放棄した両親に代わり子供を育てる政府管理の養護施設である。

『育ちの家』の門をくぐり、二人の少女が制服姿で肩を並べて歩く。

 一人は(こう)(ざき) (せつ)()

 静閑な顔つきと肩まである髪、やや吊り目な彼女からは隙を他人に与えない殺気にもにた雰囲気を漂わせている。

 もう一人は()(とう) (とも)()

 その名の通り知的な印象を与える赤いフレームの眼鏡をかけた彼女は、穏やかな顔で周囲から好印象を抱かせる。

 対照的な二人は同い年であり、この春から同じ高校に通い始めている。

「ふう、それにしても疲れる。どうしてあの子達は寝起きが最悪なんだ?」

 まだ一日が始まったばかりなのに刹那にはさっき、戦争でもしたかのような疲れが肩にのしかかる。

 あからさまに肩を落とす刹那に横を歩く佐藤はくすりと笑う。

「あら、刹那だって昔は、寝起きは最悪だったわよ。私、先輩によく言われたもん。刹那の寝起きの悪さを何とかしてくれって」

 わずかに頬を朱に染めて刹那は反論する。

「いや、そんなことは無いと思う。すぱっと起きたはず……」

「連帯責任でその日のおやつ抜きになったの何回あったかな……」

 彼方の空を見て言う佐藤に、刹那はぐぐぐっと唸る。

「わかった。因果応報と言いたいんだろう」

「そう因果応報よ」

 面白くない顔をする刹那に対し、佐藤は逆に上機嫌になって学校への道を歩く。

 いつもと変わらない日常、無くなってまた手に入れた日常がそこにはあった。



 刹那と佐藤は学校に到着し、教室に向かう廊下の片隅に人だかりががあることに驚く。

 皆が視線を向ける先にあるのは、先に行われた定期テストの順位表だった。

「むうう、知子。一位だ」

「あらら。偶然よ偶然」

 頬に手を当てて謙遜する佐藤を尻目に刹那は肘で突いて我が事のように喜ぶ。刹那と佐藤は小学生の時に育ちの家で知り合った。先に入所していた刹那と相部屋になって以来、同じ小学校、中学校そして今は同じ高校に通っているが、その成績優秀なところは変わらない。

「刹那は……、中間ぐらいかな」

「私はこれぐらいで丁度いい」

 生真面目な佐藤のことをよく知る刹那は勉学で争う気などない。夜、自分が就寝している間も机に向かっている佐藤の努力を鑑みればこの結果は当然の帰結だと思っている。

「あ〜ら、あら。ごめんあそばせ」

「むっ」

 生徒の垣根を言葉一つで壊していく女子生徒に刹那は吊り目をさらに吊り上げる。

 腰まで届くであろうブランの髪をちらつかせ、態度も歩き方も壮大な彼女は廊下に張り出された成績表をじっと睨み付ける。

(ひめ)(かわ) (しずく)さん……」

 佐藤の声に雫は一瞬だけ肩をピクリと跳ね上げる。

 ギギっと首を回し、悔しそうな顔をしたと思ったらすぐに不敵な笑みを浮かべる。

「あら今回は不覚にも二位でしたか。でも佐藤さん、この程度で負けを認める訳にはいきませんわ」

 腰に手を当てて、相手を威嚇する雫に佐藤は柔らかなほほ笑みで返す。

「そんな勝ち負けだなんて……。私はそんなつもりないし」

 パタパタと手を降る佐藤の横で刹那はそっぽを向く。

「負け惜しみにしては芸が無いな」

 佐藤は控えめに対応したのに、刹那は明らかに侮蔑の言葉を投げかける。

 雫はかんに障ったのか、刹那を睨み付ける。

「光崎さん。私はあなたに何も言ってないんですけど」

「じゃあ、私もあんたには何も言ってない」

 ふんと鼻を鳴らしてさらにそっぽを向く刹那に雫の怒りの炎をが燃え上がる。

「勉学で負けるけど、体力で勝てると思ったら大間違いよ」

 沸点が低いと思いつつ、その言葉に刹那もカチンとくる。

「だったら体育の授業でコテンパンにしてあげる。顔を洗って待ってなさい」

 双方睨み合い、やがて互いに逆方向へと歩き出す。

 オロオロしていた佐藤はようやく刹那に追いつき、一緒に教室へと入っていった。



 佐藤は心の中で因果について考えていた。

 朝、刹那と雫は喧嘩して勉強ではなく体育の授業で決着すると言ったがその機会がすぐに訪れたことに、世界はうまくできているな、と心の中で呟いた。

 今日の体育の授業はまさかのバレー。

 二クラスないし三クラスがまとまって授業を受けるため、コートを二面使って行われる。

 あるコートでは普段、運動をしない女子生徒が和気あいあいとバレーそのものを楽しんでいる。上手くトスが出来なくても笑ってごまかせるほど場の雰囲気は和やかだ。

 しかしもう一つのコートでは、

「トスゥ!」

 怒声が響く中、言われた気弱な女子生徒がびくびくしながらトスを上げる。

「爆裂・ウルトラ・アターック!」

 奇妙な技名を出しながら刹那は相手コートにアタックを叩き込む。

 ボールが床にめり込むのでは無いかと思われる強烈なアタックが決まり得点が入る。

「よっし」

 一人、ガッツポーズを取る傍ら相手コートでは金切り声が上がる。

「キイイイ、何やってるの? あれぐらい取れるでしょ」

 姫川 雫が自陣の選手を叱責していた。

 内心では取れるわけ無いでしょ、と思うが口に出して言うほど愚かな生徒はいない。

 刹那のコートでも得点が決まって、ハイタッチ、などをやる雰囲気でも無い。刹那と雫のライバル対決がただの火から炎に変わるのにそう時間はかからなかった。ミス一つすら起こせないこの状況に周りの生徒達は体力的にと精神的に参り始めていた。

 刹那側コートからのサーブボールを難なく拾い上げ、いきり立つ雫へとトスが上がる。

 ふわっとした跳躍とエビ反りのごとく背中を曲げる。

「ロイヤル・プリンセス・アターック!」

 顔に似合わずファンシーな技名に周りの生徒は引いてしまうが、アタックそのものの威力は申し分無かった。

 ビシッとコートの隅に叩きつけられ、刹那チームと雫チームは同点となる。

 コート中央を境に刹那と雫が睨み合う。

 息が弾み、滴り落ちる汗を拭い、汗で体操着が肌にまとわりつく感覚を無視して、両者は視線を逸らさない。

 同じコートの上にいる佐藤のみならず他の生徒達は早くこの緊迫した場から早く逃れたいと切に願っていた。

 キーンン、コーン、カーコン。

 まさしく天の福音が体育館に響き、授業の終わりを告げる。

 生徒達はさっさとコートから離れ、ある者はボールを、ある者は更衣室を目指して歩き出す。

「ちっ」

 どちらが舌打ちしたかわからないが、刹那と雫はようやく臨戦態勢を解く。

 そして雫はなんとなく刹那の顔を見ていた。見て、そして驚いた。

「光崎さん、目が真っ赤よ」

「えっ?」

 言われて思わず片手で瞼を触る。今まで気がつかなかったのが不思議なくらい熱く、燃えるような感覚が両目に感じる。

「どうしたの? 刹那」

 佐藤が心配そうに駆け寄り刹那の肩に手を添える。

 その瞬間、びくりと体を震わせ、刹那は佐藤を見ないまま告げる。

「何かゴミが入ったみたい。顔、洗ってくるから先に行って」

 そう言うなり刹那は駆け足で体育館を後にする。

 残された佐藤と雫は顔を見合わせ、首を捻る。



 

 刹那は体育館を出てすぐの女子トイレへとなだれ込むように入る。

 手で顔を隠しながら、指の隙間から誰もいないことを確認すると、洗面台にある鏡で自分の顔を覗き込む。

 激しいバレーをしたため、髪が乱れきり、額にはまだ汗が引かずに残っている。そしてその下、瞼の中にある瞳が真っ赤に染まっている。

「熱くなりすぎたかな……」

 世に言う充血と言うものでは無い。血が上って目が腫れた訳でも無い。

 刹那は昔から興奮すると瞳が黒から紅になる。

 医者に診せたことはなく、いや診せようと思っても理解できる代物で無いことはわかっていた。

 これは病気でも何でも無い。

 ある事件をきっかけにして現れた心の傷――その証。

「ふう……」

 蛇口を捻ると、顔を何度か洗うが瞳の色は朱に染まったまま。

「しばらくここにいるか」

 瞳が紅くなることが問題では無い。あの雫に、そして佐藤に知られるのが怖かった。

 刹那は静かに瞼を閉じて、瞳が元の色を取り戻すまでじっとしていた。



 女子更衣室で着替えを終えた佐藤は刹那が来るまで待っていた。何人かの女子生徒も後片付けをしていたため、着替えるのが後になっている。

 そこへ刹那が何事も無かったように更衣室へと入ってきた。

 瞳も先程の紅い色から黒へと戻っている。

「ごめん、ごめん。すぐ着替えるから」

 待たせてしまった佐藤に謝りつつ、刹那は体操服を脱ぎ始める。

 あれよあれよと服を脱いで下着姿になった刹那を佐藤は凝視する。

 決して筋肉隆々ではないが、その引き締まったそして流れるような体つきに思わず見とれてしまう。背丈は全く同じ、そして同じ食事をしながら、そして同性でありながら刹那の姿は、自分とはかけ離れた存在に見える。この細い腕からよくぞあんなアタックが出来ると感心してしまう。

「む?」

 好奇な視線に気付いた刹那は、思わず着ようとした制服で前を隠す。

「なになに? 私にはそんな趣味はない」

 友人が危ない趣味に走ったのかと勘違いし、その動作に佐藤は吹き出しそうになる。

「違う、違う。刹那ってば、そんなに運動神経良いのに、部活とかしないのかなって思ったの」

 佐藤の問いに口を開こうとして、

「それは……わきゃあああ……」

 後ろから脇腹を指で突かれる。

「わきゃ、こら……、吉見、あんた、どこさわって」

「いや〜、ほんともったいない。ぜひとも我がソフト部に欲しいくらいだわ」

 同じクラスの吉見と呼ばれた生徒はなおも刹那の脇腹を突く。

「それなら陸上部に欲しいくらいよ。刹那だったら余裕で全国いけるし」

「いやそれならバスケ部に……」

 四、五人の生徒が刹那と佐藤を囲んで何やら言い争いを始める。

「でも、二人は『育ちの家』出身でしょ。門限厳しいんじゃない?」

 ある生徒の何気ない言葉に一同は水を打ったように静まりかえる。

「そう言えばそうだった」

「ほんともったいないな」

 口々に言うが、言葉の端には触れてはならない遠慮が見て取れる。

 育ちの家が身寄りの無い子供達を預かる施設だということは、この街に住む者達には周知の事実だった。また高校になると遠方からくる者がいるが人伝いにそれを聞かされる。すると家の出身ということだけで妙な憐れみの視線や扱いを受けることがある。

 刹那や佐藤は小学校からそういう異種の視線を受け続けたため、もはや気に留めることはない。彼女たちの反応も当然のものとして受け止める。

「まあ、門限という問題もあるし、色々、思うことがあるからな」

 刹那はぽつりと呟くと、急いで制服を着る。

 そんな友人の態度に佐藤はわずかに視線を落とした。



 昼休み。

 刹那と佐藤は学校の屋上に陣取り、施設の職員が作った弁当を頬張る。

「門限かあ。ちゃんと理由があれば許可してくれるの知ってるくせに」

 ジト目で佐藤は刹那を見る。

 だが刹那は気にせず弁当のおかずに箸を伸ばす。

「私も学級委員の仕事がある時は許可もらっているし、刹那だって部活やろうと思えば出来るでしょ?」

 責める訳では無いが、佐藤から見ても刹那の運動神経が無駄に使われるのはもったいないと常々、思っていたことだった。

 横からの視線に堪えきれずに刹那は口を尖らせて言う。

「言っただろう。思うところがあるって……」

「ああ、街の剣道場に通っていることか」

 刹那は授業の後、街にある剣道場に度々、出入りしていた。門限を守るためにそう長い時間は出来ないが、刹那にとって唯一、勉強以外に打ち込んでいるものであった。

「でも、門下生にもなっていないんでしょ。公式試合にも出ないし。何で剣道をやっているの?」

 佐藤の疑問に言葉が出ない。

 刹那にとって剣道場に通っているのは、剣道が好きなのでは無い。ある目的のために、手段として、そして自分を鍛えるために、通い続けているのである。試合に出て活躍することなど夢にも思っていない。

 いつも傍らにいてくれる彼女にも言えない、言っても理解できない、この世界の範疇にないものの存在を知っている、だから巻き込みたくない。

 お節介な、でも心配してくれる佐藤に明るく答える。

「己を鍛えるためって前にも言っただろう。心・技・体、これを向上させるのに剣道はうってつけだ」

 青い空に向かって言ってみるが、心の中には空虚な風が靡いていた。

(いつまで騙し続けられるかな……)

 ふと隣の佐藤に目を向ける。

 彼女は軽く微笑んで小さく頷く。

「わかった。刹那がそう言うんだったら、この話題はこれでおしまい」

 そう言って、いつの間にか空になっていたお弁当箱をしまい始める。

「そうそう私、今日も学級委員の仕事があるから遅くなるの。刹那は?」

「今日は剣道場は休みだ。家に帰るよ」

 そう、と言って佐藤はあることを思い出す。

「そう言えば、最近、通り魔がいるみたいだから気をつけてね」

「ん」

 冬から春へと変わり、高揚する気持ちは時として人をあるまじき行為に走らせるようなのである。刃物で切りつけられた、変な人に追いかけられた、バックを盗まれそうになった。この手の事件は後を絶たず、学校からも特に女子生徒の一人帰宅は用心するよう通達がなされていた。

「それと前から言ってるけど裏山には行かないでね。何でもガスが発生したらしく、見物に行った人も倒れたって聞いているわよ」

 まるで母親のように心配する佐藤に、刹那は安心するように言う。

「大丈夫。私はそこまでおてんば姫じゃあないよ」

 などと言った手前、内心、冷や汗を掻いていた。

(裏山ね……。今日、行くつもりだったんだけどな)

 もちろん、見物なのではない。

 確かめたいのだ。

 あいつらがいるかもしれないから。




 刹那は学校から育ちの家へと直行すると、鞄を部屋に置き、ベッド脇から木刀を持ち出す。

 ただこのまま外へ持って行くと世間的にまずいので、細長い袋に入れるとそれを手に外出する。子供達からはどこへ行くのかと尋ねられたが、剣道場に行く、これだけで納得した様子だった。

 育ちの家から数キロ離れた裏山。山と言っても固有名詞があるほど有名ではなく、山道も人の手がかけれれていない、自然によって出来た道があるだけ。

 この名も無き山はここ数日、奇妙な出来事が起きていた。最初は山菜を採りに来た老夫婦が倒れていたという事案だった。幸いにも外傷はなく、すぐに意識を回復したため、事なきを得たが裏山に入り、倒れる人は後を絶たない。

 遊びで裏山に入った子供達、中腹から夜の街並みを見ようとしたカップル、警戒に当たっていた警察官まで倒れるという事件にまで発展した。

 神様の祟り、幽霊やその類を見たとか、憶測による噂は尾を引いて街中を駆け巡っている。対処に苦慮したお偉い方は、何かしらのガスが発生したと言う話をでっち上げ、裏山の区域を立ち入り禁止にした。真偽はともかく、街中の人々は裏山には近づかないようになっていた。

 ただ一人、刹那だけはその奇妙な現象に眉をひそめていた。

 この街に来て数年、裏山には佐藤と共に遊びに出かけたりしていた。だが今日、騒ぎとなっている現象は今まで聞いたことも無い。ここ最近になって起きた出来事なのである。

 人々が何の前触れも無く倒れる。

 この事実に刹那は疑問を抱く。

(もしも有毒なガスなら、昔から騒ぎになってもおかしくない。森林伐採とか、人間の手によって自然が破壊されてガスが発生した、というならまだ納得が出来る。だけど裏山は手つかずの状態で残っている。人の手が加えられた痕跡は無い。だとするなら原因は一つしかない)

 刹那は進入禁止のロープを易々と跨いで山道を歩き始める。

 どこからともなく拭いてくる風が木々を揺らし、あたりをざわつかせる。その音はまるでこれ以上、踏み込むなと警告しているみたいだ。しかし、刹那の歩みは止まらない。

 右手にはしっかりと木刀を握りしめ、眼光はするどく前を向いて、微妙な変化も逃さない、不意に何かかが出てきても対処できるように警戒する。

 やがて裏山の中腹に差し掛かる寸前で、刹那は足を止める。

 一端、目を閉じて、そして一歩を踏み出す。

 空気が変わったような気がした。

 刹那は首を一回りして周りの景色を見る。

 風に揺れていた木々はいつの間にか静かになり、遠くで聞こえていた鳥の鳴き声も止んでしまった。見える景色そのものは変わらない、だがさっきまで見ていた景色から、何かかが抜け落ちたような、色彩豊かな絵画から色が無くなるように、世界は変わってしまった。

「やっぱり、あいつらの仕業か……」

 だが刹那は、この変化に何の感情も抱かない。ただ奥歯を噛みしめるだけ。

 再び歩き出した刹那は、裏山の中腹へとたどり着く。

「!」

 刹那はおもむろに木刀を構え、周りを見渡す。

 うっすらと気配のようなものを感じ取り、木刀を構えたまま、じりじりと前進していく。

 遠くには刹那が住む街が一望できるが今はそんなものに興味は引かれない。

(くるなら来い!)

 最大限に警戒しながら、時には体の向きを変えながら、周囲を警戒する。

 はらりと、葉っぱが肩に落ち、刹那はそれを手で払う。

「葉っぱ……? くっ」

 嫌な予感がして、前へと倒れ込む。それと同時に、ぶうん、と風をなぶる音が聞こえてきた。 刹那は回転しながら、体勢を立て直し、目を見張る。

 今までいなかったもの、存在しないもの、他人に話せば馬鹿にされるであろうものが眼前に立っていた。

 それは一本の木。

 普段は地中にあるはずの根を足の代わりにして、所々に葉を付けた枝を腕にして、幹の部分が目と口の形にくり抜かれているその木は、獲物を逃して憤慨したように目をきつく吊り上げる。

 ファンタジー世界ならありそうな、現実の世界なら研究機関がこぞって持って行きそうな、蠢く木は、刹那の進路を塞ぐように立っている。

「見つけた。この化け物!」

 恐怖からの叫びでは無い。戦意と殺気を込めた言葉が刹那の口から発せられる。

 普段から厳しい目つきはさらに厳しくなり、木刀を持つ手には力が、地につく足にいつでも飛び出せるようにと溜めを作る。

「はっ」

 呼気と共に刹那は飛び出し、木刀を振りかぶる。

 斜めの軌跡をたどり木刀が木の化け物に打ち付けられる。

 だが渾身の一撃は刹那の手を痺れさせるだけだった。

「うわああああ」

 構わず何度も、何度も、木刀を振りかぶっては木の化け物に当てていく。

 力任せ、それ以外に何も無い。

 そんな必死の思いもこの化け物には届かない。

 横合いから、枝で払われ刹那は大きく吹き飛ばされる。

 地を舐め、だが闘志は揺らぐことなく再び立ち上がる。

「だああああっ」

 吹き飛ばされては立ち上がり、再び木刀を振り上げる。何度か繰り返しているうちに手には血溜まりができ、痛みが次第に強くなっていく。

「ぐっううう」

 またしても吹き飛ばされ、勢いで木刀が手を離れてしまい、崖へと落ちていってしまった。

「しまった……」

 呆然と見送る中、木の化け物はゆっくりとした足取りで刹那へと迫っていく。気配を察知し振り向むけば、木の化け物は幹にできた口を大きく開けて、獲物を口にいれる準備をする。

「こんな……奴に。私はまだ何もしてない」

 わなわなと体が震える。力の無い自分を心底、呪った。

 そして昔の恐怖が残滓として頭を過ぎる。

「うわあああああああ――」

 ただ叫んだ。今の自分の憤りを解き放つように叫んで、声は消えていった。

 木の化け物の枝が刹那に迫る。だが目は離さない。離したら本当に負けてしまうと思った。例え食われてもかまわない。ただの意地で化け物の行動を見つめる。

「業火招来!」

 別の誰かの声が辺りを包むと同時に、ヒュー、という飛来音がすると思った瞬間、木の化け物は炎に包まれていた。

 刹那は、驚いた表情で声がした方向、中腹の入り口を見る。

 そこに立っていたのは、長いブラウンの髪をした女の子。そして自分と同じ高校の制服を着ている。その人物は決して仲が言い訳では無いが忘れるはずもない。

「姫川 雫……」

 腰に手を当てて、異様に胸を張り、まるで散歩の途中ですの、というぐらい横柄な態度は姫川 雫以外に考えられなかった。

 自分を見つめる視線に気付いたのか雫は半分驚きの顔を見せる。

「光崎刹那……。何故、あなたがこの世界に。まさかあなた……」

 疑念に満ちた視線を送ってから、今度は横でガサガサと炎を消すのに躍起になっている木の化け物を見やる。

「レアではお気に召さなかったようね。だったら今度はこんがり炭焼きにしてあげますわ」

 そう言って右手を首のうなじに回し、長い髪を横に払う。

 すると髪はブラウンの髪から金色の髪へと優雅に変化した。右手にはいつの間にか扇が握られ、それがぱっと開かれる。視線はよりいっそう厳しくなり、纏う気配は一般人のものではない、戦うことに身を置く者が纏う気配だった。

 固唾を飲んで一部始終を見ていた刹那はぽつりと呟く。

「これが……退魔師……」




 木の化け物は刹那のことなど無視して、金色の髪を靡かせる雫へと的を移す。

 わさわさと体を両の手を大きく広げて雫に迫る。

「ふっ」

 両面から挟まれる瞬間、一足飛びで空中へと避難する。

「なんて跳躍力?」

 刹那が驚くのも無理は無かった。ほとんど助走も付けずに、十メートルは跳んでいる。空中でくるりと回転すると、跳び蹴りを繰り出す。

 木の化け物はもろに受けて吹っ飛んでしまう。

 ふわりと着地した雫は扇子を広げて口元を隠す。

「ふふっ、まだまだ踊り足りないわ。美女は待つのが嫌いなの」

 自分に向けられた言葉でもないのに刹那の背中に悪寒が走る。

(どこからそんな台詞がでるんだ)

 木は起き上がると、怒った様子で腕を振り回していく。

 雫はそれを華麗なステップで躱していく。

 それはまさに舞踊と呼ぶにふさわしい体捌き、見ているものを魅了するように、相手の攻撃をしなやかに流していく。

「単調だこと。もう終わりにしましょうか」

 攻撃の目をかいくぐり、再び上空へ跳ぶと、扇をくるりと一回転させ、そこに一つの円形の文字盤が現れる。

「炎よ我が前に、抗う敵を払わん……」

 扇をぱっと扇ぐと四つの炎弾が木の化け物に迫る。

 ドスッと音をたてて炎弾は当たらずに地中に埋まってしまう。

 刹那も木の化け物も呆けた顔になる。

 そして着地した雫が告げる。

「炎よ、舞い上がれ!」

 炎弾が落ちた場所から火柱が上がり、木の化け物を包み込む。四つの柱はやがて収束し、天高く燃え上がり消えていく。残されたものはなく、ただ灰のみが地表を埋め尽くしていた。



「ふう、他愛のないこと。後は……」

 金髪を揺らし、雫は刹那の元へと歩み寄る。

 所々、擦り傷だらけの刹那は呆然と近づくのを見つめるだけでじっと黙っていた。

(姫川 雫……、まさかとは思っていたけど退魔師だとは)

 お礼を言うべきか否か、迷っているうちに雫はもう目と鼻の先に立っている。

「あの……」

「じっとしてなさい」

 言う前に雫は刹那の額に人差し指を立てる。そして何やら呪文のようなものをぶつぶつと唱え始める。

「これは……」

 暖かな光に包まれて刹那の体は温もりのようなものを感じる。気付けば痛みに苛まれていた原因が取り除かれ、ボロボロだった制服も糸のほつれが無いほど綺麗になっていく。

「治癒の術式よ。衣服も直せる優れものよ」

 ウインクして説明する雫に刹那は恥ずかしながら感謝を伝える。

「ありがとう……」

 言い終えると光が止み、雫の髪も元のブラウンへと変わる。

「お礼を言われるほどではありませんわ。ただ何故、あなたがこの堺面世界にいるのか説明して欲しいわ」

「堺面……世界?」

 刹那にとって聞き慣れない言葉であり、もちろん意味もわからない。確か雫が登場した時も、この世界に何故いるのか、と同じようなことを言っていた。

 現在、立っている場所は確かに常日頃から感じ取る世界とは違和感を感じる。辺り一面は薄暗く、何より生気なるものを感じることが出来ない。粘土細工によって作り出された嘘の実態。

 刹那はこれを先程の化け物が作り出したと思っている。

 そう雫に言ったが逆に不審な顔をされる。

「堺面世界を知らない? ますますわからないわね」

「どうせ私は、あなたみたいな退魔師じゃない」

 何気なく言った退魔師という言葉に雫は驚く。この世界構造を知らずに退魔師だけは知っている。

(ははあ、そいうこと)

 何度か頷き、雫は踵を返しすたすたと歩き始める。

「ちょっと!」

「いつまでもこの世界にいるのは危険よ。私の後に付いてきて」

 まだ聞きたいことは山ほどあるのにと喉まで出かかりまた飲み込む。

 言われるままに刹那は雫の背中を追いかけた。




 山道を降りていく間に、世界がまた元に、いや自分が元の世界に戻ってきたことを感じる。見える景色に色彩が戻り、鳥の鳴き声が遠くで響き、生命力に溢れてた木々が風に揺られて踊っている。

「光崎さん、いいえ刹那」

 下ばかり見ていた刹那は呼びかけられ顔を上げる。

「あなた、堺面世界に、あの世界に行ったのは一度や二度ではないでしょう?」

 何気ない問いに、しかし刹那は顔を歪める。

「ええ、あんな化け物を何度か見てる。そして倒したこともある。今回だって……」

 正義を振りかざすつもりはない。

 ただあの化け物を、いいや化け物どもを野放しにするのは耐えがたい苦痛だった。

 何故ならあいつらは……。

「奇跡ね。何の力も待たずに立ち向かった勇気は褒めてあげる」

 言葉は角が立つ言い方だが、雫は心底この刹那に対して感心していた。誰もが逃げ出すような状況にもかからずに何の力も無いのにあの化け物に立ち向かっていったことは、例え勝てなくても賞賛に値した。

 だが刹那は額面通りに受け取らずに、歪んで受け止めた。

(そうよ。私には何の力も無い。あなたみたいな力なんて……)

 わなわなと覚めてしまった熱い気持ちが沸き上がっていた。震える手をきつく握り、口元は今にも叫びそうなのをぐっと堪えていた。

 刹那の歩みが止まったのを感じ振り返るとその様子に目を丸くする。

 眉を上げ、震える体からはやり場のない怒りを押し止めている様が見て取れる。

 そして瞳の色は体育の授業で見た紅い色。

(充血? 違う。これはまさか魔力の影響?)

 紅い瞳の端にわずかながら水が溜まっている。

「奇跡? わかっている。私には力が無い。ずっと力が欲しいと思っているのに。どうすることも出来ない。あの化け物を倒す事も出来ない。あなたにこの悔しさがわかる?」

 まさしく吠えるような声にだが雫は答えない。否、答える術を持っていない。この世に生を受けたと同時に授かった力。あって当然だと認識していたもの。無い悔しさなどわからない。

 口をきつく締める雫を無視して刹那は早足で下山していく。その背中に向けて雫は叫ぶ。

「明日、朝の一番に学校にきなさい! そこで何もかも話してあげる」

 返答はない。力が無く、力を欲する彼女の背中は小さく映った。



 雫は裏山から下山すると、そばに止まっている車に近づく。初老の男性がうやうやしくお辞儀をして雫を迎え入れる。

「お帰りなさいませ、雫様」

 雫は何も言わず車に乗り込もうとしたがそこで止まる。

(光崎 刹那……、闇喰いに単身、戦いを挑む姿勢。それに射殺すような紅い瞳。退魔師の名前を知っているのにそれ以外の知識を全く持っていない。だとしたら……)

 雫は肩越しに初老の男性へと指示を出す。

「少し調べて欲しい人物がいるのだけど、名前は……」

 初老の男性は必要以上に何も聞かずにただ黙って頷いた。




 学級委員の仕事を終え、育ちの家に戻った佐藤知子は、部屋に入るなり驚いた。部屋は真っ暗で相方である刹那はすでにベッドの中でくるまっている。何も言わずただうすくまり、こちらに顔を見せようとしない。部屋の空気が一段と冷たく感じたのは気のせいではなかった。

 何かあったと、直感でわかったが刹那の頑固さはよく知っている。

「刹那、晩ご飯食べたの?」

 何気ない日常の会話で接する。時がくれば刹那の方から話す。話さなくても、その時は刹那が自分で解決したという証だから。

 もぞもぞと布団が動き、くぐもった声が返ってくる。

「今日はいらない。疲れたからもう寝る」

 そう、佐藤はそれ以上何も言わずにドアを閉めて行ってしまう。

 悔しくてずっと泣いていたなんて言えない、刹那は殻に閉じこもるように身を縮めた。



 


 とても懐かしい夢を見ていた。とても見たくない夢を見ていた。

 テーブルを囲んで一つの家族が笑っていた。父親と母親、そして少女。

『今日は絵をたくさん描いたんだ』

 はにかむような笑みを見せる少女の頭を父親が軽く撫でる。

 それを見ていた母親が嬉しそうに笑う。

 どこにでもある風景。

 ずっと続くかと思われた幸せな風景。

 それは一瞬で奪われた。

 理不尽に、唐突に、何の前触れも無く。

 夜遅く少女は目を覚ました。こんな時間に起きるなんて今まで無かった。目を擦りながら少女は二階にある自室を出て、階段を降りた。

 ガタッと物音がして、少女はリビングに向かう。

 ヒタヒタと歩いた先に、壊された現実があった。

 化け物――、そう呼ぶしか無い異様なものがいた。夢か幻か、恐怖が一気に体中を支配し、身動きが取れなくなる。

 怖くなり視線を横にずらすと化け物の大きな腕が見えた。何かを掴んでいる。紅い色に着色された腕や足があって、顔があって、

『――ひっ』

 よく見る顔だった。

 化け物が父親と母親を両の手に握りしめている。

 ぽたぽたと血を流し、ソファに新しい模様を付け足していく。

 少女は恐ろしさのあまり、一歩引いて尻餅をついてしまう。幸いにも化け物は気付いてない。でもそんなことはどうでも良かった。

 ただ怖かった。逃げ出したかった。でも体が動いてくれない。金縛りにあったように、少女はただ惨劇を見つめることしか出来ない。

 化け物は口を大きく開けて、握っているものを捧げ持つ。

『――嫌』

 声が出る前に少女は口を塞ぎ、目を閉じて、両手で耳を塞いだ。

 夢よ覚めて。

 少女の祈りは冷徹な夜に虚しく響いた。

 



「はっ――」

 刹那は懐かしい夢を見て、見たくない夢にうなされて起き上がった。

 カーテン越しからは弱い光が漏れている。

 時計を見ればまだ朝の五時になったところ。

 頭を何度か振って、刹那はベッドから身を起こすと、傍らの机にラップで包まれたおにぎりが置かれている。それもメッセージカードが付いており佐藤の字で、

『これ食べて元気だしなさい』

 たった一文だけ書かれていた。

 まだ眠る相部屋の佐藤に視線を送り、小さい声でありがとう、と呟く。

 一口、頬張って、塩味が染みる中、改めて昨日の件を思い出す。噂を聞いて、化け物の仕業と判断し向かってみれば、逆に返り討ちにあい、幸運にも姫川 雫に助けられた。自分の去り際に彼女が残した言葉、朝一で学校に来なさい、もし彼女が退魔師ならば自分の知らない全てを知っている。自分の両親を殺した化け物の事も知っているはずだ。

 刹那は急いでおにぎりを食べると、鞄を持って部屋を出て行く前に残されたメッセージカードに、ありがとう、の文字を書き記しておく。




 朝靄がかかる学校に刹那がたどり着くと校門は閉まっており、当然のことながら人気は無い。

 誰か来ないだろうかと辺りを見渡しても来る気配はない。

 十分だけ待つか、と学校の外壁に背中を預けると、そこへ一台の黒塗りの車が校門前に停車する。

 運転席から現れた初老の男性は、刹那と目が合うと軽く会釈をし、後部座先を開ける。

 出てきたのは朝の光を受け煌めくブラウンの髪をした姫川 雫だった。

「おはよう。光崎 刹那」

 含んだ笑みの雫には刹那は不機嫌そうに挨拶する。

 雫は初老の男性に、待っているように伝えると刹那と向き合う。

「ちゃんと来てくれたようね」

「別に私はあんたの話を訊きに来ただけ」

 昨日のような険悪な状態ではなさそうだ。雫は刹那の瞳を覗き込むように見るが、昨日のような紅ではなく漆黒になっていることを確認する。

「説明の前にこちらから訊きたいことがあるわ。何故、あなたが退魔師のことを知っているのか?」

 疑念というべき視線を浴びながら、刹那は屹然と答える。

「それは図書館にある古い本に載っていたからよ。でも内容はお伽話にようなもので、誰が読んでも真に受けないでしょうね。内容も悪いことをするとこうなるぞ的な子供に読んで聞かせるようなもの。実際にあの化け物を見たことがある人以外は……。ねえ、姫川家のお嬢さん?」

 刹那は睨むように雫を見据える。雫は驚くでもなく口元に指を当てて何やら考える。

「ふうん。本……ね。確かに姫川の名前は結構、有名だし、本に載っていてもおかしくはないか。それで同性である私を退魔師ではないかと推測していた」

 刹那はこくりと頷いた。

 刹那が読んだ本は、ある人間が悪さを重ねていくうちに鬼につけ込まれ、鬼が村を襲うという内容。話の結末は鬼は討たれてその人間はまっとうな人になったという内容だが、挿絵には鬼のようなものが描かれており、それに立ち向かう鎧姿の人間が武器を手に挑んでいる様子を表していた。

 誰かが空想を書いたものだと思われるが、刹那には心当たりがある。異形のものを見たのは昨日だけの話では無い。両親を失ってから何度も目撃しているのだ。そしてその本に書かれた『姫川』の文字。同じような姓などこの国にはいくらでもいるだろう。だが目の前に立つ雫には思い当たるふしがある。入学当初から堂々とした貫禄、華奢な体からは想像もつかない運動神経、他の人間にはわからない、人には無い力があるような、気配というものを刹那は感じ取っていた。

「まさか本当に退魔師だとは思わなかった。でも昨日の戦いを見たら信じるしか無い」

 力なく言う刹那に雫は顔をしかめる。いつもの食って掛かる様子が無い。歯を抜かれた獣のように身も心も縮こまっている印象を受ける。

(まあ、昨日の事が相当堪えたと見るべきね。でもそれでは困るのよ)

 雫はおもむろに刹那の手を握ろうとする。

「何を?」

「これから説明するために必要なのよ。安心して私にそんな趣味は無いわ」

 その手はまるでどこかへと誘おうとしているように見えた。

 ここまで来て何も訊かないという選択肢は無い。

 恐る恐る刹那は雫の手を取る。

「では行きますわよ」

 雫は左手で刹那の手を握り、右の掌を突きだして、校門を横目に歩き出す。

 引っ張られるように刹那は歩くと、数歩で何かをくぐり抜けた錯覚を受ける。

「え? これは……」

 見える景色は変わらない。だが時が止まったように世界はそこに在る。それは昨日、木の化け物に遭遇する前に感じた違和感。眩しかった陽の光は影を潜め、見えるものはどこか生気を感じられない。極めつけはさっきまでいた雫の付き人――初老の男性が忽然と姿を消している。

「どう? これが堺面世界よ」

「堺面世界?」

 刹那は雫の腕を振り払う。

「だから堺面世界って一体、何なんだ?」

「堺面世界とは、私達が住む世界――現実世界というのだけど、それの写し鏡、似て非なる世界なのよ」

「異世界?」

「良い表現ね。でもちょっと違うわね。例えば……」

 おもむろに雫は右手を払い炎弾を生み出す。炎弾は校門に当たり、見事に壊してしまう。

「ちょっと、あんた。自分が何してるのかわかってる?」

 校則違反いいや、器物損壊、警察のご厄介になる、などなど考える刹那を鼻で笑う。

「大丈夫ですわ。この世界で破壊されても現実世界にある校門は破壊されていないから」

「は?」

 そう言われても校門は吹き飛ばされ、残った鉄の棒は飴細工のように溶けかかっている。

「堺面世界で起きた事は現実世界には影響を与えない。何故なら堺面世界は鏡そのもの。鏡の中でいくら暴れようが映している本体が何の変化も無ければ意味が無い」

「つまり私達の住む世界、えっと現実世界で起きたことがこの世界に反映される」

 雫は満足に頷く。

「その通り。現実世界で実際にこの校門が破壊されれば、堺面世界の校門は破壊される。新しい建物が建てば、その通りに建物が再現される。まさしく現実世界の現し身、そして闇喰いの住処でもある」

 言うなり雫は破壊された校門抜け、すたすたと歩き出す。後を追うように刹那は歩き出し、話の続きを訊く。

「闇喰いとは昨日の化け物の総称。闇に潜んで人を喰らう――それが省略されているとも言われる」

「闇喰い……」

 自分を、そして人々を恐怖に陥れるものの名を聞き、身が凍るような気がした。

「古の時代から闇喰いは存在し、我が姫川家は代々、闇喰いを倒す退魔師の家系なの」

 人気の無い学校を歩き、校舎の手前まで歩いて雫は振り返る。

「退魔師とは、闇喰いを退ける魔力を持つ者を指すの。私やあなたのようにね」

 するどい視線を投げかけられ刹那は唾を飲み込む。いつもの人を見下したような瞳ではない。もっと強い意志を込められた瞳に飲まれそうになる。

「はい、もう一度握って」

 今度は渋る事無く刹那は雫の手を取る。

 絶対に離さないで、の言葉と同時に雫は地を蹴る。

「うっ、わあああああああ」

 刹那の絶叫が響き渡る。無理も無い。一気に地面が遠ざかり、自分の体が空中へと投げ出されたからである。

 驚きの中、刹那は高い位置から街を見下ろしていることに気付く。

 そして体が引っ張られてある場所に着地する。

 灰色の床に、その隙間を縫うように生える雑草、金網によって転落防止がされている学校の屋上。こともあろうに雫は刹那の手をつないで、しかもただの跳躍だけで屋上まで跳んでしまったのだ。

「嘘でしょ……」

 不器用に着地を決めて何とか立っているが心臓の鼓動が止まない。

「これが退魔師の力よ。もはや超人と言っても良いわ。まあ、相手が人外の者、逆に言えば普通の人間では闇喰いに対抗出来ないのよ」

 涼しい顔で説明する雫を刹那は心底、すごいと思った。と同時にもやもやした感情が沸き立つ。

(嫉妬っていうのか。これが)

 とりあえず落ち着こうと胸に手を当てて呼吸を整える。




「ここまで説明したけど何か質問でも?」

 堺面世界から現実世界へと楽々と戻ってきた後、休み暇も無く、考えをまとめる時間も貰えず刹那はイラっとしつつも雫の言葉を思い出す。

 現実世界と堺面世界のこと。

 闇喰いという化け物の存在。

 退魔師の並外れた身体能力。

 まだまだ訊きたいことは山ほどあるが、一つだけ重要な事を訊いていない。

「何故、化け物――闇喰いは人を襲うのか?」

 単純な、そして核心をついた質問に雫は一旦、目を閉じて、鋭さを増した目で刹那を見る。

「まず、闇喰いがどうして生まれるか――、その原因を教えてあげる。闇喰いを生み出しているのは人間の心よ」

 ゆっくりと手を上げて指で示したのは、刹那が手を当てている部分。

 闇喰いは人間の心が生み出している。どこからともなく現れたわけではない。馬鹿な科学者が生み出した産物でもない。

「なっ……んで」

「人が待つ、怒りや悲しみ、嫉妬、願望、それらが妄執――固定化し、そして生まれるのが闇喰いなのよ。だけど生み出した人間は気付かない。もし気付いていたら今頃、世間では大騒ぎよ」

 世を騒がす化け物を生み出して、素知らぬ顔でいられる人間はそういないだろう。罪の意識に苛まれる。もしくは他の人間から糾弾されるのは目に見えている。

「そして闇喰いが人を襲うのは、自分を生み出した人間――宿主から脱皮するために、己を成長させるために、人の心を喰らう必要があるのよ。彼等にとって人の心は食料と同義、人を襲うのは食事と変わらないのよ」

 雫の言葉に愕然とした。

 では両親が殺されたのは単に食事のためだったと言うのだろうか。

 黒い感情が一気に沸き上がって、雫との距離を縮めるととっさに胸ぐらを掴んでいた。

「食事……、そんな、そんな身勝手な理由で私の両親が殺されたって言うのか」

 瞳に熱いものを感じた。おそらくは瞳は紅くなっているだろう。

 でもそんなことはお構いなしに雫の体を揺らすがびくともしない。歯ぎしりして溢れる言葉を雫に浴びせた。

「何の罪も無い、私の両親をあいつらは食事で殺した? そんな理不尽が許されるわけないじゃない」

「そうね」

「幸せだった家庭を、暖かな家庭を、あいつらは私から奪った」

「そうね」

「何の前触れもなく、唐突に、人の命を奪って、誰からも裁かれない、そんなことが許されて言い訳が無い」

「そうね」

 刹那は力無く、雫の胸へと顔を寄せた。

「どうしてあなたはそんなに冷静でいられるのよ」

 震える声に雫は静かに答える。

「私はもう壊れた人間なのよ」

 一瞬、顔を上げようとしたがやめた。こんな泣き面を見せたくないので下を向きながら次の言葉を待った。

「私は生まれた時から退魔師の素養を持っていた。そして退魔師になることは決定事項だった。だから否応なしに闇喰いの姿を見てきたし、惨状も目の当たりにしてきた。最初はあなたのように戸惑い、憤ることが出来た。でもね……、幾度となく見ていくうちに感覚が麻痺してきて、何の感情も抱くことが出来なくなった。だから刹那、あなたが羨ましい。人の生き死に対して怒り、感情を表に出すあなたはまだまともな人間なのよ」

 高慢なお嬢様では無い、一人の人間として、現実とかけ離れた世界を見てきた退魔師がそこにいた。

「刹那……、私はあなたのことを調べたわ。養護施設にいることは前から知っていたけど、その原因は、両親を猟奇殺人で失ったことだとわかった。しかも犯人は未だに捕まらない。でもそうでしょうね。何故ならあなたの両親を殺したのは闇喰いなのだから」

 念を押すように言われ、刹那は頷くことで答える。

「その紅い瞳もおそらくは両親を失ったことによって出てきたもの。あなたの心の傷を表しているようにも見える」

 最初は刹那自身も気がつかなかった。ただ感情が高ぶるとそれに呼応して瞳が熱くなるのを感じ、鏡を見ると瞳が紅くなっていたのだ。このことは親友の佐藤はおろか、施設の職員にも話していない。瞳の事を言えばあの夜に起きた出来事を話さなくてはならない。

 心に負った傷を誰にも言えずに今日まで刹那は生きてきた。

 そして今、自分の思いに気づいたのは佐藤知子ではなく姫川雫だった。

 壊れた人間だと彼女は言う。だが壊れた人間が人を助けるだろうか、人の痛みをわかろうとするだろうか。乱暴に、それも無関係な雫に言葉を投げてしまったことに刹那は顔を歪めながら、雫に謝る。

「別に良いわよ。私も柄にも無いことを言ったわ」

 刹那は身を翻し、手の甲で涙を拭った。

 朝日がだいぶ昇ってきて、学校の屋上を照らし始める。

 ややの間を置いて、雫は改めて問う。

「まだ説明してないことは山ほど在るけど、ここであなたの決意を訊いておきたい。私の話を訊いて、刹那――あなたはそれでも退魔師になりたい?」

 向き直った刹那は雫の強い眼差しを見る。安易な誘いでも、促すでもない、自分の意思で決めろとその瞳は言っている。

 陽光を背に刹那は静かに目を閉じる。

 確かに力を求めた。

 闇喰いと呼ばれる化け物を倒したいと。

 家族を奪った復讐を果たすために。

 ゆっくりと目を開けると静かに語り始めた。

「私も闇喰いという存在を何度も見てきた。ある日、闇喰いに襲われている人がいたから、たまたま持っていた木刀で戦った。昨日の奴よりも弱かったと思う。なりふり構わず木刀を振るっていたらいつの間にか闇喰いは灰になっていた。どうして勝ったのか、そんな実感すらなかった」

 わずかな憐憫を含んだ顔を空に向けた。

「私の両親を殺したその仲間を倒した――喜びが沸き上がってくると思っていた。でも違った。虚しさしか沸いてこなかった。その時に気付いたのよ。例え、復讐しても私の両親はもう戻ってこない。あの幸せだった家庭はもう壊されて直らないんだって思った。それでも私は力を求めた。何でだと思う?」

 雫はかすかに首を傾けた。

「私は奪われた人間。でもこの世には奪われていない人間がたくさんいる。そして奪おうとする輩が跋扈している。奪おうとしているものをただ見ているなんて出来ない」

 陽光と重なり、刹那の赤い瞳が光る。それは怒りでも悲しみでも無い。決意を秘めた輝きを放つ。

「私に人ならざる力があるのなら、私はそれを持って戦う。

 ――私は退魔師になる」

 復讐者ではなく、守るために戦おうと誓った刹那に、雫は満足したように笑う。

「いいわ。その決意に答えてあなたにこれを貸してあげる」

 掌を返し、虚空より出てきた一振りの刀――、雫は刹那に投げて渡す。

 慌てて、キャッチした刀は赤色の鞘に納められている。

「これは?」

「その子の名前は『閃姫』。退魔師の武器よ。闇喰いにはどんな兵器も効かない。専用の武器が必要なの。刹那、あなたは剣道をやっているそうだから丁度良いと思うわ」

 生まれて初めて刀というものを手にしてその重量感に息を飲む。

「それとこれも貸してあげる」

 今度は辞書並に厚い一冊の本を渡す。

「ちょっと、次から次へと何?」

「その本は退魔師の基礎的な事が書かれている本よ。あなたは人に教わるのが嫌いみたいだし、私も人に教えるのは苦手だから。読んで学習しなさい」

「有り難いけど、さっきから貸すって言葉が気になる」

「貸すっていったら貸すのよ。決意は訊いた。でもあなたに才能が無いのならそれは宝の持ち腐れ。一ヶ月、貸してあげるから使えるようにしなさい」

 それだけ言って踵を返す雫の後ろ姿に刹那は言う。

「一ヶ月? 二週間で使いこなしてみせる」

 振り返ることなく肩がわずかばかり揺れた。

 左手に閃姫を、右手に教本を携えて、刹那は静かに闘志を燃やす。

 それは昇りゆく太陽のように熱かった。




 校門前まで戻ってきた雫に初老の男性は恭しく頭を下げる。

 だがすぐに後部座先のドアを開けずに尋ねる。

「よろしいのですか、雫様。かの者に退魔師の武器まで与えるとは……」

「お母様の許可は取ってあります。それに使われないで置いておかれるよりも新しい主人の下で活躍したいでしょう。それに……」

 初老の男性がびっくりするぐらいの笑みを浮かべる。

「案外、掘り出しものかもしれないでしょ」

 



 

 この日を境に刹那の一日は変わった。

 朝は早く起きて、退魔師の鍛錬、昼間は授業を受ける傍ら睡眠にあて、学校を終えると夕方まで鍛錬、晩ご飯を食べて、皆が寝静まるのを待ってから、また鍛錬と一人前の退魔師になるべく奔走していた。

 辞書のようにぶ厚い教本には手を焼いているが、元々、剣道をやっていたおかげか『閃姫』の使い方は様になりつつあった。

 一週間が過ぎ、二週間が目前に迫る中、今日も刹那は学校を終えると鍛錬場所へ向かおうとしてた。

(今日こそ炎弾が使えるようにならないと。それにしても術式というのは難しいな。まあ、私は剣士という部類みたいだから術式が出来なくても……)

 今日の鍛錬プランを考えている最中、数メートル先を一人の女子生徒が歩いている。

 何気なく見ていたが妙な気配を感じて眉が吊り上がる。

 この女子生徒のものではない、獲物を狙うような気配が周りから感じる。

(闇喰い? いやそれにしても弱く感じる。念のため……)

 刹那は周りに人がいないことを確認すると掌を前に突きだし、ドアを押すような仕草をする。

 この世界と隣り合わせのもう一つの世界――堺面世界へと入ってく。

 目の前を歩いてた女子生徒は当然いない。

 だが代わりにいたのは二匹の獣。

「犬……? 犬の闇喰いか」

 毛を逆立て、舌を出し、標的に向かっていた犬の一匹が突如として現れた気配に後ろを振り向く。それにならってもう一匹の犬も刹那の方を向く。

 グルルルと本物の犬そっくりに威嚇を兼ねて唸る。

 だが刹那は威嚇など何の意味も無いように犬たちを見下し鋭い視線を投げかける。

「どうやらさっきの子を襲おうとしていたのか。丁度良い。どれくらい鍛えられたか試すチャンスだな」

 怯えも何も無い刹那に対して二匹の犬は一斉に飛びかかる。

 飛び上がった瞬間、

「むっ」

 刹那は横にスライドすると手前にいた犬の横腹に蹴りを叩き込む。もちろん二匹が射線上にいることを確認して。

 蹴りをまともに受けた犬は息も絶え絶えに悶えている。

 もう一匹はよろよろと立ち上がり、なおも刹那に向かってくるため、

「蹴りが甘かったか」

 自己反省し、今度は犬の脳天に拳を叩き込む。よだれを垂らしながら犬は地面に倒れた。

「闇喰いなのか? それにしても……」

 弱いと正直思ってしまった。自分が強くなったことを差し引いてもこの犬たちは弱い。そこら辺にいる野犬とそう変わらない。

 首を捻りながら思案している間に、甲高い声が堺面世界に木霊する。

「あ〜ら、気配を感じてきてみれば刹那じゃあないの」

 腰に手をやりつつ、姫川 雫は刹那の横に並んだ。

「あんたに刹那って呼ばれたくない」

 むすっとして言うが雫は全く気にしない。

「気にしない、気にしない。おっと、これはこれは闇の使いね」

 倒れている二匹の犬を見て雫は告げる。

「闇の使い?」

「そう闇喰いの子供――分身とも言うべきかしら。彼等の目的は闇喰いのために人の心を集めるのが目的。戦闘力はそれほど高く無いけど、数で押し切られる場合もあるから気を付けることよ」

 忠告をするなり雫は炎弾を放ち、闇の使いを完全に滅する。パチパチと火が燃える中、刹那は口を開く。

「ということはこの近くに闇喰いがいるってことか? なら探さないと」

 はやる気持ちを押さえきれずに行こうとする刹那を雫が止める。

「焦らないの。周辺の気配を探ったけど特に何も感じない。今は恐らく宿主の中に留まっている。無闇に動くのは得策でないわ」

「しかし……」

「捜索は私がやるわ。あなたは自分を鍛えることに専念して。戦いは近いと思うから」

 さっきまでの陽気な声の主とと今の真剣な眼差しをする姫川 雫はどっちか本当の彼女なのかと、訝しげに考えるがますますわからなくなる。

 だが戦いが近いということはこちらも準備をしなければならない。

「わかった。後は任せる」

 踵を返すと、早足で刹那は現実世界へと戻った。

 一人残った雫は辺りを逡巡し、ふとため息をつく。

「これで十件目か……」

 捜索と言ってもほとんど目星は突いている。

 信じたくないというのが本音だろう。それでも闇喰いを倒すことに変わりない。

 雫の顔に深い悲哀が刻まれていた。




 夜深まる中、刹那は育ちの家を飛び出し――もちろん処罰ものだか――、河川敷にやってきて、軽く準備運動をする。電車が通る高架橋の下で刹那は退魔師としての鍛錬をしている。

 体をほぐすと相棒――赤色の鞘に納められている閃姫を呼び出す。

「さあ、いくぞ」

 刹那はこの閃姫を大いに気にいっていた。真の武器は主を選ぶというが、まさに閃姫は自分を選んでくれたと思っている。武器に心があるかどうかはわからないが、まるでもう一つの手のように馴染み、自分が思い描く動きにも付いてきてくれる。

 だからこそこの閃姫にふさわしい主でいようと刹那は心に決めていた。

(もっと速く。もっと――)

 縦に横に閃姫を走らせ、振るっていく。

 何よりも早く、誰よりも早く。

 両親を失った時、何も出来なかった自分を乗り越えるために、この世に蠢く闇を打ち払う力をもっと使えるように、刹那は息を切らしながらも剣を振るい続ける。

 一人の少女がその様子を見ている事にも気付かずに刹那は鍛錬に没頭した。



「はあ……はあ……」

 夜は寒いと判断し、ジャージ姿だが体が熱くなると一気に汗が噴き出してくる。

 無造作に額の汗を拭くと見知った声がかかる。

「刹那……、どうしてこんなところにいるの?」

 うひやあああと心の中で叫び、おそるおそる顔を向ければ佐藤知子が立っていた。

「それにその刀……なの。そんもの振り回して……」

 まずいまずい、思考をフル回転させ出した言い訳は、

「こっ、これは演劇の練習だ。もちろんこれは作り物だよ作り物。はは……」

 我ながら上手な嘘だと思ったが、佐藤は呆れてため息をつく。

「嘘でしょ」

「ぐっ」

「刹那との付き合いは長いのよ。本当か嘘かは態度を見ればすぐにわかる」

 退魔師のことは関係者以外に話してはならないと教本に載っていた。そのルールに従うのならここは何とか言い逃れをするしかない。

 焦れば焦るほど、考えがまとまらない刹那を尻目に佐藤は穏やかな顔で言う。

「それが刹那のしたいことなの?」

「えっ?」

「最近の刹那を見ていると何かに夢中になっているって思ってたのよ。最初は剣道を真面目にやるのかと考えていたけど、夜な夜な出て行くし、違うかなと思っていた矢先にこれだもの」

 まるで悪戯を見つけた親のように、半分驚いて、半分は困ったような顔をする佐藤に刹那は口籠もる。

「言えないのね?」

 佐藤の詰問に頷いて返す。

 その様子に佐藤もこれ以上は聞こうと思わなかった。ただ安心はしていた。自分が想像していたのは悪い奴らと一緒に危ない遊びに興じていないだろうか、もしくは非行に走り、周りの人間を脅迫するような真似はしてないだろうか、疑念から安堵に変わり佐藤は胸を撫で下ろす。「ごめん、知子。でもようやく見つけたことなんだ。誰にも言わないでくれるか?」

 懇願する旧知の友に向かい、佐藤は優しく笑う。

「良いわよ。でもいつかは話してね」

「うん……」

 ありがとう、刹那は感謝せずにはいられなかった。

 風を引かないように汗は拭きなさいと置き手紙ならぬ忠告を置いていった佐藤は育ちの家へと戻っていった。

 苦笑しながら刹那は言われたとおり、タオルで顔を拭く。

 心配かけたかな、と少し反省する。

 夜だし女の子が一人歩くのは危険だな、と危惧する。

 でもここは堺面世界だから悪い奴には捕まらないか、と安心する。

「うん?」

 今、自分が考えたことを繰り返してみる。佐藤に心配をかけたこと、夜に女の子一人で歩くのは危険、ここは堺面世界だから安全。

「ちょっと待て!」

 タオル落として辺りを見渡す。確かにここは堺面世界なのである。いくら何でも刀を振り回すのに高架下とはいえ、現実世界では見回りの警察に捕まれば大変なことになる。さらに育ちの家を抜けるにしても、毎晩そんなことをしていれば宿直の職員に見つかる恐れもある。だから育ちの家を出るときから刹那は堺面世界へと入り込み、ここへとやってきた。

 つまり佐藤が堺面世界にいる自分を見つけることなど不可能なのだ。

「どういうこと……。何で知子が……。まさか……」

 教本で読んだことがある。堺面世界にいられるのは退魔師、闇喰い、そして……。

 認めたくない、ありえない、どうして、刹那の疑問は時が経つにつれて膨らみ続けた。



 バアアアアアンン。

 昼休みの穏やかな時間を割くように教室のドアが開け放たれた。

 開けた本人は教室を一瞥すると、いるだけで存在感がある人物へと歩み寄る。

「光崎さん、教室のドアは静かに開けるようにと教わらなかったの?」

 妙なる声の主――姫川 雫はすうと視線を相手に投げる。

「聞きたいことがある」

 刹那は沸き起こる感情を抑えつつ、平静を装ってみたがもはや限界だった。

 返答すら待たず、刹那は教室を出ようとするので雫も後についていく。

 教室に残った人間は固唾を飲んで見守った。




「どういうことだ!」

 刹那の第一声は怒りに満ちていた。雫の胸ぐらを掴みそうになり、なんとか耐えて出した言葉だった。

「気付いたのね……」

 雫は腕を組み、冷静に言う。刹那が聞きたいことはもうすでに知っている。

「昨日、知子が堺面世界にいる私に会いに来た。そんなことあり得ないはずなのに。だとしたら知子は……」

「そう、闇喰いを生み出した宿主よ」

 堺面世界は現実世界と隣り合わせの世界だか普通の人間が偶然に行き着ける場所ではない。闇喰いによって強制的に引き込まれたりした場合を除いてはありえない事だった。堺面世界に行けるもしくは活動できるのは、闇喰いか、退魔師、そして闇喰いを生み出した宿主に限定されるのである。退魔師の素質を持つ刹那はともかく、佐藤知子が堺面世界に入れる理由は一つしか無い。

「やっぱり宿主なのか」

 刹那は力無く、そして噛みしめて言う。

 闇喰いを生み出す原因は人間の心にあるという。佐藤にどれほどの闇があるのか刹那には検討がつかない。

「いつわかったんだ」

「わかったのはつい最近。近頃起きていた通り魔事件を調べていた矢先よ」

「通り魔? でもあれは人間の仕業じゃあ……」

 訝しげに聞く刹那に雫は固い表情になる。

「私はここ最近に起きた通り魔事件を詳細に調べた。その結果見えてきたのは襲われた生徒は全員この学校の生徒だったということよ」

「なっ?」

「もし犯人が人間なら同じ学校の生徒を立て続けには襲わない。性的欲求を満たすためとはいえ警察に捕まることだけは避けるはず。なら違う学校の生徒も襲って、捜査範囲を限定させないようにするはず。もっとも犯人のおつむがおかしければあり得ない話じゃ無いけど」

 肩をすくめながら雫は話を続ける。

「さらに襲われた生徒に話を訊いてみたけど、全員が人気の無いところで背後から襲われている。それも鋭利な刃物で切り裂かれてね。幸いにも軽傷で済んでいるけど、妙なことに襲ってきた人物を見ていないって言うのよ。恐怖心で見ることが出来なかったか、でも大方は振り返るはずでしょ。でも全く見えなかったと言うことは……」

「闇喰いが堺面世界から干渉したっていうことか」

 闇喰いは堺面世界にいながら、部分的に現実世界に干渉し、人を襲う。堺面世界に引きずり込み心を喰らったり、または現実世界にいる標的に物理的な障害を負わせる事も可能である。ただその際は退魔師によって感知されやすいという側面を持つ。

「同じ学校の生徒、そして闇喰いの関与、私はこの学校の生徒もしくは教師が宿主だと断定した。そして犯行時間は全て夕方に起きている。それも佐藤知子が学級委員の仕事で残っている日にね」

「でも……、それだったら知子以外にも学級委員の仕事や部活をやっている子だっている。知子が闇喰いを生み出したとしても、今回の通り魔と関係が在るとは言い切れない」

 事実を突きつけられても心はまだ納得してなかった。佐藤が堺面世界に入れたことから宿主だとは納得している。だがあんなにも知的で優しい佐藤が人を背後から襲う闇喰いを生み出すとはどうしても考える事が出来なかった。

 だがそんな甘い考えを読んでいたように雫はポケットから一枚に紙切れを出す。

「これを見なさい」

 四つ折りにされた紙切れが開かれるとそれはこの街の地図だった。

「赤い×印は通り魔事件が起きた場所、横の数字は起きた順番を示している」

 刹那は目を凝らしながら地図に書かれた×印を見る。

 最初の事件は、あろうことか育ちの家の近くで起きていた。二番目はそこからやや離れた住宅街の一画、次はコーヒーがおいしいと評判の喫茶店の近く。確かにあまり人通りが少ない現場で起きていることはわかった。

「だけどこれが何だって言うんだ?」

 眉を上げて問う刹那に雫はもう一度、よく見るように催促する。

「う〜ん、そうは言っても……、あれ?」

 もう一度、番号順に×印を追いかけてみた。育ちの家、住宅街、喫茶店、安売りのスーバー、公園、これらは全て毎日見る風景だった。

「私と知子の通学路……。まさか……」

 食い入るように地図を見て、やがて戦慄が走る。

「学校に向かってる……。次に狙われるのは」

「そうここよ。もう通り魔なんてことはせずに真っ正面から生徒を喰らいにくるでしょうね」

 まだ何とかなるはずだと刹那は駆け出していた。

 佐藤を止める。

 何でも良い、とにかく止める。場合によっては自分のことや闇喰いの事を話しても良い。

 だが鋭い制止の声がかかる。

「佐藤知子の所へ行ってどうするの? 全て話して解決できると思って」

「そんなのやってみないとわからない。何とか知子の中にいる闇喰いを倒す。そうすれば……」

「一連の事件を佐藤知子が望んでいたとしたら……」

 被さるような言葉に一瞬、思考が静止した。

 知子が望んでいる?

 人を傷つけることを。

 背後から襲って傷つけることを良しとしている。

「あんた、言って良いことと悪いことがある」

 怒りの対象をはき違え刹那は敵意を雫へと向ける。

 また瞳に熱いものが流れてくる。瞳は漆黒から紅へと変わるのにそう時間がかからなかった。

 鋭い相貌を向けつつ刹那は雫へと歩み寄る。

 雫は怯えることなく、立ちはたかるように立っていた。

「知子がそんな事を望んでいるって本気で思っているのか?」

 距離にして一メートルも無いだろう。ほんの少し踏み込めば殴れる立ち位置だった。

 拳を握りしめる力が強くなっていく。

 熱くなっている刹那に対し、雫は変わらず冷静な口調で言葉を継ぐ。

「通り魔事件の被害者は全員、外傷だけで心は喰われていない」

「……だから何」

「つまり闇喰いが人を襲うのは心を喰らうためでは無く、宿主の欲望を叶えるために人を襲っているのよ」

 振り上げそうになった拳がただ震えている。刹那はぶ厚い教本に書かれていたことを思い出していた。

 闇喰いが宿主から脱皮する方法は人の心を喰らい成長すること。それには大別して二通りあり、周りにいる人間をひたすら襲って喰らう方法ともしくは宿主自身の欲望を叶えることで少しずつ宿主の心を喰らう方法がある。前者は退魔師に気付かれる可能性が高いが、後者は秘密裏に事を進めることができる。

「嘘だ……」

 ずっと一緒だったからこそわかる。

 知子が誰かを傷つけて喜ぶなんてことはしない。だって傷つけられる痛みを知っているから。

「嘘だ……嘘だ……」

 ずっと一緒だったからわからない。

 本当はずっと心の闇を抱えていたのかも知れない。誰にも言わずに親友である自分にも言わずにずっと一人で……。

「嘘だああああああっ」

 劈くような絶叫に雫はわずかに肩の線を固くする。

 だが安易な同情はしない。自分はあくまでも退魔師なのだ。やるべきことは決まっている。

「刹那……、佐藤知子と対峙出来ないのなら私がやるわ。かの者の闇喰いを倒さなければ今度こそ甚大な被害が出る。私はそれを止める」

 一切の妥協は無い。目の前にいる闇喰いを倒す、それが姫川家の使命なのだから。

 自分を通り越し去ろうとする雫に言葉をかける。

「いいえ、私がやる。知子は私が止める」

「それは退魔師として?」

「親友だから、そして退魔師だから止める」

 刹那の固い意志に雫は満足して頷き、少しだけ助言をした。





 姫川雫が出した助言はなるべく佐藤知子のそばにいること。

 脱皮していない闇喰いは宿主の周囲しか自由に動くことが出来ない。

 不穏な動きをしてもすぐ対処できるように、刹那は佐藤と行動を共にしていた。

 だが特段、変わったことをやろうと思わなかった。いつも通り接することが相手に悟られない唯一の方法だとこれも雫から助言されている。

 昼が過ぎ、授業を終えて、刹那はいつも通り佐藤と一緒に帰ることにする。

「演劇の練習は良いの?」

 笑みを浮かべる佐藤に刹那は大丈夫と言って育ちの家へと向かう。

 普段は横並びなのに、刹那はわずかに後ろから佐藤を追いかけるように歩く。何を話すわけでもなく、二人は黙々と歩く。

(宿主か……、見た目はそう変わらない。なのにどうして?)

 小さい頃からいつも一緒だった。学校も、遊ぶときも、服もおそろいで、姉妹のように育った。どちらがお姉さんか喧嘩したこともある。知的で、周りからの信頼も厚く、小さい子供の面倒もよく見る。自分には無いものをたくさん持っている。

 闇喰いという得体の知れない化け物を追っている間に、佐藤は無くしかけた人生をひたむきに歩いている。

 それなのにどうして闇喰いを生み出したのか。

 それほどまでに深い闇を心に秘めていたのか。

 こんなにも近くにいるのに佐藤という存在が遠くにあるようで怖かった。

「ねえ、刹那」

「……なっ、何?」

 静かな声にこちらまで緊張の度合いを高める。

 だが佐藤は至って普通だった。

「最近、生き生きしているよね。本当にやりたいことが見つかったんだ」

 やりたいこと――退魔師になること、を言っているのだろうか。まあ演劇と称してばれている嘘はついているが。

 確かに最近は、朝も昼も夜も退魔師のことばかり考えている。

 もっと強くなりたい。もっと高みへと、募る向上心は止まることを知らない。

「まあね。自分に合っているのかなって思ったりしている」

「うらやましい……」

「えっ?」

「私は自分が何をしたいのかわからない。私もここ最近になってやりたいことが見つかりそうなんだけど、本当に良いのか悩んでいる」

 口籠もり、背中をわずかに丸める彼女からは物憂げな影が覆っているような気がした。

 ほとんど具体性がないが、佐藤にもやりたいことがあるらしい。

「それはどんな事なんだ?」

 う〜んと唸ってから佐藤は刹那に振り返る。

「まだ言えない。ちゃんと言える時が来たら言うから」

 にっこりと笑う佐藤に刹那も少しだけ笑う。

「だから刹那もちゃんと言ってよね」

「ああ」

 いつかその日が来たら言う。

 刹那は佐藤の横に並ぶと一緒に歩き始める。

 変わらず、遠くに行かないで欲しいと節に願いながら。





 次の日の朝。

 佐藤知子はいつもより早く起きた。だがカーテンを開けることはせずにベッドから身を起こすと、隣で規則正しく眠る相手を横目に制服に着替え音を立てること無く部屋を出て行く。

 施錠されているものの比較的出入りの自由がきく裏側のドアから外へと出ると朝日が昇る前の、今だ夜の名残が残る街へと歩き出す。

 育ちの家の門を一歩抜けるとガラリと世界が変わった。時が止まったように、見るものから色が抜けるように世界は一変した。

 特に驚くことなく佐藤知子は歩き出す。

 新聞配達の人はおろか道行く人はいない。ただ一人きりの世界で佐藤は呟くように言う。

「昨日は邪魔が入ったわ。ええ……、わかっている。あなたもよく我慢したわね」

 誰もいないはずなのに佐藤は構わず言葉を続ける。

「あの子はいいのか、ですって……? いいのよ」

 陰鬱な声に、さらに嘲りを含んだ笑みが顔を歪ませる。

「刹那はもう傷ついているのだから。これ以上は不要よ」

 洒落た喫茶店の横を通り、佐藤は目指すべき場所へとはやる気持ちを押さえる。

「もっと生きの良い獲物ならたくさんいるわ。狩り場はもうすぐそこ……」

 胸に手を添えて満面な笑みを浮かべる。

「そうあなたも気持ちが昂ぶっているのね。でももう少し待って……、もう少し……」

 足音が高くなるにつれて鼓動も激しくなる。

 衝動を押さえながら見えてきたのは見慣れた白い校舎。

 さらに進むと校門が見えてきた。

 侵入者を防ぐ鉄の門を目を細めて見る。

 そんなもので私は止められない。

 佐藤の歩幅はだんだん広がっていく。

 校舎とそして校門がはっきりと見えてきて、

「――っ!」

 自分の感情を現していた足音が止まる。

 息が詰まりになり、もう一度、目の前の光景を見る。

 校門の前に、いるはずのない一人の少女が立っている。

 肩まである髪と吊り上がった目、人をよせつけない気風を身に纏い、鋭い相貌が見るものを射抜く。

「刹那……」

 佐藤がたまらず名前を口にし、刹那は静かな声で返す。

「そこで止まれ、知子」




 校門を背にして刹那は佐藤と相対する。昨日まで、こんな状況になりたくないと思っていたがもう迷いは無かった。

 ――絶対に知子を止める。

 揺るぎない決意を胸に刹那は佐藤を見やる。

 佐藤は驚いた表情から一転、おどけた笑顔で刹那に言う。

「どうしたの? 刹那。こんな朝早く学校に来るなんて。ああ、そうか。例の演劇の練習? それとも何か忘れ物?」

 口調も態度も、普段の佐藤と変わりない。なのに雰囲気がまるで違っていた。隠すように、手振り身振りそのものが演技しているように見える。

「知子の方こそ何故、学校に?」

 刹那の問いに佐藤はずれそうになった眼鏡を整えてから言う。

「私は学級委員の仕事が残っているから来たの。今日中に終わらせないと……」

「どうしてそんな嘘をつくんだ」

 ぴくりと青筋が立つぐらい佐藤は怪訝な顔になる。

「どうして私が刹那に嘘を……」

「じゃあ、隠れている化け物たちはどう説明するんだ」

 鋭く決定的な言葉に佐藤は、化けの皮を剥ぐように顔を歪ませる。

「なあんだ。気付いていたんだあ。出ておいで――みんな!」

 路地裏からまたは家の屋根伝いに、あるいは道路を悠然と歩きながら、一匹、二匹と獰猛な犬が現れた。次第に数を増やし、佐藤の後方にずらりと並ぶ。

 さらに佐藤の横に黒い闇の黒点が現れると、さらに肥大化し、形作る。体長は二メートルほどで全身を毛で覆い、太い隻腕の腕にはぎらつく爪が伸びる。

 人犬、人狼とも言うべきか、二本足で立ち佐藤を守るように目の前の刹那を睨む。

「へえ、そんなに驚かないんだ。悲鳴の一つでもあげるかと期待してたのになあ」

「生憎、こういう手のものは散々見てきたからな。別に驚きもしない」

 無数の視線に晒されながらも刹那は動じる様子を見せない。代わりに沸いてきたのは佐藤に対する疑問ばかりだった。

「どうして……、知子がこんな化け物を」

 当然の問いかけに佐藤は、遠い空を見上げながら口を開いた。

「ねえ、刹那。私が何故、育ちの家に来たのか。知ってるよね?」

「ああ。確か家族と道を歩いていた時に、いきなり後ろから刺されて両親は死亡、そして知子は背中に消えない傷を負った……」

 声音に悲しみの色が混じっていた。人間か闇喰いかの違いだけで家族を失った事は自分と重なり、また同じような理由から育ちの家にきた。初めて佐藤から話を訊いたとき、一緒になって泣いたことを思い出す。

「そう、その後に犯人は捕まり裁判にかけられた。私は時間が許す限り傍聴したわ。本当は二度と見たくない犯人をそれでも歯を食い縛って見ていた」

 佐藤は両手を広げ、懇願するように天を見やる。

「私は、家族を奪った犯人に正当な裁きが下るのをひたすら願った。力の弱い私には出来なくても罪人を裁く法律があの犯人に報いを受けさせてくれると思った。当然、私が願ったのは極刑よ」

 すなわち死刑。制度としては様々な議論があるが、この国では死刑が極刑に位置する。罪を命で償うという、恐らくは最大の裁きである。

 でもね、と言いつつ首を元に戻すと佐藤の顔には狂気の色が混じり始める。

「裁判は長引いて最高裁まで行った。判決当日は東京だったから行けなかったけど弁護士の先生からの電話を貰って愕然とした。

 判決は無期懲役。

 つまりあいつは死ぬまで牢屋に入ってる――そんなふざけた判決だったのよ!」

 叫びが辺りに響く中、刹那はただじっと話に聞き入っていた。堅い表情を崩すこと無く、佐藤の想いを受け止めようとしていた。

 佐藤は感情の高ぶりからか拳を握りしめてわなわなと震え出す。

「復讐しようとしても今度は法律が犯人を守る。そんな理不尽が許せると思う? 何も力が無い私は、このどうしようもない憤りを自分が見ている世界に向けた……。何故、私だけが家族を奪われなければいけないのか。周りの子達はみんな、幸せそうにしているのに、どうして自分は不幸なのだろうか。刹那にもわかるでしょう? 私と同じ孤独なあなたには……」

 同意を求める佐藤に刹那は心の中で唸っていた。

 佐藤の気持ちはわからなくもない。学校でのことある行事には家族同伴がつきものである。運動会や授業参観、合唱祭など普段、見ることの無い子供の活躍を親たちは目を輝かせて見ている。だが刹那や佐藤に向けられる眼差しは一つも無かった。そして行事が終わると家族揃って家路につく様子は二人にとって目を背けたくなる、羨ましく思う事だった。

 寂しい想いを埋めるように刹那と佐藤は手をつないで、ほら私達にも絆があるんだよ、そう言わんばかりにきつく手を握って家路を歩いた。

 懐かしくも儚い思い出――、だがそれは佐藤にとっては傷口をさらに広げることになった。

「みんなが幸せで、私だけが不幸なんて許せない。だからこう思ったの。みんなも不幸になれば良いって。そうすれば劣等感に苛まれることも無い。みんな私と同じ立場になるんだって思った」

 握っていた手を広げ、後ろに控える者達を愛おしそうに眺める。

「そうして私はこの力を手に入れた。世界を恨み続けた私にこんなにも素敵な、そして従順な僕が現れた。

――機は熟した。

 今こそ、世界中の人間をどん底に叩き落としてやるって思ったのよ!」

 狂った笑い声に呼応して周りにいた闇の使いたちは一斉に吠え始める。

 ウオオオオオオオオンンンンッ

 佐藤の隣にいる闇喰いは天高く遠吠えを発した。

 これが知子なのだろうか。

 いやこれが本当の知子なんだ。

 姫川 雫の言葉を借りれば、

『佐藤知子は闇喰いを生み出したことにより自分の欲望を抑制することが出来なくなっている。闇喰いはそこにつけ込んでさらに佐藤知子を思うままに狂った道へと歩ませる。でも裏返せば、今行っている凶事も佐藤知子の望んだことなのよ』

 佐藤がここまで胸の内を明かして事は無い。

 他人にも自分にも見せたことのない本当の佐藤知子。

 ずっと佐藤の想いを訊いて、刹那は理解することは出来た。同情することも出来る。

 だが――、納得することは出来ない。

 佐藤を止めるという想いは微塵も揺るがなかった。

 一通り笑い終えた佐藤は、刹那に向かって告げる。

「わかってくれたのなら、刹那。そこをどいて。私は刹那だけは傷つけない。だって刹那は私と同じように奪われた人間なんですもの。これ以上、傷は必要ないでしょ?」

 犬歯を向きだし、促すと言うより脅迫するように言う佐藤に対して、刹那は何度か瞬きするとやがて強く言い放つ。

「どかない」

「はあ?」

「どかないって言った。親友としてこれ以上、知子が暴走するのを見ているわけにはいかない」

 闘志が高ぶり、瞼に熱いものが流れていく。

「私の言ったことちゃんと聞いてた? どかないというのなら――」

「そう言えば昨日、知子は言ってたよね。いつか時が来たら本当のことを話して欲しいって」

「……?」

 何故、そんな話をするのか、訝しげに眉をひそめる佐藤に刹那は意を決して言う。

「今がその時よ。教えてあげる。私がなろうとしているもの、やろうとしていること、私が負うべき使命を!」

 刹那は目を閉じ左腕を横に広げると叫ぶ。

「来い、閃姫!」

 空間を裂くように現れたのは一振りの刀。赤色の鞘に納められ、ホルスターによって閃姫は吊されている。刹那は閃姫を左腰に当てると、ホルスターからベルトが伸び、腰に巻き付くことで固定される。

 そして閉じていた瞼が開かれるとそこにあるのは真紅の瞳。

「それは……?」

 驚愕の顔で佐藤は刹那の紅い瞳を見る。血のようであり、夕日にも似た紅い瞳に晒され佐藤の腰は完全に引いていた。

 刹那は閃姫の鯉口を切るとゆっくりとした動作で抜く。

「私は退魔師。古の時代より人の心によって生み出されし闇喰いを討ってきた者。そして今日、知子が生み出した闇喰いは私が倒す」

 天高く閃姫を掲げ、すっと剣先を知子ではなく、横にいる闇喰いへと指す。

「闇を射す閃姫の名において――お前を討つ!」

 刹那の宣言に、狼狽していた佐藤はややぎこちない笑みを零す。

「何? それ。そうか演劇の練習ってやつ。その瞳もカラーコンタクト使っているんだ。本格的だねえ」

「私の嘘はすぐにわかるんだろう?」

「ぐっ」

「今の私が冗談や嘘をついていると思っているのか」

 佐藤はもうわかっていた。そう最初から目の前に立つ刹那は自分を止めに来たこと。そして何とか言葉による説得で言いくるめることが出来ないかと思案していたが、もうそんな状況ではない。

 敵意をむき出しにする親友に力尽くで対応するしかない。例え傷つこうとも自分の進路を塞ぐ者は排除するのみ。

「ふふふっ……。そうか、刹那が私の邪魔をするんだ。でもね、何となくわかっていたの。刹那はたぶん私に同調しない。最後には必ず止めにくるだろうって……」

 眼鏡越しから見る目には哀しみの色が見える。

 まだ少しは良心の欠片があるかもしれないが、そんな甘い希望にはすがらない。

 刹那は閃姫を構え力を込め始める。

「邪魔をするなら容赦はしない。刹那、あなたでも」

「知子、私は絶対に引き下がらない。あなたの闇を討つまでは」

 緊迫した空気の中、闇喰いとその使いは飛びかかる命令をひたすら待った。

「かかれ――!」

 佐藤の号令の元、一斉に闇の使いは疾駆する。

「はあっ」

 腰だめに構えた刹那は横薙ぎに一閃させると数匹を灰にしてしまう。

 なおも襲いかかってくるが全てが灰燼と化す。

(いける。初めての実践だけど落ち着いて対処できるし、何よりこの閃姫――私のイメージを汲み取ってくれる。威力も申し分ない)

 柄に込める力は増し、振るう速度は加速していく。

 ふと、黒い影が自分を包んでいた。

「ちっ」

 小さく飛び退くと、人犬の闇喰いがその隻腕の腕を振り下ろしていた。

 コンクリートの道に楽々穴を開けて、獲物たる刹那をぎらつく目つきで見据える。

 こいつだ、こいつを倒さないと。

 閃姫を構え直し、斬りかかるがその刀身を闇喰いによって止められてしまう。

「なんて堅いんだ……」

 振り抜こうにも堅い腕が邪魔をする。

 無造作に闇喰いは腕を振り払うと刹那は後方へと吹き飛ばされてしまう。

 抗うこと無く、その勢いを乗せたまま、校門へと激突――はしなかった。

 校門へに上手く足をかけると、ぐっと足に力を溜めて解き放つ。弾丸と化してもう一度斬撃を振るうがまたしても隻腕が邪魔をする。

 違う、自分の魔力の練りが足りないんだ。

 魔力とは退魔師が闇喰いと戦うのに必要なエネルギー。それをいかに使うかによって攻撃の威力は変わってくる。

 もっと力を込めないと。

「――ぐっ!」

 思考を巡らせている間隙をついて闇喰いは刹那を片手でわしづかみにしていた。

 刹那を掴んだまま闇喰いは走り始める。

(ちょっと、もしかしてこのまま激突させる気か?)

 刹那の後方には鉄筋によって作られた校門がある。

 魔力を背中に集中させて、防御を――間に合うか。

 事を起こす間際に、背中に鈍痛が響き、瞬時に息が詰まる。痛みは全身を駆け巡る中、校門は激突の衝撃で壊れ、なおも闇喰いは走ることを止めない。

 刹那を持つ手を大きく振りかぶり、持っていた者を投げ捨てる。

 地面を舐めながら止まった刹那は、気が遠くなるのを寸前のところで押し止める。

「痛た〜あ」

 背中をさすりながら自分の状態を確かめる。背中からは痛みが走っているが思ったほどでは無い。呼吸も出来るし、足には力が入る。

「へ〜え、以外と頑丈なんだね刹那」

 破壊された校門を踏みながら佐藤は悠然と歩いてくる。

「生憎、頑丈だけが取り柄なんでね」

 多少、顔を引きつらせて答えてみたものの、普通だったら動けない上に気絶していることだろう。

 魔力の練りを不完全ながら体得していたことが功を奏し、危機を脱することができた。二週間あまり鍛錬してきたことは間違っていなかったが、目の間にいる闇喰いを倒すにはまだ足りない。

 ふらつきながらも何とか立ち上がり閃姫を構える中、闇の使いたちが刹那の周囲を取り囲んでいた。

「何だ?」

 襲いかかってくる訳でも無く、ただじっとこちらを伺っている。

 訝しがる刹那に佐藤の声がかかる。

「剣道をやっているせいか、本物の使い方も様になっているじゃない。でも剣道は一対一が原則。多人数相手はどうなのかしら」

 不敵な笑みに背中から冷たいものを感じる。

 一対一という状態なら大の男でも勝つ自信はある。しかし、一対多数となると油断は出来ない。しかも闇の使い達は何重にも取り囲んでいる。この包囲網を突破し、本体である闇喰いに迫らなければならない。

「この――」

 横に払って、目の前の数匹を滅しても、闇の使いの総数はそう変わらない。見計らったように闇の使いは一斉に刹那に飛びかかる。

 一薙ぎ、二薙ぎ、しても怯むこと無く闇の使いは押し迫ってくる。

 腕に噛みつかれて振りほどき、足に噛みつかれたら蹴り上げる、致命傷とまではいかないがこうも束になってくると攻撃よりも防御の方に気が回ってしまう。

(こんな、こんな事で……)

 倒すべき闇喰いはこの惨状を呆然と眺めている。

 さらにその後ろにいる佐藤は口の端に笑みを浮かべている。

 無性に腹がたった。闇喰いでもなく、佐藤でもなく、自分に腹が立っていた。

 奪う者を倒す。理不尽に喰らう闇喰いを倒す。

 その決意が折られる――そんなことは許せなかった。

「絶対に――負けない!」

 真紅の瞳は淀むことは無かった。

 ドウッ、ドドッ。

「なっ?」

 軽快な音と共に地面から水が噴水のように噴き出していた。水道管が破裂したわけでは無く、自分を取り囲むように水の柱は闇の使いを下から突き上げ、その水圧で貫いていく。

「どうやら苦戦しているようですわね――光崎刹那」

 声のした方、校舎の上へと見上げれば、金髪を靡かせ、手には扇を持ち、貫禄たっぷりに仁王立ちする姫川 雫がいた。

 雫はすっと身を空中へと投げ出すと、一気に降下し難なく着地する。

 普通なら足の骨が折れるなどの重傷を負うはずが、本人はいたって平気な顔をしている。

「姫川さん……、その髪、もしかしてあなたも?」

 意外な人物の登場と変わりように目を見開く佐藤に雫は冷酷な笑みを浮かべる。

「そう私も刹那と同じ退魔師よ。まあ、キャリアは雲泥の差ですけど」

 軽く金髪を指で弾き、刹那の横に並ぶと引きつった顔がお出迎えする。

「良いところに来たわね。それともずっと見てたとか?」

「さあ、どうでしょう? でも場を盛り上げるには丁度良い頃合いだと思うけど」

 二人が掛け合いをしている間、闇の使いは動こうとしなかった。いや動けなかった。動けば滅せられる。雫から発せられる恐怖に怖じ気づいていた。

「言っておくけどあいつは私がやる」

 言って人犬の闇喰いを見据える。

「ご安心を。今日の私は露払いよ。メインディッシュはあなたに譲ります」

 扇を広げ、口元に寄せると詠唱を始める。

「さあ、行きなさい!」

 ぱっと扇を翻すと数十の炎弾が出現し、闇の使いへと飛んでいく。

 包囲の縫い目を見つけた刹那は一気に駆け出す。

 目指すは佐藤知子の生み出せし闇喰い。

 


 炎弾の直撃を免れた犬の姿をした闇の使いは姫川雫を取り囲んでいた。

「ふふっ、私結構、動物は好きですのよ」

 冷笑を浮かべ、うなり声を上げる闇の使いを逡巡する。

 でもね、と言いつつ愛おしそうに見ていた目が段々とすわってきて殺気が膨れあがる。

「主人に噛みつく犬などいりませんわ。早々に滅してあげる」

 一匹の闇の使いが雫に迫ろうした瞬間、扇を一振りしただけで小さな竜巻が出現し、周りにいる闇の使いを飲み込み、渦に巻く。

「はーっはっは。さあ、踊りなさい。優しき風と共に」

 雫の笑い声は闇の使いを萎縮させ、竜巻は問答無用で闇を滅していく。




 雫の手助けを得て、刹那はようやく人犬の闇喰いと対峙することが出来た。

 閃姫を構え、飛びかかろうとする。

「刹那!」

 佐藤の声にぴくりと反応するがただそれだけで今は倒すべき相手に集中する。

「オオオオオ――ンッ」

 遠吠え一つ、隻腕の腕が横なぶりに迫ってくるが躱して、一撃を加える。

 しかし皮膚の部分で刃は止まってしまう。

「もっと力を――、闇を倒す力を」

 渇望するように刹那は自分自身に投げかける。

「はあああ」

 引いてもう一撃を振るうがそれは腕で防御されてしまう。だが明らかに闇喰いの体へと突き刺さる一撃になりつつあった。

「まだまだ……」

「何で……」

 呻くように、さらに困惑した表情で佐藤は刹那に言う。

「何で! あなたは私と同じ幸せを奪われた者じゃない。私と同類よ。それなのにどうして必死になるのよ。どうして私の考えがわからないの?」

 刹那は闇喰いと鍔迫り合いをしながら、佐藤の声に耳を傾けていた。

「それとも刹那、あなたがこの心の憂さを晴らしてくれるとでも言うの。もしくは犯人を裁いてくれるの? どうなのよ、刹那!」

 大きく飛び退き、闇喰いとの距離を離すと、刹那は悲しげな顔で佐藤を見やる。

「知子……。私には知子の心をどうにかすることは出来ない。何故なら今日という日まで知子の心の声を聞くことが出来なかったから。どんなに寂しかったのか、どれだけ家族を奪った犯人を恨んでいたのか、ずっとそばにいたはずなのに私は知ることが出来なかった」

 刹那はある意味勘違いをしていた。

 両親を殺した化け物を知るために一人、ずっとその影を追いかけていた。難しい本を読むために必死に漢字を覚えたこと、さりげなく先生に訊いたこと、それらは全て過去に囚われていた結果だった。

 対して佐藤は、勉強も出来て、育ちの家にいる後輩達にも良き姉として接し、刹那から見れば未来を生きようとしている――正直、羨ましいと思った。

 だが本当はそうではなく、佐藤自身は内面でずっと過去を引きずっていた。突然の不幸を嘆き、起こした人物をずっと恨み続けた。

 佐藤の心の内を知らなかった自分に今更、心を変える事は出来ない。

「それと人を裁く事も無理。私は知子のように頭良くないし、人を裁けるほど偉くないし……」

「何よそれ。じゃあ、何故あなたは戦うの?」

 当たり前の問いに、刹那はほんの少し笑みを零す。

「最初に言ったはずだ。私は退魔師。退魔師は人の心が作り出した闇喰いを倒す者。私の役割はそれで十分だ」

 成すべき使命の前にもう迷わない。

「それとさっき知子が言ったように私と知子はある意味同じだ。だからこそ奪われた苦しみも哀しみも知っているはず。それなら――そんな私達が奪われた者から奪う者にはなってはいけないんだ。どんなに周りが幸せに映っても、どれだけ願っても、例え全てを不幸にしても、無くしたものはもう戻ってこない」

 佐藤の心に届けと刹那は叫ぶ。

「私は知子が奪う者になろうとしているのを止める。それが退魔師の使命であり、親友としての私の願いだ!」

 閃姫を構えて、討つべき闇喰いと再び交錯する。

 刹那の言葉に佐藤は胸を押さえて苦しそうに呻く。

「ううっ……、私は間違っていない……はず……。間違っていない」

 何度も頭を振り、苦しそうに顔を歪める。

「グオオオオォォォ」

 叫びにも似た声にはっと顔を上げると闇喰いの体を薙ぐ、刀の軌道が見えた。

 ――殺される――。

 やっと手に入れたのに。

 私の力、私だけのもの。

「やめてぇええ!」

「そこまでよ、佐藤知子」

 いつの間にか自分の体は植物の蔓によって絡め取られていた。

 力尽くでほどこうにもどうにも出来ないがあえて佐藤は体を揺さぶる。

「おとなしくしてちょうだい」

 目の前には姫川雫が厳しい表情で見ている。佐藤は犬歯をむき出しにして叫んだ。

「どいて! あれが殺される。やっと、やっと手に入れた力。刹那に壊される前になんとかしないと。私の……私の」

 パンと乾いた音が響いた。

 佐藤は頬に痺れるような痛みを感じ、その原因が雫によるものだと理解するのに数秒要した。

 あまりに唐突な出来事にきょとんとした佐藤に雫は語りかける。

「いい加減に目を覚ましなさい。あなたが欲しかった力はあんなものだったの?」

 佐藤は怯えきったように相手を見ていた。

「あれは間違った力なのよ。しかも最終的には作り出したあなた自身を喰らう。そんなものに委ねてはならない」

「なら……、刹那や姫川さんはどうなのよ。校舎の一番上から落ちても骨折の一つもしないなんて。人のことが言えるの?」

 疑問というより中傷に近い言葉に雫は一つ目を閉じる。

「違いを言いましょうか? あなたの力は他人を不幸にする。でも私達の力は自分を誇示するためでも、他人を傷つけるためにあるわけじゃあない。闇喰いを倒すためにあるのよ」

 刹那と全く同じ事を言っていると佐藤は気付いた。

「あなた達が安寧の時を生きられるように、私達――退魔師はその横で人知れず戦っている。刹那はその道を歩もうとしているのよ。迷える子羊たちが生み出した闇を倒すという茨の道をね」

「どうして刹那が?」

 雫は身を翻すと闇喰いと接戦を演じる刹那を見つめる。

「佐藤知子、あなたは刹那が紅い瞳になることは知っていた?」

 しかし、佐藤は首を振るだけだった。

「私もつい最近知ったばかりよ。あれは心の傷と言っても良い。でもそれ故に退魔師としての素養が発現したとも言えるけど……」

 皮肉とはこのことなのだろう。

 両親を失ったこと、それ自体不幸だというのに、それが鍵となって退魔師になるとは。

「あなたは刹那のご両親がどのような経緯で亡くなったかご存じ?」

「家に強盗が押し入って、偶然居合わせた両親が殺されたってことは。今だに犯人は見つかっていないことも」

「それはそうでしょうね。何故なら刹那のご両親を殺したのは、あなたが生み出した化け物――その仲間なのだから」

 驚愕に目を見張る。

 自分の生み出したものと同じ化け物が刹那の両親を殺した?

 佐藤は目の前で戦いを繰り広げる刹那と闇喰いを交互に見た。

 それで良いと思ったはずなのに。

 みんなが不幸になることを望んでいたのに。

 刹那と同じような人間を作ろうとしていた?

 嘆き悲しみ、不幸に苛まれた人を見て優越感に浸りたかった?

 それとも私は本当は――、

「あなたの両親を殺した犯人は法律によって裁かれた。あなたにとっては不本意な結果かもしれない。でも刹那を殺した闇喰いは人の作った法律では裁けない。ましてやその闇喰いがどこにいるかもわからない。もう他の誰かに討たれている可能性もある。

 刹那にとって復讐は夢のまた夢でしかないのよ。

 どんなに願っても復讐も自ら裁くことも出来ない。失った家族はもう戻らない」

 佐藤の目に涙が宿っていた。

 刹那は自分よりも遙かに不幸を背負って、なおも戦おうとしている。

 他人のために、親友のために、傷を負いながら必死になって、私を救おうとしている。

「復讐心が全く無いとは言わない。刹那にとって闇喰いは憎しみの対象でしかない。でもそれ以上に刹那を突き動かすのは、奪われた苦しみを知るからこそ、奪う者から人を守ろうとしていることよ。あなたのために、自ら傷つくことも厭わずに……」

 言い終えて、振り向けば、佐藤は膝を突いて泣きじゃくっていた。

 失う事への恐怖か、親友に対する悲哀のなのか、それとも自分に対する憤りのなのか。涙はタイル敷きの床に零れて消えていく。

(これで佐藤知子は大丈夫。あとは刹那――あなた次第よ)

 




 何度も交錯する中、確実に体力は奪われ、生傷は増える一方だった。

 刹那と闇喰い、どちらも限界が近かった。

「もっと力を、もっと速く……」

 念仏のように刹那は繰り返し言葉を継ぐ。

 もっと速く。

 誰よりも速く。

 光のごとく闇を討つ力を。

 姿勢を低くし、閃姫を構える。

「グルウオオオオオ」

 闇喰いは右腕を引き、おもいっきり刹那に向けてぶつけてくる。

 空気を切り裂く音、殺意を纏った一撃を肌で感じながら、飛び出すタイミングを待つ。

 大きな拳が眼前に迫る中、

「今だ!」

 横に空気をうがつ音を聞きながら刹那は敵の懐へと入り込む。

「一閃!」

 脇腹に横薙ぎに一閃させ、走り抜ける。

 だが闇喰いは倒れない。

「まだ、まだ!」

 再び駆け出し、さらに閃姫を振るう。

「二閃!」

「オオオオオオオッッッ――」

 悶え苦しみながらも、闇喰いは両の腕を振り下ろしてくる。

「三閃! 四閃!」

 下から突き上げる斬撃、上からの切り下ろしが腕を墨に変え消滅させる。

 たじろぐ闇喰いの肩に向かって跳躍するとさらに上へと上昇する。

「これが――五光閃!」

 大きく振りかぶった一撃は闇喰いの体を左右に分ける。

 最後の断末魔の叫びすら無く、闇喰いはその体を墨に変えられ消えていく。

「……お見事」

 戦いの勝者に雫はぽつりと感想を述べた。





「知子!」

 闇喰いを倒した余韻も己の疲労も怪我も無視して、刹那は雫に抱えられた佐藤の元へと駆け寄る。

 ぐったりとしたその様子は、先程までの狂騒が嘘のように静まりかえっている。

「知子! 起きて、知子」

「大丈夫よ。闇喰いを消失したことで意識を失ったに過ぎない。ただいつまでも堺面世界にいられない」

「なら、育ちの家に」

 雫は頷くと、佐藤を抱えて走り出す。

 その後を追いかけようとして刹那は自分の体の異変に気がついた。

 今になって膝が震え、体が重くなっていた。

(もう少し堪えて。知子を安全な所に連れて行くまでは)

 痛みは奥歯を噛みしめることでやり過ごす。

 佐藤が目を覚ました時に、いつもの日常が始まったと思って貰うために、一人じゃあ無い、自分がそばにいると思って欲しいから。




 佐藤知子はゆっくりと瞼を開けると、見慣れた天井が見えて、だがぐっすり眠ったはずが体は異様な倦怠感が支配していた。上体を起こそうにも起き上がれない。

 そして不意に飛び込んできたのが心配そうに自分を見つめる刹那の顔だった。

「刹那……」

「大丈夫? 知子」

 常の厳しい瞳は、何故か潤んでいるように見える。何故、そんな顔をしているのか全くわからずに佐藤は刹那の顔を訝しげに見る。

「廊下で倒れていたんだ。びっくりして何とかベッドまで連れてきたけど……」

「廊下で? 倒れていた? いつの間に……」

 夢を、悲しい夢を見ていたのに、無意識のうちに廊下に出ていたのだろうか。気付けば制服姿のまま横たわっている。

「今日は学校休んだ方が良い。先生には言っておく」

 刹那は短く言うと鞄を持って出ていこうとする。

 そこへ、弱々しい佐藤の声がかかる。

「ねえ、刹那……」

「うん?」

 振り向いた佐藤の表情は暗く、視線は天井を見ていた。

「私ね。夢を見たの。変な夢を……」

「夢?」

「笑わないでね。私と刹那が学校の前で言い争いをしていたの。私は何十匹もいる化け物を従えて、刹那なんて刀を持っていたのよ。何を言ったかよく覚えていなけど、思いの丈をおもいっきりぶつけていたような気がする。刹那も怖い顔をして反論していた。その後、刹那は刀を振り回して化け物を倒していったのよ。それはもう、演劇を見るようなとてもかっこ良い姿だった」

 深く息を吐き、佐藤はつらそうに顔をしかめる。

「私はあの夢の中で何をしたかったのかな。わかるのは今在る全てを壊したい衝動だった。見るもの、聞くもの、ありとあらゆるものを壊したかった。でもこうも思ったの。壊した後に私は何を手にしたかったのかなって。もしかして遠い昔に無くしたものを取り戻したかったのかな。私の家族を……」

 そう言うと手で顔を覆って、流れそうになる涙を必死に堪えた。

「変だよね。私の両親はもういないはずなのに。新しい家族ならすぐそばにあるのに。なんで……私は……あんなに……」

 言葉はもう出なかった。その代わりに漏れ出す涙を何度も拭った。

 刹那は佐藤の言葉をつらい表情で聞き入っていた。

 そして、優しく語りかける。

「知子、本当の両親に会いたいって気持ち私にもわかる。時折、無性に会いたくなる。でもそれは周りを壊しても手に入れたいと思わない。この新しい家族を今度こそ守りたいと思う。後輩達を、そして当然、知子のことも」

「刹那……」

「ごめん、もう行くね。帰ってきたらゆっくり話そう」

 ドアを閉める音を聞いてから佐藤は布団を被ってその中で泣いた。理由はわからないが涙は止めどなく流れていく。両親を亡くして以来、初めて泣いた気がした。




 その日の刹那は上の空といった状態だった。黒板に字を走らせる音、教師の教えも今日に限っては念仏か、はたまた何かの呪文のようにも聞こえた。

 佐藤の言った夢の話――あれは実際に起きた出来事。佐藤の暴走を、生み出した闇喰いを刹那が必死に食い止めた。

 眼前に広がるのはいつもと変わらぬ日常。それだけのはずなのに、外傷は姫川雫の術式で癒やすことが出来たのに、心は一向に晴れなかった。

 休み時間も、昼休みも、刹那はじっと席に座り、彼方の向こうを見ていた。

 気付いたときには空が茜色に染まり、夕の光が地上を照らしていた。

 鞄を手に、ゆっくりと立ち上がると、屋上に気配があるのを察知する。

 行こうか行くまいか、逡巡すること数秒、刹那は足取り重く屋上へと歩き出した。




 屋上に着くと、そこはオレンジ色に染まった世界が広がっていた。ねずみ色の床も、青色の空も、太陽の光は分け隔てなく降り注ぐ。

 その誰もが見とれる世界に、一人佇む少女がいる。長い髪を風に泳がせ、少女は振り向かずに言う。

「遅かったわね、刹那」

 相対すればけんか腰になる相手。しかし、その正体は退魔師であり、今日の戦いを手助けしてくれた人物。

「別に来るつもりじゃあ無かった。でも一言、言いたくて」

 刹那は歩み寄り横に並ぶ。決して顔を向けずに、視線だけを同じ方角に向けて口を開いた。

「雫……、今日はありがとう。あなたがいなければ私はやられていた。知子も救う事が出来なかった」

 あの刹那から名前を呼ばれたこと、感謝の言葉を訊いたこと、心が揺らぎそうになるのを押し殺していつものように接する。

「礼を言われることでもありませんわ。同じ退魔師として当然のことをしたまで。ただ素直にお礼は受け取っておきますわ」

 高慢な態度に、刹那はそうっと言うだけで数歩前へと歩く。

「ねえ、退魔師って何なんだ?」

 刹那は戦い終えた後、悶々としていた問いを口に出していた。答えなどすでに自分が言っていることなのに、何故か心の底、沼に入り込んだように、問いと答えを繰り返していた。

「確かに私は闇喰いを倒して知子を救ったかもしれない。でも知子の方から見れば私は闇喰いを奪った存在になる。奪う者から守るはずが、逆に奪ってしまった。私のやったことは正しかったのか。それとも……」

「愚問ですわね」

 それ以上は言わせまいと雫はいつも以上に声を張り上げて制する。

「退魔師とは人間が生み出した闇喰いを倒す存在。あなたもよくご存じでしょ? あのまま闇喰いを放置しておけば、生徒は喰われ、最後には佐藤知子も喰われる。あなたは多くの人を救ったのよ。賞賛されることはあっても非難されることはない。もっと自分を誇りなさい」

 返答はなかった。刹那は目を床に向けて佇むように夕陽を浴びていた。

「守ること以上に求めるのなら、それは欲深い願いよ。わたくし達は神ではないのだから……」

 長い沈黙の中、刹那は佐藤知子のことを想う。

 最悪の結果は脱したかもしれない。かといって彼女の心が完全に癒やされたのだろうか。

 両親を失った哀しみ、連鎖して増大した憎しみは消えたりはしない。

 だが雫の言う通り、自分に出来ることなんてたかが知れている。人の心をどうにかするなどもってのほかだ。

 だがせめて――、

「雫。知子に今日、起きた事を話したいんだ。わかってくれるかどうか、もしかしたら傷口を広げるかもしれないけど、私も知子も、もう一度、正面から向かい合わなければいけないと思う」

 今度は力尽くじゃあない。話し合って、知子の想いを受け止めて、自分の意見も言って、今度こそ解り合いたいと刹那は思った。

 懇願するように見つめてくる刹那に雫は半ばあきらめてため息をつく。

「仕方無いわね。本来なら退魔師のことや闇喰いのことは一般人には話してはならないことだけど、佐藤知子なら他人には言いふらすことはしないでしょう」

 了承が無くても言うつもりだったが改めて許可を貰ったことで釘が一本抜けた気がした。

 佐藤の件はこれでひとまず置いて今度は自分自身の事を思う。

 初めての実践で、絶対に勝たなければいけない、そして勝利したとはいえ、足りないものがあった。

 それは退魔師としての覚悟。

「私は退魔師になって、少し浮ついていたのかも知れない。死と隣り合わせの戦いに私は覚悟を持てなかった」

 実際、姫川雫が助けに来なければ勝てなかったであろう。

 己の未熟さを噛みしめて、さらに強くなろうと思った。

「これからは過去を背負うのではなく、退魔師という名を背負っていく。闇を討つために」

 刹那の力強い言葉に雫は、感心したように大きく頷く。

 そして閃姫を渡したことに間違いがなかったと確信する。

「その覚悟があれば退魔師として十分よ。初めての戦いにしては見事でしたもの。そうまるで閃光のようにね」

 何気ない言葉に刹那は目をぱちくりさせる。

「今、何て言ったの?」

「えっ? 初めての戦いにしては良かったと……」

「その後!」

「閃光のようだと……」

「それよ!」

 指を指し、嬉々とした表情で刹那は熱を帯びたように語る。

「退魔師を背負うと言うのも良いけど、何かしっくりこないなと思ってたんだ。第一、退魔師になる人はみんな、退魔師と呼ばれるし……」

 ぶつぶつ言う刹那の顔を雫は覗き込む。

「刹那……、あなた一体?」

 雫の心配をよそに刹那は顔を上げまっすぐ視線を向けて夕陽を背に宣言する。

「そうだ。私はこの太陽のように、どんな闇にも差し込む光のような退魔師になる。

 今日から私は――紅き閃光の刹那――。

 この名を背負っていく」

 いきなりの宣言にぽかんと口を開けた雫が驚き慌てて反論する。

「ちょっと待ちなさい。そういう通り名は他人がつけるもので……」

「他人の付けたあだ名なんてお断りだ。雫、あんたにも付けてあげようか。例えば……」

「結構ですわ!」

「いやいや、そう言わず……」




 朝が来れば夜が訪れるように、夜が終われば朝が来る。

 紅き閃光の名を冠した刹那は苦難の道と知りながらも突き進む。

 奪う者から守るために。

    

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