第四話『葬式』
歌穂は二年前にここで首を切って自殺した。
歌穂はためらうことなく一気に首を切って絶命した。世界が真っ暗になった後、視界が回復すると歌穂は森の中にいた。
ここが天国なのだろうかと思って彷徨ったが、母親どころか人の気配がまるでなかった。よく見れば、ここは自分が自殺した森の中ではないか。
歌穂は死ねば自動的に天国に行くのだと思ったが、まさか死んだ後に自分で天国まで行かなくてはならないとは知らなかった。
困り果てた歌穂の右手には、自分の首を切り裂いた巨大な刃物が一つ。
歌穂は、村の人間達が『イタズラ』だと解釈した行為をする時、この刃物は使わなかった。母親の料理の手伝いをしていた時、刃物を他人に向けてはいけないと教え込まれていたからだ。
だから歌穂は、他人に向けてはこの刃物を使えず、仕方なしに自分で作ったおもちゃで天国に行って来て欲しいと脅した。
いや、歌穂がしていたのは脅しなどではないし、イタズラなどではけしてなかった。
歌穂がしていたのは懇願だった。母親を連れて来て欲しい。自分にできる精一杯の力で他人にそれを頼んだ。だが、みんなわざとらしく怯えた振りをするだけで、一向に母親を連れて来てはくれなかった。
頭を撫でられて、『強く生きるんだよ』なんて言われた時は、まるで意味が分からなかった。そうではなくて母親を連れて来て欲しかったと言うのに……。
誰も母親を連れて来てくれないと理解すると、歌穂は自分で行くことを考え始めた。
母親は、刃物を他人に向けてはいけないと言った。つまり、自分になら刃物を使ってもいいんだ。
母親に会いに行く。何を恐れる必要などあるものか。母親に会いに行くと言うのに、恐怖を感じるはずがない。だが、実際に死んで見ればこの通りだ。
他人に向けて刃物を使ってはいけないと言うが、いま自分が実際死んでみると何でもなかった。ただ死ぬ時に少し痛いだけだ。
それを知ったらもう人に刃物を突き立てるのに躊躇するという考えは浮かばなかった。森で人を見かけたら問いかけるんだ。『人は死んだら何処へ行くのか?』と。
そうして『天国に行くんだよ』と答えれば殺す。なぜなら、死んだ後どこに行くかちゃんと分かっているのだから。
自分は天国が何処にあるか知らないが、『天国に行くんだ』と答えた人間ならきっと知っている。なぜなら死んだら天国に行くとはっきり言い切れるということは、確信があるにちがいないから。ならば、天国の場所が何処にあるかも絶対知っているに違いないのだ。
その場で殺して、天国に連れて行ってもらおう。
そして、森の中でようやく見つけたのが青年だった。しかし、実際に殺してみればこのざまだ。体はここにあるが、きっと一人だけ勝手に天国に行ってしまったんだ。そう思うと腹を立てずにはいられなかった。
「うぁあああああん! あぁぁああああん!」
青年の体を蹴りつかれると、後は大声で泣くだけだった。結局また天国に行きそびれた。またこの森の中で彷徨わなければならない。
森の中は嫌だ。じめじめしているし、薄暗いし、誰も居ない。自分が生きていた時は誰かしら居たと言うのに、死んでから不自然なくらい誰もいなかった。
一番いやだったのは森の中から出られないことだった。間違いなく森から抜ける道を歩いているはずなのに、気付くと森の中に入り込む道を歩いているのだ。これでは家に帰ることもできない。
「寂しいよ……誰か助けてよ……」
泣くのにすら疲れて、歌穂は青年を見おろす。天国は居心地のいい場所だと聞いている。ということは、きっとこことは違って暖かい場所なんだろう。食べ物とかもいっぱいあって、人もいっぱいいて、当然そこにはお母さんが……。
「うぅ……うううぅぅうううッ!」
歌穂は口を閉じたまま地面に突っ伏し、呻くようにまた泣き始めた。
母のことを思い出すと流しつくしたと思った涙がまた溢れて来たのだ。
母は優しかった。毎日のように頭を撫でてくれて、朝起きると必ずキスをしてくれた。恥ずかしくて嫌がったこともあったけれど、本当は嬉しかった。
自分の名前を呼びながら腕を広げてくれる母が好きだった。その胸に飛び込んで優しく抱きしめてくれるのが好きだった。お母さんと呼んで、返事をしてくれるのが好きだった。
でも、ある日を境に自分の前から急に姿を消してしまった。お父さんに聞くと、どうやらお母さんは「死んでしまった」らしい。
どうなったかなんて聞いていない。だから「何処にいるの?」と聞いたら、お父さんは泣くばかりで教えてくれない。
今度は村の人間達に聞いてみた。すると、「天国にいるんだよ」と教えてくれた。
場所が分かるなら連れて来てくれればいいのに……。それなのに誰も連れて来てくれない。「死ななければ行くことはできない」と答えるばかり。
行き方さえも分かっているのに誰も行ってくれない。自分で作った刃物を持ってお願いしているのに、誰もそれで死んでくれない。
このお兄さんなら……見知らぬ自分にも優しくしてくれたお兄さんなら、きっと連れて来てくれると思った。それなのに、結局ダメだった。もうどうすればいいのか分からない。
歌穂は立ち上がり、ふらふらと数歩歩いた。でも、泣いている時は体中がだるくてうまく動けない。だからすぐに足がもつれて転んでしまった。
立ち上がるのすら面倒だった。このまま地面に転がっていようかと思った。でも、その時肩に誰かの手が乗ったのを感じた。
「お……兄さん?」
「やぁ……待たせたね」
さっきまでどれだけ蹴りあげても、ピクリとすら動かなかった青年が、女の子に刺された腹をおさえながら、精一杯強がって微笑んで、女の子の肩に手を乗せていた。
「お、お母さん……お母さんは!?」
青年が立ちあがっていることに驚いて唖然としたが、それよりも興味を引くことがあった。青年は待たせたねと言ったんだ。お母さんを連れて来て欲しいと懇願していた自分に対して、 待たせたねと言った。
それはつまり、お母さんを連れて来てくれたということに他ならない。
「ここに連れてくることは……ゴホッ! ゴホォ! できなかった。でも……会わせてあげることならできると思うよ……。ごらん?」
青年は腹の痛みに耐えながらそう言って、ある方向を指さした。そこには、さっき青年が火を付けた緑色の線香があった。
これだけ長時間燃えていたというのに、緑色の線香はまるで短くなっていない。おかしいのはそれだけではない。緑色の線香から発生した細い蜘蛛の糸のような煙が、上空に向かって伸びている。
煙は、はっきりとその形を維持したまま空まで届き、雲に割れ目を作って優しい光がその雲の間から零れていた。
「あの煙が目印だ。この地獄から抜け出す道しるべだよ」
「……あの煙の先に……お母さんがいるの?」
歌穂は震える声で、恐る恐る青年にそう聞いた。だが青年は、意地悪にもその問いにはっきりとは答えなかった。
はっきりとは答えず、強がりの笑みを浮かべながら言った。
「君は……お母さんのお葬式だけじゃなくて、君自身のお葬式にも出なかったんだね。だから君はこの世から離れられずに、いつまでも森の中に閉じ込められている」
青年は震える足を動かしながら、岩の上に置いたお鈴の近くまで行く。そして、歌穂を振り返りながらお鈴を鳴らすために棒を持つ。
「予定外だったけど、君のお葬式をしよう。悪いけど、お経を唱えられる余裕はないから、お鈴を鳴らすだけで勘弁して欲しい。でもきっと、お鈴の音が君を導いてくれるはずだから……」
青年は腹を抑えながらお鈴を鳴らす。高くよく響く音があたりに広がり、優しい風を産んだ。その風は、歌穂の体を包み、線香の煙に沿って空へ歌穂をさらって行く。
歌穂は涙を流していた。それは一体どうして?
空を飛ぶのが怖かったから? これから母親に会えるのが嬉しかったから? それとも、さっきの涙がまだ止まらないため?
でも、きっとその涙の意味は……。
「ありがとう……ありがとうお兄さんッ!」
その歌穂の最後の一言に込められてたと思う。
女の子が空に消えていくのを見届けると、青年は再びそこに倒れ込んだ。
「……きっと」
「が、学生さんッ!? どうしたんだよこんな所に倒れ込んで!」
あたりはすっかり暗くなっていると言うのに、偶然にも村人が通りかかった。青年が腹に傷を負って、倒れているのを見てかなり驚いているようだ。
「一体誰に! いや、今はそんなこと考えてる場合じゃねぇ!!」
村人は慌ててそばに駆け寄り、青年を背負って村まで走りだした。
「間に合うかなぁ……」
「何言ってるんだ学生さん! そんなに深い傷じゃない。すぐに医者に見せれば……」
「はは……そうじゃないですよ。歌穂ちゃんのことです」
その青年の言葉に、村人はぎょっとする。何ぜこの青年が歌穂のことを知っているんだろう? 確か、歌穂はこの森で自殺したはずだが、歌穂の幽霊にでもあったと言うのか? そんな馬鹿な!
「僕は……今一回死んだんだと思うんですよ」
「学生さん? それはどういう?」
「川の岸辺に花がたくさん咲いているのが見えてね? そこで、歌穂ちゃんのお母さんにあった気がするんです。そしたら、土下座をしながら謝っているんです。『申し訳ありません。あの子を許してください』って……。子供のうちは罪の意識が分かりづらい。だから親がいるんです。傍にいて色々教えてあげないといけない。もし子供が間違いを犯したら、親が一緒に謝ってあげる。歌穂ちゃんのお母さんにそこまでして謝られたら……」
青年は腹の激痛に耐えながら、フッと笑う。
「許さざるを得ないと思いません?」
「……」
村人はもう青年の言葉に返事をしなかった。
風邪を引いて高熱で苦しんでいる時、変に弱気になって、変なことを口走ったりすることがあるが、大きな怪我をした時も同じような風になるのだろうか?
* * *
「ああ……歌穂ッ!」
「……お母さん!」
この世とあの世の境で、歌穂は母親と再会し、たがいにしっかりと抱きしめあった。
実は、歌穂の母親は、天国にはいかずに地獄に落ちていた。しかし、それは母親が望んだことだった。
「まだ小さい歌穂を置き去りにしてしまった私が、天国になんていけるはずがない。どうか地獄に落としてください」
死んだのは母親のせいではない。だが、それでも母親は、歌穂を置き去りにした……いや、歌穂に永遠に会えなくした自分が許せず、罰してやりたかった。
罪だと言われれば、確かに罪であるとも言える。だが、それはわざわざ地獄に落ちてまで償わなければならないものではない。
天国に行き、一人自分でくいて反省すれば十分な程度の軽い罪だった。
神は困惑したが、本人がそう望むならと、短い刑期を母親に科して、地獄に送った。
しばらくすると、母親は地獄の炎に焼かれながら、歌穂が自殺したことを知る。しかも、村人たちに悪質ないたずらを繰り返した罪によって、森という地獄に閉じ込められ、永久に彷徨い続けなければならないと言うのだ。
地獄の苦しみよりも、そちらの方がよほど苦しかった。それも、歌穂の犯した罪というのは、母親が原因なのだ。そう考えたら泣かずにはいられなかった。
そして母親の刑期が終わり、また人に転生すると言う時、母親を地獄に落とした神が現れた。
神は、どれだけ小さな罪であってもそれを許さなかった母親の誠実さに感嘆し、転生前に一つ願いを叶えてやろうと言うのだ。
これから転生すると言う者がする願い事なら、来世のことを普通願うだろう。だが、母親の願いは現世にあった。
「あの子を助けてッ!」
母親がその答えを迷うはずが無く、悲鳴をあげるかのようにそれを口にした。
神はそれを聞き届け、歌穂の罪を許し、森の中から救い出してやることにした。問題はどうやって救い出すかだ。
神がどのように歌穂を救い出すかを考えていると、運の悪いことに、青年が一人歌穂の閉じ込められた森に入り込んでしまった。
歌穂は悪霊化していた。一度目は殺意を持って追いかけまわし、二度目はついに青年を殺してしまった。歌穂の罪状が増え、母親の善行では助けてやることができなくなった。
なんと母親に説明したものかと悩んでいると、歌穂に殺された青年が神の元へ来て言ったのだ。
「許してあげてください」
神はその青年の言葉が信じられず、「本当にいいのか?」と問い返した。すると青年はそれに答える。
「母親に会いたいと願い、そのためにした行為を罪として罰するなら、あの子の悲しみに気付くことができずに、突き飛ばしてしまった僕の行為の方がよほど重い。僕が許して歌穂ちゃんの罪が消え、僕が突き飛ばした罪も消えると言うなら、歌穂ちゃんを僕は許します。だから、僕も許してください」
神は青年の答えに感銘を受け、歌穂をここへ導くことを条件に青年を生き返らせ、歌穂と青年を許した。
歌穂は母親の胸の中で眠り、母親は優しく歌穂の頭を撫でた。
(ああ、神様……たがいに死んでいると言うのに、もうすぐ別れなければならないと知っているというのに、この再会を喜んでしまっている私は、やはり罪深いですか?)
神はその心の声を聞き、横に小さく首を振った。
完結です。
ここまで読んでくださってありがとうございました。