第二話『死後を問うたのは幽霊?』
夜。青年は宿泊している家のなかでソファーに座り、ぼうっとしていた。
あの出来事さえなければ、今頃明日の計画を練っていただろうに……。
「どうしたね? 田舎での生活に疲れたかい?」
そばで編み物をしていたこの家の老婆が声をかけてきた。昔の話から最近の村の事情までたくさんの話を知っているので会話をしていて退屈しない。
「いえ……別に……」
(いや、でも……)
幽霊に会いましたなんて、恥ずかしくて村の人間には言えない。だが、昔からの言い伝えなんかを大切に守っているこの人ならば、馬鹿にしないで聞いてくれるのではないだろうか?
「あ、あの、森に女の子の幽霊にが出るなんて話はありませんか?」
「……」
老婆はキョトンとして見返してきた。さすがに馬鹿馬鹿しすぎただろうか? それもそうか。そもそも、自分が臆病風にふかれて見た、幻覚とも知れないような幽霊と、村の言い伝えを同義にするなど失礼だ。
だが、むしろよかった。これで神妙な返事でもされたら……。
「もしかして、このくらいの女の子だったかい……?」
本当にそんな幽霊がいるみたいじゃないか……。
「知っているんですか!?」
「会ったのは森の中かい?」
「そうです! その通りです」
森で迷ったことがばれることなどもはやどうでもよかった。とにかく、この胸にうずまく不安と恐怖を鎮めてもらいたかった。
「……ごめんねぇ」
老婆は、いきなり謝罪した。青年にはその謝罪の意味が分からない。
「あの子も悪い子じゃないんだ。許してあげておくれ」
老婆はそういって今度は手を合わせる。そのしぐさを見て、青年はハッとして気付いた。
「幽霊じゃないんですか?」
青年の問いかけに、老婆は頷く。
「子供のイタズラにしても、いけないことだとは思うんだよ」
当たり前だ。イタズラと言うことは、刺すつもりはなかったのだとは思うが、刃物をもって追いかけまわすなど、やっていいはずがない。
「ただ、あの子の境遇を考えるとねぇ。私たちのせいだと言えなくもないしね……」
老婆の言葉を聞くと、なにか理由がありそうだった。
「余所者の自分が聞いてもいいなら、教えてもらえませんか?」
青年の言葉に、老婆が頷いた。青年は実際に追いかけられたのだから、村の人間ではないと言っても、話を聞く権利はある。
「名前は歌穂ちゃんと言うんだ。小学三年生くらいだったかね」
青年は頷く。確かにそのくらいの子供だった。
「歌穂ちゃんは今お父さんと二人で暮らしているんだ。お母さんは事故でなくなってしまってね……」
片親というわけだ。
……まてよ、さっき私たちのせいでもあるといってなかったか?
「ま、まさか!」
「ああ、違うよ。お母さんが死んだのは不幸な交通事故。お母さんの死には私たちは関わってない」
青年はほっとする。村の住民があの子の母親を殺して怨まれているのではなかと一瞬考えてしまった。森に入ってから、変に臆病になってしまっている。気を付けないと……。
「死には関わってないということは、私たちのせいと言うのは何ですか?」
老婆は、なにかを思い出すように目を閉じた。そしてぽつりぽつりと話し出す。
「あれだけの小さい子なんだ。親が死んだらどれだけ悲しいか分かるだろう? その上、お母さんの体はとてもむごい状態だった。歌穂ちゃんに見せる訳にいかなかった。だから、私達は、お母さんが死んでしまったことを伝えるだけにして、お母さんの遺体から遠ざけた。念には念をいれて、葬式にすら出席させなかったんだよ」
それは、青年の価値観からはずれたものだった。いくら遺体から遠ざけるためとはいえ、葬式にすら出させないと言うのは違う気がする。
だがそれはそこまで特別おかしいことではないと思う。少なくとも、他人の青年である自分が口を挟むことではない。
「それからどうなったんですか?」
まだ続きがあることを感じ、青年はそう言った。老婆は頷いて話始める。
「歌穂ちゃんは、まだ幼かったせいか、死ぬと言うことがどういうことか分かっていないようでねぇ。村中の人間に聞いて回っていたんだよ」
「……あ」
青年はその先の言葉がなんなのを察した。
「人は……」
「『人は死んだら何処へいくの?』……ですか?」
老婆は儚げに微笑みながらうなずき、「やっぱり聞かれたんだねぇ」と呟いた。
「そう、人は死んだら何処へいくの? だ。お母さんが死んだばかりの頃は、村中の人間に聞いて回っていたんだよ」
その光景は、見る者にどう映ったのだろうか? 狭い村だ。事故で死んだとなれば、その不幸な話題は村中の人間が知っていたはずだ。当然、女の子のことだって、村人達は知っていただろう。
そんな状況で、『人は死んだら何処へいくのか?』と聞かれたら、どれだけその女の子のことが可哀想にみえただろうことは、想像するのに難しくない。
「そして、村人達の答えのなかで一番多かったのが……」
「『天国に行くんだよ……』」
老婆はこくりと頷き、「学生さんも、そう答えたんだねぇ」と言った。
「他に答えようもなかった。人は死んだら天国へ行く。当然歌穂ちゃんのお母さんもそこにいる。天国はとても居心地のいい場所だから、お母さんのことは心配いらないよと教えた」
青年があった女の子は、『天国は居心地のいい場所なんでしょ?』と言っていた。村人たちが教えたことを純粋に信じていたらしい。
「死んだら天国に行くことには納得したみたいだった。だから、歌穂ちゃんはさらに知りたがったんだ。どうやったら天国に行けるのかをね」
そう問いかけられた者は困っただろう。死んだら天国に行くと断じたのだから、その行き方も当然知っていると女の子が考えてもおかしくない。
「ある者は『分からない』と言って誤魔化し、ある者は生きている者は行くことができないと正直に答えた。すると、歌穂ちゃんは死ななければ天国に行くことができないと言うことも理解したみたいだった。そして、あのイタズラが始まったんだ。学生さんもされたんだろう?」
青年はこくりと頷く。あれは忘れようと思って忘れられる光景ではない。
「私のために天国に行って来て欲しいと言いながら、刃物を持って追いかけまわされました」
青年の答えを聞くと、老婆は悲しそうな顔をして俯いた。
「死んでほしいなんて、冗談でもいっちゃいけないことだ。歌穂ちゃんでなければ、げんこつを落として叱りつけていた。でも……お母さんが天国にいると答えていた手前、そこからお母さんを連れ帰ろうとする歌穂ちゃんを叱ることができなくてねぇ」
気持は分からないでもない。だが……。
「刃物を持って追いかけるんですよ? そこまでしたらさすがに叱らなくてはならないでしょ?」
「そうはいっても、木の棒にアルミホイルを巻いただけのおもちゃだろう?」
「おも……ちゃ?」
そんな馬鹿な。あれは本当に本物の刃物だった。
……多分本物だった。本物だった気がする。まさか……そんな、あれは見間違いだったとでもいうのか?
森の中は暗くて周りがよく見えなかった。夕焼けの光がわずかに差し込んでくるだけだった。そんな状況であれは間違いなく刃物だったと言えるか? アルミを巻いていたと言うなら、あの不自然な光の反射にも納得できる気がする……。
「さすがに歌穂ちゃんも本気で誰かを傷つけようなんて思っちゃいなかった。なら、歌穂ちゃんの寂しさを紛らわせるためにと思ってね……」
老婆は青年が心の中で困惑していることに気付かずに話し続けていた。老婆の話ぶりに嘘が混じっている様子はない。あの女の子は、本当に少し度が過ぎたイタズラをしていただけだったのだ。
青年は老婆との話はそこで切りあげ、自分が寝泊まりしている部屋でさらにあの時のことを思い返して、自問自答していた。
(あの女の子は……歌穂ちゃんは幽霊なんかじゃなかった……)
だがちょっと待てよ。あの子は突き飛ばされてもなんてことない顔で立ち上がってきたじゃないか。普通の女の子がそんなことができると思うか?
(無意識のうちに手加減したのかもしれないだろ? 相手はどう見たって女の子だったんだぞ? それに、あそこは森の中なんだ。落ち葉が集まって、地面が柔らかくなっていたかもしれないじゃないか。そこに転んだなら、そこまで痛くはなかったはずだ)
なら後ろをぴったりとくっついて走ってきたことはどう説明する? 大人と子供が競争して、負けるはずがない。
(慣れない森の中だったんだ。何度もつまずきながら走ったじゃないか。それに、方向なんてでたらめで、ジグザグに走っていた。かなりのロスがあったはずだ)
おいおい、女の子だって同じ条件だろ? だったらやっぱり同じ速さで走るのはおかしいじゃないか。
(同じなんかじゃない。自分の方が背は高かったから、木の枝や草をかき分けて進まなきゃいけなかった。それに対して、女の子は森の中に慣れていた。でこぼこの道を走るのなんてなんてことないだろうし、森の中に詳しいなら、近道をして回り込まれた可能性だってあるだろ? 無我夢中で走っていたから、後ろなんて一度も振り返らなかったじゃないか)
……なら、あの笑顔はどう説明するんだよ? あの口が裂けるんじゃないかと思うほど歪めた気持ち悪い笑顔は?
「あたりは暗かったんだ! 見間違いに決まっているし、幽霊であるはずがないだろ! いい加減自分の非を認めろよッ! ……あ」
青年は立ち上がりながら自分の声に一括し、自分がどれだけ怯えて勘違いをしていたのかに気付いた。
「僕は……なんてことを……」
最後に女の子に背中に乗られた時、恐怖のあまり力の限り突き飛ばしてしまった。一度目はやはり無意識に手加減したか、転がる場所が良かったのだろう。現に、間違いなく攻撃の意志を持って突き飛ばした二回目の時は、女の子は追いかけてはこなかった。
臆病風に吹かれて、自分はとんでもないことをしてしまった。あんなに小さい子を、大人の力で突き飛ばし、暗い森の中に置き去りにしてしまうなんて……。
自分がもっと冷静だったなら……子供相手に怯えたりしなければ……きっとあの女の子を突き飛ばすことなどなかった。
悲しみに気付くことはできなかったとしても、悪意が無かったことにはきっと気付けた。だって、女の子は刃物なんて持っていなかったのだから。
思えば、女の子は言っていたじゃないか、「天国に行って来てくれ」と。
女の子はただ死ねと言っていたんじゃない。天国に行き、お母さんを連れて帰ってきてくれと言っていたのだ。
余所者の自分にそれが分かるはずはない。だが、全てを聞けば気付くことができる女の子のメッセージ。
『母に会いたい』という、女の子の精一杯の表現だったんじゃないか。それを突き飛ばされた女の子の心は、どれだけ痛かったことか……。
青年は急に、女の子が帰ってこないと言って騒ぎになっていないかと怯えた。加減なしに転ばせたのだ。怪我をして家に帰れない状況になっていてもおかしくない。
村の様子なんか分かるはずもないのに、窓に近寄って外を眺めた。月は雲で隠れているらしく、暗くて何も見えない。
もしかしたら宿泊しているこの家に、「歌穂ちゃん」を知らないかという電話がかかってくるかもしれない。そう言えば、さっき電話が鳴っていたような? だが、それなら老婆にあの話をした自分に声がかけられるはず。それがないなら、そう言う電話はかかってきていないと言うことか?
時計を見ると、もう深夜の十二時を回っていた。騒ぎになっているなら、もっと早く騒ぎになる。ということは、歌穂ちゃんはとりあえず大きな怪我をして、家に帰れなかったということはなさそうだ。
だが、それで青年の罪悪感が消えるはずがない。小さな女の子を突き飛ばしてしまったのだ。青年はその事実に、一晩中苦しめられ続けた。