第2話
あの日。私があの子の。蒼の親になってから5年の年月が経過していた。
揚州呉郡の城の中。きゃらきゃらと中庭で子供たちが遊んでいる光景を見ながら私はこの5年の歳月を思い返していた。
私は子育てなどしたことはなくすべてが初めてのことばかりだった。おしめを替えたりご飯をあげたりと慣れない間は苦労する事が多かったが、それも今となってはいい思い出である。あっという間に蒼は成長し現在にいたる。最近は蓮華ちゃんと同じ学び舎に通い、雪蓮ちゃんと共に祭から武芸を教わったり、冥琳ちゃんと軍略書を読んでいたりする。5歳にしてはいろんなことをやり過ぎなのではないかと心配し、文台様に相談をしてみたことがあったが、
「子どもの間からいろんなことに興味を持つことは大事よ。」
「はぁ…しかし何だか無理をしている気がしまして……」
「まさかあなたがこんなに親バカになるなんてねぇ」
これは面白いものを見つけた。とそんな顔をした文台様に言われてしまい、私は苦い顔をするしかなかった。
しかし心配すると共に蒼には何処か期待している自分も存在しているのは確かだった。勤勉で人柄もいいあの子はきっと孫家を支えるいい将になるはずだ。
「蒼!一緒に祭のところへ勝負しに行くわよ!!」
「お姉さま!蒼はこれから私と勉強するのです!!」
「蒼。先日私の母上から新たな本を買っていただいた。一緒に読まぬか?」
上から雪蓮、蓮華、冥琳の三人に揉みくちゃにされながら、この状況をどうしたもんかと思考を巡らせる。
ここ数年この三人とほとんどの時間を過ごしている。それぞれの親が主君と部下の関係であり、親が仕事をしている間は自然と集められることが多いのだ。
みんなそれぞれいい子供たちであるが、早くも英雄たる片鱗を垣間見せている。
孫策こと雪蓮は10歳にして大人顔負けの武芸を発揮し日々鍛錬に打ち込んでいる。
冥琳は天才軍師周瑜の名に相応しく頭脳明晰であり暇さえあれば軍略書を読み込む姿がある。
蓮華はまだ幼いせいか甘えん坊で少々頑固なところもあるが努力家で俺と共に勉強に一生懸命だ。
「こら!三人とも!蒼が困ってるわよ。その辺にしときなさい。それにもう昼食の時間だわ。続きは後よ。」
体がきしめ始め本格的にまずいと思った所で、天の助けが来たようである。現れたのは文台様だ。
「ごめんね。蒼。」
それぞれから謝罪をうける。
「うん。大丈夫……」
子どもの面倒は嫌いではない。自分が大人の姿であればそのようなセリフを吐けるのだが、如何せん俺はまだ5歳児だ。心に留めておく。
「文台様お体は大丈夫なのですか?」
文台様が現れたことにより葵さんも近くへとやって来たようだ。
「ええ。この通りもう出歩いても平気よ♪」
先日文台様は三女である孫尚香を生んだのだ。
「どうせまた侍女にも知らせずに勝手に出てきたのでしょう?」
「そ、そんなことはないわよ……」
「全くいつもいつも…」
葵さんが説教モードに突入しているのを尻目に俺はそそくさと食堂へと向かうことにする。あぁやって文台様に説教する光景はいつものことであり、葵さんの説教は始まってしまえばなかなか長い。関わりあいにならないためには即時撤退は孫家の常識だ。
5歳になった俺はすっかりこの世界の生活にも慣れ、この時代を生き抜くための力をつけるために様々の分野を勉強中である。
まずは武。雪蓮と共に黄蓋さん。祭さんに稽古をつけてもらっている。まだ俺は体力トレーニング中心のメニューだが、孫策や黄蓋といった猛将の武を間近で見学することは自分にとって糧になる。数年後自分も相手をさせられることになる事は考えないようにした。
知に関しては冥琳と共に孫子を勉強している。難解なものばかりで勉強の進みは遅いが着実成長していることは感じる。
蓮華とはこの国の情勢を主として学んでいる。法や政治も絡みこの国を理解する上では非常に重要なことだ。
そうして日々努力をしているとは俺の考えをいくらか変えた。当初はまた突然寝て起きたら元の世界に帰っているのではないかとも期待したが、そんな希望が叶えられたことは一度もなかった。流石に腹をくくるしか無かった俺は、この国の文化や思想を学びこの国の住人として生きていくことを決めた。
真名という文化はいささか驚いた。本人が心を許した証として相手に預ける名前であり、それ以外の人が呼ぶことは最大限の侮辱ととられるらしい。しかしこのおかげで、孫策や孫権。周瑜という名前を聞いても男の顔がチラつくことがなくなったのは僥倖といえよう。
この先に待ち受ける運命に立ち向かうために今は伏して力を貯める時だ。
国の情勢は思わしくない。各地で乱や賊が目立ち始めていた。文台様を始めとした孫家一同は治安維持のために乱の鎮静や賊退治に日々を追われている。そんな中ついに俺にも覚悟する時が現れた。
初陣である。
数年の間武と知を学び、実力はあがった。祭さんからも戦場に出ても問題ないという判断を頂いた。
敵は揚州の各地で反乱を起こしていいる異民族山越だ。
「大丈夫よ。心配しないで。いざとなったらみんなが守ってあげるから。」
共に従軍する雪蓮はすで初陣を済ませており立派な将の一人になっている。しかし彼女も初陣から帰ってきた後は普段の天真爛漫な姿は見られず、何処か暗い表情をしていた。そんな姿を思い出し少々不安になる。
「前方三里に敵軍500を確認!」
伝令のその言葉に緊張が走った。此方の兵は300で相手はほぼ倍の人数である。
「慌てるな皆の者!敵は所詮烏合の衆!我らが武を目の当たりにすれば敵はすぐさま崩壊しよう」
葵さんの言葉で兵の動揺も収まる。
「錐行の陣を敷く!」
文台様の一言で兵たちはすぐさま陣形を整えさせた。
「左翼には雪蓮。右翼には祭。後曲には葵を置く。蒼も後曲だ。私が前曲を率いる!」
「お待ちください!総大将が前曲などと危険すぎます!」
「先ほどお前が烏合の衆と言った相手だ!そんな者共に私がやられるか!」
言い負かされてしまい葵さんの進言は結局それまでとなってしまった。
「全軍突撃!!」
文台様の凄まじい突破を皮切りに両翼の二人が続き次々と敵兵は討ち取られていった。残る敵兵も後曲である葵さんの部隊に殲滅させられる。俺自身も三人の兵を討ちとった。無我夢中で剣を振りかざし、殺されないために殺した。
快勝だった。既に鬨の声が上がり皆自分たちの勝利を噛み締めていた。
そんな中俺は戦場に立ち尽くしていた。
「蒼?大丈夫?」
剣を握りしめたまま呆然としていた俺に葵さんが声をかけた。
「…はい。」
「あなたは勇敢に戦ったわ。」
そう言うと葵さんは俺を抱きしめた。
人の暖かさに触れ今までの緊張や不安。様々な感情が胸に押し寄せ、涙となって溢れ出た。
蒼を抱きながらこの子を最後に抱きしめたのは何時振りのことだろうと考えた。体は逞しくなり、身長も伸びた。気づけば体は大人へと着実に成長している。元々手がかからない子どもだった上に軍の仕事も忙しくなり、親として何かをしてあげたことは赤子の時以来殆ど無かったと思う。泣いている蒼の背中をぽんと押すと初めてこの子を拾った時のことを思い出した。
「……もう大丈夫です」
しばらくして蒼は恥ずかしそうな顔をしながら私から離れた。
「まだ甘えたっていいのよ?」
自分がまだ蒼から離れたくなかったのかもしれない言ったあとで気づいた。まだ子どものままでいて欲しかったのかもしれない。
「いえ。このままだと撤退の準備も遅れてしまいます。」
そう話す彼の表情は既に大人の表情に見えた。
恥ずかしい。女の人に抱きしめられながら泣くなんて……初めての戦で感情が高ぶったとはいえ、周りに兵や雪蓮たちが居る中でこれはキツイ。
とりあえずこの場を離れようと辺りを見回した。
そこには死体が無数に転がっており、その光景を見た瞬間急に現実に引き戻された。戦場に漂う血の匂いに吐き気を覚えた。だがこれ以上醜態を晒す訳にはいかない。急激にせり上がってきたモノを飲み込む。死者たちの顔は苦痛に歪められ腕や足がそこら中に落ちていた。戦場の後をふらりふらりと彷徨いながらこの光景を刻み込んでいく。これが戦争か……
敵兵が此方へと向かってくる。狙いは俺だ。殺気をぶつけられ背中に汗が流れる。相手の獲物は剣。怒声を上げながら獲物を振りかざしてくる。剣のスピードは祭さんに比べてかなり遅い。俺はその一撃を避け間合いへと踏み込み攻撃を放った。肉を裂く感触が剣に伝わる。斬った。相手は既に事切れている。俺が殺した。
「うわっ!!」
初陣から数日がたった今も初めて斬った相手との戦闘を夢に見る。あの感触、あの時の戦場のニオイはつい先程までいたかのように記憶は鮮明に思い出される。
顔でも洗おう。嫌な夢を見たせいで汗をかいている。月はまだ高い位置にある。時間はまだ深夜だろう。
顔を洗ったせいもありすっかり目覚めてしまった俺はふらりと屋敷の庭へ訪れた。そこには先客がいた。
「眠れないの?」
コクリと首を縦に振り肯定の意えを示しながら葵さんの元へ近づき、隣へと腰を下ろす。
「私も初めて人を斬った時はあなたと同じように眠れなかったわ……」
酒でも飲んでいたのだろうほんのりと顔がいつもより朱い。昔の自分を思い出すように彼女の言葉は続いた。
「昔、私の住んでいた村を賊が襲ったの。平和だったはずの世界が一瞬にして地獄と化したわ。村のみんなを守るために私は賊を斬った。幸運にもすぐに官軍がやってきて村の全滅は免れたけど、たくさんの人が死んだ。なんて自分は無力なんだとその時思ったわ。でもそんな私に村の人達はありがとう。と言ってくれた。あなたが居なければもっと死人が出ただろうって。その言葉で私は救われた気がするの。自分は誰かの役に立ったんだって。」
フッと息を吐き葵さんは俺の目を見つめた。
「ありがとう蒼。あなたのお陰で村に被害が及ぶ前に反乱を抑えることができたわ。」
葵さんの言葉を聞き体がスッと軽くなるような感覚を覚えた。あの時俺は必死に殺されないように力を振るっただけだった。けど結果的には賊が自分たちの手で抑えられ、民が被害を受けることはなかった。自分のためだけに殺したわけではない。そう思うことでいくらか心が軽くなった。
「あなたの代わりその苦しみを私が背負うことはできないわ。しっかりと受け止めて、前を向きなさい。」
「はい。」
この時ようやく俺はこの時代に生きていく本当の覚悟をした。