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「……クリシュナ、お前、何を……」
ようやく声を絞り出したような国王に、クリシュナは静かに、けれど挑むように目を合わせる。
「約束は、嘘でございましたか……?」
「やく、そく?」
「たったいま、約束したではございませんか。わたくしが笑えば、落ちぬ者はおらぬと」
「ああ、約束、した、な」
追求するかのようなクリシュナに、何事にも動揺せぬと言われた国王が、うわずった声を出す。
本当に約束の事が頭にあるかどうかさえ怪しいような様子だ。
「お前、何を言っているのか、分かっておるのか?」
「十分に」
分かっていないのは、わたくしではなく、きっと陛下の方。
しっかりと肯くと、更に国王は動揺した様子のまま、やはり落ち着かない素振りを見せる。
「俺は、お前の父親の年だぞ」
ひどく深刻な顔をしている国王の様子を見るのが切なかった。クリシュナは国王の動揺ぶりに自嘲する。それだけ、思いもよらない言葉だったという事だ。それだけ、クリシュナを女としてみていなかった、という事だ。
「出会ったときより十年の年月、変わることなく、思い続けておりました。王妃様がご存命の頃には、まさしく叶わぬ想いでした故。それに比べれば年などそのようなことは些細なこと。悩むのは飽きてしまうぐらい、十分に存じております」
淡々と告げながらも、苦く響く彼女の言葉を拒絶するように、国王が苦しさを滲ませながら首を横に振る。
「国王など、因果な商売だ。俺では、お前を幸せに出来ぬ。もっとまともな男を……」
「……陛下が、わたくしを受け入れてくれるなどと、はなから思ってはおりませんわ。こんな小娘、子供として愛でるのがせいぜいでございましょう。ですから、心配には及びませぬ。心配などなさらずとも、わたくしは近い内に正式な婚約も決まっている事ですし。わたくしを受け入れられない言い訳などする必要はございませんわ。はっきりと言えばいいのです。娘のような年頃のわたくしなど、相手にならぬと」
「クリシュナ……そういう問題では……」
国王が言いかけた言葉を、それ以上聞きたくなくて、遮るようにクリシュナは続けた。
「陛下でなければ、誰でも同じでございます。縁談を断り続けるのも、疲れました。それに、この婚約の話とて、別段嫌なわけでもないのです。誰と一緒になろうとも、同じなら、せめて伯爵の恋は応援することにしたのですから。そう思うと、結構楽しみにしておりますわ」
だから良いのですと続けたその言葉に、国王が反応した。
「……な、に?」
「あの方とは互いの責務を果たせば、関知しない約束にございます。子は作らなければなりませんが、それだけです。ですから、身分違いで一緒になれない恋人がいると知って、わたくしが彼にこの話を持ちかけたのですわ」
恋人を愛人として屋敷に置く事を許す代わりに、伯爵家の中でも発言力を持たせてもらえるよう口約束を取り付けてある。正妻となる以上蔑ろにされる気はない。互いに信頼も愛もないが、恋人かわいさに、それなりの融通がきくはずだ。
それに、別れがたい二人を応援するのは、きっと、少しはわたくしの気持ちを楽にしてくれるだろう。
辛い時に人の不幸を見るのは楽しい。とても意地悪な気持ちで人の不幸を嘲笑い、溜飲を下げる。けれど、その楽しさは一時の物で、すぐに次の人の不幸を求めてしまう。そして人の不幸から得る快感への乾きは、重ねるほどにひどくなっていくのだ。楽しいほどに、どろどろとした嫌な感情が溜まっていって、どんどんと自分が嫌な人間になっていくのが分かる。
だからクリシュナは、一番辛い時に、人の不幸は望まないと決めていた。
きっと落ちたら、這い上がれなくなる。幸せな人を見るのは辛くても、羨ましくてねたましくても、その幸せを素直に認めて祝福してあげられたら、おめでとうって気持ちを持てたら、辛い気持ちは少しだけ救われる。だったら、辛くても、それをいっぱい重ねて、辛い気持ちから這い上がる方が良い。
そんな妥協と打算、義務と都合の良さだけで決めた相手だ。いろんな意味で、そこの所の納得はしている。
けれど国王の表情を見るとこわばっていて、あえてこうして口にしてみると、まるで彼への当てつけのようで思わず苦い笑みがこぼれる。そこまでの意図はなかったのだが国王はそうは感じなかったらしい。彼の顔がみるみる険しくなって行く。
「お前を一番大切に出来ぬ男など、俺はゆるさんぞ!」
激高して叫んだ国王に、クリシュナは思わず笑う。自分のために怒ってくれる気持ちが嬉しかったわけではない。それほど怒る気持ちが、娘を思うような気持ちから来ているかと思うと、心は嫌になるほど冷め切っていた。
「……では、わたくしは、修道院にでも入りますわ。陛下以外の殿方に大切にされても、気疲れするだけですもの。応えぬ女など、いつまでも殿方がかわいがって下さることもありますまい」
先ほどとは違い、今度は当て付ける意味を込めた言葉だった。
自分を愛してくれるような男と結婚しても互いに不幸になるだけだと言い切るクリシュナに、国王は項垂れて、呻くように呟いた。
「お前は……俺を、脅しているのか?」
握りしめた拳が震えている。
クリシュナは自嘲めいた笑いが込み上げるのをこらえていた。
その通りだ。脅しているのだ。わたくしが不幸になるのは、あなたのせいだと。だから、一度で良いから、一夜の情けが欲しいと。それも出来ないくせに、適当な事を言ったあなたが悪い、と。
責めたかったのだ。なのに、衝撃を受けている国王を目の当たりにすると、そんな事をしてしまった自分の心が、やめておけば良かったと疼く。
力なく項垂れる彼の姿を見るのが苦しい。愛しい人を傷つけて胸が痛まないわけがない。
けれど、撤回する気にもなれなかった。「ごめんなさい」「大丈夫」と慰めたい気持ちと同じぐらい、自分の気持ちを国王に思い知らせたかった。
クリシュナは唇を噛んだ。
「約束を、破るからですわ」
努めて冷静な声で返すと、国王は凶暴な猛獣を思わせる瞳で睨むようにクリシュナを見た。
「誰が約束を破るなどと言った」
「落ちぬ男はおらぬと言ったのに、陛下は……」
言いかけたところで、それを遮るように国王が言葉をかぶせてきた。
「誰が、落ちておらぬと言った?」
厳しく見つめてくる瞳とぶつかった。引き締められた口元も、唸るような低い声もどれも人を怯えさせるほど威圧的な物だった。
けれどクリシュナには、言葉の内容に比べれば、それらのどれも些細な物と思えた。
「……え?」
クリシュナは意味が分からずに、惚けたような声を漏らす。
「お前を奪えぬ事と、お前に落ちぬ事は別の問題だとは思わないのか?」
皮肉げに笑うその顔は、先ほどまでの凶暴さをたたえたままだ。厳しいまでの視線は今もクリシュナを突き刺すように向けられている。
「……え?」
「年がお前の倍より上だぞ。お前のような未来のある若い女を、どうしてこんな老いた俺が奪える。俺がお前を奪うということが、どれだけお前を大変な世界に引きずり込むか分かっているのに、どうして……」
怒りのように吐き出される言葉は、苦悩が滲んでいるように思えた。
その言葉が真実なのか、それとも体の良い言い訳なのか、クリシュナには分からなかった。ただ、そんな言葉で逃げられるのも、ないがしろにされるのもやりきれないと思った。そんな言葉を理由にされて、自分の気持ちを拒絶されるのでは、あまりにもやるせない。
いっそ、そんな目で見る事が出来ないと言われた方がまだ納得が行く。中途半端にかけられる思いがあれば、いつまでも彼に気持ちを引きずられるままで、未練ばかりに縋りたくなる。けれど、それはクリシュナには許されないのだ。家のために結婚はさせられる事に変わりはないのだから。未練に縋って惨めに生きていくつもりもない。ならば想いを変える事は出来なくても、未練を打ち砕かれた方がずっとましだ。
「陛下が、わたくしを受け入れてくれないのでしたら、わたくしの恋だの愛だのといったものの未来などどうでも良いのです。わたくし、もう一八ですのよ。これでも望みがないからと、何度も諦めようとしましたわ。他の方を見ようと、恋しようと、これでも頑張ったのです。でも、諦めたのです。わたくしは、あなたを諦めることなど出来ないのだと。わたくしのこの想いは、たった一度の恋で良いのです。きっと一生に一度の恋ですわ」
国王がクリシュナに歩ませたい未来などないのだと、彼女は迷うことなく語った。
「ですから、もう、陛下がわたくしを手折ってくれないのでしたら、どうでも良いのです。陛下にその気がないのでしたら、わたくしにとって落ちるも落ちぬも同じこと。それならどうか先ほどの言葉はいっそ無かった事にして下さいませ。その方がわたくしももっと楽に嫁ぐ事が出来ますわ。受け入れられぬとおっしゃるのでしたら、どうかわたくしの事に口を出したりなさらないで下さいませ。このまま放っておいて下さいませ。手折る気すらないのでしたら、それ以上はわたくしだけの問題。幸せになるもならぬも、わたくしが自身で選ぶ道ですもの。陛下には関係のないことなのですから」
国王はクリシュナの諦めの混じった懇願を静かに聞いていたが、ややあって、彼女の細い手首を掴んだ。その顔には先ほどまでの怒りのような感情も、苦悩も浮かんでいない。けれど、思い詰めているのではないかと感じるほど、ひどく真剣な顔をしていた。
都々逸。
諦めましたよ、どう諦めた、諦めきれぬと諦めた