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国王は少し疲れているのか、目の下に薄いクマができていた。どこかやつれて見えるのは、無精髭のせいか。
「陛下、お疲れのようですわね」
手を伸ばし国王の頬に触れると、ざらりとした髭の感触が指先をちくりと刺す。
国王様なのに、こんな手入れを怠って。
必要なとき以外自身の外見を繕うことを面倒がって逃げる為、国王のそんな姿は取り立てて珍しいことでもなかったが、そういう力の抜けた姿を見せられるほどに気を許してもらえることは嬉しくもあった。ただ、未だに子供だと思われているだけかもしれないが。
それでも、こうして触れられる。
心も体も離れているのに、触れているところに距離はなくて。切ないけれど、それは、とても幸せな事のようにも思えた。胸が締め付けられるように痛む。痛んだところから想いが溢れるようで、目の前の人が、愛しくて愛しくてたまらなかった。
頬から顎にかけてゆっくりと指を滑らせると、国王が困ったように笑い「大丈夫だ」と静かにクリシュナの手を握って、そっと離す。
しばらく見つめ合うようにして沈黙が訪れたが、おもむろに国王が口を開いた。
「婚約の話が、そろそろ正式に決まると聞いたが」
まるでクリシュナの気持ちを牽制でもするかのような話の切り出し方に、二人だけの時間を堪能していた彼女は、冷水を浴びせられたかのように心が冷えていくのを感じた。それは自分の想いと、国王の思いの差のような気がした。
「はい、そのようです」
クリシュナが苦く笑うと、国王が呆れたような目を向けてきた。
「そのようですって、お前、他人事のように」
「似たような物ですわ。何とか頑張って引き延ばしましたが、もうこの年ですもの。父もしびれを切らせて、まとめにかかってまいりましたわ」
しかたのないことだった。クリシュナはもう十八。貴族の娘であれば、この時期を超えると行き遅れという扱いになる。クリシュナの父である侯爵はそれを許すつもりがないのをクリシュナは分かっていた。諦めても諦めきれずに国王を思って結婚の話は退けてきたが、もう限界が来た。だから、一番クリシュナが好意的に思った相手を見つけ、一応話が進んでいる。
肩をすくめて淡々と語るクリシュナのやる気のない様子に、国王は既に相手を知っている様子で相手のことを持ち上げる。
「相手の伯爵は若いが切れ者で、将来はもっと高い位置にもつくし、信頼できる者だ」
陛下は、残酷です。
クリシュナは心の中で目の前の男をなじりながら、穏やかに見える表情で肯いた。
「そうですか、それは頼もしいです」
あくまで他人事のようなクリシュナに、国王は少々困惑したような表情で訴えてくる。
「俺は、お前に、幸せになって欲しいのだ」
クリシュナの態度が結婚を前にした幸せなそれではないことに国王も気付いたのだろう。クリシュナは少し自嘲を込めて微笑む。
無理ですわ。だって、相手があなたではないのですから。わたくしが共にいて幸せなのは、あなたしかいないのですから。
「……貴族の結婚など、こんな物ですわ」
「好いた男でも、おるのか?」
国王は何気なく尋ねただけだろう。けれど、それに答えられるはずがなかった。
クリシュナは静かに微笑んだままだ。しかし肯定も否定もないその様子で、国王はクリシュナの答えを理解したようだった。
「……おるのか。それならそうと早く俺に言えばいい物を。誰だ。俺が良いようにしてやる」
陛下です、と言う事ができたら、どれだけ良いだろう。伝わらない想いが苦しい。伝えられない想いが辛い。女性として見てもらえない苦しさで狂ってしまいそうだ。
「叶わぬ相手ですもの。想うのが精一杯です」
クリシュナのそつのない受け答えに、国王は唸りながらばりばりと頭を掻いた。それなりに整えられていた髪がくしゃっと絡み、はらりと落ちてきた前髪が彼をいつもより少しだけ若く見せた。
「知らなかったな。お前がそのように誰かを思っているなど、聞いた事もなかったからな」
「口に出したこともありませんから。わたくしの想いを知っているのは、わたくしだけ」
「叶わぬ相手とは、立場か、それとも、その男が振り向かぬのか?」
地位も、年齢も、心も、全てが届かない。今はこんなに近くにいるというのに。
けれど悲しみでちぎれそうな心とは裏腹に、クリシュナの態度も表情も穏やかなままだ。
「両方ですわ」
国王は納得が行った様子で眉をひそめた。
「身分が低いのか。それなりの者なら、俺が引き立ててやることも出来るが……お前に振り向かぬとは、どんな唐変木だ。お前がにっこりと笑えば、落ちぬ者などおらぬだろうに」
ブチブチと文句を言う姿は、溺愛する自分の娘にケチでも付けられた親のようだ。
クリシュナの胸の中に焼き付くような苦しさが生まれ、一瞬にして頭にまで到達する。それは八つ当たりにも似た怒りだった。
あなたがそれを言うのですか。どれだけ頑張っても、振り向きもしなかったあなたが。
「本当でございますか?」
「ん? どれがだ? 引き立てることか、それとも……」
「わたくしがにっこりと微笑めば、本当に、誰でも落ちてくれるのでしょうか」
国王を試すような想いで、ようやく紡ぎ出した問いかけに、国王はあっさりと肯いた。
「当たり前だ。俺が王宮で、一番愛でてきた華だ。この世で一番愛らしい華だからな」
冗談を言っている顔ではなかったが、事実が伴わないその言葉に、クリシュナは激しい怒りが理性を焼き尽くすのを心の片隅で感じていた。
嘘つき。
見てくれなかったではありませんか。わたくしの事など、女性として扱ってくれたことなど、無かったではありませんか。
適当な言葉で、わたくしを誤魔化して、惑わせて……。そんな陛下など、困ってしまえばいい。わたくしと同じように、苦しめばいい。
今までこらえていた箍がきっと外れてしまったのだ、と心の片隅の冷静な部分が、そんな自分の変化を見ていた。
クリシュナは今にも決壊して叫んでしまいそうな自身を押さえながら、ことさら落ち着いた口調に気をつけながら、挑むように国王を見た。
「陛下、そのお言葉、約束して下さいますか?」
「もちろんだ。それで落ちぬ者がおったなら、そんな役立たずの目はくりぬいてしまえばいい」
至極真剣な顔で肯いた国王に、クリシュナはわざとらしくまぁと目を見張り、それから「では」と溢れそうな感情を抑えながら自分に出来る最高の笑顔を誘うように艶やかに浮かべた。
「わたくし、がんばります」
クリシュナの目には、国王がわずかに身を固くしたように見えた。
誘うようなその視線に気付いたのだろうか。そうだといい。
「ああ」
国王がかすれたような声を出して肯くのを確かめると、深く息を吸った。瞳は真剣さをたたえ、縋るように国王を見つめている。
一生、言わないつもりだった。あなたを困らせたくなかったから。なのに。……わたくしの想いを踏み躙った、あなたが悪いのです。何も知らずに、あなたの善意が、わたくしを踏み躙るから。
あなたもわたくしの苦しさの欠片ほどでも味わえばいい。
クリシュナは今一度艶やかに微笑んで、そして自分を傷つけた国王の心をえぐるために口を開いた。
「……陛下、わたくしは、幼い頃より、ずっと、陛下のことをお慕いしておりました。叶わぬ想いは承知いたしております。でも、この世で一番愛らしい華だと言って下さるのなら、一夜のお情けで構いません、どうぞ、手折って下さい」
じっと見つめる先で、国王が息をのんだのが見えた。上下する喉仏を目に映し、思い通りの衝撃を与えられた事に胸がすくような気がした。
「わたくしは、あなたのためだけに咲いた花です」
切に訴える事で更に追い打ちをかける反面、どうしようもないやるせなさも覚える。
ああ、やっぱり、あなたにとって、わたくしの気持ちは迷惑なのですね。
悲しさと、悔しさと、だったらどうしてそんな事を言うのとなじりたい気持ちがのしかかってきた。