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分かってます、わたくしが、対象外って事ぐらい。
分かってます、あなたを思うことが、どれほど分不相応な事かって事ぐらい。
でも。それでも。好きなんです。ずっと、ずっと、好きだったんです。
あなたに出会ったときから、ずっと。
一生報われることがなくても、あなたをお慕いする気持ちは、きっと、ずっと消えることはないのです。
「陛下?」
建物の影に向かって身を隠そうとしている後ろ姿に声をかけると、仏頂面の男が振り返った。
「クリシュナか」
「また、逃走ですか?」
クリシュナはクスクスと笑いながら男に歩み寄ると、彼は無造作に頭を掻きながら皮肉げな笑みを口端に浮かべる。
「一緒に来るか?」
笑って差し伸べられた手に、どきどきしながら、彼女はそっと自分の手を重ねた。
「この、お転婆娘が」
からかう言葉に、わざと怒った顔をしてみせると、男は楽しげに笑った。
うれしくて胸がきゅっと痛む。
こんな屈託ない笑顔を見せてくれるのは、わたくしの前だから。
クリシュナはそれを知っていた。けれどもそれは、男が彼女を子供だと思っているからという事も。
女性としての特別ではない。わかってる。わかってるけど、でも。
うれしい。
幼い頃から、ずっと、ずっと思い続けてきた、国王陛下。いつもの厳しい顔も、精悍で冷徹な王の顔も脱ぎ捨て、わたくしにだけ子供のような笑顔を見せるこの人に、ずっと恋している。
長い戦争で疲弊し、国王不在の中、唯一前国王の血を引く庶子が見つかった。王位継承者を誰にするかという論争の中、その血筋が認められ、彼がその地位に就いた。平民の出の青年王は、庶出の王などとと笑える者がいなくなるほどの手腕を発揮し、疲弊した国を立て直し、十年足らずで諸国に一目をおかれる国へと成長させた。
クリシュナが国王と出会ったのは十年前。八歳の時だった。当時国王は二八。国が安定の兆しを見せ始めた頃だった。
その時も出会ったのはこんな風な執務から逃走中の国王だった。
国王などと知らないクリシュナは不敬とも知らず「おじさまは何をしていらっしゃるの?」と声をかけてしまったのである。
あの時の事はクリシュナもよく覚えている。
声をかけた瞬間、建物の影に隠れていた国王は、振り返ってにっこりと笑い「しー」と指を一本立ててクリシュナに笑って返したのだ。
その様子に首をかしげたクリシュナは、国王に手招きされて、疑りもせずに近づいた。
「お前は、警戒心がなさ過ぎるな」
そう笑って頭を撫でた国王に、彼女の心は囚われた。楽しげなのに、どこか寂しげな様子が、幼いクリシュナの目に、訳の分からない衝撃となって刻まれたのだ。
それが出会いだった。
この国王、十代後半まで平民と変わらぬ暮らしをしていたと言うだけあって、執務以外では呆れるほどに粗野な男だった。粗野と言っても、あくまでクリシュナの目から見て、の話ではあったが。
地面の上に寝転がるだとか、頭をぐしゃぐしゃと撫でるとか、乱暴な言葉遣いをするだとか、仕事からいそいそと逃げ回っているだとか、おおよそ貴族らしくないところのある男だったのだ。そのくせして国王然として王座に座っているのを見た時は別人のように雄々しく、そして威圧的だった。
クリシュナが出会ったときには既に王妃がいて、クリシュナより五つ小さい王子もいた。
美しい王妃で、並んでいると一対に見えた物だった。クリシュナにするような粗野な振る舞いはしていないようではあったが、とても国王は王妃を大切にしているように見えた。
その王妃は三年前に亡くなっている。
クリシュナは出会ったときから何故か国王に気に入られてかわいがられていた。国王がかわいがるから、王妃にもクリシュナはかわいがられた。子供が王子二人だった為に、女の子は良いわねと、娘であるかのように。
クリシュナが国王への気持ちを自覚したのはまだ王妃が存命の頃であったが、そんな経緯もあり、恋敵の王妃のことは、嫌いではなかった。優しくて、とても上品で美しい人だったから、悔しいけれど、好きだった。
だから、幼いながらも、諦めていたつもりだった。この人に負けるのなら仕方がないと。でも、王妃は、流行病で、あっけなくこの世を去った。
嬉しくなんか無かった。王妃にもう会えないのかと思うと、悲しくてたまらなかった。
あの人は、どんな思いでいるだろうと、公務に追われて、まともに顔を見る事さえ出来ない国王を思った。葬儀の時、遠くから見た彼の横顔は国王の顔をしていて、表情は全く読めなかった。
王妃の死後からしばらく経って、ぼんやりと空を眺めている国王を見つけたとき、クリシュナはその隣に歩み寄った。きっと王妃のことを思い出しているのだろうと思ったから、慰めたいと、愚かにもそんな傲慢な事を思ったのだ。
とはいえかける言葉が見つからず、そばで立ち尽くしたクリシュナに、座り込んでいた国王は彼女を仰ぎ見ると寂しげな笑顔を浮かべて「よう」と呟くように声をかけてきた。
その笑顔が、弱々しく見えて、とても悲しかった。
だからクリシュナは無言で手を伸ばし、国王の頭を、いつもクリシュナがやられるようにぞんざいにぐしゃぐしゃっと撫でた。
「な、おまっ、何を……」
整えられた髪をほぐされて面を食らった国王に、クリシュナは言った。
「陛下はっ、泣いても良いと思います!」
「は……?」
「悲しいときは、泣いても良いと思います!!」
怒るような口調になったのは、そうしないと自分が泣いてしまいそうだったから。
わたくしだって王妃様が亡くなったことが悲しくて泣いた。でも、きっと、この人は泣く事すら出来ていないだろうと思えたのだ。悲しい時は、きっと、泣いた方が良い。いっぱい泣いて、悲しさは涙で流した方が良い。だから、悲しいって言って欲しい。出来れば、わたくしの前で。この人の悲しみを受け止めたい。慰めるのは自分でありたい。
そんな必死の感情の末、ようやく絞り出した言葉だった。
なのに、国王はそんなクリシュナの態度に泣くどころか、いっそう優しく微笑んだ。
「ありがとな」
そう言ってどこか悲しげな笑みをたたえたまま、クリシュナを見上げていた。
その顔を見下ろしながら、クリシュナからぽろりと一粒、涙がこぼれた。
自分では、王妃様を失った悲しみを埋める欠片にもならないのだと思った。彼女には敵わないのだと思い知った。自分など、国王にとっては、十五になった今もまだ子供に過ぎないのだと。
初潮もとうにきて、体つきも女らしくなってきて、「かわいらしい」よりも「美しい」と言われることが増えてきて、結婚の話も舞い込むようになって、……なのに、国王にとっては子供でしかないのだ。
わたくしには、他の誰にも見せない顔を見せてくれると思っていたのに、それはただ子供に対する物で、うぬぼれだったのだ。悲しみをさらせるような相手にはなれないのだ。
国王の前ではその気持ちを必死に隠したが、一人になってから、悲しくて泣いた。国王にとって恋の対象にはならないことを嘆いた。
けれど、それだけでは諦めきれなかった。
女性として見てもらえるように、それからは国王の前で子供の素振りを出さないようにした。王妃様にかなわなくても、その次ぐらいにはなれると信じたくて。あの優しかった人がいない後がまを狙う自分が浅ましくとも、それでも、王妃様はもういないのだから、もう諦めなくて良いのだと思いたくて。
けれど、異性に対する好意を見せても、女性としての魅力をアピールしても、滑稽なほどに流されて、国王は相変わらず出会った頃と変わらず、幼い子供にするようにクリシュナを扱った。
女性に対する心使いも仕草もない。そんな日々が続いて、そして行き遅れといわれるこの年が近づいて、ようやく、諦めるしかないのだと思った。
クリシュナは、自身を女性として好意を抱いてくれる他の男性を好きになろうと努力したのだ。
なのに、この方は、こんな笑顔をわたくしに向けて、わたくしだけは特別と思わせるのだわ。
クリシュナは「お転婆娘」と自分に笑いかける国王に嘆息する。
うれしさと切なさが胸を過ぎっていた。