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男は深い溜息をつくと、ペンを置いた。
数日前からあらゆる事が手につかない。
あの話をきいたせいだとわかっているが、認めるわけには行かない。あの話のせいではないと言い訳ばかり続けている。
祝うべき出来事を、これほどの衝撃を持って受け止めなければならぬとは。
大切ならば手を伸ばすことさえ許されぬというのに、手放すことさえ納得できぬというのは、呆れた話だった。
何もするわけにも行かぬという事実に、募る焦燥感。
あの話を知って以来、ろくに眠れず、頭の中は蜘蛛の巣でもはったかのように薄汚くうつろいでいる。通常であればなんの感慨もなく把握すればすむのみの報告一つであるのに。
「……クリシュナ」
男を動揺させる事の出来る存在の名を、縋るように呼ぶ。
小さなつぶやきは、執務室に虚しく響くのみ。
機嫌の悪いその部屋の主を恐れて、今ここにいるのは男だけだった。
男の人生は波乱に満ちた物だった。しかし思いがけない地位に就いた時も、国の有事に向かい合った時でさえも、臆した事などなかった。なのに小さなたった一人の娘の、めでたい話一つに、情けないほどに動揺している。
存在を手に入れるだけなら容易い。けれど人の心という物は、権力も策略さえも手が届かぬもので、もどかしいほどに曖昧で、想えば想うほどにその形すら見失う。
浮かぶのは、自分を慕い無邪気に笑顔を向けてくる娘の姿だった。
大した力があるわけでもない小娘の笑顔一つに、惑わされる事などあって良いはずがない。それでも募る焦燥感はぬぐえぬほどに男を陰鬱な気分へと突き落としていく。
仕事が手につかないのは眠いせいだと、焦燥感から目を逸らし、自らに言い聞かせる。
外の空気を吸いに行くだけだ。
男は自身に言い訳をして、効率の下がった仕事を放り出し、窓から外へと抜け出した。