最終章
「どうしたんだよ」
「ふふっ……、おかしいのよ」
「何がそんなにおかしい!」
「だって、私たちって、檻の中の猿なのよ。伸介さんがやってることだって、あの人たちから見れば、餌が欲しくて暴れているような猿にしか見えないってこと」
亜紀子はそう言って、またフフッと笑った。
「猿で結構! 猿の社会にも、モラルやマナーがあるんだ。上下関係だって絶対的なものだし、子供を守る母親の愛情は、人間以上なんだぞ。そこで笑っている小汚い人間とは違うんだよ!」
伸介はそう言って、また椅子を投げつけた。今度はガラスを割ろうというのではなく、その人間たちに伸介の怒りをぶちまけたかったのである。
椅子は見事に壊れてしまった。
音が聞こえる。さっきまでの響くような音ではない。地面から、いや、家全体が地底から叫ぶような遠い振動となって、二人の体に伝わり始めていた。
「ほら、来たわ。やっぱり私たち、潰されるのね……」
「何を呑気なこと言ってるんだよ。考えてくれよ、俺、このままじゃ終わりたくない……」
伸介はそう言って、頭を抱え込んだ。
「ほら、いつもそうなのよ。何かあると私ばっかり当てにして、自分じゃどうにもできないのよ。デートの場所も、食事の場所も、着て行く洋服だって私任せ」
「当たり前じゃないか! 俺は家庭を守る、そしてお前は俺の身の回りの世話をする。そうやって家庭は成り立っていくんだよ」
「私は家政婦じゃないのよ! 男女平等の世の中なのよ。私だって仕事も――」
突然、二階から爆発音が聞こえた。天井から木片や埃が飛び散る。伸介はとっさに頭を庇ったが、亜紀子は微動だにしない。
「――二人で言い合っている場合じゃないぞ。この家の目的は何なんだ!」
伸介はうろたえて、部屋中にある置物や調度品などを、ガラスに向かって投げ飛ばした。しかし、まるで強い磁石に反発するように跳ね返ってくる物体は、伸介たちに降り注いでくるのだった。
「もうだめよ! 私たちはこのまま死んじゃうのよ!」
亜紀子は悲鳴にも似た叫び声を上げた。
メリメリッ! と言う音と共に、和室の床が抜けて畳が落ち込む。壁は崩れ、家の骨組みがむき出しになった。
天井が割れてヤリ状にとがった板切れが、亜紀子の体を目指して落下しようとしている。その板切れが天井から離れた瞬間、伸介はとっさに亜紀子を突き飛ばしていた。
「何するのよ! どうして私を……」
「もうやめろ! まだ分からないのか!」
伸介はそう叫ぶと、降り注ぐ瓦礫から亜紀子を守るように抱きとめた。
「何を……何を分かれって言うのよ。この家が潰れていくこと? それとも私たちが死んでいくこと?」
「そうじゃない。案内人の言葉を忘れたのか。幸せじゃない人を飲み込むっていう話。この家に入ってから喧嘩ばかりじゃないか。だからこの家は、俺たちが幸せじゃないと判断したんだ」
伸介がそう言っている間も、家の中は変貌を繰り返している。というよりも、この家が沈んでいく、地中に家ごと飲まれようとしていることに、伸介は初めて気がついたのだ。
「幸せじゃない……」
亜紀子は小さく呟いた。
「お前は幸せか? 俺と一緒にいて幸せか?」
「だって、私……」
「俺は幸せだ。幸せだから、喧嘩もするんじゃないのか」
「幸せだから、喧嘩する……。そう、そうよね。私、気づかなかった」
亜紀子は伸介を見つめた。「好きだからこそ、言いたいこともいえる。――私、伸介さんに意見したの、初めてよね」
「喧嘩したって、言い合いになったって、俺たちは幸せなんだ。そうだろう」
二人が抱き合っている廊下の床が、一瞬ガタンと落ち込んだ。亜紀子を庇った伸介の背中に、天井から散らばった木屑が降り注ぐ。
「私、死んでもいい。伸介さんとだったら、私、幸せだもん」
「ばかやろう、死ぬもんか。だって俺たちこんなに幸せなんだぞ」
伸介はそう言って、「殺せるもんなら殺してみろ! 俺たちは幸せなんだ!」
と、家に向かって叫んだ。
揺れている。いや、震えているとでもいうべきか。今まで小刻みに繰り返していた爆発ではなく、その家全体がまるで二人を噛み砕くように揺らぎ始めたのだ。
「伸介さん……まさか私たち……」
亜紀子は怯えながら伸介の胸に顔をうずめる。
「亜紀子! 俺のそばを離れるな! 何かの間違いだ。俺たちが死ぬはずがない」
伸介は亜紀子を抱きしめて、「どこからでもかかって来い! 本当の幸せを教えてやる!」
と言った途端、その家は激しく揺れ始め、あちこちから爆音が鳴り響いた。壁は砕け落ち、いつの間にかなくなった天井の奥に、二階のベランダが見えている。床が上下運動を始め、伸介は亜紀子を抱いて転がった。
床が落ちる。柱が折れて、まるで伸介を狙うように倒れて来た。
「亜紀子!」
逃げるすべを失った伸介は、力強く亜紀子を抱きしめた。
しかし……伸介の体に衝撃はない。たしか、柱が……。
――いつからこうしていただろう。顔を上げてゆっくりと眼を開いた伸介は、その異様な空間に目を見張った。――止まっている。まさに時間が止まり、砕けた柱や壁が宙に浮いたまま、伸介も目前で止まっているのだ。
亜紀子も目を開けている。そして、ただ呆然として伸介を見つめていた。
二人は何の言葉もなく見つめ合っていると、カラカラ、という音がして、その方向に眼を向けた。
「――いかがでしたか?」
玄関がゆっくりと開いて、男が笑顔で入って来た。
「あなた方は、本当に幸せなようですね。安心しました」
男はそう言って、「さあ、玄関が開きました。いつでも出られて結構です」
と、何事もなかったように、事務的な口調で言った。
伸介は男を怒鳴りつけようと思ったが、体も口もいうことを聞かない。亜紀子も伸介と同様だ。まるで夢の中にいるように、ただ呆然としているだけだ。
「あんた……一体、何者なんだ」
と訊いた伸介の声は、小さくかすんでいる。
「私ですか。私はただの案内人です。人々の本当の幸せを探すため、この<幸福の家>を案内しているだけですよ」
案内人はそう言って、微笑んだ。
「本当の幸せ……」
「さあ、外に出ましょう。あなた方の幸せそうな顔を見たがっている人たちが、大勢待っていますよ」
と言った案内人の声が聞こえていたのか、二人の意識は、次第に薄れていったのである。
待ちに待ったウェディングベルが鳴り響く教会の階段を、ライスシャワーを浴びながら幸せそうに降りて来る二人の姿があった。純白のドレスに包まれた亜紀子の晴れ姿は、誰が見ても羨ましい限りだろう。
「幸せになれよ!」
「早く赤ちゃんの顔が見たいわ。それとも、もうお腹の中に入っているのかしら?」
「心配ないよ。こいつ、自分の子供だけで野球チームを作ろうと思ってるんだから!」
「やりすぎ注意!」
そんな強烈な祝福の歓声の中、二人は笑顔で応えていた。
「余計なお世話! 俺たちの幸せは確認済みなんだから」
伸介は自信ありげに言った。
腕を組んだ二人の脳裏には、あの住宅展示場の出来事が焼き付いているのである。
あれからどうなったのか……。
――<幸福の家>で気を失った二人が目を覚ましたのは、意外にも公園のベンチだった。公園といっても、住宅展示場の中に設えられた簡易公園だ。家一軒分のスペースに、木製のベンチが一台あるだけだ。
「こんなところで寝ていたら、風邪を引きますよ。――お客さん」
ベンチの上で寄り添うように眠っていた二人を、展示場の警備員が起こしたのである。
静かに眼を開けた伸介は、狐につままれたような顔をして、辺りを見回した。
「ここは、どこ……」
亜紀子も気がついたようだ。
「あの……ここは、<幸福の家>があった場所じゃないんですか」
伸介は警備員を呼び止めて訊いた。
「幸福の家……。何ですか、それ?」
「木造の古い家があったはずです、ここに。人もたくさん集まってて……」
「ここに? ――いいえ、そんなものはありません。夢でも見てたんじゃないですか」
警備員は、そう言って笑った。
「私たち、そこで殺されそうになって……」
亜紀子もその家のことを話し始めて、警備員は小首をかしげた。
「あなた方は、本当に幸せなんですね。二人で同じ夢を見るなんて」
と、警備員は笑って、「早く帰ったほうがいいですよ。喧嘩にならないうちにね」
ニヤリと笑った警備員は、背中を向けて歩き始めた。
しばらく呆然と見送っていた二人だが、
「あの男、どこかで見たことある……」
と、伸介が言うと、
「あの人、あの家の案内人さんよ。間違いない。やっぱり、本当にあったのかもしれないわ、<幸福の家>……」
亜紀子はそう言って、伸介に寄りかかる。
「――いや、ないよ。なかったんだ、そんな家なんて……」
と、伸介は言って、「さあ、帰ろう。そんなバカな話があるわけないんだ」
亜紀子の手をとって、二人は歩き出した。
公園を出ようとしたとき、足元に落ちていた板切れにつまずいて、伸介の体がよろめいた。
「ちょっと、気をつけてよ。たくさん子供を作らなきゃならない、大事な体なんだからね!」
「心配するな! 野球チームどころか、オーケストラを作ってやる!」
照れ隠しなのか、伸介はそう言って笑った。
誰もいなくなった公園に、その板切れがポツンと残されている。何十年も経っていそうなその板切れには、かすれてしまった文字が、ぼんやりと浮き出ていた。
しかし,そこに書いてある〈幸福の家〉という文字は、もう、誰にも読み取ることはできなかった……。
おわり




