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第7話 「祖母の知恵袋」

 フミのところには、よく人が来た。

 別に看板を出しているわけでもなければ、誰かが決めた役目でもない。

 ただ、困ったことがあると、なんとなく足が向く場所になっている。


 その日も、昼過ぎに戸が遠慮がちに叩かれた。

「ごめんください」

 少し小さな声だった。


 千鶴が台所から顔を出す。

「はい、どちらさま——あら、どうしたの」

 立っていたのは、路地の奥に越してきたばかりの若い女だった。

 まだこの町の空気に馴染みきれていないような、少し固い表情をしている。


「フミさん、いらっしゃいますか」

「いるわよ。どうぞ、上がって」

 促されて、ぎこちなく靴を脱ぐ。

 その様子を、座敷にいたフミが見ていた。

「おや、どうしたんだい」

 やわらかい声だった。

 それだけで、少し空気がほどける。


 女は座るか座らないかのところで、言葉を探すように口を開いた。

「あの……ちょっと、聞いていただきたくて」

「いいよ。ゆっくりお話し」

 フミは急かさない。

 手元では、縫い物をしている。針が布を通る音が、小さく続く。

「その……主人のことで」

 言いにくそうにしながら、ぽつりぽつりと話し始める。

 仕事のこと。帰りが遅いこと。言葉が少ないこと。何を考えているのか分からないこと。

 ときどき、言葉が詰まる。

 そのたびに、フミは「うん」とだけ返す。

 それ以上は言わない。

 否定もしないし、すぐに答えを出そうともしない。

 ただ、聞いている。


 しばらくして、女の声が少しだけ強くなった。

「私、何か間違ってるんでしょうか」

 その問いに、フミはすぐには答えなかった。

 針を置いて、ゆっくり顔を上げる。

「間違いかどうかはねぇ」

 一拍置く。

「そんなにすぐ決めなくてもいいんだよ」

 静かな言い方だった。

「でも……」

「人はね、すぐに答えを欲しがるもんだけどね」

 フミは少しだけ笑った。

「だいたいのことは、すぐには分からないもんなんだよ」

 女は黙る。


 フミは続ける。

「言葉が少ない人もいるし、うまく言えない人もいる。外でいろんなこと抱えて、家では何も言えなくなる人もいる」

 決めつけるでもなく、ただ、並べるように言う。

「だからって、あんたが悪いってわけでもないよ」

 その一言で、女の肩が少し下がった。

「ただね」

 フミは、少しだけ声をやわらかくする。

「“分かろうとする”のは、やめない方がいい」

 まっすぐな言葉だった。

「分からないままでいい、って思っちまうとね、そこで止まっちまうから」

 女は、じっと聞いている。


「それとね」

 フミは少しだけ身を乗り出した。

「ちゃんと、自分のことも話しなさい」

「え……」

「分かってほしいなら、言わないとね。黙ってたら、誰にも分からないよ」

 女は、しばらく考えていた。

 やがて、小さくうなずく。

「……はい」

 その返事は、来たときより少しだけしっかりしていた。

 フミは、また針を手に取る。

「急がなくていいからね」

「はい」

「暮らしってのは、長いもんだから」

 それが、この人の結論だった。

 女は何度も頭を下げて、帰っていった。

 戸が閉まる音がして、静けさが戻る。


 翔は、さっきからずっとその様子を見ていた。

「ばあちゃん、あれでいいの?」

 思わず聞く。

「何がだい」

「ちゃんと答えてなかったじゃん」

 フミは、少しだけ笑った。

「答えなんてね、人からもらうもんじゃないよ」

「じゃあなんで話聞くの」

「一人で考えるとね、ぐるぐる同じところ回っちまうからさ」

 針を動かしながら言う。

「誰かに話すと、少しだけ外に出るんだよ」

 翔は、なんとなく分かったような気がした。

 完全には分からないけれど、悪いことではない。

「ばあちゃん、なんでも分かるね」

「そんなことはないよ」

 フミは首を横に振る。

「分からないことの方が多いさ」

「うそだ」

「ほんとだよ」

 少しだけ笑う。


 そのとき、外から声がした。

「フミさん、いるかい」

 また誰かだ。

 フミは顔を上げる。

「いるよ。どうぞ」

 ためらいのない声だった。

 翔は、その様子を見て思った。

 この家は、いつも少しだけ開いている。

 誰かが入ってきて、少し話して、また出ていく。

 そのたびに、何かが少しだけ軽くなる。

 フミは、特別なことをしているわけではない。

 ただ、そこにいるだけだ。

 けれど、それだけで、誰かの中の何かが、少し動く。


 外では、また別の声が重なる。

 路地の音が、ゆっくり流れていく。

 フミは針を進めながら、いつもの調子で言った。

「さて、次はどんな話かねぇ」

 その声には、少しだけ楽しそうな色が混じっていた。

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